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「うわ、この位置で暑い‥‥。やだなぁ〜」
じりじりと灼ける地面と、河川を吹き抜ける、じっとりと湿度の高い風。
河の両岸すら蜃気楼に揺れる光景に、雨野 挫斬(
ja0919)は項垂れた。
「折角川辺なんだからバーベキューの用意をしてくればよかったかも? ライオン肉ってどうなんだろうなぁ〜」
「あれディアボロですからダメですよ。というか、その前に僕達が食べられない事を考えないと」
中洲の北端から様子を伺う鈴代 征治(
ja1305)は、きっぱりと言い放った。
それもそうか、と悪びれる様子もなく、挫斬は河に石で囲いを作って持参したビールを浸す。
「‥‥肉は無理そうだけど。ま、戦闘後のお楽しみってね」
にまりと嬉しそうに微笑むと、阻霊符で顔を扇ぎながら中洲へと足を向けた。
時は晩夏。
盆を過ぎて徐々に気温は下がってきたものの、未だ連日真夏日を記録する鳥取市。
市内を滔々と流れる一級河川・千代川に現れたディアボロは、この暑さを冗長するかの如き風体であった。
「アレに近づくとか考えたくないですねー‥‥今回僕はボロボロでも最後まで立ってる事を目標にしますよ」
言って、ため息を零す袋井 雅人(
jb1469)。
視線の先には鬣と尾が紅緋と燃ゆる、勇壮な雄獅子が威風堂々と佇んでいる。
その丈10m。夕映えの雲の様に鮮やかな体毛と、その下に潜む強靭な体躯が遠目からでも見て取れた。
「ああ、凶暴そうやね。でも‥‥今回の駒も美しい」
原始的な野生の美しさは、時に人の心を芯から震わせる。
亀山 淳紅(
ja2261)は食い入る様にその姿を眺め、愛おしそうに呟いた。
それが討伐すべき敵であっても。淳紅にとって、今この瞬間を愛でる事を躊躇う理由にはならなくて。
早く愛でて、そして、壊したい。
と、その時。突き抜ける程に澄んだ青空に響く雄叫びと、銃声。
右前肢に広がる酸の泡沫を捉え、柘榴色の瞳が見開いた。
どちらの音が先であっただろうか――。
今となっては、考えても無駄な事であった。
●
『グゥアウウウゥッ‥‥!』
河と共に穏やかに流れていた時間が、加速する。
東側の岸から回りこんでいた影野 恭弥(
ja0018)が開幕の砲火を放ったのだ。
しかし、それは打ち合わされたものではない。否、そもそも開始の合図を決めてすらいなくて。
唯一恭弥の動きに気づいたのは、スマフォで各メンバー連絡を取り合おうとした雁鉄 静寂(
jb3365)ただ1人だった。
「まだ早いです‥‥!」
中洲北部から踊る様に飛び出す静寂。獅子王は自らを傷つけた恭弥をぎらりと睨める。
刹那の決断。静寂は愛用のPDWを油断なく構え、照星をレオの顔面へ。
少しでも気を引いて、前衛と自分のいる北を向かせたままにしなければ――。
ばららら、と音が弾ける。己を護る武器の名を冠した銃が、獣の王にアウルの銃弾を打ち付けた。
「貴方はこちらだけを向いていて下さ――きゃあっ」
「おっとぉ! も〜、吃驚するじゃない!」
瞬間。視界いっぱいに飛び込む焔の散弾。
静寂の斉射で北を向いた獅子が肢で大きく地面を抉ると、焔に包んでその礫を弾き飛ばしたのだ。
受け身を取れずに地面に転がる静寂。その後方では挫斬が首の皮一枚で避けたらしく、焔が掠った肩の煤を払った。
「おおう!? まだ準備が‥‥!」
その獅子を挟んで後方、南中洲の更に南側。
河の流れの中、尾側から忍び寄っていたフラッペ・ブルーハワイ(
ja0022)とマキナ・ベルヴェルク(
ja0067)は、突如動き出したそれを見て鈍く歯噛みした。包囲位置につく前に、戦闘が始まってしまったのだ。
まだ距離が遠い――。
フラッペが左手で帽子を押さえ脚に白藍の光風を纏わせると、水飛沫が水晶の様に煌き、軌跡を描いて体が疾った。
神速で打ち出されたのライフル弾がレオの臀部へ着弾すると同時、モノクロの光刃が巨体の後左肢に突き刺さる。
「さぁ! 舞台の始まりや。誇り高きアスクレピアスと悲劇の少女に、獣の王者の最期の雄叫び《アリア》を――」
言って、黒橡の髪をしとどに濡らした淳紅は静かに音を紡ぎだした。
戦もひとつの舞台なれば、旋律で彩るのは自分の役目であると言わんばかりに。
「あぁもうっ! 近づくと余計暑いのよ!」
「ほらほら猫ちゃん、余所見はダメですよ。おいで、撫でてあげるよ」
奏でる旋律に差し込む風切の音。体重を載せた征治のルーメンスピアが鋭くレオの顔面を突き上げた。寸での所で頭を捻った獅子の頬が裂け、伽羅色の体毛が微かに黎く変色する。
間髪入れず、中空を二分する様に銀糸が張る。チタンワイヤーだ。それはレオの強靭な右前肢を絡めとり、ワイヤーの先は挫斬の手に握られてギリリと張り詰めた。
「捕まえたぁ! さてどんな風に解体してあげよっかな〜?」
彼女にとってそれは最高の欲求だ。極上の獲物を得て、黒曜石の瞳が大きく瞬く。
「解体するほどの肉が残ればいいがな」
羽の如し銃身を再度構え、酸に侵された右前肢を狙う恭弥。丁度挫斬がワイヤーで固定している事により、彼にとってそれを狙うのは至極容易で。爛れた肢を、乾いた音が穿つ――。
「これで少しは攻撃を避けられると思いますよ」
「おおきに♪ 行ってくるわ!」
雅人は優しく笑むと黒い靄で赤の歌術師を包み込み、そしてレオの後方へと駆け出すその背を見送った。
小柄なはずの淳紅の背が頼もしく、大きく感じて。雅人は自らの力量と役目を冷静に確認していた。
(僕が倒れても皆さんが強いからきっと大丈夫――だから僕の仕事は、体を張ってでも皆さんを戦闘不能にさせない事)
覚悟は、決まった。
●
獅子王を中心に、正面北には槍を構える征治と、ワイヤーで肢を絡めとった挫斬。少し後方に静寂が居て。
左側面西側には雅人と、側面をなめる様に背面へと駆ける淳紅。
右側面東側は正面寄りに恭弥――そして。
ドン、という低い破裂音。それらがマズルファイアと共に2度、3度と響き渡る。
マキナがレオの背後から放った散弾銃だった。痛みに体を震わせ、獅子が啼く。
尾椎の付け根に点々とついた赤黒い灼け痕に、黒焔を纏う少女は内心で安堵した。この巨躯が張子の虎とは思えず、苦肉の策で選んだ銃撃だったがどうやら大丈夫そうだ。
(後は、この尾が無くなれば接近は容易――)
焔を灯し振り回される長い尾は包囲作戦において大きな危険因子。攻防一体の尾を落とせば後は単体への強打か、先ほどに見たモーションの読み易い散弾攻撃だ。どうやらブレスの類もない。
フラッペもまた尾の排除が最優先と見、マキナに続いて尾椎の根へとスナイピングを続けた。
しかし、敵の『鎧』は本当に尾だけなのか?
その疑問は、仲間の身をもって解明される事となる。
繰り出された左前肢の攻撃。それを征治が楯で受け止め、その瞬間をついて静寂が鉄鎖と錘の簡易ボーラで左前肢を拘束したのだが、右前肢を締めげる挫斬と、同じく左肢を絡めとった静寂の掌がじわじわと熱に冒されていたのだ。
「熱‥‥い、です‥‥!」
それでも隙を作り出す事に成功している以上、手は離さずに力を込め、冥府の風で眠れる無尽光を呼び覚ます静寂。
チタンや鉄が熱を帯びている。だが絡めとったのは焔のない肢。では、何の熱だ?
「そうやろなぁ、力だけの駒なんてあいつが作るわけあらへん!」
根拠のない確信。一つ叫ぶと、淳紅はバケツで河の水を組み上げ、マキナがつけた銃痕目掛けてぶちまけた。
数える程の時間があっただろうか。しゅううう、と激しい音と共に辺りに立ち込める水蒸気。
重量級の前肢をようやく払い、征治は先程レオの頬を切り裂いた槍を見つめる。
「水が即蒸発するほど高温の体‥‥武器の刃に影響する可能性がありますね」
「――攻撃する程、なまくらになるっていうことですか?」
夜霧の護りを征治に与えながら、雅人は驚愕して呟いた。
戦場を支配するは、ただただ満ちる熱の渦――。
レオから放たれる焔や熱に留まらず、熱風、熱波、茹だる夏の日差しや放射熱。
――この熱には、覚えがあった。
恭弥は走って乱れた息を整えながら戦場を眺めた。各々の動きが重いのは、疲労だけではない。
(同じ轍は踏まねえ)
熱が支配する戦場で水分補給を怠り、倒れた事。恭弥はその経験を苦い気持ちで思い起こす。
かつて自分を助けた淳紅もまた、この戦いに於いても水を被る予防策を講じていた。
用意したコーラの半分程を一気に飲み下して水分補給をすると
「っち‥‥ぬるくなってやがる」
缶を足元に残し、再びエンゼレイターを手に取り駈け出した。
熱による戦の支配。
忍び寄るもう一つの敵に気づいていたのは、彼らだけであった。
●
それから何度と無く飛び交うは刃と火薬の喧騒。咆哮、轟音。
幾度、無尽光の種火を撃ち込んだだろうか。
フラッペとマキナの尾椎への集中砲火が漸く実を結ぼうとしている。尾はぎこちなく垂れ、力強さは最早感じられない。
幾度、剛毅な四肢の攻撃と肉薄しただろうか。
槍をなまくらにしながらも、灼ける鎖糸に掌を焼かれながらも、献身的に注意を引き続けた前衛達。
彼らの負傷を軽減すべく獅子の機動力を削ぎ、弱体化させた恭弥。時に自らを盾に、征治や静寂を護った雅人――。
予期せぬ形で火蓋が切られた戦であったが、然しもの手練が揃った戦場。
初手の遅れを挽回し攻勢が覆るのに、そう長い時間はかからなかった。
「Watch out! ――石礫なのだ!」
フラッペが叫ぶとほぼ同時、焔を纏った礫をぶち撒けるレオ。
視界を覆う礫に一瞬の油断。征治が槍を引いて盾を構え、挫斬は張り詰めた糸を弛め身を翻す、ひと瞬きの間。
獰猛な雄獅子は酸で爛れた四肢を叱咤し、空を目指し地を蹴った。ただでさえ撃退士を大きく上回る体格だ。当然の様に前衛ラインを越えて北側へと跳躍する、はずだった。
「そっちには行かせません!」
雅人が喚び出した逆十字がレオの首を強かに打ち、淳紅の歌が紅い五線譜陣と共に放たれる。激しい風を孕んだ歌が巨体を捉えると、体勢を崩した獅子は為す術もなく地へと倒れこんだ。
目を回したのか、覚束ない足取りで立ち上がる獣。またとない好機――!
「アハハ、炎には炎ってね! さぁ本気で解体してあげる!」
「その脚、全部貰った!」
金赤色の焔剣を全力で振るう挫斬に合わせ、征治が巨体の下へと滑り込んで円を描くようにハルバードを薙いだ。
それでもまだ、動き出した殺意は留まる事はなくて。恭弥の黒弾が前肢の関節を砕いて再び体勢を崩させると、静寂は鎖を手繰りながら跳躍し、接射でPDWの銃口を開放する。
間断なく響く銃声。そして。
「火は風を喰らう? ‥‥ボクの風はそんな半端じゃない――これが風《ボク》の、切り札なのだッ!」
獅子王の背後で、紫風の渦が空を染めた。
『ガアアァァアアアァアッッ!!』
フラッペが振るった巨大な戦斧が、ついに獅子王の尾を斬り飛ばした。怒轟に等しい咆哮が河面を揺らす。
切断面から立ち込める血蒸気。それを突き抜ける様に尾てい部へ飛び込んだマキナが偽神の黒腕を掲げた。
ぞぶり。
背後から襲うあまりの痛みに身を翻した獅子王の牙がマキナの腹に沈む。
漆黒の軍服から血が溢れ滴り、兇牙を赤く染めていった。だが見開かれた黄金の獣眼はまだ色を失ってはいない。
傷付く事は厭わない、目的を果たせるのならば。元より自分は災禍の中に生きる身――。
「戦‥‥場に、終焉を。それ、が、我が‥‥求道‥なれば‥‥っ」
獅子王が最後に見たものは、再び激しく燃え上がった、終焉を呼ぶ黒の焔であった。
●
「動かないで下さいね‥‥あまり効かないかもしれませんけど」
雅人は意識が混濁したマキナにそう告げてから、深く安らかな影で華奢な体を包み込んで止血を施す。
――彼女の決死の一撃は、勝利を手繰る大きな要因となった。
超至近から繰り出された焔は獅子の瞳を貫き、あとは視界を失った獣を全員が最大火力で屠るだけだった。
中洲に横たわるマキナの傍ら、自分の傷を癒やしながら彼女の傷を眺める征治。
こうなるのは自分だったかもしれない、と僅かに身震いしながら。
『Brava!』
ぱん、ぱん。何処からか鳴る手拍子。
そしてこの声。いつも通りだ、と淳紅はにこりと微笑んだ。まるで、友人にするそれの様に。
「やぁ、久しぶりやね♪ オフュークス」
『ええ、ええ。いつもお越し頂き僥倖の極みですよ、紅の歌士。そして、黒銀の焔に、白の射手』
「そりゃどーも。別に覚えて貰わなくてもいいけど」
悪魔の愉しそうな声に、恭弥は軽く溜息を漏らす。そういえば、もう3度目になるんだったか。
『その獅子には随分力を与えたのですが――まさか、まさか、力でねじ伏せられるとは思いませんでした』
「自分、ほんまあんたの作るもんは大好きやわ」
『私も、回を増す毎に鋭さを増すその愛と殺意には敬意を表しますとも。ねぇ、エピオネ?』
くつくつと笑いを漏らしながら、主と共に傍らで観ていたのだろうヴァニタスの少女に声をかけるオフュークス。
その名を耳にした瞬間、中洲に座り込んでいたフラッペが弾かれる様に立ち上がった。
「ミナっ‥‥! キミの本当の望み、は」
がくっ、と膝から崩折れるフラッペ。視界がぐらりとして、頭が鐘を叩く様に痛い。
『ふふ、熱にやられたようですね。お気をつけなさい、人は酷く繊細な生き物ですから。――そう、《珠那》もね』
淳紅に促されて手持ちのコーラを一口、乾いた喉に流し込むと、甘く爽やかな泡が口の中を満たした。
『彼女もまた酷く繊細だから――だから、願ったのですよ《珠那》であった事を忘れたい‥‥とね』
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「あ〜もう駄目、耐えられない! 暑い〜! ていうか熱い!」
「入らなくても丁度雨が降ってきましたよ。おや、狐の嫁入りですね」
征治の冷静な声を他所に、盛大に音を立てて河に飛び込む挫斬。
「本当ですね。でも、街に被害がなくてよかったです」
静寂はその横で、掌を河水に浸してほっと一息をついた。
簡易ボーラを握り続けたせいで赤く焼き付いた痕。自分に出来る事をやり遂げた痕だ。
特に気がかりだった橋への被害もなく、静寂は達成感を噛み締めた。
「アハ、生き返る〜。皆も入らない? あ、そうだビールビール!」
戦闘前に河に浸しておいたそれを回収し呷る――が、レオの高熱で水温が上がった河ではろくに冷える事もなく。
項垂れる挫斬を征治と雅人が笑って励まし、恭弥もぬるまったコーラの残りを一人味わった。
勝利の美酒には程遠いけれど。だが、悪くない。
「今回も素敵な舞台やったね。死せる獅子王とその主に敬意と――次も楽しみにしとるよ」
言って、徐々に冷たくなる死骸をひと撫でする淳紅。殺しあったとは思えない程、その瞳は慈愛に満ちている。
その隣に座るフラッペは帽子を深く押さえ、滲む涙を隠した。
――『だから、願ったのですよ《珠那》であった事を忘れたいと』
「ねぇミナ。キミの記憶は、キミを苦しめるだけの、悲しいものなのかい――?」
囁くオフュークスの言葉。あの日救えなかった2人の想いが、淀んだ風となって心から消えなくて。
さっきまで甘かったコーラは、どことなく苦く、塩っぱい。
(沙苗さん‥‥やはり貴女は彼女に会うべきではない‥‥)
最早沙苗に何かを伝える資格などない。だけどこれは――珠那の最後の願いだと思うから。
傷の痛みなど些細に感じる程の慙愧の念。自らの深淵に横たわる罪業を握りしめ、独り、呟くマキナ。
彼女達の想いにも穏やかな『終焉』が訪れん事を願って、彼女達は空を仰ぐ。
夏の空はどこまでも蒼く高く、雲一つない天泣の雫が傷ついた体を優しく伝っていった。