●暗雲
春嵐吹き荒れる蒼天の海の只中。
一機のヘリが波間に揺れる花弁のように、空を征く。
窓から俯瞰する風景は、一面が灰色の塔で埋め尽くされていた。
先を急ぐ狭い機内に、機長の怒声が響き渡る。
「ビルにホバリングで横付けしろだ? そんな危険な事、出来るか! メインロータが逝っちまう! しかも中に天魔がいるんだろ? 俺は軍人じゃねぇぞ!」
エルレーン・バルハザード(
ja0889)の要求は、機長の判断、その責任に於いて棄却された。
ビルが建ち並ぶ町中を、建物に接触するぎりぎりの位置でホバリングする事は難しく、万が一の場合は大惨事に繋がりかねない。
そして、建物内部に天魔が控えている以上、中からの攻撃の可能性も否定できず、屋上に近づくのが精一杯の譲歩らしい。
計画の当てが外れ僅かにエルレーンの表情が曇ったが、しかし彼女の信念にかけて挫ける訳にはいかなかい。
頭の中で目的の位置までの最短距離、行動を組み替え計画を修正していく。
それこそ、失敗すれば多くの命が失われるかもしれないのだ。
守るべきを護り、救うべきを掬う。
自分の掲げる理想の守護者で在る為に。
エルレーンの陽動作戦が詰められていく。
その隣では、鷺谷 明(
ja0776)によって今回の事件の整理が為されていた。
救助された者の話と現場の状況を統合し、悲恋を題材とした童話『人魚姫』をモチーフにしているのではないか、と言うのだ。
そうであれば、いつもは傍観者を気取るはずのクローディアが戦闘に参加している理由にも納得が行くのだ、と。
曰く、侵入した女が『人魚姫』であり、クローディアが『魔女』であるならば、元恋人は『王子』になり、友人は『人間の娘』になるのではないだろうか。
過去にクローディアの童話と対峙しただけあって、その説にはある種の整合性を見いだす事ができた。
明の話を聞いて、うんざりしたようにミルヤ・ラヤヤルヴィ(
ja0901)が溜息を吐く。
彼女も以前、黒の童話と向き合った一人だ。
「だーから、私はハッピーエンドが好きだってのに。子供に夢を与えない童話作家なんて嫌になっちゃうね」
心の底から吐き出すように、ぼやく。
其れは、前回の童話で救えなかった子供達への贖罪か、はたまた自分自身の不甲斐なさへの憤怒か。
蟠った想いが、憎き仇敵たる悪魔への雪辱を果たせと、胸を締め付けるのだ。
故に、彼らは願う。
危険である事は重々承知している。
しかし、クローディアと話さねばならない事、刃を交えなければ晴らせない想いが在るのだ。
だからこそ連れて行って欲しい、そうエレオノーレ(jz0046)に頼むのだった。
二人の撃退士としての想い、其れらを微笑ましく感じながら、エレオノーレは前に出すぎない事を条件に同行を許す。
「決して、死ぬでないのじゃ。帰るときは、皆一緒じゃぞ?」
人は前へ進み続ける限り、どのような絶望の最中にあっても希望を見いだし、掴み取る事ができる。
そう信じているから。
狂った童話が織りなす絶望の前に屈した彼らの、再び立ち上がる人としての強さが、頼もしく嬉しいはぐれ悪魔であった。
「見えたぞ、あれだろ? 俺はここまで。幸運を祈ってるぜ、撃退士さんよ」
そうこうしている内に、機長が前方を示し目的の場所に到着した事を告げた。
高々と聳える人の造りしバベルの塔。
因縁の邂逅まで、あと僅かであった。
無機質な靴音が、無人のエントランスホールに響く。
普段であれば会社の玄関口として人が行き交い、企業戦士達の悲喜交々が繰り返されるべき場所だ。
しかし其処は日常という枠から外れ、非日常が支配する魔の領域と化していた。
在るべきモノが無く、在らざるべきモノが在る。
赤、紅、朱、緋。
歪な方向に曲がったモノ、引き千切れたモノ、裁断されたモノ。
濃厚な酸化鉄の臭いが否応なく肺を満たし、脳を麻痺させる。
そんな異空間へと、撃退士達が足を踏み入れたのだった。
「童話になぞらえる、ね。なんとも、なんとも、なんともまあ僕好みだことで」
ある種のメルヒェン世界と言えなくもないその光景を睥睨しながら、大仰に手を広げたジェーン・ドゥ(
ja1442)が感嘆の声をあげた。
世界は美しいモノに溢れている。
だからこそ、言わば美しき世界に生じた異物たるその歪さに感動を覚えるのだろう。
故に、クローディアの織りなしたこの狂おしい童話世界は、ジェーンの琴線に触れたのだ。
話してみたい衝動に駆られはするが、今は撃退士としての勤めを果たさなければならない。
そのもどかしさをすら愉しむように、ジェーンは見取り図を探すのだった。
仲間達が上階への突撃準備を進める中、雨野 挫斬(
ja0919)は警備室を探し当て、監視カメラを弄っていた。
画面に映し出された光景は、安っぽいB級スプラッター映画。
今、この瞬間にも紡ぎ続けられている生と死の物語。
容赦無く人が殺され、駆逐され、血の海が造られていく。
その光景を見つめながら、挫斬は阻霊陣を展開すると、まだ無事な階に対し避難の放送をかけた。
阻霊陣の効果で透過できない物質に置き換わった机や壁が、障害物となって僅かばかりでもディアボロ達の攻撃を防いでいた。
されど、撃退士の到着と阻霊陣の展開は取り残された社員達に安堵をもたらすと共に、如何ともし難い恐怖をも与える諸刃の剣となった。
其れは、下からじわじわと来る恐怖。
阻霊陣が無い内は感じなかった建造物の揺れ、激しい破砕音。
そうして否応なく認識せざるをえない屋上と7階を天魔に抑えられ、徐々に範囲を狭め殺しに来ているという事実。
着実に迫る死の足音は、人々から冷静な心を奪う。
パニック。
一人の恐怖が十人に、十人の恐怖が百人に。
誰もが我先にと上を目指し、駆け上がっていく。
押し合い、突き合い、引っ張り合い、醜い生への執着を露わに暴徒と化した社員達が互いに互いを蹴落としあう。
上方階の社員は社員達で、自分達の安全を護るべく入り口にバリケードを敷き、下から誰も上がってこれないようにしてしまった。
挫斬の避難指示放送など聞きはしない。
今、最大の敵は天魔では無く、飽和状態へと達した自分達自身なのだから。
放送が繰り返し、俺の恋人の名を呼ぶ。
聞いた話では、下の階にいる天魔は別れたアイツらしい。
どうしてだ?
そんなの、解りきっている。
俺に復讐しに来たんだ……。
俺には、アイツの愛が重かった。
容姿や性格に問題がある訳じゃない。
料理だって美味い。
ただ、どんどんと結婚っていう道へ追いやられているようで怖かった。
俺が、俺以外の誰かの人生を背負うという責任を持つのが、怖かった。
だから、逃げたんだ。
其れがどれだけアイツを傷つけたのか、其れは俺にはわからない。
だけど、もう逃げちゃ駄目だ。
今のこの惨状が俺の所為だっていうなら、俺が責任取って皆を護らないと。
アイツの事、止めないと……。
翼を広げたエレオノーレが宙に飛び出し、屋上に向かって滑空する。
掌に収束された炎が着地間際に放たれ、火雨となってディアボロへと降り注いだ。
ただ固まって立っていたチェスの駒を模した兵隊達が、一体、二体、三体と獄炎に抱かれ朽ちていく。
其れは、キングへと至る道を開く為の布石。
傲然と構える真の童話の主、クローディアにチェックをかける為の一手。
今、悪魔と撃退士達が戦場でまみえた。
エレオノーレが庇う安全地帯に、明、ミルヤ、エルレーンの三名も次々と降下する。
「ふぅん、君だったのかい、エレオノーレ。おや、そしてそこの二人は久しぶり、かな。特に男の子の方はまた屋上で逢うなんて奇遇だね」
対峙する撃退士達を、仰々しい仕草で出迎えながら微笑み、余裕を見せるクローディア。
その仕草が、エルレーンの神経を逆撫でする。
「……くるったお話なんて、どうでもいい。みんなを苦しめる、うすぎたない悪魔。いつか……私が、ころしてやる!」
本当はこのまま戦い、悪魔を討ちたい。
だが、ただでさえ計画に狂いが出て仲間に負担を強いているのだ。
中で救助を待つ社員達も助けなくてはならない。
後ろ髪引かれる思いで、エルレーンは建物内へと侵入を開始した。
「魔女さん、魔女さん、人魚姫を助ける方法を教えてくださいな。代わりに私の髪をあげるから。……うん、男が言う台詞じゃないな。エレオノーレ君頼んだ」
その背を見送りながら、明は童話作家へと問いかける。
お前の童話を見破っているのだ、と。
明を護るようにミルヤが先に立ち、白きポーンへと銃を撃つ。
が、やはり一発で倒れるほど容易くはなかった。
舌打ちしながら、アウルを集中させる。
「へぇ、君、やっぱり見所があるね。まさしくその配役通りさ。でも残念だね、『人魚姫』を元に戻す方法なんてないよ。それは、彼女次第さ」
明の解答に、素直に賞賛の拍手を送りながら、しかしクローディアは真実を告げる。
「『わたしは、彼の愛が欲しい……。報われたいんだ。こんな結末、嫌だ! ――だから、ちょうだい! 全てを取り戻す為の力を!』彼女は、こう願ったのさ」
愉快そうに微笑みながら、回り出した歯車は壊れるまで止まらないのだ、と。
「幸せの基準なんて個々に違うものだからね。彼女が満足する事、其れが答えじゃないかな。其れはボクにも解らない。だからわくわくするよ、こんな興奮は久しぶりさ!」
クローディアが黒き斧を引き抜き、その血の様に赤き刀身に力を込め、魔力を帯びた風の刃を明へと撃ち放つ。
終焉をもたらす破滅の衝撃が空を裂き、絶叫を上げながら迫る。
「伏せよ、明!」
禍々しき刃が、横合いから放たれたエレオノーレの炎弾とぶつかり合い、爆ぜた。
その行動すら予測していたかの様に、白きポーンが一斉に突撃を仕掛けてくる。
屋上の死闘が、開幕の狼煙を上げた。
●不協和音
明達の得た情報が、下層階の撃退士達にも伝達された。
ある程度の予想は出来ていたとは言え、『人魚姫』。
ジェーンと共に7階へと急行する神城 朔耶(
ja5843)は、思わず彼女がいると言う5階で足を止める。
「(人魚姫……戻すことはできなかったとしても楽にはしてあげたいのですよ……)」
この階で、何かを探し求め、彷徨っているであろう彼女の想いを憂い、心が痛む。
だが、今は後回しだ。
先ずは、今この瞬間にも奪われている命の略取を止めなければならない。
僅かの逡巡を見せたものの、朔耶はまた階段を駆け上っていった。
その頃、5階某所では、蔵九 月秋(
ja1016)が息を潜め様子を窺っていた。
其の視線の先には、槍を携えた女と思しきモノがゆっくりと歩を進めている。
撃退士としての本能が告げる。
あれがディアボロとなった『人魚姫』である、と。
「(クローディア……悪魔か、いいねぇ俺の分も取っといてくれよ)」
ディアボロの監視を行いながら、何時までもやってこない相方のエルレーンを待ち、屋上で始まっているであろう死闘に思いを馳せる。
死臭に満ちたオフィスのど真ん中で、銃を構え、今か今かと決戦の時に備えていた。
同刻、12階。
エルレーンは呆然としていた。
どうにか『人魚姫』の友人であった女性から制服を借りたものの、胸部がぶかぶかすぎた。
いや、そんな事はこの際どうでもいい。
階段がバリケードで塞がれ、是が非でも助かりたい下層階の避難者と、これ以上は避難者の収容ができず、仮初めの安全圏を確保したい上層階の避難者が衝突していたのだ。
怒号が飛び交い、互いに互いを罵り、貶しあう醜い争い。
ぶつかり合う力でバリケードの一部が崩れ、其れに当たった者が血を流し、人の波に飲まれていく。
阿鼻叫喚。
この世の地獄と化していた。
そんな場所にエルレーンの声は届かない。
別ルートを探さなければならなかった。
階段以外の手段は、もうエレベーターしかない。
しかし、其れは当初にディアボロの攻撃を受け、多数の人を乗せたまま地に墜ち、動かしようがなかった。
だが、もう道はこれしか無いのだ。
意を決すると扉をこじ開け、深い奈落の底を彷彿とさせるエレベーター空洞内部へと、身を投じるのだった。
「おねが……たすけ、て……」
息も絶え絶えに瀕死の女性が、空亡 晦冥(
ja1947)に縋り付いた。
しかし、晦冥は其れを蹴り飛ばし、素知らぬ顔をする。
お金にならない仕事はしない。
其れが晦冥の主義である。
今回の場合は、依頼者である取締役以外はどうなってもいいと考えていた。
それでも、縋ろうとする者は多い。
しつこく食い下がる負傷者を殴り飛ばし、凄む。
「撃退士っていいよな。仕事中に人殺しても、天魔のせいにできんだからよ。ハッハッ!」
残虐な笑みを浮かべるその表情には、有無を言わさず力を行使する決意が有り体に見てとれた。
力なく無言となった怪我人を後に、晦冥は7階を目指し登っていった。
7階では、朔耶とジェーンが曲がり角の死角で釘付けとなり、銃撃を凌いでいた。
出会い頭の奇襲に成功した何体かは葬ったが、如何せん数が多い。
集中砲火に曝され、出るに出られず、持久戦の様相を呈していた。
その窮地を救うように、黒きポーンの背後を取った晦冥が奇襲をかけ、戦列を乱す。
「申し訳ありませんが……あまり貴方達を相手にしている時間はないのです。この好機は逃しませんっ……!」
晦冥が作った隙を最大限に活かすべく、弓弦を引き絞り、朔耶達も加勢に加わった。
放たれた矢が、頭部を砕きポーンを仕留める。
「”その首を刎ねておしまい!”ってね」
壁を蹴って銃撃を躱し、ポーンの背後に回り込んだジェーンが、華麗な斧捌きで其の首を刈り取った。
ここまで来れば最早勢いに任せ、一気に殲滅するのみである。
反撃に転じた撃退士の猛攻が始まった。
「……かわいそうだけど、人を殺そうとするディアボロなんて許さない。 殺させないよ……殺させないッ!」
荒い息を整えながら、エルレーンが気合を入れる。
その傍らには、やっと来た相方に胸をなで下ろす月秋。
警備室でも挫斬がモニターから到着を確認し、安堵する。
防火シャッターを下ろす等の進路妨害をするも、全てを破壊され、既に6階への侵入を許していた。
一歩でも到着が遅れていれば、交戦中の黒ポーン班が挟撃され、大変な事になっていただろう。
平常心。
心を落ち着けると、エルレーンは『人魚姫』の前へと姿を現した。
かつての友人と同じ姿を模して。
「かわいそうなひと」
呟きはどこか冷酷で、もの悲しい。
「(すきな人をころす、なんて、あのきれいな人魚姫は考えなかったよ!)」
エルレーンの胸の中を、人間だった頃の『人魚姫』の想いと、そう成ってしまった想いが渦巻き、張り裂けそうな程に締め付ける。
きっと彼女はこう想ったのだろう、と自分なりの解釈をして。
そんなエルレーンを援護すべく、変装を見破られないように、とスピーカーから挫斬の挑発が漏れ聞こえる。
「『ねぇ、貴女がディアボロになったのはフラレタから? だとしたらくだらないね! 確かに失恋も裏切られるのも辛いよ。でもね、その程度の悲劇、皆、経験してるし、乗り越えてる』」
もし、『人魚姫』にココロがあれば、その言葉はどれ程深く刺さるだろうか。
挫斬の振りかざす言葉のナイフが、容赦なく降り注ぐ。
「『それに復讐するなら包丁で刺せばいい。自殺するなら首を括ればいい。でも貴女はどっちも一人で出来ずに魔女の力を借りた。貴女は悲劇にも人である事にすら耐えられない弱虫よ』」
しかし、反応を示さない。
友人に変化したエルレーンにも、スピーカーから聞こえ続ける不協和音にも。
ただ、上の階を目指し、何かを求めて歩を進める。
非常に拙い。
「おい、大丈夫か? 俺はブレイカーだ、早くこっちに来い!」
真実味が足りないのだろうか?
月秋が救助に来た撃退士を装い、物陰から飛び出るが反応が無い。
「『貴女を裏切った2人は人として最低のクズ。でも貴女は人以下のゴミだね、アハハハ!』」
挫斬の嘲笑も、ただ虚しく響くのみであった。
考えられる可能性は二つ。
変化の術が見破られている。
或いは目的に『元友人』の殺害が含まれていない。
そのどちらかでしかなかった。
こうなっては、力尽くで止めるしかなかった。
「ハッハー、トリガーハッピーだ、派手に行こうぜ!」
月秋の先手を取ったストライクショットが咆哮を上げた。
しかし、その銃弾は即座に沸いた膨大な量の水壁に阻まれ届かない。
ぐにゃり、と水が流れを変え、幾つもの玉となり宙を舞う。
しまった、と思った次の瞬間には、其れは機関砲の如く高速で撃ち出され、月秋の身体を射貫いていた。
エルレーンがせめて視界を塞ごうと目くらましの靄を発生させるが、効果がない。
その靄を切り裂き、『人魚姫』が信じられない速度でエルレーンに肉薄する。
剣を握り直し、防御しようとするが、間に合わない。
ズンッ、と鈍い衝撃が身体を走る。
次いで、エルレーンの口から大量の血が吐き出された。
お腹には、深々と三つ叉の槍が刺さり、背中側に貫通している。
トライデントに刺さったままのエルレーンを持ち上げると、『人魚姫』はそのまま払うように振り抜いた。
強引に引き抜かれた刃が、肉を抉り、エルレーンが空を吹っ飛ぶ。
背中から机に衝突すると、変な方向に折れ曲がった手足をだらりとさせ、動かなくなった。
其れを確認する事も無く、月秋にトドメを刺すべしとディアボロが迫る。
血を拭いながら立ち上がった月秋が、カットラスに持ち替える。
カウンターで敵の部位破壊を試みる、待ちに徹する構えだ。
剣と槍が交差する。
「どうだ、この剣は? 案外痛いだろ……相対速度のお陰で、随分深く切れるんだ……ぜ」
確かに刃は敵へと届いた。
しかし、圧倒的リーチ差はどうしようもなかった。
月秋の腹部にも、死の槍が突き刺さる。
悔恨の呻きを漏らしながら、血の海へと沈んでいく。
立っているのは『人魚姫』だけになってしまった。
挫斬の連絡を受けた黒ポーン班が駆けつけたのは、まさにその時である。
殲滅後、休息を取る間もなくやってきたが、時既に遅しであった。
分断された戦力で対処できる程、『人魚姫』は御しやすい相手ではなかった。
朔耶の祈りに応じて顕れた加護のヴェールが、3人を包む。
援護はどこからも期待できない。
やるしかなかった。
●狂気
「槍と槍でキャラ被ってんじゃねぇか! 空気読めよテメぇ!」
晦冥が正面からディアボロと切り結ぶ。
その背後から飛び出たジェーンが、迅雷の一撃を以て首筋を狙う。
其れに反応して沸き溢れた絶対防御の水壁を強引に切り裂き、突き立てられた刃は、しかし軌道が逸れ浅く肩口を切り裂くに留まった。
カウンターを警戒し、即座に横合いに飛び退く。
ジェーンが居た空間を穿つように放たれた朔耶の矢が、こじ開けられた水壁を突破し、深々と肩に突き刺さった。
爛々と、『人魚姫』の瞳が憎悪に震える。
何故、お前達は邪魔をするのだ、と。
私は愛しいあの人に逢いたいだけなのだ、と。
しかし、撃退士達にその想いが伝わる事は無い。
故に、力を以て制する。
晦冥を蹴り飛ばし、弓持つ少女へと肉薄する。
憎い、憎い、憎い。
その一念を纏った憤怒の槍が穿たれた。
白い巫女服が鮮血に染まる。
吐血し頽れる朔耶の瞳から、涙が一筋、流れ落ちた。
「ごめんなさい……、結局貴女を救う事が……」
そうして、意識が墜ちていった。
連携を欠いた撃退士に勝ち目は無い。
そもそもの戦力投入比が無謀だったのだ。
戦略レベルでの失敗である。
「さても、さても、さてもまぁ、無様なものだね。されど、されど、僕達はここで退くわけにはいかないのだよ。君の結末にも興味があるのでね」
しかし、不退転。
無謀と知りつつも退く訳にはいかないのが撃退士だ。
其の背の向こう側には多くの命が背負われている。
ここで諦める事は、即ちそれら全ての死を意味するのだ。
刃を構え、ジェーンは駆ける。
僅かな希望を信じて、奇跡を願って。
そして、また一人、無惨にも倒れていく。
奇跡なんて在りはしない。
確実に存在するのは、残酷なまでの現実なのだから。
血に濡れる魔槍を携え、『人魚姫』が晦冥を睨む。
一人でどうこう出来る相手ではないのは、明らかだ。
遠からず地面に転がっている他の撃退士と同じ様になるのは、目に見えていた。
「もう、止めろ! 俺が……、俺が悪かったんだ! だから、もう止めてくれ! お前はそんな事をする奴じゃなかった、なかったはずだ!」
凍った場の空気を壊すかのように、見知らぬ男が乱入してきた。
息も絶え絶えに、『人魚姫』に叫び続ける。
愛していたのだ、と。
その言葉は嘘か、誠か。
真実を知るのは、その男のみであり、また、どう受け取るかは『人魚姫』次第である。
ただ一つ解るのは、男の言葉を聞いている間『人魚姫』が動かず、ただ聞き入っていると言う事実。
其処に晦冥は付けいる隙を見つけた。
男の腕を捻りあげ、自分の盾とする。
これならば、『人魚姫』も攻撃できないだろう、と。
愛という幻想に捕らわれた哀しき傀儡を、無抵抗のまま殺す事が出来る、と。
だが、そんな事はなかった。
気がつけば、男共々晦冥の腹に槍が突き刺さっていた。
どさり、と倒れる。
男の口腔から、その最後まで謝罪が漏れるが、やがて其れも聞こえなくなった。
男と晦冥を見下ろし、『人魚姫』が槍を振り上げる。
そうして、その刃を躊躇無く振り下ろした。
「とりあえず貴様の欲求を思考し、それを満たすための手を勘案せよ。その結果が今の行動を必要と述べるなら、私は貴様の欲求を尊重しよう。行動は承認せんがな」
魔法弾を撃ちながら、明が微笑む。
「愚問だね。君は一々必要でない行動を取るのかい? だとしたら、其れは素晴らしいまでの贅沢じゃないかな? ボクはボクのアリスの為に童話を紡ぐ。世界を知らない彼女の為に、ね」
その弾道を避け、放たれたクローディアの斬撃をエレオノーレが受け止め、鍔迫り合いに持ち込んだ。
「ブラックイーグル・ダウン!」
好機を逃さず撃たれたミルヤの弾丸が、捕食者たる鷲の形を成して空を駆け悪魔へと迫る。
だが、翼を広げて緊急後退したクローディアに難なく躱されてしまった。
「私の気分が悪くなるから却下」
応じたクローディアに、尚も明の魔法弾が執拗に食らいつく。
それらを斧で弾き飛ばしながら、クローディアは余裕の笑みすら見せた。
「アリスとは誰じゃね? エルの記憶にはそんな悪魔はおらぬのじゃがの!」
エレオノーレの火の雨を周囲に展開させた絵本で防ぎつつ、クローディアは答える。
「アリスはボクの友達さ。ボクの事を理解してくれる、唯一無二の人間さ。……さて、どうやら『人魚姫』は水泡に帰したようだ。ボクはそろそろお暇させて貰うよ」
黒き戦斧に最大級の魔力が込められる。
赤き刀身が唸りを上げ、咆哮を上げた。
「拙い、二人とも、逃げるのじゃ!」
しかし屋上に逃げ場など無く、解放された力の奔流は鉄筋コンクリートの床を砕き、撃退士達を奈落の底へと突き落とした。
炎の渦で耐えきったエレオノーレは、クローディアを睨みつけると転身し、撃退士の救助へと向かうのだった。
自分の胸を貫き、事切れた『人魚姫』の前に晦冥は呆然とする。
何が起こったのか理解できなかった。
だが、自分は生きている。
助かったのだ。
そうと解ればやる事は一つである。
「半分は魚だろ? なら食えんじゃね?」
予め持参してきていた醤油を取りだし、切り取る部位を吟味する。
そうして見当をつけると、刃を突き立てざくざくと切り出していった。
其の行為を止める者は誰も無く、動ける者も皆無であった。
こうして、狂った宴が開かれようとしていた。
「自分一人を救助しろなんていう依頼出したなんて世間に知れたら、何て言われるんでしょうねぇ」
瓦礫の中から抜き出した依頼人を引き寄せ、晦冥は厭らしく囁いた。
その言葉の意味するところは、即ち取引である。
「……私を、恐喝すると言うのかね?」
怯む取締役に、晦冥は指をいくつか立て、具体的な数字を表した。
つまりは、そう言う事である。
命が助かった今、会社の代表として名を護らねばならない取締役に、執るべき道は一つしかなかった。
久遠ヶ原学園某所。
事件後、とある会議室で査問委員会が開かれた。
内容は撃退士による著しい法令違反、及び反社会的行為について。
対象者は空亡 晦冥である。
罪状は主に依頼主を恫喝し、金銭を奪い取った『恐喝』、そして撃退士であるにも関わらず一般人を盾とし、結果死に至らしめた『過失致死』である。
証拠として、会社の防犯ビデオに録画されていた一連の行為が提出され、また、複数人からも証言が得られた。
しかし、過失致死に関しては非常に高度な戦術的駆け引きとして判断できなくもなく、どこまでもグレー。
罪として確実に追求できるのは、恐喝のみであった。
複数人が目撃した元は人間であるディアボロの死体を食らう行為に関しても、個人個人の倫理感に委ねられる為、不問となる。
故に、晦冥に下された処罰は、依頼主から奪い取った金銭、及び依頼報酬の没収、追加の罰金のみであった。
●Side:B
「こうして『人魚姫』は『王子』と結ばれたのさ。おしまい」
少女が満足そうに語り終える。
「ねぇ、クロ。今日は随分ご機嫌ね。どうしてかしら?」
少女が不思議そうに問いかける。
「だって、ハッピーエンドじゃないか。ボクもたまにはこういうのもいいんじゃないかって思うよ」
少女が可笑しそうに答える。
「クロも恋してるの?」
少女が面白そうに答える。
「恋? してるよ、随分と前からね。ただ、ボクは今のままで良いと、そう思うんだ。長い時を生きたからかな? あり得ない話だけど、『永遠』もいいかなってね」
少女、クローディアが続ける。
「この世の中は『無常』さ。ずっと、なんてものが存在しない。だから憧れるんだろうね、『永遠』っていう幻想に。ボクのアリス、ボクの愛しい人。ねぇ、ボクと『永遠』にならないかい?」
クローディアの悪戯っぽい笑い声が響いた。
少女、アリスはその様子を静かに、静かに聞いていた。
「こんな私でも『永遠』の『愛』を知る事が出来るなら、其れは素敵な事だと思うわ。だけど、私は其れが――」
アリスの呟きは夕闇に溶け消えていった。
「お嬢様、そろそろお食事のお時間です」
ノックの音が響き、給仕が催促する。
気がつけばもうそんな時間だったらしい。
「ありがとう、アリスのクロ。今日も楽しかったわ。またお話聞かせてね」
そう言ってアリスは食堂へと降りていった。
残されたクローディアが、熱の帯びた声で告げた。
「ボクは本気だよ、アリス。君が怖いと言うならば、ボクはいつまでも、いつまでも待つさ。それこそ、『永遠』にね」
アリスの残り香に抱かれながら、クローディアは微睡む。
「ねぇ、アリス。『永遠』は享受するものじゃない。創造するものなんだよ」