振り子式の大きな古時計が指すのは、午後の五時半。
「ふむ……この他に、この地域に関した史実が残されている書物は無いのですか?」
「すみません、残っているのはこれくらいですね」
「わかりました」
ルティス・バルト(
jb7567)は古くなりガサガサになってしまっている本を閉じて、依頼人である婦人「杠 菊枝」にそれを返した。
不確かな状況を少しでも確かなものにする為、ルティスと南條は杠家に訪れていた。そんな彼らに向かい合うのは、腕や頭に痛々しく包帯を巻いた30半ばの男性専属撃退士が一人と、菊枝だ。
とりあえずここら一帯の史実などを探ろうと本を漁っていたルティスは、どうやらこれといった成果は得られなかったらしい。
南條が傷ついた撃退士に質問を行う。
「ディアボロと交戦した時に分かった些細な情報、そして、女型のヴァニタスのことについて教えてもらいたい」
「オオカミ型のディアボロの詳細については、依頼に記したとおりです。ですが、その素早さについては恐らく皆様の予想を超えていると思います。決して気を抜かないでいただきたい」
痛々しい彼の体が、その言葉を何よりも裏付けている。
さらに彼は言葉を続けた。
「それと、女型のヴァニタスの事ですが……なんというか、とても厭らしい姿をしていました」
「は?」
「いや、あの、決してふざけているわけではないんです。ですが、この表現以外で何と表現していいのか………決してこちらに干渉してくることは無いんですが、戦闘中に時たま空中からこちらの様子を伺いに来るんです。その時の表情が、あの、とても恍惚そうな表情をしていたんです」
いい大人が顔を赤くしながらその時の様子を語っている。
後ろで掃除をしていた使用人らしき女性に、その撃退士は頭をはたかれた。包帯を巻いているのに。
慌てて南條が彼に「だ、大丈夫か?」と心配をかける。彼は笑って頭をさすりながら「私の妻です、大丈夫ですよ」と言った。
「そんなに悲しそうな顔をしないで下さい。せっかく綺麗な笑顔を見せてくれそうな顔なのに」
「ふふっ、あらあらルティスさん、こんなおばさんを慰めてくれるのですか?」
「やはり、笑顔が菊枝さんには似合っている。しかし、何度も同じことを聞いているとは思うけど、改めて言わせて下さい。俺達が持ち帰ってこれるのは旦那さんではなく、その指輪だけ。しかもその指輪も、形見である可能性は低い。それでも、良いんですね?」
「はい。どちらにしろこのまま放っておいて良い事象では無いでしょう?私の為ではなく、人々の為に、依頼の遂行をよろしくお願いします」
深々と頭を下げる菊枝の表情、その時の顔をルティスは見ることができなかった。
●
「とりあえず、俺達は地上で探索をやろう。そこまで山も大きいものじゃないだろうし」
「だったら、俺は各々で空中から索敵をしよう。山の入ったところの野原を集合場所として、問題はその索敵結果をまとめたり、南條さん達に連絡を行う中継役だけど……」
南條達と別働隊で動いている四人の撃退士達。
地上での探索を希望したのは鈴木悠司(
ja0226)、空中での索敵を希望したのはロドルフォ・リウッツィ(
jb5648)であった。
『中継役』。この役割が一番敵に出会う確率が低いから、戦闘前に傷ついてはいけない「回復役」が適任である。つまり、その回復役であるフィーネ・アイオーン(
jb5665)が適している。
「あの、フィーネ、お願いできますか?」
「え、あ、はい。分かりましたわ」
どこかぎこちないロドルフォとフィーネの二人の会話。その様子を谷崎結唯(
jb5786)が眉をしかめて眺めていた。
「お前達、何があったのかは別に知らないけど、戦闘に響くような真似だけはやめてくれよ」
「すいません、谷崎様」
結局ぎこちない雰囲気のまま、彼らは山の麓まで着いてしまう。
しかし、いつまでも引きずってはいられない。ロドルフォは大きく、短く息を吐いて、「光の翼」で一気に上空へと飛び立った。
その時であった。
──ゾクッ!?
一瞬で体中に走る危険信号。思わず大きく後方へと下がってしまう。
「ロドルフォさん、どうしたの?」
その不自然な仲間の動きを不可解に思った鈴木が、地上から彼に呼びかける。
「フィーネ。すぐに、南條さん達に伝えて下さい。ディアボロはすでにこっちの存在に感づいてか、開けた野原の中央でこちらを睨んでいます」
「………え?」
「鈴木さん、谷崎さん、ディアボロが下手に移動しないよう牽制に向かおう」
ロドルフォの言葉に二人はすぐさま頷き、森の中へと駈け出した。とても不安そうな表情をしているフィーネを残して。
駆けだした二人に続こうと羽ばたいたロドルフォをフィーネが咄嗟に呼び止める。
「ロド!」
くるりと振り返るロドルフォ。
フィーネは眉尻を下げ、両手を胸元においている。
「無理をしないで下さい、わたくしも南條さん達に連絡が済んだらすぐに向かいますから」
その言葉にロドルフォは笑顔で頷いた。
●
時間は夕方。橙色の夕空と相まって、威風堂々とした巨躯のオオカミの赤茶色の毛並が燃える様に映える。そして、その耳には確かに銀色のリングがついていた。
その目は真黒で、まるで穴が開いている様だ。誰をどう見ているのかが全く分からず、次の行動が読みにくいだろう。
「……行くぞ」
鈴木の一言で三人は散り、戦闘に移った。
「ほら、来いよっ!!」
ディアボロの目先に移動したロドルフォは大剣を抜き、挑発するかのように大声を発する。
しかし、ディアボロは動じない。敵がどこを見ているのか分からず、敵が油断しているのか構えているのか分からない。少し迷ったうえで抜き放った一撃は、虚しく空を切ってしまった。
───!?
銃口の照準をディアボロの額に合わせていた谷崎、後方から攻撃を繰り出そうとしていた鈴木、そして鼻先に斬りかかったロドルフォ達の視界から、その巨躯が一瞬で消えてしまう。
時間にしてみたらほんの一瞬ではあるが、三人の視界から外れたディアボロは空中へと跳躍していた。
『ガアアァァァッ!!』
「速っ!?」
飛びかかってきたディアボロの両前足が、ロドルフォを押しつぶそうと勢いよく迫ってくる。
身の危険をビリビリと感じ、反射的に防御陣を展開した。しかし、受け流すことなど考えず展開した防御陣は敵の勢いを全て受け止め、ロドルフォの体は大きく吹き飛んでしまう。
「近寄らせるなっ!!」
鈴木の指示で、追い打ちをかけようとするディアボロに向かって急いで弾幕を張る谷崎。ディアボロはその牽制に怯んで思わず足を止めた。
敵が足を止めたその隙に、鈴木は木々に思い切り体を打ち付けたロドルフォに駆け寄る。
「大丈夫か!?」
「ゲホッ、ゴホッ……だ、大丈夫。特に痛む場所は無い、それより、谷崎さん一人じゃ、危ないっ」
牽制に徹している谷崎であったが、この短時間に状況は徐々に悪化していた。ストライクショットも交えて放つ銃弾は確かにディアボロの体を削っているが、器用に動き回る巨躯に軽傷しか与えられていない。徐々に詰められていく距離感に、段々と焦りの色が見え始めていた。
未だ呼吸がままならないが、ロドルフォは立ち上がりもう一度駆けだす。鈴木はそんなロドルフォを追い越し援護に向かう。
射線上に重ならない様、鈴木は大きく飛び上がりディアボロの額に掌底を放つ。攻撃は見事に当たり、空気がズドンと震える。銃弾で傷ついたその巨躯がガリガリと後方へと押しやられた。
しかし、ロドルフォの視界から一瞬で鈴木が消える。
まさに肉を切らせて骨を断つ。掌底をあえて喰らい、鈴木が最も近づいた際に大爪で斬り飛ばしたのだ。
恐らく、敵は戦い慣れしている。仲間がやられて、注意がおろそかになった標的を決して見逃さない。掌底の勢いを力で捻じ伏せ、グンと谷崎に襲い掛かるディアボロ。突進を喰らった彼女の体は、鈴木と同じように吹き飛び、広葉樹の幹に叩きつけられた。
『ガァアアッ!!』
「………クッソが!」
ダメージの大きい鈴木の方へ身を翻すディアボロ。
ギシギシと鳴る関節を無視し、ロドルフォは敵の眼前へと身を乗り出す。大剣を構えてはいるが、きっとその姿はディアボロの目にはあまりにも弱々しく見えているであろう。
今までいくつもの命を刈り取ってきたのだろう。血を染み込ませ赤黒くなっている牙が、今度はロドルフォの命を刈り取る為に向けられる。
「そう簡単にはやらせねえ、ってな!」
精一杯の強がり。ディアボロを向かい撃つ為、大上段に大剣を振り被った。
「捕らえたよっ!!」
「了解ですわっ」
刹那。ロドルフォの目に映ったのは、標的を食い殺さんと大口を開けている状態で、鎖に縛り付けられているディアボロであった。
次の瞬間には、耳をつんざくほどの轟音が何度も鳴り響く。
「フィーネさん、治療は任せたよ。さて、行こうかっ、南條さん!」
「そうだな」
入れ替わるようにルティスと南條が前に出た。
フィーネのコメットにより、あちこちの毛を焦がし、ダメージを負っているディアボロは、自らを拘束していた審判の鎖を食いちぎり、態勢を整える様に後ろへと跳躍する。
そして、南條が大きく前に出た。阻霊符を展開した後、両手から数匹の毒蛇を出現させそれを放つ。
ディアボロは怒ったように大きく吠え、蛇たちを右の前足で思い切り引き裂いた。不意に、南條がニヤリと不敵な笑みを浮かべる。
「そらよっ!」
開いた脇腹に潜り込み、ヴァルキリーナイフを一閃走らせるルティス。毛が散り、その切り口からは確かに鮮血が飛び散った。
しかし、深追いをしない。一撃離脱。
ルティスはもう一度大きく距離を取る。続いて、ディアボロに追い打ちを掛けさせない為に、南條が大瑠璃翔扇を投げた。
ディアボロは牽制を振り切り、何度も彼らに攻撃を仕掛ける。それでも彼らは焦らず、何度も全力で牽制を仕掛けた。全ては仲間が回復するまでの、時間稼ぎの為に。
「ロド、わたくしは言ったはずです。無理をしないで下さいと、何故あの場面で、敵に身を投げ出したのですか」
フィーネは谷崎、鈴木、ロドルフォにヒールを使い、回復作業を行っていた。
「だが、あそこでロドルフォが飛び出さなかったら、確実に鈴木は──」
「──谷崎様、そういうことではないのです。助けに入ったといえば聞こえはいいかもしれませんが、あの場面のロドの行動は、自分の命を無碍に投げ出すような行為でしたわ。わたくしはそのことに怒っているのです」
普段は優しく穏やかで、あまり感情を表に出さないフィーネだが、この時ばかりは本気で怒っているようであった。
ロドルフォは何も言い返せず、ただただ俯いていた。彼女の言う通りだったからだ。あの時自分は確かに、鈴木を守るために、自分の命を捨てた。
フィーネの細くて冷えた指が、ロドルフォの頬に触れる。微かにその指は震えていた。
「あなたは、優しすぎるのですわ。でも、ロド、あなたが居なくなってしまったら、わたくしは、どうやって生きていけば良いのですか?………もう一度言います、無理をしないで下さい、ロド」
「フィーネ………」
唇を噛んで、目を赤くするフィーネ。ロドルフォはその震える手をとり、「今度は、大丈夫です」と優しく微笑んだ。
「行こう」
どうやらディアボロから攻撃を受ける際、とっさに身を反らしたおかげで、見た目の割に軽傷であった鈴木が立ち上がる。
そして、鈴木はロドルフォの肩にポンと手を置き、「でも、助かったよ、ありがとう」と呟いた。
続いて谷崎とロドルフォも立ち上がる。三人の目は、疲弊の色濃く、明らかに押され始めている南條とルティスを見ていた。
「援護頼む」
谷崎がフィーネに短くそう言い、三人は勢いよく駆け出した。
●
すっかり日も落ち、辺りは薄暗い。
しかし煌々と輝く月明かりがディアボロの巨躯を映し出し、見失わずにはすんでいる。
撃退士達は肩で大きく息を繰り返し、高速で暴れまわるディアボロの動きについて行っていた。しかし、疲れているのは敵もまた同じ。
大きな隙こそできないが、攻撃を繰り出す感覚が段々と開いていっているように思える。
それでも、このまま長引けば、単純に力のある敵が有利。
全員が全員、次で仕掛けると意気込んだ。
「喰らえっ!」
谷崎と南條の遠距離攻撃がディアボロの体を削り、行動を制限していく。
ディアボロは月と重なるように大きく跳躍し、そんな煩わしい二人を目がけて牙を向けた。そこで、谷崎と南條の二人と入れ替わるように、今度はロドルフォが真正面から、敵が勢いに乗る前に防御陣を展開し、その攻撃の軌道を無理矢理真下にを変えさせた。
真下で待つのはルティス。空中で審判の鎖を発動させ、その巨躯を縛った。
「今だっ、思い切り吹っ飛ばしてくれ!!」
ルティスの掛け声とともに、フィーネのコメットと、それに合わせて掌底を繰り出そうと飛び出す鈴木。このまま弾けば、ダメージと共に森の深い方へと追いやることが出来る。
鎖がブチブチと弾ける。鈴木達の攻撃が先か、手負いのディアボロの反撃が先か。
全員がかたずをのんで様子を見ていた。
───しかし、現実はそのどちらでもないものを全員に見せつけたのだった。
突風が吹き荒れる。コメットは弾かれ、鈴木も同じように吹き飛ばされた。
そして目を開けると、そこには最悪の展開が待ち構えていた。
「あらあら、ウフフッ。素敵だわぁ、目の前に見えた希望を掴み損ねた人間の表情って。ホントに、ゾクゾクしちゃう♪」
背中から悪魔の翼を生やし、極端に露出の激しい装備に身を包んでいる女性。一目見ただけで分かる、あれは、ヴァニタスだ。
「一体、何の用なの。良いところだったのに」
剥き出しの敵意を向ける鈴木。しかし、変わらずヴァニタスは恍惚の表情で微笑んでいた。
「まさか、あなた達がここまでやるだなんて思って無かったわぁ。数十年生きてきた私のペットがこんなになっちゃうなんて。まぁ、もうディアボロになっているから、正しくは死んでいるのだけれどね」
クスクスと笑いながら、彼女は隣で利口に座っているディアボロの血濡れた毛並を撫でる。
「この子は、私がこれからやろうとしていることに、必要不可欠な子なの、ここで失っちゃうのは惜しいのよね。だから今日はここらへんで退散してあげるわ。そうすればあなた達の面目も守られるでしょう?アハハハッ♪」
ヴァニタスが狂気的に笑い、もう一度突風が吹き荒れる。
深い森の方へと去っていく敵を、すぐさま追いかけようとした鈴木だったが、疲労が溜まった体が突風に押し負けてしまい、足が前に出なかった。
これから起こり得る事を、誰も知らないし、知る由などない。
ただただ月が、銀色に輝いているだけであった。
<続く>