どういった経緯でこの小さめの会議室の使用許可をもらったんだろうか。考えるだけ野暮かもしれない。
怪訝そうな表情で席に座るのは六人の撃退士。
そしてそんな彼らの心中など露知らず、嬉しそうにニコニコと笑みを浮かべてホワイトボードの前に立つのは一人のスーツ姿の紳士。彼は自らを「ファンタジスタ・エロス」と名乗った。
「今回有識者の皆様をお呼びいたしましたのは、他でもない、おっぱいの事です。究極のおっぱいを創造するべく、その手助けをしていただきたいと、そう考えた次第であります」
手渡された資料は依頼書と大した変わりはない。
どうやら今回は、次の大いなる一歩へとつなげる為のテストを行いたいとの事のようである。そして一層その資料の中で目を引くのは「孤境重喜の胸を、エロスが触る為の手順の確立」という目的文章。
ホワイトボードにもでかでかと「おっぱい」の文字が。きっとこれは冷静になったらダメなヤツだ、場に居る全員が空気感で何となくそんなことを悟った。
「えっと……質問良いか?」
「はい、構いませんよ」
苦々しい笑みを浮かべて挙手をするのは、以前のエロスとも面識のある麻生 遊夜(
ja1838)だ。
「相変わらずなのは分かったけどさ………こういった問題を解決させるなら金銭的なやり取りが一番手っ取り早いとは思うんだが、どれくらいの金額を提示できるんだ?」
「そうですね、それはその人物がどれほどのおっぱいを持っているかで提示できる金額は変わりますね。私の求めるそれを持つ人ならば、億を提示しても惜しくはありません。ただ、今回の場合においては、私が出すことの出来る金額は五万円未満といったところでしょうか。テストケースですので、実際に揉まなくても手順さえ確立できれば良いですし」
「どこに、そんな蓄えが……」
「はい」
「どうぞ、次は何ですか?」
次に手を挙げるのは、眉間にシワの寄る雫(
ja1894)だ。
「もう、医者にでもなって合法的に触れば良いんじゃないんですか?」
「なるほど、しかしそれは効率的ではありませんね。私の求める胸の持ち主が、私の元に診察に来てくれる確率はもちろん極めて低い。医者になる為の勉強は、きっと圧倒的に胸に関する項目の方が少ない。それなら求めるものを探し合意に至るまで交渉をする、言わば攻めの形の方が効率的だと考えます」
「次、俺いーかな?」
「どーぞ」
ケラケラと笑顔を浮かべながら、紫園路 一輝(
ja3602)は挙手をする。
「金があるならそういったお店で済ますのは駄目なのか?」
「そう思っていた時期も確かにありましたね………しかし、私の求めるおっぱいとは『愛の塊』であるべきなのです。性ではなく、愛。争いを生むものではなく、温かい笑顔を作るもの。例えるなら、母なる海と父なる大地。だからこそ、そのようなお店にはきっと私の求めるものは無いと思うのです」
「なるほど……やるじゃん」
紫園路の言葉に全員が心の中で一斉に「何が!?」と突っ込みを入れたが、それは所詮心の中。
このボードに所狭しに書かれたエロスのおっぱい論、第三者がもし見たならばどう思うだろうか。そんな疑問を浮かべては、胸の内に押し込んだ。
●
「面倒な予感がする………でも、行かないのも悪い気がするしなぁ」
口は軽く半開き、目元はいつものように軽いクマがある。野暮ったい上下ジャージ姿で学園を歩くのは、何かと面倒事に巻き込まれやすい孤境重喜である。勿論今日もその例に漏れないのだが、孤境はまだそのことを知らない。
くぁっと欠伸を一つ。
孤境が手に持っているのは一枚の書類で、差出人は学園から。色々書いてはあるものの、ちょっとした呼び出しを自分が喰らっているっていうのは何となく分かった。
「何だか見知った人の名前もある。同じく呼び出されてるのか?」
階段を上り、孤境は資料に所定されていた小さな会議室の扉を開く。
「あ、あぁ、来たんですね」
「………あの、その、お久しぶりです」
「え、あ、お久しぶりです」
孤境が会議室に入るなり声を掛けてきたのは、雫と月乃宮 恋音(
jb1221)の二人だ。
ギクシャクと噛み合わないぎこちない空気感、おかしい、この二人は初めて会ったというわけでも無いだろうに。それに不思議と目も合わない。孤境は首を傾げた。
「あれ?もう一人いらっしゃるはずですよね?」
一枚の資料、アクア・J・アルビス(
jb1455)の名を指さして孤境が尋ねると、雫は「準備があるとかで、遅れるみたいです」と答えた。
「ところで、何のために呼ばれたんですか俺達は?」
「正確に言うと、呼び出されたのは孤境さんだけです。呼んだのが私達、といった感じです」
「………え?あ、うん」
何と言って切り出そうか、女性二人は少し顔を赤くしながら頭をフル回転させる。その時間が長くなれば長くなるほど、もちろん孤境の頭の上のクエスチョンマークは増えていくばかりだ。
迷っていても仕方がない。きっと、隣に居る月乃宮の性格上、こんな話を切り出すのは難しいに違いない。雫は一つ息を吐いた。
「───あの、ですね。急な話ですけれど、孤境さんの胸を触らせていただけないでしょうか?」
空気が、死んだ。
雫は思考をぐるぐると巡らせる。違う、そういう事では無く、私達は究極の、何を言ってるんだ、それもこれも全てあの天使が悪いんだ。思考は一つにまとまって雫は強く歯噛みした。
「………エロスのヤツに、何か言われたんですか?」
助かった。雫と月乃宮は孤境のその言葉に首を何度も縦へ振った。
実はかくかくしかじかで。月乃宮は「テストケース」というワードを避けながらとりあえず孤境に説明をする。
「なるほどそんな事が。数日前、同じセリフを当の本人から言われたんで、もしやと思って」
「減るものでもないですし、良いじゃないですか。これを機に彼の欲求不満が高まり、人の胸を所構わず触り始めたらどうするんですか。ほら、動画にでも撮って再生回数稼ぐっていう手も」
「ご家族で動画を楽しんでらっしゃる方々もいるんですよっ、お茶の間になんてモノ流すつもりですか!?」
「……も、勿論ただでとは言いません………お金も支払えますし、体調面が悪ければそのサポートも出来ますぅっ……交友関係を広げる為の飲み会なんかも、セッティングしますよ?」
口一杯の苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる孤境。完全に心の扉を閉め切ってしまっているのが見て取れた。
「納得できないのはごもっともです。でも、とりあえず私の話を聞いて下さーい」
ふと会議室に響くのはこの場に居なかったはずのアクアの声だ。
振り返ってみると白衣姿で教壇に立つアクアの姿が。すでにホワイトボードには何やら医学的な資料がマグネットで数枚張り付けてあり、さらに解説文まで丁寧にボード上に書いてある。
いつのまに。孤境が小さく呟いた。
「孤境さん、あなたは今エロスさんに胸を触らせたくないと言ってますけど、それは何でですかー?少し参考までに教えてくれませんか?」
「何でって………そんなの普通に嫌でしょ、あんなおっさんに」
「じゃあ観点を変えましょう。孤境さん、もしエロスさんに腕の力こぶを触らせるっていう事なら、どうですかー?」
「それなら、まぁ」
「ふふっ、ですよねー?では少し解説しますね。この前に張ってあるプリントを見て下さーい、この通り腕の力こぶと、胸の胸筋は、広義的に同じ『筋肉』で構成されています。つまり孤境さん、胸も腕も同じという事なんですよー」
「なっ、そんなのはただの屁理屈ですよ。あのおっさんに胸を触らせるなんてメリットもないし、変なことされそうで怖いじゃないですか!」
「メリットなら月乃宮さんの提示した通りに用意することも出来ますし、エロスさんは自ら『胸を触るのは性的な意味はない』と言ってましたよー。彼の場合は触るのがスタートであり、ゴールなんです。きっと変な事なんて起きませんよー?」
「うぐぐ………」
何となく分かってはいるのだ、エロスの性格上、特に性的な意味は含まれていないのだろうと。でも、それでもやっぱり嫌なのが人としての正直な気持ち。
おっさんに胸を揉ませるだなんてのは、男として何か大切なものを失くしてしまうという事と同義、孤境にはそんな言い表しがたい感情が胸の内にずっと引っかかっていた。
さらに人間という生き物は、いきなり逃れ難い理詰めを前にしてしまうと、反抗する為に考えを巡らせて行動を起こしてしまうものである。
どこかに糸口は無いか、孤境はホワイトボードの資料を見ながら考え、そして、苦し紛れかもしれないが効果的な「反論」を口にした。
「御三方は、この理由ならば同じように胸を触らせることが出来ますか?」
だれも、首を縦に振ることは無かった。
●
「そこをどうにかなりませんかね?」
「………難しいと思うわ。天使のセシル・イザベラちゃんは現在、この前あなたも参加していた一連の騒動の事で学園から取り調べを受けてる最中、まだ自由な外出が出来ないの。それと孤境くんのお母さんの事なんだけど、長崎辺りの海辺の田舎に住んでらっしゃるからわざわざお呼びするのは申し訳ないわ」
「んー、困ったな」
学園の事務室前の受付で頭を悩ます麻生が一人。そして彼に対応しているその女性事務員は、以前から間接的にだが度々面識のあった大谷舞花である。
「孤境くんのサポートをしてくれる女性ねぇ………ただでさえあの子は交友が浅いから、他に探すのも無理よね。でもどうして急にこんなことを───って、私の顔に何かついてる?」
「……居た」
「え?」
麻生は意地悪気な笑顔を浮かべた。
ピンポーン。
孤境の部屋の前、緊張の面持ちでインターホンを押したのは浪風 悠人(
ja3452)だ。
先日、孤境に直接交渉を持ち込んだ月乃宮から話を聞いた上で、浪風は何を対価に交渉を行えばいいかを考えて、予め準備しておいた様だ。
ガチャリとドアが開き、寝ぐせのついた孤境が顔を出す。
「配達以外の人が来るなんて珍し………」
浪風が挨拶をしようとしたところ、孤境の視点が自分の後方で止まっていることに気づいた。
「邪魔するぜ、孤境さん」
「あ、あはは………」
「麻生さんに、大谷さん………面倒な臭いがしますね」
浪風の後ろに居たのは麻生と、学園事務員である私服姿の大谷である。
孤境は苦笑いを浮かべて、渋々といった雰囲気で玄関前に立つ三人を家に招き入れた。
一人部屋の四方に立ち並ぶのは、ゲームソフトや漫画本が押し詰められている本棚の数々。中央にはテーブル、テレビの前には複数のゲーム機が並び、そのテレビの近くに机とデスクトップのパソコンがある。
「これは、凄い圧迫感だね」
「歌の収録をする際なんかは、あそこに立てかけてある板を組み立てて防音個室を作りますから、もっと狭くなりますよ」
浪風の呟きに返答する孤境はテーブルの上に三人分の麦茶を置いて、パソコン前の椅子に座った。
「それで……エロスさんの件ですか?」
「察しが良い、でもまぁ聞いてくれよ。確かにそれが目的だが、別に断ってくれても良いって思って来たんだ。何だか最近、寝不足気味で、口内炎も酷いみたいって聞いたからさ。心配になって来ただけだぜ?」
「誰がそれを……」
「月乃宮さんやアクアさんから聞いたんだ。ほら、アクアさんはお医者さんだしな、見て分かることがあったんだろう」
麻生の言葉を聞き、体調が少々不安定なのは事実だったので、別に断っても良いのならと孤境は彼らの好意に少し甘えることにした。
「えっと、それじゃあ俺は昼食でも作ろうかと思います。大谷さんは………」
「私は、そ、そうね、掃除でもしてようかしら?」
「じゃあ俺は、浪風さんの手伝いでもするよ」
ヘッドホンをつけて動画の編集を続けている孤境の後ろで個々が役割を決め、それぞれの持ち場へと動き始めた。
台所に立つのは浪風と麻生。浪風は予めどうやら食材を買ってきていたらしく、調理台の上に様々な野菜が並ぶ。
「野菜ばかりだな」
「そうだね、口内炎が出来ているってことは、ストレスかビタミン不足かなんです。だったらビタミンを補う為にこうした野菜や柑橘類が効果的です。そうですね、とりあえずホウレン草の卵和えや、ぶりと大根の煮付け、ポテトサラダなんかを作りましょう」
「俺はじゃあご飯でも炊いておこうかね」
そう言って麻生は鼻歌交じりに炊飯器の前に行く。そこでふと周りを見渡した。
大谷さんが居ないな?風呂掃除をしているのだろうか?そんなことを考えている最中、そのお風呂場から女性の短く高い声が響く。
「どうかしたのかっ?」
急いで駆けつけると、そこには泡まみれでびしょ濡れの大谷の姿が。ちなみに彼女はさぶろくの良い大人です。
胸も大きく、肉付の良い体の女性がこんな姿になっているのだ。麻生は思わず目を逸らす、そしてそんな彼に大谷は暗く声を掛けた。
「………私ね、実は家事なんて一度もしたことが無いのよね。自宅もあちこちにビール缶が転がってるような、仕事しか出来ない女なの。いやぁ、若い子達に頼られて良い顔しようと思ったけど、無理なものは無理なのねぇ」
ポンポン。麻生の肩が叩かれる、振り向くとそこには孤境が。
「いや、この、それは………」
「大丈夫ですよ、分かってましたから、大谷さんが家事が出来ないことくらい」
だったらどうして、麻生がそう呟こうとすると孤境は意地悪気な笑みを浮かべる。
「ふふん、ちょっとした腹いせです。いやぁ、皆さんに面倒をかけてしまっているみたいですし、早く用を済ましておいた方が良いかもしれませんね」
目にクマは軽く浮かんではいるものの、孤境の笑顔はどこかスッキリとしたものであった。
●
「それでどうだった?俺は男の胸には興味が無いからよく分かんないけど」
「そうですね、まぁ想像道り、そうでも無かったというのが素直な感想でしょうか」
「良かったと言われても複雑だが、そうでも無いとか言われるのも癪だな畜生」
真面目に孤境の胸について話しているのは紫園路とエロスの二人だ。被害者孤境は抵抗として愚痴を垂れるものの、二人の耳にはどうやら聞こえていないみたいだ。
「ん?何を書いてるの?」
雫がひょっこりと、何やらノートに記入をしている月乃宮に問いかけた。同じく興味を持った浪風も同様に近寄る。
「……エロスさんに、今回の件をまとめて報告しようかなと………今後もこういう事が続くようでしたら、過ちを繰り返してはいけませんから」
そう言って月乃宮は真面目な顔で「おっぱいを触る方法」をまとめ出した。
何かがおかしいぞ、しかし浪風は苦笑いを浮かべたまま、なんと言えばいいのかも分からずそのまま彼女の言葉に頷くことにする。
今日も天気が良いみたい。
傍でそんな彼ら彼女らを見ながら、麻生とアクアは考えるのをとりあえず放棄した。