鉄を含んだ水の匂い。
分厚く淀んだ雲のせいで、朝とは思えないほど、街は陰りを帯びている。
降るのは小雨。触れても気にならないほどの礫が音もなく世界を濡らしている。
建物も木も草も土も、そして人も。
町の片隅には、さらに陰鬱な空気を放つ中学校。
KEEP OUTのテープで固められたその場所に、久遠ヶ原の生徒たちは真剣な面持ちで赴いた。
思春期の学生が長い時間をともに過ごす学び舎は、火を消した蝋燭のようにがらんどうと化している。
――まるで要塞のような。
(あの日も……雨が降ってたの……。「私」が、生まれた日にも……)
柏木 優雨(
ja2101)は胸元でぎゅっと掌を握り込む。
依頼は、中学にたてこもった少年を止めて欲しい――という内容だった。
学校の建前上、生徒を殺してくれなどとは口が裂けても言えないのだろう。だがそれ以外に彼を止める方法がないなら――と、依頼者は口を濁した。
それを斡旋所の職員は、生死不問と判断した。
相手がアウル保持者であれば、逆にやられてしまう可能性だってある。
だからこそ、不動神 武尊(
jb2605)は少年を倒す――そのことだけを考える。
(……小僧の破壊は無価値。俺はそれに怒ろう。憎もう。それを撒き散らすものに……制裁を)
とはいえ、思うことが同じでなくとも、すべきことは同じであり。
「色々と悪い方に噛み合っちゃった感じかなあ。とりあえずは止めないとだよね」
ユリア(
jb2624)は溜め息をひとつ落とした。
そして、いざ哀しき少年の元へ。
十人中、校舎に侵入したのは五人ほど。他の者たちは、問題の少年――良助を追い込む布石となり、待機することを選んだ。
●
「あの子、助けてあげなくちゃ……」
校内に侵入した十三月 風架(
jb4108)は、周囲の音に耳を傾けつつ、縮地で三階を移動する。
廊下は悲惨なものだった。意識を失った者、自身を抱きしめながら震える者――手負いで逃げられない生徒たちが、極限の状態に苦しんでいる。
風架は胸の痛みを噛みしめて、良助のクラスを訪れた。
――――ここには居ない。
教室内をひと通り調べると、再び足を加速させる。
三年生のクラスの先には、図書室、視聴覚室、パソコンルームがあり、西側端は美術室だった。
地獄絵図はどこも同じで、思わず通り過ぎようとした風架だが、ほんの少し違和感があり、美術室を振り返る。
床にうずくまる少年を、動けない被害者だと思っていた。
だが、よく見れば違う。
風架は壁ごしに様子を窺った。
●
「痛っ……傷口が引き攣るぜ」
向坂 玲治(
ja6214)は、体をさすりながら、廊下を見回す。
制服で隠してはいるが、その体は包帯だらけであり。
先陣をきって乗り込んだ草薙胡桃(
ja2617)の後ろについて裏口から入ったもの、怪我をおして参加した玲治は、ついていくのがやっとだった。
戦闘となれば、さらに厳しいだろう。それでも玲治は、良助をなんとしても止めたかった。
(どれ、降って湧いた力に溺れる中坊に、ちとお灸を据えてやるとするか)
胡桃が階段を上がるのを見て、玲治もやや遅れてついてゆく。
西側奥の階段を進むと、美術室が見え、なぜかドアにべったりと張りつく風架の姿を目撃する。
どうしたと聞くまでもなく。対象を発見したのは、一目瞭然で。
胡桃や玲治も風架の横に連なる。
美術室を覗けば、一心不乱に何かを描く少年がいた。
風架と玲治はちらりと視線を交わすと、美術室に踏み込む。
すると、少年はゆっくりと顔を上げた。
資料通り幼い顔をした良助は、どこか虚ろな瞳をして言った。
「……絵が描けないんだ。僕にはこれしかないのに……今までどうやって描いてたのか、思い出せないんだ……」
――――全部、お前たちのせいだ!
少年は咆えるように叫び、紙の束をばらまいた。
赤い鉛筆で塗りつぶされた紙が宙を舞い、散らばる。
「もう、何も要らない! 皆、消えてなくなればいい!」
直後、少年の体が赤黒いゆらめきを纏う。
何かが壊れてしまった少年は、近くにあった彫刻刀を握り、風架に襲いかかる。
だが、教室の外でヨルムンガルドを構えていた胡桃が、少年の足元を連射した。
不意打ちを食らった少年は、慌てて後ろに跳び退く。
「今度は君たちが……僕をいじめるの?」
震える声。焦点の合わない瞳が胡桃を射抜く――が。
(如何なる理由があろうとも、貴方は牙を剥く相手を間違えた。それはつまり、自分が『やっつけられる側』になってしまった、ということですよ……?)
胡桃の覚悟は決まっていた。
大勢の人間をその手にかけている以上、ここで甘やかすわけにはいかないのだから。
胡桃は再び世界蛇の名を持つ小銃を構える。
少年は忌々しげに周囲を睨んだ。
「やっぱり君たちも僕をいじめるんだ?」
屈折した言葉。
トンファーを手にした玲治は、落ち着いた声で返す。
「気付かねぇのか? お前がやったことのほとんどが、お前がやられてきたことだってな。結局は、お前はお前をいじめてきた奴と同類だったってことだ。――こんなところに引きこもらないで、外に出ちゃどうだ?」
玲治は大きく振りかぶって光弾を飛ばす。
気合いの入った一撃――それを良助は背筋をそらして綺麗にかわす。
しかし、少年が姿勢を戻そうとしたところで、すかさず風架がワイヤーを放った。
なんとか動きを止められれば――と、放たれた血針。
ワイヤーの先が肩にぶつかり、少年は窓の外に放り出される。
落下する瞬間を地上から見ていたユリアは、物質透過を解き、闇夜の如き黒い翼で上昇する。
――が。
外へ押し出された少年は、落下の途中で排水管にぶらさがると、下の階の窓を蹴破って飛び込んだ。
激しい破裂音に、外で待機していた天海キッカ(
jb5681)は振り返り――上空から窓越しに捜索していたロヴァランド・アレクサンダー(
jb2568)も反対側の校舎で動きを止める。
戦闘を悟ったロヴァランドは、すぐさま潜入班に携帯で確認をとった。
二階窓から教室に飛び込んだ良助が、連結校舎を駆け抜ける中――撃退士の間では速やかに情報が交わされた。
良助はすぐ後ろに迫る人影を気にしながら、校舎東側の階段を駆け上がる。
だが、ロヴァランドが先回りし、良助の行く手を阻んだ。
(翼なんて、卑怯だ)
自分のことを棚にあげて、良助は舌打ちし、来た道を戻る。
手近な教室に飛び込むと、ロヴァランドも追う。
「来るな!」
翼が欲しかった。それがあれば自由になれると思った。だから余計に腹が立つ――。
良助は、がむしゃらに机を放り投げる。
光纏したロヴァランドは軽くかわした。
「久遠ヶ原飛行部隊隊長、ロヴァランド・アレクサンダーだ。……舐めんなよ」
今度はロヴァランドが、机や椅子の足にワイヤーを絡め、数珠つなぎにすると――それを横に薙いだ。
「……痛い……」
攻撃をまともに食らった良助は震えあがる。
さらに窓際まで追い詰めようと、ロヴァランドが近づいた時。
「うわぁあああ!」
少年は無茶苦茶に光球を放った。
強烈なアウルを食らったロヴァランドは、一瞬動きを止める。
良助は、慌てて教室から逃げ出した。
追い詰められた良助が、避難したのは――なぜか自分のクラスだった。
一番嫌いな場所。
頭から血を流したクラスメイトたちが、横たわっている。
全部、良助がしたことだ。手加減はしたもの、生きている保証はない。
助けを求め、懇願されるほど、むしゃくしゃして殴りたくなった。
だから、起きあがれないほど叩きつけてやった。
良助の胸に再び黒い感情が湧きあがった時――ふいに、誰かが声をかけてきた。
「……あ……やっと無事な人がいました。良かった」
良助と同じ制服に身を包んだ天宮 佳槻(
jb1989)は、ほっとした顔で少年に近づく。
――といっても、実はほんの少し前からそこに居たのだが。
あらかじめ校舎の見取り図を頭に入れていた佳槻は、胡桃のマーキングで得た情報により、先回りしたのである。
「一体、何がどうなっているんですか……? どこもかしこも倒れている人だらけで……正面玄関もひどかったですが、ここは更にひどい」
佳槻は狼狽えて見せるが――なぜか良助は薄く笑う。
「君もどうせ、僕をいじめに来たんだろう? でも僕は強いから、もう誰にも、いじめられたりはしない――この力があれば、僕は自由になれるんだ!」
狂っていた。
彼にとってはもう、世界の全てが敵なのだ。
正気じゃない良助を見て、言葉での駆け引きが無理だと悟った佳槻は、溜め息を吐く。
自身の覚醒時や力に溺れた能力者を何人も見てきた佳槻にできること。
それは、まずその力が万能ではない事実を叩き付けて、頭を冷やさせることであり。
(力を振るえばそこにあるのは責任だけだ)
佳槻の体が、氷晶の混じった光に包まれる。
光纏し、戦闘態勢に入った佳槻を見て、良助は失笑する。
「――やっぱり、そうなんだ」
同じように光纏する良助を佳槻が警戒していると。
ふいに硝子を踏みしめる音がし――教室の入口から人影が現れる。
月村 霞(
jb1548)はゆっくりと歩きながら、少年に警告した。
「こんなこと、いつまで続けるの? やめる気は……無いよね? 速やかな被害抑制が最優先だから――最悪、腕の一本ぐらいはもらうよ」
被害状況の最悪さ。とくに良助のクラスにいる人たちは生きているかもわからない。
時間が経つほど危険だと判断した霞は、手っ取り早い事態回収を目論む。
『守るために壊す』――――それが、最善だと。
天井や地面を蹴って急速接近した霞は、良助の背後をとると、柳一文字で薙ぎ払う。
少年が窓際に飛ばされると、続けて佳槻が、呪縛の結界を広げた。
「ぼ……僕に、何をした……うごけ……ない」
「逃がさない。自分だけ逃げようなんて、虫が良すぎるでしょ?」
だが、ただ動きを止めただけに過ぎない。
霞は更に少年を窮地に追い込むべく、手を打つ。
「着地考慮できないと思うんで、フォローお願い!」
良助にタックルして組みついた霞は――そのまま少年ごと窓に飛び込む。
ゆるやかに落下する霞と良助。
そして、そんな二人を、校庭で待機していたキッカとユリアが受け止めると――佳槻もその身に網状のアウルを纏わせて落下した。
●
「なんなんだよ、あんたたち――」
校庭に勢ぞろいした撃退士たちを見て、混乱を極めた少年は怒声を放つ。
集団で悪意をぶつけられることが多かったせいか、良助は囲まれただけで動揺してしまう。
しかもあきらかに一般人ではない相手。
良助は再び逃走を図るが――動けない。
そんな良助の肩を、キッカの闇の矢が貫いた。
「ごめんね、痛かったよね? でも好きな幼馴染に3階から落とされた痛みに比べたらマシだよね? 自分がされて痛いことは他人も痛いんだよ?」
キッカは、自分のほうが痛そうな顔をしていた。
(人の痛み、心の痛みをあなたは誰よりもわかってるはずなのに…。復讐してもね、結局最後は自分に返ってきちゃうんだよ)
罪を重ねてほしくないと心の底から願い――その気持ちを矢に乗せて届けばいいとキッカは思う。
だが思いは届かず、どろどろとした光纏を燃やし続ける良助に、優雨は言う。
「おいで……本気で……相手してあげるの……。可愛そうだなんて……同情……嫌でしょ? 私は……知ってる……。今の、あなたの気持ち……。私も……同じだったから」
――――心に闇を持つのは、私も同じだから。
刹那、優雨の足元から波紋が広がるように闇が溢れ――巨大なムカデが現れる。
それは、優雨が背負う闇の形だった。
(私は……知ってる……。今の、あなたの気持ち……。私も……同じだったから。周りが全部……敵に見えるの。談笑は……自分への嘲笑にきこえるの……。視線には……悪意を感じるの……)
胸をえぐるような苦痛。
本人にしかわからない恐怖。
だからといって、人を手にかける理由にしてはいけない。
「来るなぁああ!」
優雨の闇が、良助を覆い、壊そうとする。
骨の軋む音が聞こえた。
「痛い! 痛い! お前ら、許さない――絶対、許さないからな!」
少年の強がりが、虚しく響く。
「手加減はしないからね。死んでも恨まないでよ――そろそろ酔いから覚めてもらうよ」
目を覚ましてほしいからこそ本気。
ユリアは、手加減なしでHidden Moonを放った。
不可視の矢は、良助にぶつかると、月色に輝く矢となる。
「お前らみんな、みんないなくなってしまえ――!」
見よう見まねで放ったアウルの矢。
だが、咄嗟にロヴァランドが若草のような糸で良助の動きを封じた。
「好き勝手にバカバカ撃ちやがってムカつくんだよ。力有る身で弱者を傷つけた、それだけでてめーは有罪だバカヤロウ……!」
いっこうに反省しない少年に、ロヴァランドは苛立ちを覚える。
そんな光景を、武尊は冷たい眼差しで上空から見下ろしていた。
(このモノは過去を理由に弱者を虐げた。戦う力のない者を虐げる力に――)
――――裁きを。
スレイプニルに騎乗した武尊は、ピンポイントブレイクにより――厳しくも真摯な裁きを下した。
それでも、強い眼差しで手を伸ばし、スレイプニルを掴もうとする良助に――武尊は素早くバヨネット・ハンドガンを撃ち込んだ。
●
「どうせなら……殺してくれれば良かったのに……」
ふと、もう起きあがることすらできない良助が、ぼやく。
何も描けないなら、何も要らないと思った。
誰かに壊して欲しかった。
欠片も未練がなくなるくらい、世界を憎ませて欲しかった。
「可哀想。そ言って欲しかった?……言わないよ? それは貴方を甘やかす言葉だから」
胡桃の言葉は厳しいが、その口調は優しい。
できれば、自分で立ってほしい。そう願いが込められた言葉。
少年は掌で顔を覆う。
「私は……優しい雨だから……あなたの涙……隠してあげるの。今は……泣いていいよ? そう、今だけなら」
優雨は言う。
「立ち上がるもそのまま腐るのもお前次第だ。まぁ、頑張れ」
玲治も言うだけ言って立ち去った。
(ごめんね、痛かったよね、苦しかったよね。
でもあなたは一人きりじゃなかったの。あなたの痛みを自分の物として受けてくれた人が近くにいたんだよ。
その人と苦しみを分かちあえばよかったんだよ――)
泣くに泣けない少年を抱きしめ、キッカは泣いた。
良助はやや呆気にとられるが――キッカの姿に幼馴染を重ね、かすかに口元を緩ませる。
「これからあの子、どうなるのかな……」
霞は呟く。
これだけのことをして、ただで済むはずはない。
だけど――と、ユリアは希望を口にする。
「やったことを振り返って、反省や後悔するもしないも本人次第……かな」
青く染まった空。
少年は幼馴染との幸福な記憶を思い描きながら、静かに瞼を閉じた。