時刻は、すでに夜になっていた。
今夜は星の光をさえぎるほどに雲が厚い。闇にまぎれて何かを為すには、絶好の時間帯だ。
学園からほど近い、とある女子寮。寮生全員で利用できる大浴場──しかも露天風呂だ──を持つその建物のすぐ近くにある裏山で、数人の少女たちが息を殺して木陰の中に潜んでいた。
「なかなか……現れませんね。眠くなってしまいます」
双眼鏡を使い、大浴場を監視しながら、さらりとした銀髪の少女が呟く。あふ、と可愛らしくあくびを噛み殺しながら、彼女──鳥海 月花(
ja1538)は双眼鏡を隣にいた女性へ手渡した。
「今日で四日目……今週も犯行を企んでいるはずなのですが……」
「男装して、裏ルートに関わっている生徒から仕入れた話……信用できるのでしょうか?」
近衛 薫(
ja0420)が受け取った双眼鏡を使っている横で、月花はそう尋ねる。答えとは裏腹に、その声色には疑念が混ざっていた。
「慎重な相手だそうですし、わたくしと月花さんの昼間の調査のほうから足がついた……という可能性は、否定しきれません」
薫は形の良い顎を摘みながら、小さく唸る。ミスは無かったはずだと、自分では思っていたが、百パーセントであると断言はできない。
「その辺は大丈夫なんじゃない? あたしからは、ちゃんと二人とも男に見えてたし。バレてないに決まってるって」
近くの木の枝に座っていた高峰 彩香(
ja5000)が、くるりと宙返りながら地面に降り立つ。元来気が短いたちで、どうにも落ち着きがない。
「だといいのですけど……」
「考えすぎたっていいことないよ?」
「あなたがそう言うと、説得力があるのやらないのやら……」
「むー! ともかく、出てこなかったら、こっちは手の出しようがないんだしさー。早く出てきてほしいよ。Rehniさんレイラさんも、待ちくたびれちゃう」
今はここにはおらず、別の場所で捕り物の準備をしている仲間──Rehni Nam(
ja5283)とレイラ(
ja0365)のことを思い出しながら、彩香は口を尖らせる。
「彩香さんの言うとおりです。どちらにせよ、出てくるまで待つ以外にないですし……そして犯人を捕まえて、販売ルートも潰す。両方をやらなければ、事件解決とは言えません。監視を続けましょう」
少し厳しい口調で、レイラがそう締めくくった。
「んっ……いいお湯……ホントに温泉みたい」
女子寮の露天風呂は自慢するだけのことはあり、ちょっとした旅館並みの設備があった。かなり広い。しかし、その湯船に浸かっている少女は今、たった一人だ。そして彼女は本来、この場にいるべき人間ではない。
彼女の名は或瀬院 由真(
ja1687)。囮を引き受けるという、ある意味で『最前線』に立つことを志願した少女である。
(……裸を見られるのは気が進みませんけど、これも盗撮犯を捕まえるため……!)
固い決意を胸に秘め、乙女の柔肌を卑劣漢へと晒す──その抵抗感よりも、女の敵に対する憤慨のほうが勝ったのだ。
だがこうして囮を初めて四日経った今日も、犯人が姿を見せる素振りはない。少しだけ焦りが出てきた自覚がある。被害者たちからのリサーチを重ね、一番危険な時間、危険な状態を作り出したはず。それなのに、『魚』は思うように網にかからない。
ちゃぽんとお湯をかき混ぜながら、外へと目を向ける。高い垣根があるせいで、普通ならば裏山側から覗くことなどできない。
果たして、『敵』はどうやって侵入してくるのか──そんなことを考えていると、ふと嫌な気配を感じた。
「……っ!」
反射的に身を隠しかけるが、自分の役目を思い出してそれをこらえる。隠してはダメだ。自分は囮、相手を惹き付け、油断させなくては。
縮こませかけた身体を引き起こすと、気づいてないふりをしながらお湯と戯れる。恥ずかしさを押し殺し、平静を装った。
(どこに……?)
かさりと小さな音が聞こえる。地面を這うような音だ。普通に風呂に入っていれば、シャワーを浴びていれば、聞こえないくらいのかすかな音。しかし錯覚ではない。由真の耳は、たしかにその音を捉えていた。
「あ……!」
垣根の下だ。竹で編まれた垣根の下にぽっかりと穴が開いている。昼間調べたときは、あんな空間を見た記憶はない。あらかじめ気づかれないような細工を施していたのか、あるいはたった今壊したのか。
だがそんなことはどうでもいい。いや、どうでもよくはないのだが、後回しだ。理由を考えるよりも、犯人を見定めなくては。
こっそりと洗い桶の中に隠してあったトーチに手を伸ばす。さりげない動作を続けながら、音に対して身体を向ける。
「ッ!」
見えたのは、風呂のわずかな灯りを反射したレンズの煌めき。思わず声を上げそうになった。仲間と何度も打ち合わせをしたが、身体はシミュレーション通りには動いてくれない。
女性である──その動かしようのない事実が、生理的嫌悪感という形で由真の身体を縛る。それでも彼女は勇気を振り絞って、手にしたトーチのスイッチを入れた。
「信号だッ! 由真さんだよっ!!」
最初に気づいたのは彩香だった。
昼間決めた合図──トーチの輝きが女子寮の風呂で瞬くのが見えた。それをさえぎるように、黒っぽい人影が走り去っていく。言うまでもない。あれが盗撮犯に間違いなかった。
「犯人確認、行動開始! 手はず通りにお願いしますッ!!」
薫の言葉に「了解!」と声を揃えて答えると、それぞれが散っていく。
しかし撃退士である彼女たちをもってしても、簡単に追いつくことができない。おそらくは盗撮犯も常人ではないのだろう。
「せっかくの力を、どうしてこんなくだらないことに使うのでしょう……!」
追いかけながら、月花の胸にはふつふつと怒りが湧いていた。男装して犯人に顧客について調べていたときも、この感情を抑え込むのに苦労した。
まったく男性というものはどうしてこうなのでしょうと、一緒に調査していた薫と共に憤慨していたくらいだ。
「怒るのは後にしましょう。まずは捕まえなくては」
「ええ、そうですね」
横を走る薫に頷く。
「最初の仕掛けに追い込みます、協力して下さい」
言うが早いか、二手に分かれて犯人にプレッシャーをかけていく。
一般的に、追われる者は左側に逃げるという。日本が左側通行の分化であるからとか、心臓を無意識に守るためとか、色々な説が唱えられているが、ともかくなぜか左に逃げやすいという心理学的統計があるのだ。
薫はそのことを利用して、罠を張っていた。
「ッ!?」
足元の見えにくい角まで来たとき、突然ずるりと犯人の足元が滑る。泥だ。足元がぐちゃぐちゃの水たまり──いや、泥たまりになっている。転ぶほどバランスを崩したわけではなかったが、たたらを踏んで足運びが鈍る。
偶然ではない。ここに来るまでに、薫が逃走ルートを予測して準備していたものだった。
薫は即座に携帯電話を取り出すと、次に待ち構えている仲間へと連絡を入れる。
「泥にはまってくれました! 足跡を追ってください!!」
連絡を受け取った瞬間、彩香はすでに動いていた。見切り思い切り行動の速さが身上。失敗することも多いが、もちろん成功することもまた多い。
「まかせてっ!」
振り上げたその手に握っているのはボーラ──狩猟や戦闘で使う、重りのついた投げ紐だ。ひとたび投げつけ、足に絡みつけばそれで終わり。
だが敵もさるものというべきか、投げつけたボーラを盗撮犯はあたふたとした身のこなしで辛うじて避ける。
「あーあ、避けられちゃった……なんてねっ!」
しかし彩香は少しも気落ちした様子はない。次々とボーラを取り出すと、盗撮犯へと投げつける。まるで、当たらなくてもいいと思っているかのようだ。
「だって、ねぇ?」
「ええ。そっちは一人で、こっちは……たくさんいますのよ?」
ここにはいない誰かに尋ねるような彩香の台詞。その言葉に応えるように、盗撮者の真ん前の茂みから飛び出す少女がいた。
Rehni Nam。もちろん、彩香たちの仲間の一人だ。犯人が逃げてくるのに合わせて、あらかじめ潜んでいたのだ。このように──行く手をさえぎり、逃走ルートをコントロールするために。
Rehniは彩香がわざと外したボーラを拾い上げると、おもむろにそれを投げつける。
まるでお手玉のように二人を間を飛ぶボーラに右往左往し、裏山の奥へ奥へと追い込まれる盗撮犯。
まさに計画通り。にっ、と彩香が笑みを浮かべた。
「さあ、行ったよっ!」
「はいっ!!」
パンッと空気を引き裂くような、甲高い音がした。木々の陰から飛び出す細長い牛追い鞭(ブルウィップ)。最後の一人、レイラの操る武器だった。
完璧なタイミングだった。隠密に長けたエイラによって、隠されていた気配を感じることすらできず、完全な不意打ちとして受けてしまう。おまけに後ろから迫るボーラに気を取られていた盗撮犯は、とっさに避けることなどできようはずもなかった。
ブルウィップに足を巻き取られ、もんどり打って倒れる盗撮犯。盛大に二度、三度地面を縦向きに回転してから灌木に激突し、ようやく止まった。
「これでチェックメイトですね」
「やったね、レイラさん!」
「ナイスフォローでした、彩香さん」
「えへへ……あ、そうだ」
ダメージが深いのか、びくびくといまだに痙攣している盗撮犯を見下ろしながら、携帯電話を取り出す彩香。
「もしもし、由真さん? うん、犯人捕まえたよ。みんなもすぐ集まってくると思う。じゃあ、待ってるからね」
これで目的の一つは果たした。後は──『完璧に完全に解決し尽くす』。
犯人に縄をかけるレイラとRehniを眺めながら、彩香はそのために仲間たちが集まってくる足音を聞いていた。
「はい、チーズ♪」
パシャリ、とわざとらしいほどに鳴り響く、携帯のシャッター音。
今この瞬間のために買いそろえたロープでぐるぐる巻きにされ、さるぐつわを噛まされた盗撮犯は、集まった少女たちによって証拠写真を撮られまくっていた。
「みなさん、忘れずに風紀委員に送信してくださいね?」
レイラがそう言うと、一同は満足そうに頷いた。
これだけ素性も反抗になれば、この盗撮犯は再起不能だろう。風紀委員からもマークされ、健全かつまっとうな学園生活を行わざるを得なくなる。
だが、これではまだ半分だ。事件を『解決し尽くす』ことはできていない。この盗撮犯が関わっている裏ルート。その解明と撲滅までやってこそ、依頼は完遂されるのだ。
「さて……あなたに残っている選択肢は、あまり多くありません」
鋭い視線で犯人を見つめながら、代表として薫が口を開いた。
「あなたが犯した罪にふさわしい罰を受けることは言うまでもないのですけど、その前に一つやってもらうことがあります」
「内容を言う前に言っておきますが、具体的には二つに一つ。素直に従うか、痛い思いをして従うか、ですので悪しからず」
薫のあとにそう続けた、月花の顔は真剣だ。冗談の成分1グラムも含まれていない。
「あ、ちなみに『痛い思い』をしたい場合はあっちのフルコースになるからね? ほら、あれ」
そう言った彩香が指差す先には、Rehniが嬉々として『拷問用具』を積み上げていた。どこから仕入れてきたのかは分からないが、とにかく大量だ。鰐口のペンチやら、スペインの蜘蛛と呼ばれる凶悪な形をしたはさみ、古典的な石の座布団や抱き石などなど。
見ているだけでぞっとするようなラインナップを、彼女は入念にチェックしている。
「どれから使いましょう?」
「その、私に聞かれましても……死なない程度にお願いします」
無邪気に意見を求めた彼女に、近くにいたレイラは若干引いていた。
仲間ですらそうなのだ。当事者となるや、そのおぞましさと恐怖は言うまでもない。
「で、いかがですか? 私たち、あなたの『お客さん』にも罪を分かち合っていただきたいと思っているのですが……?」
盗撮犯人の顔色が変わる。当然だろう。恐怖に駆られて顧客を売ったとあっては、もう二度とこんな商売はできない。身の破滅だ。
だがしかし──。
「選ぶのは、あなたです。今、快くあなたが写真を売りさばいていたルート潰滅に協力するか、それともRehniさんが用意してくださった『アレ』を十分に堪能してから協力するか。どちらにします?」
囮役であった由真が、にっこりと笑いながら尋ねる。まさしく彼女こそ身体を張ったのだ。口調は穏やかだが、その言葉は怒りに満ちていた。
彼女の迫力に気圧されたように、盗撮犯人の首が動く。縦に──それはつまり、屈服の意味だった。
「……ありがとうございます。いいお返事ですね。では……もう、こういうものは、いりませんよね?」
由真はその手にカメラを持っていた。誰の物であるかなど、言うまでもない。かなりの高級機材のようだったが、盗撮犯の目の前で、薫は躊躇なく地面に叩きつけて破壊する。
だが盗撮犯はもはや、がくりと肩を落とすことさえしなかった。
学園内に蔓延っていた裏の流通ルートが潰滅したのは、それから数日後のことだった。
供給側である盗撮犯を捕まえてしまえば、あとは何も障害はない。盗撮犯を囮に使い、のこのこを現れた顧客を一網打尽。どうやら薫や月花の変装をまるで疑っていなかったららしく、拍子抜けするほどあっさりと裏ルートは壊滅してしまった。
女性の敵というレッテルを貼られた彼らに、味方となる者は誰もいない。弁護する者など一人もおらず、結局は被害者、そして撃退士たちの「盗撮写真も買ったほうも同罪」という意見はそのまま採択されることとなった。
そして──、
「ほ、ほんとに使っていいの?」
「ええ。事件解決の、お礼だそうですよ」
かけ湯をしながら微笑む月花。
「やたっ! 囮じゃなければ、入りたいと思ってたんだよね!」
言うが早いか、湯船に飛び込む彩香。そんな彼女を、Rehniが咎める。
「もう、静かに入ってください。まったく、泳いだりして……」
「まぁまぁ、泳いでも大丈夫なくらいの広さですし」
由真がそう言ってとりなす。この風呂は二回目だからか、妙に余裕ある言動だった。もっとも一回目は覗きの恐怖にさらされての囮役だ。心から風呂を楽しめるのは、卿が初めてと言っていいだろう。
「ああ、いいお湯……暖まります……」
「本当、そうですね。安心してお風呂に入れるって、素敵なことですよ」
その横では、長い黒髪をアップにしたレイラと薫が、肩まで浸かって身体を芯から温めている。
薫はなぜかバスタオルを硬く身体に巻いたまま風呂に入っていたが、レイラは突っ込まないことした。
今は皆が思い思いに『ごほうび』の湯を楽しんでいるのだ。野暮なことは言う必要がない。もう、外の目を怖れる必要はなく──この風呂は安全で、そして平和になったのだから。