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学生街に店を構える『ふところ亭』の屋上に、ふわりと、一つの影が降り立った。
月明かりに照らされて、なお黒い翼を広げる者の名は、七ツ狩 ヨル(
jb2630)。
はぐれ悪魔であり、レシピ帳奪還の依頼を受けた撃退士の一人でもあった。
いつも身につけている眼帯を外し、代わりに帽子を目深に被っているヨルは、屋上の縁に立ち、眼下の街をぐるりと見回す。
仲間たちが待機している場所へ、そして、警備のために『ふところ亭』の周囲を巡回している男子学生へと無気力な目を向け、彼は懐から携帯電話を取り出した。
そして、しばらくの間カチカチと入力を続け、出来上がった一通のメールを仲間たちへと送信する。
「警備の一人は外回り。俺は先に侵入して鍵を開けておくから、さっさと仕かけてね」
このメッセージを受け取った仲間たちから、すぐさま同意や励ましの言葉が返ってくる。
それを確認したヨルは、排気口やクーラーの室外機しかない殺風景な屋上の床へ、仰向けに倒れる。
すると、不思議なことに、彼の体は底なし沼に呑みこまれるかのように、ずぶずぶと『ふところ亭』の中へと沈んでいった。
酒井・瑞樹(
ja0375)は、今回の潜入ミッションにおける自分の役割を、正しく理解していた。
ルインズブレイドである自分は、インフィルトレイターやナイトウォーカーのように、隠密行動には長けていない。
だからといって、自慢の剣技で警備の者を黙らせてしまえば、依頼人の意にそぐわぬ結果を招いてしまう。
そのような状況で、瑞樹が選んだのは、己の『女』を活かすことだった。
「気分が優れなくて……申し訳ありませんが、お水を一杯頂けますか」
いつも後ろでくくっている髪を下ろし、いかにもか弱い女の子らしい服を着た瑞樹は、か細い声をあげながら、『ふところ亭』を警護している学生へと頭を下げる。
「な、何だ、お前は。どうしてこんな時間に学生街にいる」
「夜の散歩が趣味なのですが……心の臓を患っていることも忘れ、調子に乗って歩き過ぎたようです。すみません、少しの間だけ、軒先をお借りしてもよろしいでしょうか?」
長い黒髪に、眼鏡の奥でうるむ黒目。肌は、ともすれば病的なまでに白く、わずかに揺れる体は、今にも倒れそうなほど頼りなかった。
このような、病弱かつ可憐な少女に、男は弱いものだ。
警備の男子学生も、瑞樹の登場に驚きはしたが、追い返そうとはしなかった。
「まあ、そういうことなら、な。ちょっと、そこのベンチに座って待ってろ」
「すみません、お手数おかけします……」
誰であれ、美少女に頼られれば、悪い気はしない。男子学生は、瑞樹と一言二言、言葉を交わした後に、水を取りに店の中へと戻っていった。
その後ろ姿を見送った瑞樹は、先ほどの虚弱な態度はどこへやら、キリリと引き締まった顔で、空へ向かって小さく呟いた。
「見ての通りだ。外の警備は私が引き止めておくから、君たちはレシピの奪取に専念してくれ」
彼女の言葉をしかと聞いたとばかりに、夜闇の向こうへ、パタパタと小さな羽音が遠ざかっていった。
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「お帰り。よく頑張ったね」
『ふところ亭』から何軒も離れていない路地裏で、帰ってきた召喚獣にねぎらいの言葉をかける青年がいた。
彼の名は、望月直人(
jb2254)。今回の潜入における、裏方担当の撃退士だ。
「監視カメラは、正面玄関に1、裏口に1、一階フロアに1、二階フロアに1。これは、事前にみんなが集めた情報通りだ。ただ、従弟さんが見落としていたのか、事務室前の通路に、隠しカメラが2つある。これは、みんなに教えておかなくちゃ」
柔らかな金髪や、色素の薄い目が印象的なバハムートテイマーは、薄暗い路地裏に立って、スマートフォンを操作する。
そして、召喚獣を通して見たものをまとめ、仲間たちへとメール送信を行う。
これこそ直人の役割であり、潜入においては欠かせない裏方作業であった。
「建物の外で警備をしている学生は、瑞樹ちゃんに夢中だ。あれでしばらくは時間が稼げると思うけど、絶対じゃない。みんな、ここからは時間との戦いでもあるよ」
「了解した。望月、指示を頼むよ」
速攻で決めなくてはいけないという言葉に、仲間たちから同意の言葉が返ってくる。
彼らも、分かっているのだ。
色仕掛けなど、そう何度も通じるものではない。
今夜という機会を逃してしまえば、二度目の難易度は格段に跳ね上がる。
依頼解決のために形成された急ごしらえのチームとはいえ、いつも以上にスムーズに、確実に動く必要があった。
「行っておいで。いい子にするんだよ」
路地裏から夜空に向かって、再召喚したヒリュウを飛びあがらせる直人。
ここからは、悠長にメールで連絡などしてはいられない。
ヒリュウの目を通して、監視カメラや警備の学生の動きを確かめ、必要とあらばスマートフォンで仲間に指示を送る。
「見つからないように」、「事を荒立てないように」にと、依頼者から念を押されているのだ。
その希望に沿うために、情報共有の要となる直人は、より一層、神経を研ぎ澄ませる必要があった。
警備の学生が瑞樹に水を運び、ヒリュウが一階のトイレの小窓に潜り込んだのを確認した後、闇に潜んでいた者たちが動き出した。
足音を消し、気配を消し、自分自身すら闇の中へと消してしまう男たちは、『ふところ亭』の裏口に集い、素早く開錠に取りかかる。
「開きました」
わずか数秒で裏口の鍵を開け、事もなげにそう言ってみせるのは、寒河江 飛沫(
jb1571)。
変装のため、前髪を上げ、顔の下半分を布で覆った飛沫は、開いた扉の中に、仲間たちとするりと入っていく。
「見つからないように慎重に行動しないとな」
そう言って、ニット帽のつばを下げたレガロ・アルモニア(
jb1616)は、ハイドアンドシークで闇へと紛れる。
ナイトウォーカーにとって、隠密行動などお手のものだとばかりに、落ちつきを見せるレガロ。
彼は、夜の番人の代わりにサイレントウォークを活性化させ、頼りない明かりが灯った『ふところ亭』従業員用通路を進んでいく。
それに続くのは、トレードマークのサングラスを外し、飛沫と同じく顔の下半分を布で隠したミハイル・エッカート(
jb0544)だ。
学園生としてより、世界的大企業の秘密工作員としての時間が長かった彼は、スキルに頼らずとも足音を消すことができる。
靴の上から靴下を被せた足を滑らせるように動かして、やはり、音もなく進んでいくミハイル。
その後ろ姿には、確かな経験に裏打ちされた頼もしさが備わっていた。
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(あれか)
通路の角を曲がったところで、撃退士たちは足を止めた。
彼らの視線の先には、更衣室や従業員用トイレ、厨房や一階フロアへの入り口、そして、もう一人の警備の学生が詰めている事務室があった。
事務室の前には、造花で彩られた籠が吊るされ、壁には炭酸飲料を宣伝しているポスターが貼られている。
その二つに、事前に集めた情報にはなかった監視カメラが隠されているというのは、直人から伝えられた通り。
よくよく見てみれば、確かに、籠の網目やポスターに写るアイドルの目に、レンズらしきものが鈍く光っていた。
「ポスターの方って、壁に穴を開けてカメラを入れてるの? それに、籠の中までカメラとか……何だか、気合いの入った設備ばっかだねえ……」
呆れるように飛沫がぼやき、他の二人もため息を一つ吐く。
それもそのはず、店の入り口やフロアには一つずつしかないカメラが、事務室の前には二つもあるのだ。
普通は逆だろうと、三人は揃って心の中でツッコミを入れた。
しかし、いくらデタラメな警備状況でも、監視カメラは監視カメラ。しかも、二つも備わっているとなると、決して油断はできない。
いくら気配や足音を消そうが、事務室のドアへと向けられたカメラの目は誤魔化せない。
鍵を開けるために必要となる数秒という時間は、そのままそっくり、監視カメラに姿が映る時間となる。
二つのカメラから送られる侵入者の姿は、さぞかし警備員の危機感を煽るだろう。
鍵が開くと同時に増援を呼ばれるかもしれない。瑞樹が引き止めている警備員が、呼び戻されるかもしれない。
久遠ヶ原学園に通う学生は、誰もが撃退士であり、それ相応の力を持っている。
二人ばかりの相手とはいえ、何の考えもなしに踏み込めば、手痛いしっぺ返しを喰らう可能性もあった。
もちろん、そのことを理解していた撃退士たちは、策を持ってこれに当たることとした。
「おい! ちょっと来てくれ! はぐれ悪魔が店ん中に入っちまったんだ! あいつ、遊び半分に監視カメラにいたずらしてやがる!」
「あぁ!? さっきから映像が来てねえのは、そのせいか! 一階フロアと入口しか映ってねえぞ! ああ、もう、侵入者を防ぐのはおめえの役割だろ!」
今まで物音一つ聞こえてこなかった事務室から、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてくる。
その直後、勢いよく扉が開かれたと思うと、神経質そうな男子学生が飛び出て来て、急いで鍵を閉めた後、厨房へと向かっていった。
それと入れ替わるように事務室の前に立ったのは、飛沫とレガロ、そして、先ほどまで事務室のドアを叩いて大声を上げていたミハイルだ。
彼らは、にやりと笑って事務室のドアの開錠へと取りかかった。
「ミハイルさんの声真似、すごいですよね。本当に外の警備員そっくりで、何だかスパイ映画みたいでしたよ」
やはり造作もなく鍵を開けてみせた飛沫は、レガロに向かってそっと話しかける。
「ああ、あの人、妙に慣れているよな……案外、そっち系の仕事をしてた人だったりしてな」
「ははっ、まさか」
レガロの言葉に、小さな笑い声を上げる飛沫。
しかし、彼の脳裏には、スーツ姿にサングラスをつけ、ライフルを構えたミハイルの姿が、やたら鮮明に浮かんでいた。
「さて、手提げ金庫を確保できたな。後は撤収するだけだ」
「ですね」
事務室の机の上に置かれていた手提げ金庫を両手で抱えるレガロ。
ミハイルは、事務室から少しだけ顔を出し、油断なく左右を確認し、背後の仲間たちに合図を送る。
中で警備をしていた学生は、未だ厨房で怒声を上げており、戻ってくる気配はない。
このまま脱出すれば、依頼達成だ。
何だ、楽な仕事だったじゃないか。
彼らがそう考えた矢先、レガロのスマートフォンに直人から着信が入った。
「裏口は駄目だ! 今、外の警備員がそちらに向かっている!」
その小さな警告を耳にした二人は、次いで、裏口のドアが開く音と、トランシーバーに向かって何やら喚いている男の金切り声を聞いた。
厨房に向かった男が、早くも異変に気付き、外の警備員を呼び寄せたのだ。
このままでは、一階の従業員用通路で、挟みうちにされてしまう。となると、逃げ道は一つしかなかった。
従業員用通路を飛び出して、二階へと続く階段を駆け上がる三人。
その先には、テーブル席が並ぶフロアと、開け放たれた窓、そして、満月をバックに黒翼を広げて浮かぶ、ヨルの姿があった。
「開けといたよ」
「すまん、助かる!」
ふらり、ふらりと飛んでいくヨルに続き、飛沫とレガロ、ミハイルは二階から飛び出した。
そして、わずかに音を立てて着地した後は、闇に紛れるように『ふところ亭』から遠ざかっていった。
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「はい、ミハイルさんはチャーハンと焼きそば、飛沫さんもチャーハン、レガロさんにはジェノヴェーゼのパスタで、ネギたっぷりの親子丼は直人さん。そして、瑞樹さんとヨルさんには、当店人気ナンバーワンの海老カレー丼です。みなさん、どうぞ、召し上がれ」
依頼達成の打ち上げも兼ねて『まごころ亭』に集まった撃退士たちに、若き店主は希望通りの品を出した。
「俺は大抵の物は食べられる。だがピーマン、てめぇはダメだ!」
「ああ、ミハイルさん、そのチャーハンは僕のですよ。ピーマン抜きはこっちです」
「ふーん、人間ってこんな茶色くてドロドロしたのが好きなんだ」
「カレーと言え、カレーと!」
「親子丼は、やっぱりネギをたっぷり入れた方が美味しいよね」
「だな。ケチケチしていないのがいい。俺のパスタも、バジルたっぷりでうまいぞ」
和気あいあいと、料理に舌鼓を打ち、言葉を交わす撃退士たち。
最後の最後で危ない場面もあったが、おおむね、打ち合わせ通りに事が運んだのだ。
依頼人も満足させることができたし、評判の料理を口にすることもできた。
彼らが上機嫌となるのも、当然といえば当然の話だった。
「みなさん、本当にありがとうございました。『ふところ亭』さんも、査問委員会を怖れて、私に会いに来るでしょう。そこで、じっくりと話し合って、彼にとってもいい道を探してみようと思います。あんなことがあったとはいえ、同じ学生街で頑張っている仲間ですものね」
「ああ、そうするといい。美味くて良心的な店が増える事は俺達にとっても助かるからな」
食後、今後について語った『まごころ亭』店主に、レガロは笑って応えた。
他の撃退士たちも、何やらお人よしの店主にエールを送り、席を立った。
そして、「ごちそうさま」の言葉と共に、彼らは店の外へと去っていった。