●到着
もう直ぐ船着き場には、定刻通り本島からのフェリーが着く。
「三瀬さんは腹痛のようですね」
潮風を髪に受けながら、三瀬 無銘(
ja1969)から受信したメールを読み、戸次 隆道(
ja0550)は携帯を閉じた。
無銘はこの場には現れないようだ。
依頼に来られなくなる人もいるのかと、意外な面持ちで葵はそれを聞いていた。
「よっ! アオ! 元気にしてたかいっ!」
「さかえん先輩」
葵の肩をぽんっと叩いて現れたのは、久遠 栄(
ja2400)だ。
この学園に初めて来た時、繁華街を案内してくれた先輩だ。
その後ろには神和 雪見(
ja3935)の姿も見えた。彼女も自分を温かく迎えてくれた一人だ。
気心の知れている二人が居てくれるのは、これ以上なく心強かった。
「同行という名の監視じゃなくて、遊び相手として一緒にいたいな」
風に乗せ、穏やかに息を吐く桜木 真里(
ja5827)。
監視対象だと思って接したくはない。
雪見も彼と同じ想いらしく、そっと頷く。
一方、マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)は皆の輪からは僅かに距離を置き、海原を見ていた。
挨拶の時から言葉数こそ少ないものの、依頼には真摯な様子が窺える。
自分だけが被害者のような顔をしていられない。
マキナの横顔を見ているとそんな想いがして、葵は居住まいを正した。
フェリーが波を割り、船着き場に寄せられる。
重い音を立ててタラップが渡され、続々と乗客が降りてきた。
繁華街の発展につれ出入りするようになった一般人や、制服姿の依頼帰りと思しき学生もいる。
その中に俯く子供の背をなんとか宥めながら押し、降りて来る職員の姿があった。
職員も出迎える一団に気づき、明らかにほっとした表情を見せ、会釈を寄越した。
「彼が、霧之宮 祀くんだ。ほら、祀くん。彼らが話をした案内してくれるお兄さんたちだよ」
職員は互いを引き合わせようとするが、祀は俯いたまま友好的な挨拶はしなかった。
「やー、長旅お疲れさんっ。俺は久遠 栄、さかえんと呼んでくれても良いんだよ」
それしきでめげる性質ではない栄が、明るく声を掛ける。
流石に祀もこれにはちらりと視線を上げ、栄の顔を見た。
「戸次 隆道です」
祀が顔を上げたタイミングを見計らい、隆道も名乗る。
まだ背は140センチもない祀が、身長差の分だけ隆道を見上げた。
「はぐれないように手を繋がない? 街も案内するよ。フィナンシェの美味しい店があるんだ」
再び祀が俯き掛けたところへ、笑みを浮かべ、真里が手を伸べる。
その手には一瞬視線を留めただけで拒否を示すが、フィナンシェ、という言葉には顔に素直な反応が現れる。
けれど祀は自分の中の気持ちを確りと正すように口端を結び、誘惑を断ち切るよう、再度強めに首を横に振った。
その仕草が唯一彼の子供らしい反応だと、距離を置いて見ていたマキナは感じ取る。
子供は好きだが、巧い接し方は分からない。
掛ける言葉が、出逢って直ぐに見つかるはずもない。
そんなマキナと同じく、雪見も僅かな距離を置いてその光景を見つめている。
ただその視線はまるで弟を見守るような、穏やかなものだった。
見守る視線一つとってもこれだけ違うのだ。
編入手続きの為に歩み出した一団の背に、葵もそっとついて行った。
●しるべ、その先
編入手続きが終わる間も、これだけの人数に囲まれては逃げ出す隙は無い。
相手が一般人ならばまだしも、全員が撃退士だ。
祀は言葉数少なく、幾つかイエスとノーで質問に答える程度で、一向に心を開く様子はないまま寮に入った。
「お泊り会をしよう」
真里の提案に目を見開いたのは、夜ならば多少なりと逃げ出す機会があると踏んでいたからかも知れない。
祀は「一人で眠れる」と拒絶する。しかし入寮を見届けて一時的に引き上げた雪見と外にいるマキナを除き、栄も隆道も泊まり込むつもりでいると知ると、渋々と一つの部屋に収まった。
宛がわれた部屋に先に届いていた荷物は、段ボールが二つ。
それだけだった。
葵には、その光景が自分が学園に来た時のものと重なってしまう。
居た堪れず、室内で一緒に過ごすのは辞退し、寮を出た。
任務時以外、基本的に寮には門限がある。
陽が伸びていて遅い時刻だとは感じなかったが、この時間に外にいるのは初めての経験だ。
何処に居たらいいのかと所在なく寮の前で立ち尽くしていると、外回りのマキナの姿があった。
「…マキナ、さんは……、部屋に泊まらないんですね」
見学という立場でいながら、任務から逃げ腰だと思われるだろうか。
後ろめたさのようなものが胸に湧く。
「……私は余り、口が上手くはありませんから。何を話せば良いのか、良く解らないのですよ」
祀が嫌いな訳ではなくて。
拒絶でもない。
そして、誤魔化しも、上っ面もない。
ひとり、ひとり。任務にあたるやり方は違うのだ。
葵は夏服になったシャツの腹を無意識に握りながら、言葉を絞り出す。
「外回り…、一緒に居ても、良いでしょうか」
真里が持ち込んだカードを見ても祀は参加しようとしなかったが、その代わりに栄が名乗りをあげた。
そして二人きりのババ抜きで、大人げない…否、真剣勝負が始まった。
作戦というより、「遊ぶ時は全力で」がモットーだ。
ただ、これが功を奏した。
子供と言っても、祀は生まれた時からやがてはこの学園で鬼道忍軍の経験を積む将来を見据えて来た。
観察眼や手の中でカードを巧く繰る事には自信がある。つい、幼さ混じりのそこを擽られた。
隆道も巻き込み、結局、子供相手だろうがまったく遠慮をしないババ抜きが始まる。
「ふ、ぁ……」
祀が眠たげに欠伸を漏らし、集中を切らし始めたのは、22時になる手前だった。
どうして頑なに脱走を繰り返すのか。それを聞きたいと様子を見ていた隆道がいち早くそれに気づく。
「眠りますか?」
今夜は聞けないだろうか。
そうは思うが、急いで問い詰めるものでもない。
「その前に、風呂にだけ……。船で、髪、ベタついてる」
フェリーに乗って来た祀の髪は、確かに毛先がごわついて絡んでいた。
「じゃ、案内するよ。今の時間ならガラガラで、きっとプールみたいだぜ!」
栄がベッドから立ち上がり、祀が寝間着を持つのを待って寮の共同浴場へと向かう。
部屋を出た後も祀は逃げる気配はなく、眠そうな目を擦り、大人しく栄と共に浴場まで歩いて行く。
それでも流石に脱衣場の前に来ると、一人でいい、もう逃げない、と年頃の男子らしく栄を追いだした。
浴場内には換気用の小さな窓があるだけだ。いくら小柄な祀でも、抜け出すには少しばかりサイズが足りない。
栄は脱衣場のドアの前で待つことにした。
自分の入浴時間を思い描いて、だいたいどのくらいで出て来るだろうかと天井を見上げて考える。
そうして、10分が経過した。
寮内の共同浴場なので、脱衣場への扉に内鍵はない。
眠たげな顔を思い出す。
中で寝てしまっていないだろうか。
少しばかり戸を開いて窺ってみた。
寝間着の端が脱衣籠からはみ出ているのが見える。
くもりガラスの向こうからは、シャワーの音がした。
シャワーの音しか、しない。
嫌な予感。
栄は瞬時に聴覚を鋭く研ぎ澄ます。
近くの部屋の雑談は聴こえても、水音はシャワーの規則的なものしか聴こえて来ない。
湯を出しっぱなしにしているだけだ。
「……っ!」
駆け込み、ガラス戸を開く。
いない。誰もいない。
シャワーの湯が、床に当たり爆ぜている。
小さな窓が開いていた。
それは予め認識していた、祀ですら、肩が痞えて通り抜けるのは無理そうなサイズの―――。
肩の関節を外して、潜り抜けたのか。
「まっつんが風呂場から逃げた!」
栄は携帯を取り出し、早口に告げた。
浴場の裏手で、ぶらりと下がる腕を肩に嵌め直す。
直ぐに膝を屈伸させ、塀の上へと跳躍する。
雪見は引き上げてからもう何時間も経っている。
寮に居なかった二人の気配は―――遠い。問題ない。
今なら逃げられる。
足音を消すのは容易い事だ。幼稚園の頃にはもう出来た。
灯りは寮から漏れてくるものだけで充分だ。身を隠すには明るすぎるくらいだ。
塀から更に屋根へと、風のない初夏の夜空へ駆ける。
寮へ来る途中、繁華街があった。
フィナンシェが美味いという店。
あの辺りには、またフェリーが出る時間まで身を顰めるのに恰好の死角が山ほどありそうだ。
その方角に目標地点を見定め、屋根から屋根へ駆ける足をぐんと加速させた時だ。
「もしかして鬼ごっこなのかな?」
予想以上に早い段階で、声がかかり、祀の身体は思わず強張った。
声だけでそれが真里だと分かる。
敢えて部屋に留め、全員撒いた筈なのに。
隆道が無事見つけました、と告げて携帯を切る姿が見えた。誰かに気づかれていたというのか。
「……戻りましょう」
見つけられ動揺を隠せずにいると、次の足場にしようとした屋根に先にマキナに回り込まれた。
跳躍しかけた足を今の屋根に縫い止め、祀は悔しげに歯を食いしばる。
その眼はまだ諦めずに、マキナに退いてくれと訴えている。
「―――どうしても、無理にでも行くと言うのならば……、今は、力尽くで止めなければなりません」
つう、とマキナの包帯に包まれた指が空を撫でる。
鋼糸だ。
マキナから感じるのは実戦で踏んだ場数の差。それは実力の差。
敵わない、と。幼くとも、それに気づけない祀ではない。
それでも今退いてもらわなければ、もうこのメンバーから逃げる隙は得られないだろう。
「退け…ッ!!」
幼い声が吼えた。祀は武器と呼べるものは持っていない。
皆より短い人生だとしても、磨いて来た俊敏さだけが今の武器だった。
迷う間など無い。一秒でも遅れを取れば自分が捕まる。
それが、悔しい。
足場を蹴る。
これ以上追いかけて来られないように、マキナの膝一点に狙いを澄ます。
「つーかまえたっ!」
マキナの瞳がわずかに細まり、鋼糸が閃く直前、だった。
まるで糸状の刃から引きずり離されるように、後ろから胴を腕で抱え込まれる。
息を切らした栄が、寸前のところで祀の細い体を抱えていた。
もちろん、そこは空中だ。
「……―――ッ!」
バランスを崩し、見事に二人とも重力に捕まる。
落下。自分一人だけではない。二人分の重さが加わり、落ちる。
抱えられていては受け身も取れない。咄嗟に地面に叩きつけられる痛みを覚悟した。
「つ、ぅ……ッ」
けれど実際に重い痛みが走ったのは右肘だけだった。それ以外に痛みはなかった。
むしろ背に温い厚みを感じる。
「さかえん先輩!」
栄が祀の下敷きになっていた。
庇われたのだと把握するまで一瞬掛かった祀が我に返ると、真里が笑顔でそっと手を差し伸べ、立つのを手伝う。
「鬼ごっこも、負けないよ」
栄は葵に手伝われて痛むだろう身を起こしながら、「これも悪い例!」と笑っていた。
「どうして―――」
どうして、逃がしてくれないんだ。
「どうしてそんなにまでして逃げるんです!」
まるで自分の胸の中の言葉をそのまま返すような、叱り飛ばす声が響いた。
雪見だった。連絡を受け、走って来たのだろう。
駆けつけた勢いのまま、普段は穏やかでおっとりとした物腰の雪見が、乱れた呼吸に乗せ、祀に厳しい一喝を入れる。
「人を傷つけようとしてまで……」
肩で息をしながら雪見は直ぐに祀の元に歩みを詰め、膝をつくと直ぐに血の滲んだ右肘に手を翳す。
雪見の掌から淡い光が溢れ、肘のずくん、ずくん、と鼓動するような痛みを和らげていく。
「自分が傷ついたら痛いでしょう…? 他の人だって傷つけば、痛いんです」
やるせなさそうに、切実に祈るように、雪見は祀の肘を癒しながら言い聞かせる。
その声音が、優しさが、祀には一番胸に痛い。
「ここから出て行って何をしようと思ってるんだい? 俺達では力になれないのかな?」
葵に支えられて上体を起こした栄が、地面に座り込んだまま、祀を見上げて問いかけた。
それは全員が聞きたかったこと。
誰も、ここに連れて来ようとする大人たちは聞く耳など持たなかったこと。
「霧之宮さん。貴方は何の為に、ここにいるのですか? そして何を成したいのですか?」
屋根の上から静かに降り立ったマキナも、静かに問いかけた。
つい先ほど傷つけようとしたばかりの相手を直視し辛そうに、祀はマキナを一瞬見た後、地面に視線を落とした。
祀は完全に痛みの引いた右の手をきつく握りしめ、音がするほど奥歯を噛む。
小さな体に、想いは収まり切らない。
「京都にはもう何もない。そんなん分かってる」
呼気を爆ぜさせ、一気に言葉を塊にして吐き出した。
天使に真っ向から攻め込まれ、惨劇が繰り広げられた土地、京都。
人類が多くを失った場所。
学園の生徒たちの血も、多く流れた場所。
守り切れないものがあった、生々しい傷跡の残る場所。
自らの不甲斐無さに悔しい想いを抱えているのは、この場ですら、一人や二人ではない。
悔恨と共に、誰ともなく、息を殺す。
その中で、祀は聞き入れられないのならと噤み続けていた口を戦慄かせ、言葉を続ける。
「せやけど霧之宮家はずうっと京都で永らえて来た」
行く末を見越されて生まれ、そして失い、ここに辿り着いた少年は顔を上げる。
アウルの能力保持者であると物語るような赤い目は、現実を見据えている。
「俺が当主や」
どんなに幼かろうと、言い切るその声に乗る覚悟は、子供のものではない。
「当主として、ここ来る前に京都できちんとせなあかんことがある」
壊されたままで堪るか。殺されましたで済ますものか。
失った分はどうする。取り戻すに決まっている。築き直す。
誰が。自分が。
それが一からだろうと。
まだ自分の手が小さかろうと。
「……俺がここに来るのは、それからや」
●船出
翌日も、快晴だった。
昨日より一本遅い時間の船に、祀は乗った。
これより前の船では、フィナンシェの店が未だ開いていなかったのだ。
海原の先に船が遠のいて行くのを、皆で見送る。
人の大きさも分からなくなった頃、やっと栄が大きく降り続けていた手を下す。
マキナがゆっくりと踵を返す。
真里は交換したばかりの祀の連絡先を、自分の携帯にも登録し終えて仕舞った。
隆道が手の中の紙が潮風に飛ばされないよう、丁寧に持ち直す。
祀の休学届だ。
理由の欄には幼い字で、「帰省のため」と書かれている。
次の一歩を何処に踏み出すか、それは与えられるものではない。
覚悟があるのならば、その道筋を作る手伝いを惜しむ者など誰もいない。
雪見が穏やかに微笑み、葵に行きましょうと促した。
葵はもう一度小さくなっていく船を見た。
それから頷き、皆と並んで歩き始める。
もう一人、その場を音もなく離れた者がいた事は、誰も知らない。