●10:00 AM
海が見える部屋の窓から、少女は外を見る。
深く茂った森の先には、光る漣を散らす深い紺瑠璃の海原。
天高く百合鴎が数羽飛び交うけれど、雲に烟る水浅葱色の空は荒寥とした彼女の心を映す様に重い。
コンコン、とドアを叩く音。アルドラが振り返ると同時に、紫蝶が部屋に足を踏み入れる。
「おはようアルドラ。気分はどうだい? 今日は君に合わせたい客が居るんだ」
そうですか、と小声で返事をしてまた窓の外に目を向けた。――いつも通りの光景。
冷たい壁。
天の翠眸は、未だ重い瞼に伏されている。
●10:10 AM
此処に来てから、色々な方が部屋を訪れます。
表面は優しく微笑むけれど、瞳に恐れや嫌悪を少なからず抱いている方ばかり。
それを見る度、『天使』という者達がどれだけの業を彼らに押し付けてきたか、思い知らされる――。
再びドアを叩く音が聞こえる。
ああ、また。わたくしは罪と向き合うのですね。
「こんにちわ! ‥‥あっ! おはようかな?」
勢い良く飛び込んで来たのは、小さな少女でした。
わたくしが呆然としていると、後ろから顔を覗かせる2人の女性。
「失礼するよ」
「‥‥こら、キラ。怪我人なんだから、あんまりうるさくしちゃダメ。‥‥はい、おみy‥‥お見舞い」
少女を伴って訪れたのは、ユウ(
ja0591)様と天風 静流(
ja0373)様。
簡単な挨拶と一緒に『ばななおれ』を頂き、天風様が『ろーるけーき』を切り分けて下さいました。
とてもいい匂い‥‥どちらもわたくしの世界にはありません。
ベッドに座り、渡された小皿をぼんやりと眺めている横で、ユウ様と綺羅様はソファに座り、お話を始めたのです。
「バナナオレって甘くておいしいね!」
「‥‥ん。気に入ってくれてよかった。沢山あるから好きなだけ飲むといい」
わたくしも一口。とても甘くて瑞々しいお味が口一杯に広がりました。
一瞬、ユウ様が此方を見た後すぐさま綺羅様に視線を戻し、お話を続けるお2人。
「‥‥そういえば、キラもダアトだっけ。わたしと一緒」
「わ、いっしょ! でもね、綺羅はまだ戦ったことはないのよ」
「‥‥じゃあ、わたしが色々教えてあげる。‥‥砲台ダアトはもう古い。今は、多少は前線でも戦えないとね」
ひゅう、と冷たい風を纏うユウ様に、綺羅様が飛びついて。風に流されてはころころ。
「すごーい、触れないね! 綺羅もゆぅみたいに強くなりたい!」
わたくしは戦いなど嫌い。不幸ばかりが訪れる、不毛な争い。
なのに、こんな小さな子供までが戦火に身を投じるのでしょうか?
「何故、戦うのですか?」
ぽつりと、溢れる疑問。それは魔術談義に盛り上がるユウ様や綺羅様には届かなかったけれど。
「戦う理由なんて其々だろう。――復讐、義憤、地位や名誉を求める者も居る。アルドラ、君達は違うのかい?」
天風様の言葉に、はっとしました。
気が遠くなる程長きに渡る、冥魔との対立。力による絶対的な支配制度。
最下級天使であるわたくしには、理由も選択肢もなかった。
ただ天使として生まれ、主の為に人を狩り、命令があれば命を賭して戦う。それだけの存在。
穏健を唱えながら、ただ漠然と争いが消えればいいと思っていた。結果しか見ていない、拙い思い。
「どこか、痛いの?」
心配そうに見つめる綺羅様。わたくしの頬は、いつの間にか濡れていました。
――いいえ、知っていました。戦う理由など無い、空虚な人形である事。でも‥‥気づかない振りをしていた。
気づかずにいれば、心が軋む事がないから。
「わたくしは‥‥」
「すまない、泣かせる気はなかったんだが‥‥傲慢な天使ばかり見てきたが、君は違うんだな」
天風様の優しい声。綺羅様の澄んだ瞳。
「‥‥はい。飲むと元気でるよ」
ユウ様が差し出したのは、『ばななおれ』と。
この上ない、笑顔でした。
●11:30 AM
次に居らっしゃったのは3人の男性でした。
「初めましてだな、アルドラさん。俺は千葉真一(
ja0070)だ」
「紅茶は如何ですか‥‥? 気持ちが落ち着きますよ‥‥」
棒状のお菓子を差し出し、ニッと笑う千葉様。片や紅茶を注いでくれたのは、冬樹 巽(
ja8798)様という物静かな男性。
「こんにちわ、ゆたろー!」
「おう、沙羅ちゃん久しぶりだな。学園にはもう慣れたかい?」
「うんっ♪」
綺羅様そっくりの沙羅様と、お手を繋いで部屋に入ったのが、綿貫 由太郎(
ja3564)様。
壮年の男性の様ですが、学徒なのだとか。不思議な所ですね、『久遠ヶ原』とは。
「あるどら、おけがはもう治ったの?」
そう言ってわたくしの隣に座り、心配そうな顔をする沙羅様。
こくりと頷くと、彼女はにっこりと笑いました。
「それじゃ単刀直入に‥‥久遠ヶ原に来た理由を教えて貰えないか?」
「理由‥‥?」
「俺が君を信じたいから、さ。考えも解らないまま信じるのは難しいだろ?」
千葉様の言う事は尤もでした。でも少し、迷って。
何か言えば、言葉を違えば、敵と見做される可能性だってあるから。わたくしは、いつだって臆病で。
わたくしが逡巡していると、冬樹様は静かに語り始めました。
「先に僕自身の事を‥‥お話します‥‥。僕も‥‥嘗ては心を鎖していました‥‥」
虐待、両親が天魔に襲われた事、感情を鎖してしまった事――。
――それは、悲しいお話。それでも、彼は救われたと言うのです。世話をしてくれた人達と、信頼が築けたと。
「僕が此処にいるのは‥‥自分の意思‥‥。自分に出来る事を‥‥したかったんです」
「たつみは沙羅よりもずぅっとつよいねぇ。沙羅、きっと泣いちゃうもん!」
ほんの僅かに口元に微笑ませ、『ちょこれーと』を沙羅様に差し出す冬樹様。
天魔は人間を非力と言うけれど、彼らの心は天魔より‥‥いえ、わたくしより、ずっと強いのです。
わたくしのしたい事は、わたくしの理想は――。
「理想を――共存を、求めて‥‥」
わたくしの理想は三界康寧。即ち天魔人が等しく共存できる世界。
手を取り合い、寄り合って過ごす、争いのない世界。
「ああ、この学園なら出来るね。良い所だよ。撃退士は勿論、のほほんと暮らしたい天魔にとってもな」
それまでソファーに座り聞き手となっていた綿貫様が、不意に声を出しました。
「安く自由に暮らせて、勉強も出来て、天魔の情報も入る――ま、おっさんは日々のんびり出来れば良いんだけどね」
「あははっ、ゆたろーらしいね!」
「お、言うねぇ? これでも喰らえっ」
と、綺羅様の頭をわしわし撫でる綿貫様。きゃあきゃあと笑う綺羅様。
「怖がらないで下さい‥‥。貴女が心を開くまで‥‥僕達はずっと待ってますから‥‥」
心が折れても立ち上がり、誰かを慈しむ事ができる。人間は、とても素敵な種族なのですね――。
●1:55 PM
お昼が過ぎ、窓から差し込む日差しが一番熱くなる頃。その方はいらっしゃいました。
「我輩はラドゥ・V・アチェスタ(
ja4504)。高貴なる吸血鬼の真祖であるが、我輩懐が深い故、そう構えずともよいぞ」
「よくわからないけど、らどぅってすごい人なの?」
「うむ、敬慕するがよい」
真祖と言えば、種の束ねる原始の者。まさか――いえ、疑うのは悪しき事。彼がそう仰るのなら、そうなのでしょう。
「‥‥わたくしはアルドラ。此処には色々な方がいらっしゃいますのね」
「さて‥‥正直な所、貴様が何をしたかなど我輩には関わりの無い事でな」
そう言ってベッドへ座ると、綺羅様を持ち上げてわたくしとの間に座らせました。
「皆は騒いでおるが、我輩は我輩に害無き瑣末な騒動に興味は沸かぬのだよ」
わたくしと面会する方は皆、何かを聞き出そうとする方ばかりでした。
それは当然ですし、わたくしにはそれを咎める資格もありません。
でも、彼はそうではないと。
「では何故‥‥?」
「我輩は吸血鬼である故、人成らざる者の先人として気をかけてやろうとな」
アチェスタ様は壁を見つめたまま、学園の人々について語り続けました。
曰く――天使というだけで殺せと言う者も居れば、種族に捕われず助けを乞うなら助けよと言う者も居る。
人間にとって、どちらが道義であるか――誰も正解を持たないまま、互いの主張は激しく鬩ぎ合う。
「この学園は殊、それが顕著だ。まあ良くも悪くも、人間らしきものよ」
「んー‥らどぅのお話、むつかし‥‥‥」
アチェスタ様にもたれる綺羅様は眠気に負けてしまったご様子。
体が冷えない様にと漆黒のコートをかける彼に、わたくしは問うたのです。
「人が‥‥天魔を救うのですか?」
「ああ、此処の連中は実に甘い故。――『優しい』とも言い難い程にな」
仇でありながら、憎しみの連鎖を断つ為に手を差し伸べる。
どちらも理解できるが故に、その軋轢は心を酷く締め付けるのに。それでも、人は進む事をやめない――。
眠った綺羅様を抱えて立ち上がるアチェスタ様。
只々押し黙るわたくしを見て、最後に言ったのです。
「ともあれ、今は休みたまえ。そう遠くはない、貴様が道を選ぶその時まで、な」
●4:10 PM
「ボクは、いつか人に教える側に立ちたいんだ」
落ち着いた調子でお話して下さったのは、アニエス・ブランネージュ(
ja8264)様。
「あにえすは、せんせーになるの!? すごぉい!」
「ふふ、いつかね。そうなりたいと思ってる。だからアルドラ君と沙羅君は、今だけボクの生徒になってほしい」
こほん。と一つ咳払いをしたアニエス様は部屋の窓を開け放ちました。舞い込む、潮の香り。
「さて、此処――久遠ヶ原の事を話そうか。ボクも遠くの国の生まれだから、知ったばかりの事が多いけどね」
そうしてアニエス様は窓の方へと手招きし、眼下に広がる森を指さしました。
深緑、天鵞絨、萌黄色。夏の光を浴びて色づく美しい木々。
「あれは桜の樹々さ」
アニエス様は、螢石の様な瞳を森へ向けたまま言葉を続けます。
「今は夏だから緑の濃い季節だけど、秋は葉が紅や黄に彩られ、冬には葉が枯れ落ち、雪の華で白銀の世界になる。
春は『桜』という、ほんの一時で散ってしまう薄紅の花が‥‥と、四季の概念は天界にもあるのかな?」
こくりと頷くと、アニエス様は少し考え込む様でした。
わたくし達天使と違い、彼女達人間は天界を知る術は殆どないのでしょう。
ふと、服の裾を引かれる感覚に気づいたのです。沙羅様です。
「えっとねじゃあ、さーくーらー、さーくーらー♪ って曲は知ってる?」
「――いいえ、四季が同じでも文化までは‥‥。それに、わたくしは四季の薄い所に居ましたから」
頭をそっと撫で梳いてみると、顔を綻ばせる沙羅様。
じわりと広がる温かい気持ち。それは嘗て人を慈しみ護っていたわたくし達天使が、忘れてしまったもの。
「ふむ、文化か‥‥。此処の文化、っていうと、とんでもないのが多いけど‥‥。まぁ、一般的な物だとお花見とかかな。
見頃が短い桜を皆で楽しむのさ。秋なら紅葉狩りといって、紅や黄に色づいた木々を楽しむ。とかね」
‥‥この森も、そうなるのでしょうか。
紅に黄に染まり、雪化粧を纏い、薄紅の雨を降らせ――陽気で穏やかな一時を人々に振る舞う。
「これはほんの一端。ボクも見てない物が沢山あるからね。‥‥出来れば、君とも共に見たいと思ってるよ」
「あっ! 沙羅もいっしょにおでかけしたいっ!」
「ああ、沙羅君とも同じ時を過ごせればいいな」
わたくしも‥‥恐れと悲嘆を脱ぎ去り、桜の様に変われるのでしょうか‥‥。
●7:30 PM
「綺羅様? 一体何処に‥‥」
「えへへ、ないしょっ!」
すっかり日が落ち薄暗い中、わたくしの手を引いて外へ連れ出す綺羅様。
ひたすら彼女についていくと、遠くから声がしたのです。
「綺羅、こっちだ!」
「ようこそ華水庭園へ! 俺は小田切ルビィ(
ja0841)。宜しくな?」
「ようこそー♪ えへへ、まねっこ!」
庭園の中に佇む小さな茶卓。吊るしたランプが仄かに照らす光景はとても幻想的。
紅玉の瞳を細ませ、小田切様は紅茶を注いでくれました。夕暮れの涼風と紅茶。包み込む様な花の香り。
「『秘密の花園』ってカンジだろ? 花とか甘いモンが好きなんじゃねぇかな、って思ってさ」
「ええ‥‥とても、素敵な所ですね」
薔薇のジャムを溶いた紅茶を一口、そしてお昼にも頂いた『ちょこれーと』を一口。
甘くて、優しくて、心地良い――。
「ムリフェイン‥‥」
夜空を見上げ、懐かしい名を呼ぶ。数ヶ月しか経ってないのに、酷く懐かしい。
甘くて、優しくて、心地良い。まるで貴方の様ですね‥‥。
「むふぇ‥‥? だーれ?」
「わたくしの、大切な友人ですよ」
と話すや否や、小田切様が得心した様に頷いて立ち上がり、ランプを消したのです。
薄暗闇が辺りを包み、お2人のお顔が見えないくらい。
「アルドラ。空、見てみな」
けれど――見える物もあったのです。
真珠を散らした様な、満天の星空。
「『アルドラ』も『ムリフェイン』も、星の名前なんだぜ。主星シリウスに、ミルザム・ムリフェイン・ウェズン・アダーラ・クルド
‥‥そしてアルドラ。大犬座の星達だ――」
「シリウス様――‥‥!」
涙となって溢れる狂おしい追慕。2度と帰らぬ嘗ての主。『焼き焦がす者』の名を戴く大天使。
この名は、主であるシリウス様から賜ったもの。わたくし達に与えられたのは、こんなにも美しい名だったなんて。
「アルドラは、この地球から見える星の名だったのですね――」
シリウス様はわたくし達が天を堕ちる事も、此処へと流れる事も、お見通しだったのかもしれません。
「天界・冥界・地球‥‥見える星は違うのかも知れ無い。だが星を同じく美しいと思えるのなら、共存も不可能じゃない。
俺はそう思う――だから」
かち、と小さな音がして再び灯が点り、明るくなる庭園。
手を繋いだ小田切様と綺羅様。そして、2人の手はわたくしへと差し出されていました。
「皆で進んで行こう。前を向いて――」
●翌朝
「おはよう。気分は――いや。聞くまでもない、かな」
いつも通り、アルドラの部屋を訪れた紫蝶はその変化ににこりと微笑んだ。
くすんでいた天使の光は輝き、朧気だった瞳は別人の様に凛と澄んでいる。
「はい。――わたくしは愚かでした。向き合うのが恐ろしいが故に、酷い真実から目を逸らし、長らく逃げ続けました。
わたくしは失意と絶望の闇から抜け出せずにいた‥‥けれど、絶望はわたくしだけに振りかかるものではなかった。
人は皆それを抱え、それでも前へと歩み続けている‥‥それでも誰かを赦し、慈しみ、手を伸ばす‥‥」
アルドラは意を決した様に、自らの足で『出口』へと歩み出す。
この小部屋からの、自分の殻からの、脱出。
天の翠眸に、迷いはない。
「わたくしも、出来る事を‥‥わたくしの知る事なら、全てをお話し致します」
それが皆様のお気持ちに、そしてこの『アルドラ』の名に報いる事になりましょう――。