●まばゆきこの世界で
エメラルド色の青草が、風に靡いている。
午後三時。夏の陽射しが燦々と降り注ぐこの草原は、光り輝くようだった。
――なぜこんなにもまばゆいのでしょう。
鑑夜 翠月(
jb0681)は胸を衝かれて、眼前の光景を見つめた。
澄みとおった空のせいか、光を零す青草のせいか。草原はやけに煌めいて見える。あまりにまばゆいので、記憶に焼き付いてしまいそうだった。〈彼女〉もそうだったのだろうかと、ふと想い。草原の色を映すような、翠月の瞳が悲しげに揺れる。
「こんな場所でディアボロを作って放置か、いや新たに派遣したのかな?」
隣に立つ龍崎海(
ja0565)が冷静に声をあげた。見はるかす草原の先に、クスノキの巨樹が聳えている。海はそれをじっと眺めると、思慮深げに呟いた。
「何のつもりなのかが気になるなぁ。依頼後、周辺の探索でもしておいた方がいいかも」
「そうですね。念のために確認しておきましょう」
静かな眼差しで、彩・ギネヴィア・パラダイン(
ja0173)が同意した。
「最近こんな事ばかりだ……」
ひっそりと呟いたのは、佐藤 としお(
ja2489)。その低い声音に潜む感情を聞き取るように、九鬼 龍磨(
jb8028)も重々しく頷く。
「……本当にね。最近、こういう底意地の悪い手口、増えたな。天使も悪魔も、的確に人の痛みや悲しみを突いてきている気がする。人を理解し始めているといえば聞こえはいいけれど……いや、それは後回しだ」
溢れる言葉を呑みこみ、毅然と顔をあげ。龍磨は厳かに告げた。
「あのご婦人を、ご家族の元へ送らないと」
それこそが、できる唯一のことなのだから。
ゆっくりと。面々が頷く。各々の決意が沈黙に滲む。それが作戦開始の合図となった。目と目を見交わしあうと、各自の潜伏場所へと向かい、おもむろに動き出す。
その最中、クレメント(
jb9842)はふと立ち止まり、大樹を今一度見つめた。
きらりきらりと光る青草の波のなか、高く枝葉を伸ばすその樹。梢は風に揺れ、地には広い木陰を落とす。
そこに、家族の影が見えた気がして。
「……そうですね」
吐息と共に声を落とし。
眼裏に蘇る記憶を、痛みとともに受け止めた。
●貴婦人は鳴く
草原のただなか。
低木に身を潜め、彩は前方にそそり立つクスノキを窺っていた。
青い木陰の、その縁に沿うようにして〈彼女〉は歩いて来る。
レースをふんだんにあしらった白いドレス。すっぽりと顔を覆うベールハット。手には日傘を持って、しゃなりしゃなりと青草を踏みしめる。絵画から抜け出たような、優美な姿はまさに――〈草原の貴婦人〉。
彩はすっと目を細め、黒と銀の双剣――右文左武を取り出した。離れて潜伏する龍磨、クレメントが視線をよこしてくる。それにまなざしで頷きを返した。
貴婦人が歩む。やがて目標位置へと、足をかける。
ごうっ、と一陣の風が吹いた。梢が揺れて、潮騒のような音を響かせる。それと共に、三人は一斉に駆け出した。むせ返るような緑の香のなかを、草の海を疾駆する。
貴婦人が異変に気付くのは早かった。走り寄る彩らを見て取ると、スカートの裾を持ち優雅に一礼し。踊るような足さばきで接近して、やにわに日傘を振り上げる。
「来る!」
最接近していた龍磨が叫んだ。重心を低く取りナイツシールドを構え。輝くオーラを身に纏う。目を惹かずにはいられない、まばゆき光。タウント。
無視することはできなかった。貴婦人は狙い通りに龍磨へと日傘を振り下ろす。直後、響いたのは轟音。先ほどの風とは比べ物にならない、陣風が巻き起こる。大気がビリビリと震え、風が刃となって襲い来る。
盾を持つ手が震えた。身体のあちこちに裂傷ができる。しかし軽傷で済んだのは、蜥蜴陣を構築したからこそ。はらはらと千切れ飛んだ青草が舞うなかで、龍磨は盾から顔をあげ。柔らかに笑って〈彼女〉に告げた。
「ごきげんよう、ご婦人」
――あなたを送りに来ました。
*
波打つ緑のなかに潜行し、としお、翠月、海はクスノキまでたどり着いていた。
木陰の先に、戦闘中の三人と一体の姿がある。龍磨が盾で押し込み、彩とクレメントが激しく攻撃を仕掛けているために、貴婦人がこちらを振り返る余裕はほとんどなさそうだった。
作戦はうまくいっている。としおはほっとして仲間を見やった。
樹上で翼を広げている海が、幹の反対側で猫のように潜伏している翠月が、微かな頷きを返す。ハンドサインを送りあい、各々の射程まで距離をじりじりと詰めていく。
貴婦人の後ろ姿を見つめ、としおはライフルを強く握りこんだ。
――こんな事する元凶はどこにいるんだろう……。
何が目的でこんな事するんだろう………いずれにせよ許せるもんじゃないな。
過去の事件が頭に浮かぶ。大切な家族を、その幸せを奪い、嘲笑する冥魔がどこかにいる。そう思うだけで怒りが溢れそうだった。ゆっくりと息を吸い、激情を収め。前を向く。
いまはただ。〈彼女〉をこの悪夢から解放する。それだけを想って。
海と翠月が射程距離に達した。素早く目を見交わす。
「皆さん準備はいいですか?」
スナイパーライフルSB-5を構え。としおは低く呟いた。
*
それは乱舞のように。
貴婦人は軽やかに攻撃を躱す。クレメントのシャイニースピアが、彩の繰り出す蛇の幻影がその身を抉ろうとするも、ひらり、ひらりと回避していく。
『イトシイアナタ、カワイイマリー。イトシイアナタ、カワイイマリー』
壊れたレコーダーのように呟いて、くるりと回り。接近した彩を目がけ、日傘を放つ。鋭い切っ先はその影へ――。
「失礼、ご婦人!」
龍磨が素早く割って入った。貴婦人の膝を蹴り飛ばしよろめかせる。危なげなく彩が回避したところを、クレメントが躍り出た。輝く槍で貴婦人を正面から打ち据える。
悲鳴をあげて。貴婦人が宙に舞う。ひらりとドレスが広がる。
その刹那。
蒼い光を纏った破魔の弾丸が、舞い跳ぶ貴婦人の背を貫いた。その重いショットに、身体が反り返る。続けざまに見舞われたのは、目に見えぬ闇の矢、ゴーストアロー。風を切る微かな音だけを残し。一瞬後には貴婦人の胸を射抜いている。としお、そして翠月の的確な攻撃。鮮血が散り。貴婦人がごぼりと血を吐く。そこに。
樹上で陰影の翼が踊った。降りかかるは、青玉の槍。
三度、貴婦人が反り返る。美しいドレスが見る間に血濡れていく。
大気を切り裂くような、絶叫が轟いた。連撃は恐ろしいまでの強力さで、〈彼女〉に深手を与える。
見事な、あまりにも見事な奇襲攻撃。
「うまくいったみたいですね」
としお、海と目を見交わし。翠月が安堵の色を滲ませた。
しかし息をつく暇はない。
地に叩きつけられた貴婦人は、すぐさま身を反転させ迎撃態勢を整えた。
眼前で阻む龍磨を認め、速やかに日傘を振り上げる。接近した撃退士達をも視界に捉え。渦を巻く風を、全霊を込めて振り下ろした。
近づく者を蹴散らす、風の衝撃波。龍磨が、クレメントが、海が。巻き込まれる。
庇護の翼は届かなかった。龍磨は悔しげに顔を歪め、蜥蜴陣を展開する。海はアウルの鎧を纏い、クレメントはスピアをかざし受けを取った。
風は強く、烈しく。その身を切り裂き、痛打する。
ぐっ、と。クレメントが呻いた。臓腑が壊れるような衝撃。酷い眩暈が襲いたたらを踏むが、足に力を込めて堪える。
よろめいた者を、貴婦人が見逃すはずはなかった。
『イトシイアナタ、カワイイマリー』
悲壮で虚ろな声をあげ、日傘の柄で突きかかってくる。その時。
「させません!」
後方から声があがった。翠月だ。魔法書から生まれた凶刃が宙を舞い、貴婦人の腹を抉る。絶大な威力に、〈彼女〉が真横に吹っ飛んだ。つんざくような悲鳴が上がり。その攻撃に乗じて、彩が迫る。素早く隣接すると、蛇の幻影を繰り出す。ギャッ、と。またしても悲鳴。海とクレメントが槍で追撃する。しかしこれは辛うじて躱された。
貴婦人は翻り、大地を蹴って駆け抜けた。龍磨のタウントを振り切り、日傘で突きかかる。矛先を変え、向かうは翠月の元へ――。
翠月の緑の瞳が見開かれた。その瞬間、響いたのは射撃音。輝く弾が空を切り、白い日傘の切っ先に着弾する。狙いがぶれたそれを認め。翠月は冷静に回避した。
「援護成功かな?」
大樹の下で、としおがにこりと笑ってみせた。
●草原に死す
激戦は続く。
数多の攻撃が繰り出されるも、しかし貴婦人は鮮やかに躱し。翠月が放つダークハンドをするりと避け、蒼空へと飛翔した。日傘を掲げ、紅く染まったドレスを揺らし。気品に満ちて〈彼女〉は飛ぶ。
龍磨が兆候を察知し知らせたために、追跡は容易だった。海とクレメントが飛翔し後を追う。
〈彼女〉の哀しい背を見つめ、クレメントは眉をひそめた。眼前にはクスノキの巨樹がある。
――この木陰で貴女は幸せだった。愛しい人たちと穏やかで尊い日々を送っていた。
痛むように、思いを馳せる。けれど。こんな事をしでかした悪魔を責めるつもりはなかった。私だって、と彼は想う。やってきたことは彼らと大差はないのだから。
隣で飛行する海が、グンとスピードを上げた。貴婦人に素早く近接すると、白き槍で薙ぎ払う。貴婦人は相対するも避けきれず、その強烈なダメージをもろに食らった。軽い身体が吹っ飛び、こんもりと茂るクスノキの枝葉に受け止められる。呻き声をあげ、〈彼女〉は自らを抱き留めた大樹を見た。
クレメントはクロスボウを掲げ、照準を合わせた。
緑に包まれながら、身も世もなく、貴婦人が鳴く。嗚咽のような声をあげる。
その声に胸が疼く。過去がよぎる。それでも。
「……ただ終わらせるだけです」
――罪なき魂が、清められることのない澱みに変わる前に。
黒曜石のような瞳が、苛烈さと静けさを湛え。
漆黒の堕天使は矢を放った。
びょう、と鳴る風切音。
颯のごとく迫りくるそれを、貴婦人は避けることはしなかった。
それだけでなく。
「自ら飛び込んだ……!?」
地上で〈彼女〉にライフルを向けていたとしおが、愕然として呟いた。
空には、つんざくような叫びをあげる貴婦人の姿がある。胸に深々と矢が刺さり、この世の終わりのようにもがき苦しんでいる。
いったい何が起きたというのか。貴婦人はクスノキの上で態勢を立て直すと、矢を放つクレメントへ、身体ごと向かっていったのだ。攻撃を仕掛けるのでなく、あえて矢に当りにいった。そんな風にとしおには見えた。
「うしろに、樹があったから、でしょうか……?」
翠月が隣でぽつりと呟く。
たしかなことは何一つわからない。ただの偶然かもしれない。けれど。
『イトシイアナタ、カワイイマリー!』
その声が、その行動が、〈彼女〉のすべてを物語っている気がして。
としおはぐっと唇を噛み、それでもライフルを彼女へ向けた。祈るように瞑目したのは一瞬のこと。毅然とした表情で引き金を引く。
悲しみはこの手で終わらせると、決めているから。
ドゥン、と。
大気を震わす衝撃音が響き、アウルの光を纏った弾が貴婦人へ命中した。翼をもがれたイカロスのように、〈彼女〉は落下する。青草の靡く、草原へ。
「やったのか?」
海が目を眇める。
しかし。青草が舞い散るなかで、ゆらりと〈彼女〉は立ち上がった。傷だらけのその身体で、残る力を振り絞り。震えながらも日傘を振り上げる。
放つは、渾身の衝撃波。
「危ない!」
龍磨は庇護の翼を広げ、翠月を庇った。彩が乾坤網を、海がアウルの鎧を身に纏う。身体が千切れそうになるほどの、そのダメージ。龍磨が膝をつく。彩が草原に倒れる。翠月が龍磨の、彩の名を呼ぶ。
さらに追撃しようとした貴婦人の前に、クレメントと海が立ちふさがった。これ以上は踏み込ませないと、瞳に闘志を漲らせる。
「ここに残っているのは貴女の思いの残滓。魂の欠片。戻りなさい。愛しいものたちの元へ」
言葉を鎮魂歌のように響かせ。クレメントは矢を射かける。海もそこに連なった。魔法書から青玉の槍を生み出すと、同時に〈彼女〉へと放つ。
『イヤアアアアアア!』
絶叫が轟いた。重い衝撃音の後に、貴婦人が地に叩きつけられる。はらはらと草が千切れ飛び、土煙が上がる。
しかし、それでも。まだ。
『……イトシイアナタ、カワイイマリー!』
愛する者の名を呟きながら、〈彼女〉はなおも立ち上がる。
「もういいんです。もう……!」
龍磨が顔を歪めて声をあげた。血を流しながら、ふらつく足を堪えながら。それでも〈彼女〉に語りかける。
「愛する夫も可愛いマリーも、ここにはもはや戻らない――二人の所へ、送りましょう」
貴婦人が耳を塞ぐ。いやいやと首を振り。龍磨へと切っ先を振り上げる。
しかし、それを彩が阻んだ。「神虎」の念動波で貴婦人を鷲掴みにしたのだ。見えない力に身体をぎちぎちと引き絞られ、〈彼女〉は鳴いた。この世の終わりのように。
もはや身動きさえ取れなくなった貴婦人を、苦悶の表情で翠月が見つめた。高く腕を掲げ、不可視の闇の矢を生み出し。
ごめんなさい、と〈彼女〉に伝える。
「僕には貴女も貴女の家族も元に戻す術がありません。出来る事と言えば、貴女を解放することぐらいです」
揺れる瞳。狂おしい胸。けれどそれでも。
〈彼女〉にとって、“解放”が救いになると信じるから。
「――恨んでくれて構いません。せめて、どうかご家族と共に安らかにお眠り下さい」
全霊の思いを込めて。それを――放つ。
ざあ、と草の海が靡き。
祈りの矢が、貴婦人の胸を貫いた。
●緑の木陰にて
すべてが終わったその後で。
一同は木陰の下に花束を献じ、黙祷を捧げた。
「こっちで過ごせなかった時間、せめて天国で親子幸せに……」
そう囁いたとしおの言葉が、撃退士達の想いを代弁していた。やるせなさを胸に抱えながらも、強く祈る。家族の救いを、切に。
周辺の探索はと言えば、はかばかしい成果は得られなかった。家族を引き裂く悲劇の「目的」は謎のまま、棚上げされたのだ。代りに見つけたのは、レースのハンカチ。ディアボロの素体――サラが生前に所持していたものだった。
「天魔をお墓に入れるわけにはいきませんし……せめて、お願いします」
遺品だけでも、共にと。
龍磨は親族に、それを渡すことができた。
風が吹く。草原を渡る涼やかな風が。
葉擦れの音に耳を澄まし、翠月はそっと呟いた。
「どこか……笑っているように聞こえます」
草の音が。家族の笑い声に聞こえて。
「そうですね。……そうだといい」
クレメントが静かに応え。海もゆっくりと頷きを返した。
皆が歩みだすなか、彩はそっと後ろを振り返る。
大きく、穏やかな緑の木陰を、茶の瞳を細めて見つめ。やがて小さく囁いた。
「Take a break,lady」
まるで返事をするかのように。木漏れ日が柔らかに揺れ、さざめいた。
〈終〉