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香川県観音寺市、琴弾公園。
例年より一足早く花を咲かせた桜の名所に、瀬戸内を巡った潮風がゆるりと流れる。
多くの人々の目を楽しませるはずだった桜の木々は、支配領域に包まれたまま花時を過ぎ、既に鮮やかな若緑。
時間は決して止まらない。そして、戻らない。
だが。
ヴァニタス・エピオネのゲートはそんな当たり前の変化を否定する、美しくも歪んだ世界だった。
「すごく綺麗‥‥これは日本庭園ですか? 広いですね」
終わらない夜の中、灯籠や花篝に薄桜が白く照らされて。
小川の流れる花筏が紅緋の桟橋をくぐり、点々と設けられた野点傘には零れ桜が身を寄せ合う。
まるで戦場とは思えない静謐とした空気に柊 朔哉(
ja2302)は思わず吐息を漏らした。
「おおう!? これはケンウッドの桜に負けるとも劣らない‥‥!」
「悪魔が桜、ね。‥‥面倒な事この上ない」
桜の森に圧倒されつつ辺りの地形を探るフラッペ・ブルーハワイ(
ja0022)に機嶋 結(
ja0725)が呟く。
まるで人間の様に桜で心慰める悪魔。情が見えれば鋒は鈍る。拳は揺らぐ。ありもしない『奇跡』という幻を視る。
それは戦に於いて、致命的な事だ。
建物もないゲートは空虚な心。雲の様に乱立する桜は茫とした思考。
彼女の事情には憐れみすら感じるだろう。悲劇の篇首を紡いだ『撃退士』なら尚の事。
だが、とイシュタル(
jb2619)は静かに瞼を下ろす。
(事情はどうあれ、無意味に人界を荒らす悪しき存在である事に変わりはない‥‥)
戦は不可避。そしてどんな理由にせよ、エピオネの行動が人界に害を齎す事に疑う余地はない。
覚悟を込めて白銀の槍を握りしめ、そっと仲間達を見回す。
ここに来るまで話しあう時間はあった。多少の意見も出しあった。でも。
ヴァニタスとなった彼女にどう問いかけ、どう想いを晴らすのか、結局方向性は纏まらないままだ。
これで大丈夫なのか。描く結末は、その過程は、違えてはないのか。
(まぁ彼女がどう思おうと関係ない‥‥なんて思ってる私が言えた事でもないわね)
人事を尽くさなかったのは、自分も同じ。自嘲する様に少し視線を落とした。
(できる事なら――悔いなきよう、ね)
賽は既に投げられたのだから。
「さくら、さくら、弥生の空は見渡す限り――」
「見渡す限り‥‥青い光、なのだ」
と、フラッペは亀山 淳紅(
ja2261)の歌を遮った。
白く咲き誇る桜の木々の間に、はたまた舞う花弁と共にふわふわと。仄青く燐光を放つ小さな妖精、ブルーフェアリー。
「‥‥オイ、何か聞こえるぞ」
不意にゼオン(
jb5344)が口を開いた。耳を欹て、微かに聞こえる何かを捉えようとする。
♪‥‥♪・♪
歌だ。
それも一つではない。
♪‥‥♪・♪
♪‥‥♪・♪
ひとつ紡いで、ふたつつられて、みっつ謳えば。
「‥‥? なん、――!?」
気のせいか、と一瞬思い――だが、錯覚ではない。
突如足が鉛の様に重くなるのを感じ、大きく頭を振るゼオン。なんとか四肢の感覚を取り戻し、そして前を睨めつける。
――めんどくせェ。が‥‥。
「驀進は愚策、の様ですね」
ゼオンの心を代弁するようにマキナ・ベルヴェルク(
ja0067)が呟き、結は強欲の象徴たるペンダントを指でなぞる。
聴覚から神経に、体の動きに影響が出るとしたら、そう無視できるリスクではない。
かといって――見渡す限りというのは誇張でもなく。つまり、敵の数が多い。
仕方が無い、と言わんばかりに朔哉の溜息。
「ただでさえ一人少ない所ですけど‥‥全て相手はしてられないですね」
狙いはコアひとつ。
一同は二手に分かれて蒼燐の庭へと走りだした。
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その頃、ゲートの外には3つの人影が佇んでいた。
中津 謳華(
ja4212)と、彼の援護を行うカーディス=キャットフィールド(
ja7927)。そして、
「何で私を連れてきたの?」
ゲートと、目を閉じたままの謳華を交互に睨む沙苗。
あの光の先は異界の狭間。無尽光なき自分は一歩たりとも踏み入る事はできない壁。
それを知っていてなお、謳華は沙苗を此処へと連れ出した。
「お前と珠那を会わせる為だ」
静かに、重々しく口を開く。
いずれ訪れるであろう‥‥否、自らが導くであろう結末の重さを心に描きながら。
「‥‥それで何が変わるっていうの」
「何も変わらん。‥‥変わるとすれば、心の有り様か。せめて人間の心で――珠那の苦しみを絶ってやりたいからな」
その言葉に。弾かれた様に動いた。
「沙苗さん!」
謳華の拳法着の襟元を掴んで身を乗り出す沙苗。カーディスは咄嗟に沙苗の体を引き剥がし、2人を見守った。
儚い期待と認めたくない絶望。『もしかしたら』と『そんなはずない』が頭の中で交差して。
ああ、頭が痛い。胸が苦しい。
『苦しみを断つ』――それの意図するところは。
「どっちなのよ、それは‥‥ッ、あの子を救う方法があるの? それとも、‥‥!」
その先は言えない。言いたくない。
知っていても、理解してても。
「ゲートの破壊が済んだ後、俺が彼女の『死した生』を終わらせる――ヴァニタスとしてでなく、人間としてな」
彼女を殺す、なんてことは。
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‥‥♪ ♪♪♪・♪――
♪― ♪♪‥‥
「あーうざってぇ! どんだけ居んだこの羽虫ども」
合唱の渦を切り裂く様に、次々と清浄の矢を撃ち放つゼオン。
四方八方をやんわり取り囲む様に飛来しては歌声を響かせる妖精達を、フラッペは懸命にそれらを撃墜していく。だがひ弱な敵とはいえ、疾さを信条とするフラッペにとって距離も取れず先手の優位性も薄い多数戦は相性の悪い戦いで。
あちこちから響く歌が体を重く沈ませる。なんて忌々しい。
「殲滅が追いつかないのだ‥‥!」
「一点突破で進みましょう、コアさえ壊せばきっと――」
朔哉の言葉を遮る様に舌打ち一つ。ゼオンは腕に纏った黒い無尽光を放ち、蒼い光の集団に風穴を開ける。
ちらり、蒼い肌の悪魔を見やる朔哉。
あまり話してはくれないけど、ちゃんと通じてるんだな。と、少し安心しながら。
「‥‥行きましょう!」
長身のその身より更に巨大な黄百合の刃を閃かせ、勇壮な聖女は2人の前を駆け抜けていった。
ばしゃん。ばしゃん。
一つ音が増える毎に川面の桜に黎い波紋が広がっていく。
イシュタルに、マキナに、切り捨てられた小さな体が、そこら中に血溜まりを作っていた。
言葉少なに刃を繰る仲間の中、ただ一人、水を得た魚の様に謳う淳紅。
「ほらほら、もっと歌おうや! 気ぃぬくと主役、とってまうで――Ombra felice‥‥Io ti lascio!」
書の頁を捲り五線譜を読み上げては、紅い旋律が放たれて。旋律は小さな妖精の喉を灼き、翅を焦がす。
それはただの無尽光の形で、そして、ただ音楽好きの少年が歌っているだけなのだが。
「あれから歌は‥‥特に影響ありませんね?」
幸いにも、図らずも、淳紅の歌で妖歌が聞き取り難くなり、その効力は幾分和らいでいた。
「障害がないに越した事はないですよ‥‥足を止める暇なんてありませんから」
強欲の炎でまた一つ小さな躰が焼け落ち、それを一瞥してから結は隣を進むマキナに目をやる。
――そう。彼女が止まる事なんてない。
1年半、彼女が戦鬼なる様を近くで見てきた。だから知っている。求める道の為、立ち止まらず、振り返らない。
頑なな信念。だからこそ――時に危うくて。
(無茶、しないといいんですけど)
内心、心配を募らせて溜息。それから、視線を戻すと。
「♪――、♪・♪♪‥‥‥あれ」
「‥‥真崎、さん」
マキナの声を運ぶ様に、ひとひら、舞った花弁が水面に小さな波を落とす。
白蛇が這う金飾の坏を手に、エピオネはゆっくりと体を起こした。
その背後に揺れる篝火の中、きらきらと輝くコアと――周囲に浮游する、剥き出しの『魂』。
『ようこそ、なんて‥‥歓迎できる場所じゃないわね』
泣き疲れて窶れた頬をふっと緩ませ、聖衣の裾に積もった花弁を払い立ち上がる。と同時に、地表から紫苑の嚆矢が四条、エピオネを囲む様に浮かび上がった。
『さぁ、始めましょう――そして、願わくば終わらせて。この滑稽な人生を』
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まるで無風だった庭園に、風が吹いた。
月のない宵空に逆流していく桜の欠片。はらはら、はらはら、雨の様に散る薄紅の中でブルーフェアリーが刃を向ける。
「チッ‥‥こいつが例のモドキか。自我か暴走かしらねえが、潰せるうちに潰すぞ!」
夜闇を編んだ様な漆黒の鋼糸で、近接攻撃を交ぜ始めた妖精を絡め取るゼオン。エピオネまで、まだ相当数のブルーフェアリーが層を作っていて。掃除しながらヴァニタスを相手にし、なおかつコアを破壊――となると、かなりの長期戦。
「個人的には賛成ですが‥‥まずはコア破壊を優先すべきかと」
「ボクに任せて! 最速で撃ち落としてみせるのだ」
言うと、エピオネ発見の報せで駆けつけたフラッペと共に、結はエピオネの死角に入る様にその場を離れた。
更に後方から朔哉とゼオンが追いついて、漸く5人。
士気や能力が低くても相手はヴァニタス。ゲートの吸魂作用で思うままに体は動かない。それでも。
「道を拓くわ、行って」
短く告げて精神統一するイシュタルと、再び歌い出す淳紅。
歌精達は禁錮の呪に囚われ、片や深い霧と安らかな子守唄に意識を手放していく。
「美しいだけの歌声じゃくらっとけーへんやろ? なぁ、これが一番歌を愛してる人間の歌やで?」
にやりと口端を歪めて淳紅は嗤う。絶対に勝つんだ。戦いも、歌も。
一足、地を蹴って桜の空へ飛び上がる黒腕の娘。そして花弁の雨を割いて地を駆ける白百合の娘。
「柊 朔哉だ。エピオネ、此処が貴方の城でも――負けられない!」
「甦る死者など、醜いだけです」
黒い焔鎖が『エピオネ』を縛り、朔哉の斧刃が無防備な脚を薙ぐ。
焔に灯した慚愧の想い――贖いで過ちが償えるなど詭弁。
己の罪は宥免されざるべきものと知っている。故に、羞恥こそすれ罪の結果を否定してはならない。
この腕で、殺したのだ。
真崎珠那はもう、人ではない。
「貴女は私が終焉らせた存在。それが私の罪。だからこそ、私は貴女に再び刃を向ける‥‥!」
『私の生命も‥‥罪をも糧に進むのね。私にもその強さがあったなら――想いに潰される事もなかったのかな』
親友の運命を掻き乱した罪、ゲートで人々を襲った罪。そして自らを導く事すらできない弱さ。
信念は強ければ強いほど、他方と相容れぬ歪みが現れる。
患者も親友も救いたい。珠那の信念に非はないが、それだけの力も、過ちを受け入れる強さもなかった。
黒鎖から解放されたエピオネは、悲しげな自嘲を浮かべながら紫苑の残光を描く。
「――ゼオン様っ!」
朔哉の叫びとどちらが早かったか。
紫苑の光は上空で戦闘していたゼオンの腹部を貫き、吐き出した血が桜の花々を濡らしていく。
『ごめんね‥‥』
失血で眩暈がする。気持ち悪い。気に食わない。
ここは戦場で敵同士。何で謝る事がある。
「ッハ‥‥これだから、モドキは。てめえの想いは、てめえの荷物だろ。他人の強さを‥‥ただ羨むだけで、諦めた奴の事なんざ知らねーよ、阿呆が。挙句、『願わくば終わらせて』? 全部、押し付けて人任せは俺は、嫌いだ、ね‥‥」
言って、ゼオンの意識は途切れた。
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「随分、寒いわ――」
燦々と降り注ぐ陽光の元だというのに、呟く沙苗の顔色は蒼い。
「む‥‥? そうか? 俺はなんともないが」
謳華の目配せにカーディスもかくりと首を傾げた。
春の盛りも過ぎた時頃だ。雑魚ディアボロの相手で幾分温まった事を差し引いても、そう寒い季節ではない。
「それに‥‥眩暈がする」
「いかんな。ベンチに座るといい」
親友がこれから殺される――。
耐え難い事実からくる心的不安のせいだろうと、謳華は思っていた。
だがそれは、撃退士では気付けない変調だった。
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「もうやめないか? 貴方が戦いを望んでるとは、思えない」
朔哉はゼオンへの治療の手を休めずに、問うた。
『そうね。撃退士は憎いけど、戦いたい訳じゃないわ。でも――見てる、から』
「そうやろな‥‥あいつは悪趣味やから」
何がとは言わない。だが淳紅はそれを理解し、ふっと笑った。
――と、その時。
銃声。次いで、カシャンと。儚い音と共にコアにヒビが走る。
「ゲートを放棄してくれれば――ボク達はキミを討伐しにきた訳じゃない! ミナが死を望むならそれは仕方ないけれど、せめてサナエに会って心残りに決着をつけるべきなのだ!」
びくりと、目に見えて顔を強張らせるエピオネ。
『‥‥まさか沙苗を、此処に‥‥?』
「そうだよ! だからボクと一緒に外へ――」
だが、そう言ったフラッペに意を反したのは、共に奇襲を支えた結であった。
「私はそうは思いません。友人の二度目の死など、見せる必要ないでしょう?」
「ええ。結の言う通りです。貴女は彼女に会うべきではない。此処で、彼女の知る余地もなく果てるべきだと」
黒焔を研ぎ澄まし、マキナは踊る。
鋼の腕は聖女を包む堅い光の鱗すらも貫いて、『あの日』と同じ胸を切り裂き、飛沫を上げた。
けど痛みより記憶より、もっと大切なもの。
『――どうして!?』
例え道を違えても、沙苗だけは傷つけたくないのに。
已む無く建てたゲートが、勝手に彼女の首を絞めていく。
『沙苗、いや‥‥私が、沙苗の魂――、さな、っ‥‥いやあああぁぁあ!!』
紫苑の光芒が夜を裂いた。
その嚆矢に全員が身を構えたが、エピオネが貫いたものは――。
「自分で‥‥コアを‥‥?」
歌う事も忘れ、呆然と様子を見つめる淳紅。
がしゃん、とコアを載せていた篝火台が倒れる音が庭園に響いた。
「ミナ――行こう、サナエの所に」
『来ないで』
フラッペに向けられるまるで別人の様な怜悧な瞳。
あちこちに降り積もった花溜りに、篝火が燃え移り、次々と延焼していく。
皮肉な事だ。
死を望み続けたヴァニタスが初めて自ら選んだ行動は、ただ一人の生を護る事。
『沙苗を連れてくるなんて‥‥私だけでは殺し足りないの? それともこうして私にコアを破壊させる為の手段なの?』
涙を流し。笑う、笑う。炎の中でも乾く暇もなく、火刑の聖女は泣いた。
親友を保護したと言われたから、ヴァニタスの自分はもう護る役目を終えたと思っていた。安心して死ねると思ってた。
けれど。けれど。そうか、利用するのか。撃退士は、そうやって――。
「違う! ‥‥そうじゃない、ボクは‥‥うわっ!」
轟々と盛る炎に煽られながらも前に進もうとするフラッペを、結が引き止める。
「ここでケリをつけたかったですが‥‥脱出するしかなさそうですね」
どのみち、透過の力でもない限りろくに攻撃ができる状況でもない。
心も、躰も、最早踏み込めない程に隔たってしまった。
『コアは破壊したわ。これで任務は達成でしょう? ‥‥早く帰って。沙苗と一緒に、人の世界へ』
自分が沙苗に依存する限り、彼女は人の世界に帰れない。
だから――決別しよう。
『そして伝えて。真崎珠那は死んだ、って。‥‥そして、次に会う時は、私は自分の意思で貴方達と戦うわ』
「エピオネ、救えなくてごめん‥‥ごめんね‥‥!」
耳に残る朔哉の声を聞きながら、走り去る撃退士達を、炎越しにただ見つめた。
『さよなら沙苗‥‥。ずっと――一緒に居たかったね』