●敗戦の追憶
「護りたかった人を、信じてた人に、目の前で奪われて‥‥か」
依頼報告書をそっと閉じ、雀原 麦子(
ja1553)は空になったビール缶から口を離した。
その数枚の紙束はたった十数グラムほどしかないはずなのに。ずしりと、重くのしかかる。
現地へと向かうマイクロバスはひっそりと静かで、麦子の呟きは所在なげに宙を泳いだ。
どうしてこうなってしまったのか――。
何が正義で、何が悪か。何を望んで、何を失ったか。
桜木 真里(
ja5827)は思い起こす。剣鬼の戦。自分達の為に消えた焔。望んで散っていった生命。
先立つ者と遺された者、どちらも苦しくて。
まだ半年。もう半年。その間、自分は強くなれただろうか。未だ胸を穿つ痛みに真里はそっと眉を顰める。
(勝手だとは思うけど、やっぱり、生きて欲しいよ‥‥)
一方で――もう一人の『女』に思いを巡らせる者もある。
(アプロディテとクピド‥‥もう1年になるのか)
まだ寒い3月、強雨が降りしきる黒天の下。頼りない明かりを切り裂いた黒い矢。
厭悪に染まる『少年』の瞳。雷に身が灼けても離すまいと、きつく押さえつけて。
必死だった。それでも、きっとそこから戦いの歯車は、狂っていった。
そういえば。南雲 輝瑠(
ja1738)は少し離れた座席に座る亀山 絳輝(
ja2258)の姿を見る。
まるで似ても似つかぬが彼女は‥‥と、眺めていると輝瑠の視線に気づいた絳輝が少し笑み、そして顔を曇らせた。
「子を喪った母か‥‥酷く残酷なものだな」
故に、狂気に堕ち。
故に、醜悪なまでに強く。
「事の顛末なんて些細な事ォ‥‥私は敵を叩き潰すだけだわァ‥‥」
言って、絳輝の隣に座る黒百合(
ja0422)は薄笑を浮かべると愛銃の銃剣を雲間の光に翳した。
そう、依頼の上では些細な事だ。子を喪った母も、友を斬られた少女も、些細な事でしかない。
(だが‥‥無念は私が晴らさせてもらうぞ)
――『少年』の義姉として。
●奪った者と奪われる者
出現したての支配領域は取り立てて悪魔の暴虐に荒れる様子もなく、ただ陰鬱に佇んでいた。
生命のカウントダウンに晒された市民の顔に浮かぶは疑心暗鬼、自暴自棄、悲嘆、暗晦。
いつまで生きられるのか。助かるのか。死ぬのか。それともディアボロと化して人々を襲うのか?
「皆さんとっても悲しそうなのですよー? 絶対に勝たないといけないですねー‥‥」
思わず口から溢れる言葉。櫟 諏訪(
ja1215)のトレードマークのアホ毛も力なく項垂れ、どことなく悲しそうで。
「誰かが恨みを晴らさんとし、誰かの恨みを背負うてゆく。まさに怨嗟の鎖、じゃな」
「‥‥彼女達もまた、鎖に囚われているのかしらね‥‥。でも、まだ間に合う」
人ならざる者と言えど、その鎖からは逃れられない。
神を名乗る白蛇(
jb0889)と天使のイシュタル(
jb2619)はそれぞれの想いを胸に、眼差しを遠くゲートの方角へと向ける。
連なる怨嗟の鎖の源はすぐそこ――。
低く圧し潰す様な空が一同を捕らえ、飲み込んでいった。
「いらっしゃい、憎き撃退士の皆さん」
ざぁ、と肌寒い風が公園を巡り、駆け抜けていく。
山葵色の芝生が波となり、また少女の黒いゴシックドレスをふわふわと翻らせた。
「サナエ様――」
「え‥‥本当にあの時の子!? あたいが見たのとまるで別人みたい‥‥」
少女を見るなり、苦虫を噛み潰した様な表情を見せるユーノ(
jb3004)。
同じく当事者であった雪室 チルル(
ja0220)も、サナエの顔を何度となく確かめる。
変わったのは衣服ばかりではない。生気のない白い肌に、瞳には爛々と憎悪の焔を燃やすサナエ。
ユーノは知っている。まだ親友が生きていた時の彼女の顔を。自分達撃退士に向けられた、すがるような瞳を。
喪った瞬間の瞳を。そして、理性が崩れゆくその全てを。
「とても禍々しくて、悲しそうで、苦しそうで‥‥何だかちょっと心が痛いのですワ」
金飾の剣をぐっと握り締め、ミリオール=アステローザ(
jb2746)は虚ろの少女を見つめた。
重く張り詰めた空気の中、そっと歩み出るイシュタル。
「ねぇサナエ。前の事は知らないけど、貴方がやろうとしている事は悪魔‥‥いえ、貴方が憎む撃退士以下よ」
「そうかもしれないわね」
「それに、護れなかった者の、故あって斬らざるを得なかった者の絶望は考えた事ないのかしら」
――イシュタルの言葉に、サナエの全身の血が沸き立つ様だった。
知らないと言いながら、訳知り顔で説教する。奪われた者に、奪った者の気持ちを鑑みろと言う。
唇がぶるぶると震えて、憎しみの奔流で身が張り裂けそうで。
「ッ、ざけ‥‥」
「違うッ!!!」
思わず吐き捨てるマキナ・ベルヴェルク(
ja0067)。
禍根を生み出したのは、私だ。と、握りしめた義手が軋む。
求道の為に、理不尽を屠る為に。信念と共に貫いたのはか細い身体。それを後悔はしていない、けれど。
どんな言い訳を並べても。どんな理由を以ってしても。決して、擁護されるべき選択ではないと知っている。
「私は――‥‥ッ」
謝罪? それとも、懺悔? それで、――それで?
マキナを見つめる冷たい瞳。一体何を言えば、彼女の心に届くというのだろう。
逡巡するマキナを横目で見ながら舌打ち一つ、Caldiana Randgrith(
ja1544)は血霞を構えてサナエを睨めつけた。
「とにかく、そこをどきな。私らの標的はあんたじゃねぇ」
「キャルちゃんが怒る前にどいたほうがいいわよぉ。邪魔されると暴れだすし。邪魔しなくても暴れるけど」
茶々を入れつつも、キャルディアナの後方で戦闘態勢をとるErie Schwagerin(
ja9642)。
サナエの奥にはもう一人の『女』が見えている。遮る物は何もない。いつ戦いが始まっても、おかしくはないのだ。
「私が居なくなったら、あんた達が困るんじゃないかしらね」
そう言うと、サナエは自身の胸元につけた紫黒のブローチを指でなぞる。
「これは鍵。これは護り。このブローチがある限り、あんた達はゲートに入れない。そして――」
『女神』が金切り声を上げると呼応した様にブローチがきらりと光り、雲間から雨が滑り落ちた。
アプロディテの石膏の様に白く濁った肌に浸透していく雨。
「この『天水』がある限り、あいつ強いわよ?」
双魚の片割れなればこそ水を得た魚というべきか。
「今すぐ渡してくれると嬉しいのですが」
鍋島 鼎(
jb0949)の言葉に、嗤うサナエ。
ノーリスクの取引など、ありはしないのだから。
「言ったでしょ、これは護り。これがないと私はあの『女神サマ』に殺される‥‥だから私はこれを渡す訳にはいかない。どうしても奪いたいならこの身体ごと貫きなさいよ。それがあんた達の正義ならやるがいいわ! 撃退士を憎んで憎んで憎んで憎んで、あんた達の心に消えない傷を残せるならそれも悪くない」
天秤にかけたのは、己の命。
にたりと禍々しい笑みを口元に貼り付け、距離を詰めるアプロディテ。考える暇はない。
撃退士は対の皿に一体なにを乗せてくるのか。
「どうするの? ねぇ、また、人を殺すの――?」
刃一振り、覚悟をふたつ
護る覚悟と奪う覚悟
どんなに綺麗に飾り立てても
この世は弱肉強食の理に満ちている
●想いの矛先
『ッアアアァァア!』
「来る――!」
裂帛の気合と共に、一足飛びに先頭の久遠 仁刀(
ja2464)に拳を振りかざすアプロディテ。
構えた蛍丸で距離を測り、往なすように紙寸一枚で上体をひねると、すれ違いざまに刀の柄を女の腹部に叩きこんだ。無尽の光が爆ぜて押し戻される女神の躰。
後方へと身を翻すユリア(
jb2624)は、アサルトライフルのレバーをフルバーストに入れ、叫ぶ。
「人間の子も気にはなるけど、とりあえず倒すのは倒しちゃわないと‥‥かな!」
「前と同じならあいつは範囲攻撃があるはずだ、固まってたら的だぞ!」
「まずは散らばらないとですよー!」
諏訪の声に数人がアプロディテを取り囲む様に散り、今度こそ逃がさないと輝瑠は仄黒い無尽光を迸らせる。
「子を失い鬼女と化した女神か‥‥。我が同胞の悪趣味さ加減、酔狂にも程がある」
ケイオス・フィーニクス(
jb2664)の援護と共に、戦の鋒と言わんばかりに高虎 寧(
ja0416)が疾る。
纏う紅雷にも似たその速度で、手にした短槍を鋭く突き出しる。だが、アプロディテはその槍を掴み、捻り、振り上げた。
ぶわ、と。寧の軽い身体は宙へと踊り、数mほど放られる。身体を返し着地すると、芝生の端切が舞い上がった。
ほんのひと瞬きの間。ほんの一手の刺し合い。だが断じる事ができる。
――強い。
「各個攻撃じゃ辛そうですね、連携していきましょう」
言うが早いか。あしらわれた寧の姿を見て、各々が一斉に女神に刃を向ける。
「キャルちゃん優雨ちゃん――『刺す』わよぉ☆」
笑みを浮かべたエリー。キャルディアナと柏木 優雨(
ja2101)――今は主人格の深雨だ――は頷き合って飛び出した。
ぞるり。エリーの意思に従って影が蠢き、一斉に黒杭がアプロディテの足元から突き上がる。動きを止めた刹那、深雨の闇淤加美が驟雨を思わせる疾さで魔刃を繰れば、キャルディアナの刃が女の右肩に沈む――様に見えた。
「硬ぇ‥‥ッ!」
弾かれた、のではない。確かに刃は届いたけれど。少女が全身の力を込めた刃を以ってしても、与えた傷は僅かで。華奢な女の体に見合わぬ化物のタフさに歯噛みしながら、その姿を観察する深雨。
(――足に鎖‥‥何か、嫌な予感がするわね)
しかし、だからといって足踏みしている訳にもいかない。
「壁は頼むわよ」
「はい!」
エリー達に間髪いれず、楯清十郎(
ja2990)を壁にシルファヴィーネ(
jb3747)が斧槍を振り被った。
鬼母と清十郎の視線がぶつかる。目を見開き、歪に嗤った形相。背筋に何か嫌な物が這い上がる様な。悪寒。殺気。
「っ、危ない!」
咄嗟に盾にアウルを凝縮し眼前に突き出すのと、何かが空を裂く音がしたのは、ほぼ同時の事だった。
バァンッ!
破裂した様な音。次いで、身体を貫く様な重い衝撃。そして気づく。いくつかの呻き声、悲鳴。
仁刀が、キャルディアナが、チルルが、イシュタルが――多くの前衛が、一瞬の間に地面に打ち伏せられた事。
「な、何が起こったの‥‥!?」
「足鎖を利用した回し蹴りと衝撃波‥‥という所じゃな。広範囲、遠距離、全方位――ちと厄介だの」
白蛇と、彼女の分体たる巨竜の陰にいた巫 聖羅(
ja3916)が一瞬の出来事に目を見張った。
圧倒的な攻撃とそれを受けた仲間達に意識が集中する中、それでも前へと進む者もある。
「そんな攻撃で止まると思ったら‥、大間違いよ!」
「はワ‥‥ありがとうですワっ!」
清十郎の陰にいたシルファヴィーネが高く飛び上がり、身を回し遠心力を倍載せで斧を振り下ろす。ぱっと、鬼母の肩から吹く黎い液体。続いて、諏訪の回避射撃で被弾を逃れたミリオールの光の風刃がアプロディテへと襲いかかり、更にはエナ(
ja3058)と真里の魔法が相乗し光線の如き白雷が伏せた仲間の頭上を貫いた。
波状攻撃は尚も続いて。マキナの黒鎖が女神の肢体を縛り、白竜の電磁ブレス、ユリア、絳輝の砲撃で怯んだ刹那。
「硬いなら、これでどうですかー?」
諏訪が放った弾丸を叩き落とそうとアプロディテは細い腕を伸ばしたが、それこそ彼の思惑通り。
『グ‥‥ウゥ!?』
ガードしたその手から、柳色のアウルが躰を蝕んでいく――腐食弾だ。
戸惑いの表情を見せる女神。だが、手加減などない。
がら空きの背中を大剣が疾走る。一拍。そして、ぶば、と黒い霧が芝生を濡らした。
「アプロディテ‥‥今度は勝たせてもらう――!」
その黎い血雨を浴びながら、輝瑠は雪辱に闘志を燃やしたのだった。
●贖いの燐刃
攻勢に乗じるべくアサルトライフルのビープサイトを覗いたソーニャ(
jb2649)は、女神が抱いた小さな亡骸に気づく。
(あれは‥‥あのディアボロなりの愛執の象徴、かしら)
愛してるから。
愛の為。
愛すればこそ――。
その愛を示す為なら、どんな犠牲を孕んでも構わない。
押し付けがましい、一方的な感情。鬼となった彼女の愛のカタチがその亡骸だとしたら。
「悪趣味で、愚かで、憐れですね。あのディアボロも、‥‥彼女も」
ソーニャはトリガーを引き3連符の掃射音を繰りながら、後方に佇むサナエに目をやった。
彼女は――彼女の本当の気持ちは、誰に向いていたのだろう。
加熱する戦場とは対照的に、サナエは冷えきった表情で戦いを眺めていた。
少女の傍らにはユーノと麦子。サナエを護る。2人はそれだけを選んだのだ。
「サナエ様」
「何よ」
ユーノが呼びかけても、彼女は顔色一つ変えず、視線一つ動かさず。抵抗も拒絶もせず、そこに居た。
「珠那様を救う事が出来ず、申し訳ありませんでした――」
止める事も出来なかった。そしてオフュークスとマキナ、2つの仇を討つ事もできなかった。
取り返しはもうつかない。でも、それでも。許されなくても、謝らない理由はないのだから。
「あんたあの時の‥‥」
悔いる様な顔で頷く白い少女を見て、黒衣の少女はそれ以上何も言わなかった。ただ、視線だけを向けて。
「『アレ』は勿論、私も貴方に憎まれるべき存在ですの。ですが、どうか。どうか――人として、私達を裁いて下さいませ」
「‥‥‥」
何も言わず、ユーノの紅い瞳を見つめるサナエ。
奪われた者。止められなかった者。
その瞬間に居たのだから、見ていたのだから。ユーノにどうしようもなかった事は、サナエだってわかっている。
許せない想いと許したい想い。だけど。だけど。
「ねえ、沙苗ちゃん。貴方の友達は本当に素晴らしい人だわ。生命を賭して、最後まで人々の命を助けようとした――。そんな人々を、彼女が守ったものを、貴方は今、無差別に殺そうとしている」
「主が抱えた怨みはわしらにぶつけるなり、飲み込むなり、好きにせよ。じゃが、この門の所為で命を落とす者達、そして主と同様に残される者達の怨みをその身に背負う事を忘れるな」
目を背けたいその事実を、正面からはっきりと告げる麦子と白蛇。次いで、聖羅が駆け寄る。
「サナエさん! 珠那さんは‥‥こんな事を望んでいるの? 違うわよね?」
「――な事、わかってるわよ!! ‥‥わかってる、のよ‥‥‥!」
2人の抉るような問いに、少女は声を荒げた。
考えればすぐに判る事だ。誰よりも人を生かそうとした友人が、サナエの行動を良しとする訳が、ない。
だが、サナエはそうせざるを得なかった。
俯き、肩を震わせ、サナエは心を曝け出していく。
「このゲート、誰が作ってると思う? エピオネ‥‥他でもない珠那よ。人を護る為に生命を賭けた子が、悪魔の命令で大勢の生命を奪うゲートを作らされるの!! ねえ、耐えられる!? 耐えられると思う!? ゲートを出したのは、私や珠那の意思じゃない、だけどあの子は! 逆らう事ができないのよ! だって、もう、――‥」
ヴァニタスだから。
オフュークスの僕なのだから。
言葉を飲み込んで、大粒の涙を落とすサナエ。膝をついて、鉛色の空を見上げた。
だからと言って、許される事ではない。それも知っていて。
歪んだ思慕は迷路の様。
ただひとつ、親友を守りたいというただそれだけを必死に貫いて。
「だから私のせいにしようとした。皆が死んだのは珠那のせいじゃないよって。私が悪いんだって。そうしないと、珠那がまた泣いちゃう、から‥‥」
救えなかったのはユーノだけではない、サナエもまた、その1人だった。
後列にいたエリーには、全て聞こえていた。
聞こえていながら、背を向けたまま敢えて知らない振りでサナエに声をかける。
「そーいや貴方、撃退士が嫌いなんでしょ? 奇遇ねぇ、私も撃退士が嫌い。いつか復讐してやるの」
言いながらもエリーは影の書を開き、漆黒の影針をアプロディテに放った。
撃退士に復讐すると言った口で、撃退士として魔を討つ呪文を並べていく――不可思議な事だ。
「そうよ。大嫌い。私を、私の――‥裏切った、から」
消え入りそうな声で、黒衣の少女は呟いた。
心は揺れるけれど、抜け落ちたピースは未だ取り戻せなくて。
「ふ〜ん。だけどねぇ、ここにいる連中は――」
「嫌いでも、構いません!」
爆発。
鼎のタロットから顕現した戦車の英雄が砲撃を放つ。白と黒の馬が嘶きを天に響かせた。
The Chariot 《戦車》――。
雄々しく、猛々しく、時に若いエネルギーで暴走と失敗を引き起こす英雄の姿は。
迷い、衝突する少年少女達の姿に似ていた。
「当人じゃないですし、許せと請うのも筋違いだとは思います。でも、護りたいのは本当なんです」
一つ溜息をついて、エリーは遮られた言葉を続けた。
「‥‥ね、憎んでる貴方を命がけで守る気満々なの。馬鹿よねぇ」
●鎮魂の閃舞
はぁっ、はぁっ、は、―‥‥。
広い芝生の彼方此方から、荒い呼吸が上がる。
幾度刃を叩きつけても決定打が得られないまま、戦いは消耗戦へと入ろうとしていた。
(回復が、足りない‥‥)
水の檻の中から輝瑠に回復の光を送り、ぎりりと奥歯を噛み締める絳輝。
人数に対して、範囲攻撃に対して、明らかに足りない回復の手。
白蛇の司で防御を固め鼎と絳輝で回復を分担しても、終わりの見えぬ戦いに十分な備えとは言えなかった。
それだけではない。アプロディテの裂けた背が、不自然に曲がった腕が、滴る雨を受けて徐々に治っていく。
「また治った‥‥あの雨をなんとかしないと!」
――この『天水』がある限り――。
なんとか、しないと。
――奪いたいならこの身体ごと貫きなさいよ。
脳裏を過ぎったその言葉を、真里は頭を振って思考から追い払った。
そんな結末は、自分は勿論、仲間も、彼女の親友も、誰も望んでない。
ならばどうする。
「厄介ですが、ノーリスクの行動なんてそう無いのではないですか?」
「雨‥‥なら雷はどうかな」
言って鼎と真里は頷き合うと、召雷の術と『塔』の雷でアプロディテを撃つ。ばちばちと火花が散り、しとどに濡れた女神の白い肌を雷が縦横無尽に広がった。
水に電気――単純な発想だが、肌が焼け焦げたその姿を見れば、闇雲に攻撃するよりは有効そうで。
「雷がOKなら氷だっていけるわよね!」
続く聖羅の氷弾はアプロディテの足元を凍らせ、その動きを鈍らせる。
一筋の光明を見たように、3人は顔を見合わせ大きく頷いた。
「しかしこのままでは埒があかないか‥‥。一瞬でいい、隙があれば――無理やり弾き出す!」
仁刀の声にユリア、ケイオスが弾雨を浴びせミリオールの鎌鼬が舞う。更に続くはシルファヴィーネ、マキナ、清十郎。側面から派手に攻撃を繰り、女神の意識をそちらにむけ、瞬間、再び無尽光を結集させた仁刀の大太刀が閃く。
だが。にィ、と口端を上げをれを避ける鬼母。初手でいきなり受けた痛手だ、そう何度も思うようには――。
「あたい、最ッッ強ーーー!」
ゴシャアッ‥‥ガガガガッ!
巨大なモノが衝突する、鈍い破砕音。続いて地面を削る振動と土煙。
チルルの腕ごと閉じ込めた巨大な氷の柱は、アプロディテの体を吹っ飛ばすには十分な威力だった。
1発目を避けて慢心し、その後に続くチルルの方はまるで察知していなかったようで。
天水の下から飛ばされたアプロディテは土にまみれた顔で、ぎらりとチルルを睨めつけた。
「あたいはバカだけど‥‥あの子をここで止めないとダメってのはわかるわ!」
だから、絶対に目の前の狂母を倒さねばならない。
あの日、護れなかった『もう一つのモノ』を取り返す為にも。
天水を失った女神だが、逆に得たものもあった。
多くの連携フェイントで前衛がひどく密集している――ならば、全てなぎ払うまで。
ふっ飛ばされたその距離を一躍に詰め、半径30mの空を真二つに裂く鎖。
足を振り上げようとした時、麦子やユーノ達より更に後方から小さな光が2つ、煌いた。
『オゴオォオオァッ!』
「ビンゴォ‥‥その回し蹴りを待ってたわァ‥‥♪ 軸足を潰すのは基本よねェ」
人のカタチをしているならば、その弊害もまたある訳で。
「ほらほらほらほらァ!
序盤に後方に下がってから膝射体勢で沈黙を守っていた黒百合のスナイピングが、アプロディテの左足を撃ちぬいた。ぐらりと女神の体が傾く。好機を見逃すまいと、黒百合に続いて軸足狙撃するソーニャとユリア、影で拘束する寧。
「その鎖は皆を傷つけるから、させない――」
「逃し、ません‥‥っ」
そこに飛び込む追撃。地上からまくり上げる様に黒腕を薙ぎ上げるマキナ、対して、血霞を逆手に持ち突き立てる様にキャルディアナは首の根に向けて打ち下ろす。
「その隙貰ったぁ!」
彼女の刃は、確かにアプロディテの肩に突き立った。だが、彼女にもまた突き刺さったものがある。
淡く光る桜色の矢。
「キャルちゃん!!」
後方に居るエリーにも見えるそれ。キャルディアナの腹を貫通し、彼女の腹部を赤く染める。
更に矢はミリオール、マキナの体に突き立っていた。その瞳は僅かに正気と狂気に揺れ動いて。
「わたしの心に、勝手に、入ってくるなですワ‥‥っ!」
「体が‥‥!」
ぎしぎしと体が軋む程に抵抗しても、なおそれ以上の力でマキナ達の体を支配するそれ。
自らアプロディテに寄り、それどころか女神に背を向けまるで撃退士達から女を護るように立ちふさがる3人。
愛しい者を護らねばならない、と刷り込まれる意識。――悪魔の恋の矢。
「まさか『クピド』の――まずい、その3人を護らないと!」
輝瑠の脳裏に走る光景。降りしきる雨の中、嫌悪の色に染まる仲間の瞳。
――同じ轍は二度と踏むものか。
いの一番に動いたのは後列へと下がっていた深雨。広がる影が百足となり、アプロディテを抱きしめる様に拘束する。
続いて、水檻から解放された絳輝が横っ飛びでミリオールを引っ張り羽交い絞め、チルルが腹ツッコミで回復を試みるが矢の効力は消えないようだ。
真里もまた、下手に女神を庇わぬようにと無数の腕でマキナの身を掴み取った、が――。
「ぐ、‥ぁ」
再び掻き払われる鎖。
範囲内の撃退士達は勿論の事、女神に背後を取られたままのマキナとキャルディアナの背が大きく裂ける。
「あははァ、身動き取れないなんて撃ち放題よォ‥‥?」
SR-45の銃口を全力で解放しながら、徐々に距離を詰める黒百合。真里の術で足が絡め取られたアプロディテの体がアウルの弾雨に踊り狂う。人外を屠るその狂喜。少女は嗤い、嗤い、ただ嗤った。
それに併せて打ち込まれる諏訪の光弾、ケイオスや白蛇の援護射撃の中、気絶したキャルディアナをシルファヴィーネと鼎が抱えて下がり、その穴を塞ぐ様に寧が神速の疾さで斬り込んで。また自ら望む様に身を削った仁刀は、そのまま燃え尽きよと言わんばかりにアウルを燃やして。眩いばかりに魔を照らす光で女神の躰を突き貫く。
一分の暇も与えてはならない。気を抜けばいつでも鎖が薙ぎ、矢が駆けるだろう。
護りの要であろう清十郎もまた焔の鎚で光刃を放ち攻勢に転じ、空から降下するイシュタルと共に刃を踊らす。
降りだした雨の中、空に向かって逆流する黎の雨。
刃だ。ひたすらに煌めき、光を放つ、刃の群れ。
爆ぜ、奔り、迸る――ああ。
これこそが天魔が欲する程に強いエネルギー、人間のみが持ち得る、生命の光芒――。
やがて。
劈く様な最期の鳴き声が戦場に響き渡った。
その貌は美しく。流れる血潮は、尽きぬ涙の如く。
子の亡骸を慈しむ様に、それは果てた。
こうして――1年の長き間、埋まらぬ子の影を追った母は、漸く安息の時を得る。
●憐寂の雨
しとしとと降りる春霖が戦場を包み、未だ塞がらぬ傷と斃れた女神の血を洗い流していく。
激しい攻防が嘘の様に場は静まり返り、一同は俯いたまま表情の見えないサナエを見つめていた。
戦いは終幕を迎えた――だが、本当の決着は未だついていない。
戦いのままに死んでも構わない、そう思っていたけれど。死に救いを求める彼女を、神はまだ赦そうとはしないらしい。
銀色の長い髪から、雨粒が滴る。マキナは血に染まる黒い掌を見つめた。
理不尽を屠り、理不尽を紡ぐ呪われた腕。後戻りはできなくても、せめて、今だけは。
「彼女を手にかけた事‥‥許しを請う気はありません」
赦罪はされる訳がない。
だが、あの日言えなかったその言葉を放棄する事などできようか。
「‥‥ですが‥‥済みません」
たった5文字の短い詫び言。
言い訳も、事情も、何一つ繕う事なく。
天魔から人間を護るという撃退士としての使命。そして、理不尽を滅するという彼女の求道。
あの日出来なかった2つの責を果たして、マキナはただ詫びた。
「私ね」
マキナの言葉に応えぬまま、サナエは呟いた。
「撃退士はヒーローだと、信じていたわ」
――私の――‥裏切った、から
消えた言葉は、
信頼。
きっと誰よりも、死を受け入れようとしてた親友よりも。
あの時撃退士が現れて、一番嬉しかったのは、私だったから。
同じ分だけ、裏切りられた悲しみと憎しみが募った。
「でも‥‥、これは自分の我侭ですが、復讐に悪魔の力を使うのだけは、やめてほしいのですよー‥」
俯く諏訪。
どんなに彼女が憐れまれるべき運命であれ、その道を辿ればいずれ魔の者となるより先はない。
そうなれば――刃を向けねばならない。
撃退士として。人類の刃として。
珠那が守ろうとした、人々を護る為――。
「メフィストとかいう女は、私に言ったわ」
――『おんしに選ぶチャンスをやろうぞ』
「ディアボロと共に撃退士を迎え撃ち、その様子を見て尚信用できなければ、その時は‥‥」
――『妾が召し上げてやってもよい』
沈黙する一同。レンガ路を打つ雨音と遠くで木々がざわつく音が、ただ鼓膜をゆらす。
一度失った信頼は、そう簡単には取り戻せないけれど――。
と、シルファヴィーネはサナエを見やる。さて、どんな結末を見せてくれるのか。
「自分の見えてるモノが全てで、それが自分のものさしでしかないわ」
右頬のルーンを伝う雨をそっと撫で、深雨は目を閉じた。
深雨の奥底に揺蕩う冷たい記憶――それが彼女が見たもの。彼女のものさし。
「残念な事に、私も貴方もその1人。本当に残念な事にね」
彼女は残念だというが、それは価値観を改められるという事。変化を認められるという事。
希望も憎しみも、痛みも、今彼女にかける深雨の言葉一つまでもが、サナエの新たなものさしになるのだと。
多くを語らないマキナの背を一瞥してから、清十郎は制服のジャケットをサナエの肩にかけた。
「許してとは言えません‥‥けど、知っておいて欲しい。撃退士には貴方と年端の変わらない、容易く道を間違えてしまう未熟な学生で‥‥それでも皆、必死に戦っているという事を」
「私なら――私が珠那さんだったら。復讐なんて望まない。そんな友達を目の前で見ている方が、つらいもの‥‥」
濡れた芝に膝をつき、サナエの体をそっと抱きしめる聖羅。
「ね、だから‥‥生きて」
――そして、できることなら、倖せに――。
俯いたまま、制服の襟をぎゅっと握る少女。
流れた涙は雨だれに溶け、地面へと消えていった。
●果ての宮
白い男が尋ねる。
『おやおや、予想通りですねぇ』
紫黒の女は盃に満ちる葡萄酒を呷った。
『なに、思わぬ余興で開けた幕じゃ。たまには青臭い見世物も、無聊の慰めにはなるかと思うてな』
中空に広がるスクリーンは、紫色の石が砕ける様子を映し出していて。
『時に我が君。あの約束は本気で――?』
言って、男は葡萄酒の瓶を傾ける。注がれるそれの輝きを見ながら、くつくつと笑う女。
『さぁて、どうじゃったか‥‥大事の前の小事、とうに忘れてしもうたの』
卓上に広げた四国の地図。立ち上る幾つものゲートの光を眺め、女は再び盃に口をつけた。
余興は終焉を迎え、戦場は冥慟の舞台へ――。