●リプレイ本文
●始まりの日
ここが君の住む場所だ、と言われた。
少年に与えられたのはその中でも特徴のない、ごく一般的な寮だった。部屋は二人用だったが、自分一人で使って良いと言われた。
だから、浅い眠りから目覚めて最初に視界に入ったのは、空っぽのもう一つのベッドだ。
まるで自分のように、空っぽだ。
心細さに、酸素が薄く感じた。
「こんにちは」
言われていた時間に寮の玄関を出ると、そこに一人の女子生徒…にしか見えない伊御 夕菜(
ja7578)が待っていた。その外見から、すっかり女子だと思い込んでしまう。校内の案内なら、自分と同い年くらいの男子生徒が来るのだろうかと勝手に想像していた少年は少し驚いた。
「やあ、こんにちは」
その横からも元気な声がした。くるりとした癖毛の、久遠 栄(
ja2400)だ。
「俺は久遠栄、さかえせんぱーいって呼んでもいいのだよ。ん? 呼び難い? それじゃ、さかえんでいいよ」
先輩だと身構えそうになるが、人懐っこい笑みからも言葉からも彼の性格が伝わってくる。
改めてどんな人たちが案内を引き受けてくれているのかと辺りを見回すと、そこにはあと四人の、学年も違うだろう個性も豊かな生徒たちが集まっていた。
その中に夕菜ともう一人、髪の色が目を引く生徒がいる。影野 恭弥(
ja0018)だ。彼だけはこちらを見てはいるが、特に何か表情を浮かべるでもない。ニットからのぞく銀の髪の色のように静かな雰囲気を纏っていた。
掴みどころのない恭弥に内心で少し気後れしかけたが、そんな空気を一掃したのは梅ヶ枝 寿(
ja2303)だ。
「ハジメマシテー」
前髪に愛らしい花ピンを留め、何の気負いもなく笑顔を向けてくる。
「俺らもさ、今回これがきっかけで初めて会う人が多いんだよ」
そうか。この人たちは依頼で集まったのであって、全員がもともと友人同士な訳ではないのだ。
「もしよかったら、俺らで呼びやすい愛称とかつけちゃっていー?」
名前。思わず新品の制服の裾を、気づかれないように握りしめる。自分には名前がない。
「賛成です」
思わず臆しそうになったが、場を見守っていた神和 雪見(
ja3935)が優しい声音で背を押す。
何か、酷く懐かしい。
「“葵”さん、と呼ばせて頂くのはどうでしょうか」
その流れを受けて永倉 藍里(
ja0451)が物静かな声で提案をした。目端に刻まれた蝶のタトゥ。同じ中等部には思えない大人びた藍里に、眼差しで意図を問いかける。
「…青い目から、水葵を想像したためです」
余所でなら目の青さは奇異かも知れない。けれどここは久遠ヶ原学園だ。藍里の瞳も紫色だった。
「――――ミズアオイ、って、…何、ですか?」
それが少年の、小さな第一声だった。
●水葵
ミズアオイを見てみようと、一行はまず図書館に向かった。恭弥は気づけばいなくなっている。
最初の案内先が図書館で、少年は内心ほっとしていた。友人のいない教室に直ぐに向かう気にはなれない。けれど図書館を知っておけば、今後、一人でいることになっても時間を潰せる。
広大なキャンパスには同じ目的地へ向かうのにも、何パターンものルートがある。雪見の提案で、晴れた日に寛いだら心地良さそうな、見晴らしの良い道を選んで歩くことになった。
雪見自身も人混みはあまり得意ではない。そんな彼女が選んだ道はのどかだ。今日も晴天に恵まれ、太平洋に浮かぶ島は冬を抜け出して穏やかな春の陽射しが降り注いでいる。
やがて辿り着いた図書館では、それぞれの生徒が思い思いに本を選んだり、真剣に勉強をしていたり、窓辺の席で舟を漕いだりしていた。紙をめくる音と、貸し出しから戻って来た本のバーコードを読み取る電子音が、ゆったりとした時間と共に流れている。
図鑑の類は、少し奥まった位置にあった。
藍里は普段から図鑑のコーナーに立ち寄ることが多いのか、そこに迷わず少年を案内する。
藍里が棚から一冊選んで抜き取り開いて見せたのは、植物図鑑だった。
「これが、水葵です…」
開かれたページには、水辺に咲く澄んだ青い花の写真が載っていた。
綺麗な花だ。素直に、そう思う。
「……水葵の花言葉は、“前途洋々”です」
臆病になっている不安な気持ちを、藍里は自分の経験に重ね合わせ見抜いていたかもしれない。
その図鑑には載っていない花言葉を教えてくれる。
少年の未来がそうありますように。
淡々とした言葉の中にも、優しい祈りが込められていた。
「葵さん。私のことはユウって呼んでください」
夕菜が改めて少年に呼びかけ、自己紹介をする。
少年―――葵は、不器用な仕草だったが、僅かな沈黙の後、頷いた。
もう一度、皆の顔をそっと見回す。
…が、また人数が減っていた。
「あ? 久遠先輩どこ行った?」
さかえん、とは呼んであげないらしい。わざと久遠先輩と呼んで楽しんでいた寿が栄の姿を探す。
「久遠先輩、あちらに…」
栄を見つけた藍里が、すっと図書館の壁一面に貼られたガラスの向こうを指さす。それに合わせてブレスレットの蝶が舞うように小さく揺れる。
そこは藍里もお気に入りの場所。一人で寛げる静かな場所。
緑に囲まれた陽だまりの中にあるベンチ。
実に気持ち良さそうに眠っている栄の顔に、思わず葵の眼元がほころんだ。
●片鱗
図書館を出てゆったりと歩きながら、雪見が学園や、図書館の感想をそっと尋ねる。
「……その…、色んな場所があるんだなと…、思いました」
うまく言えない。そのままのことしか言えない。もどかしい。
そんな葵を、雪見は急かさない。一つ一つに相槌を打ち、優しく微笑む。
不意に、春の風が二人の黒髪を揺らした。
「春は、風が強いですね」
――そしてさり気無く、黒髪をもてあそぶ風から逃れるような自然さで、葵の左から右側へと歩く側を変える。
近くのベンチで、講義の合間の休憩か、大学部らしい学生が煙草に火をつけるところだった。
雪見は依頼を受けてから葵に会うまでに、事前に葵が記憶を失った事件について調べていた。
資料にあった、燃え尽きかつてバスだった鉄塊の写真は、炎の強さを物語っていた。
雪見は葵を襲った火を、炎を、春のような柔らかな思いやりで遠ざける。
そのさり気無い優しさに守られている間、葵は一生懸命に新しく覚えたばかりのことを振り返り、その感想を少しでも雪見に伝えようと言葉を探していた。
「ええと…、あと、ここには、色んな人がいるんだなと思ったよ、姉さん」
皆、思わず目を瞬かせた。垣間見えたのは、きっと彼が失ったもの。
しかし誰も直ぐにそれを追及するようなことはしなかった。
心が休まる安らぐ場所を得れば、少しずつ、一つずつでも、彼は歩んでいけるはず。
無意識に姉と呼んだことに気づいていない様子の葵に、雪見は変わらぬ穏やかな声で訪ねる。
「次は、どこへ行きたいですか?」
興味のある場所へ連れて行ってあげよう。
桜の花びらを乗せた、春風と一緒に。
●ヒラリ
学園での居場所も見つけた後、ひと眠りもして本調子の栄が、学園の外へ行ってみようと提案した。寿と夕菜も興味津々の様子で着いて行くと手を挙げる。
栄の先導で文房具屋や生活雑貨を扱う店、コンビニなど、生活に必要になりそうな店を覗いてまわった。
すると何処からともなくいい匂いが漂ってきて、自然と歩みが止まる。
中華料理店だ。店頭で肉まんを蒸かしている。
「ここの肉まんは旨いから誘惑に負けないように気をつけるんだぜ」
栄もはまっているらしい。食欲をそそる匂いに唾を飲み込む音がする。葵は自分の音かと思ったが、隣を見ると寿と夕菜も唾を飲んでいた。特に寿は真剣な顔で食欲と戦っている。
「飢えこそが、何よりの必勝法だ」
自分自身に言い聞かせている寿の独り言の意味は分からないが、気迫だけは伝わってくる。
すると寿は携帯電話を取り出し、時刻を確認した。ますます顔に真剣な色がさす。
「どーりで腹が減るわけだぜ……、…戦いの時が、来た」
時刻は間もなく昼休み。寿の闘志の揺らめく呟きに、察したらしい栄の眼差しも変わる。
「なんの、時間ですか…?」
顔色を変えた二人に聞きづらかった葵は、小声で夕菜に訪ねてみる。
「この学園には、お昼になると―――」
夕菜が説明しようと口を開くと同時、寿がおもむろに屈伸し始め、そして鬨の声を上げた。
「アオー!!俺の究極奥義・購買部必勝法、伝授だー!」
一方で栄が悪戯っ子のように葵の制服の袖を摘まんでチョイチョイと引っ張る。
「近道も覚えないとなっ」
そして笑みかけると同時に、駆けだした。え、と反応するより早く、他の二人も駆けだす。
「久遠先輩…、」
不安げにその背中に呼びかけると、「さかえんでいいって!」と明るい返事が返ってくる。
葵を振り返り、こっちこっち、と手招きをする栄。
置いて行かれたら迷子になる。
それ以上に、色んな意味で迷子のような葵を、ぐいぐいと引っ張ってくれるような先輩たち。
自然と、葵の足も走り出した。
栄の先導で路地に入り込む。最短距離を狙うだけあり、細かく路地を切り込んで行く。
路地を抜けると水音が聞こえた。川だ。しかも川幅は3mはあるだろう。
道はそこで途切れてしまっており、引き返すしかない――常人ならばそう思うところだが、なんせ撃退士だ。
「よし、ここは軽く飛び越えちゃおうぜっ。大丈夫大丈夫、俺が先にやってみせるからさ」
栄は軽い助走だけでヒラリと川を飛び越えた。
葵が撃退士の身体能力を目の当たりにして思わず目を見張…った直後、勢い余った栄は着地というより向こう側にごろごろと転がって行く。
「さ、さかえん!」
ヒラリ。
気づけば大慌てで栄を呼び、夢中で葵も川を飛び越えていた。
栄は転がったまま、葵を見上げる。
「……こほん、コレは悪い例だ」
取り繕う咳払いに、ホッとすると共に皆からどっと笑いが起きる。
「よっしゃ、行こうぜ! 待ってろ、俺の焼きそばパンー!!」
寿が栄の腕を引っ張り上げて立たせると、全員、再び駆けだした。
●しるべ
ほんの数秒の差だった。刹那、と呼べるほどに、僅差だった。
葵がコロッケパンを手にした直後、怒涛の如く生徒たちが購買部に雪崩れ込んで来て、あっという間に陳列棚の中身は一つ残らず無くなった。目的の焼きそばパンを手に勝者の笑みを浮かべる寿の横で、何人もの生徒が悔し涙を流す。栄もこっそりと今回の必勝ルートをメモしている。
この時期なら、屋上から桜が見えるかも知れない。
手に入れた戦利品を食べるのは花見がてら屋上にしようと直ぐに決まり、夕菜が一度は分かれたメンバーにも誘いのメールを送る。
川まで飛び越えた全力疾走の後の空腹感を覚えながら、屋上に向かう階段を一段ずつ上る。
今朝まで、こんな昼休みを過ごすことになるとは思っていなかった。
風に圧され重みの増した鉄の扉を、肩で押して開く。
ずっと別行動だった恭弥は既にそこに居て、屋上のフェンス越しに下を眺めていた。
「おー! すげー!」
「満開だなっ」
葵は恭弥の纏う空気に一瞬怯んでしまうが、寿と栄は直ぐにフェンスに駆け寄り、歓声を上げる。傍らの夕菜にも笑顔で促され、葵は遠慮がちにフェンスの方へと歩み、恭弥の隣に並んでみる。
眼下は、まさしく絶景だった。
学園のあちこちで桜が満開を迎えている。思わずフェンスに指を絡ませ、身を乗り出す。
そんな葵に、カラリ、と咥内で棒つきのキャンディを転がす恭弥が視線を流す。
「ジョブは何を選ぶんだ?」
不意の問いかけに、葵は桜から視線を上げ、恭弥を見た。
カシャン、と握ったフェンスが不安を物語るように音を立てる。
「インフィルトレイターなら俺も実戦経験をそこそこ積んでいる。色々教えてやれることもあるだろう」
実戦。その言葉から、身元確認の間に何度も繰り返し聞いた単語を思い出した。自分は既に遭遇している筈の、ディアボロ、や、サーバントと呼ばれるもの…、実感が湧かないが、そういう存在と戦う者を育てる学園。
「もしもやりたいことがあるのなら、それに適したジョブをオススメするけどな」
やりたいこと。
思わず、更に強くフェンスを強く握りしめる。
自分の居場所も分からないのに、やりたいことなんて―――。
その軋む金属音を聞きながらも気にする様子はなく、恭弥は更に言葉を続けた。
「例えば仲間を守りたいならディバインナイト、けが人を助けたいならアストラルヴァンガード、みたいにな」
「仲間を、守る―――……」
思わず言葉をなぞる。妙に胸の中がざわついた。
仲間を守る。
そんな葵の様子すらも、恭弥は冷静に見守っている。
自分には何もない。
思い出もない。
親の顔も分からない。
そもそも親がいるかも分からない。
何もない。
自分すら、いないような感覚。
ましてこの手で守るものなんて、何も。
「桜が本当に綺麗。ここでお昼を食べるのは気持ち良さそうですね」
そこに屋上に辿り着いた雪見の柔らかな声がした。藍里も物静かにその傍らに佇んでいる。
少しずつ、一つずつでも、安らげる場所が出来ますように。
これからの前途が、洋々としたものでありますように。
そう願いを込めた二人も、桜の見えるベンチを選んで昼食を広げる。
葵はその光景を見つめ、細く細く息を吐き出す。
縋るように握りしめていたフェンスから、指をゆっくりと退く。
もう一度、恭弥を見る。
「考えて、みます」
恭弥はやはり、抑揚のない声で「そうか」とだけ答えた。
屋上の鉄の扉を開けた時よりも、葵の中で何かが動き出していた。
●mizuaoi
「葵君、明日の放課後も、少し出かけませんか?」
門限に合わせ寮まで送り届けてくれた夕菜が、別れ際に遊びに誘う。
今日一日、走って、笑って、桜を見て、幻といわれる購買部のパンを食べた。
夕菜の口調は、依頼として案内をするというより、友達として誘ってくれるものだった。
寮の入り口の前で立ち止まり、葵は僅か俯く。
逡巡した後、深い深呼吸を、一回、二回。
顔を上げ、夕菜の顔を見た。
「―――携帯を、買いたい。」
夕菜が昼食を食べようと皆にメールを送っている姿を、葵は覚えていた。
学園側から身元が分かった時の連絡手段として、やがては撃退士としても必要だと言われていた。
自分には必要ないものだと思い、断ったけれど。
「……ユウ、アドレスを、教えてくれるかな。…その……、良ければ、みんな、のも。」
短いメールが皆へと届いたのは翌日のこと。
『これから、宜しくおねがいします』
mizuaoiというメールアドレスからだった。