●気怠い午後と昏い予感
淡く霞む空から降り注ぐのは、金色の陽光。
光の粒子が仄かな熱を持って舞い、全ての風景に薄い紗をかける。
影野 恭弥(
ja0018)はその光の只中にいた。猫のように目を細め空を仰ぐと、噛んでいた風船ガムを膨らませては割る。
静かで気怠い午後だった。まるで世界は平和だといわんばかりに、長閑な陽射しが辺りを照らす。それは眼前にある工場も、背にした件の倉庫にも降り注ぎ、光片がきらきらと煌めいて零れた。
「影野さん、ありがとうございます」
ふと声がして視線を下げれば、播磨 壱彦(
jb7493)が傍らに立つ。
倉庫に巣食う冥魔の偵察役を担った彼は、平和には縁遠い顔をして恭弥を見上げていた。
「一般人が不用意に近づいても困るし」
素っ気ない呟きを返せば、壱彦は、はい、と笑う。倉庫前で待機している恭弥の意図はそれだけではないことを、彼はよくわかっていた。
壱彦は静かに光纏する。目を閉じ遁甲の術で自身の気配を潜めながら、わずかに顔を歪めた。
(ディアボロの出現、それに行方不明のパートさんか…嫌な感じだな、不安が拭えないや)
二つの事象から容易く想像できる結末を思い、しぜんと眉根が寄る。
「最悪を覚悟はしておこう。でも、それでも……信じたい、とは思うな」
職員の生存を。
ぽつりと呟き、壱彦は目を開けた。持っていた携帯の送信ボタンを押し、澄んだ眼差しで恭弥を見れば、彼の鋭い金の瞳とかち合う。
目を見交わせば、合図はそれで十分だった。
そっと倉庫の扉を開ける。息を殺して、足を踏み出した。
+
「壱彦さん、今倉庫に入ったようよ」
携帯を手に呟いたのはフローラ・シュトリエ(
jb1440)。その言葉に御堂・玲獅(
ja0388)は小さくため息を吐いた。
「どうかご無事で帰って来て下さると良いのですが……」
「何かあれば駆けつけるわ。連絡が取れなくなったっていうことは、何かあった可能性が高いってことだものね」
フローラが携帯を振る。倉庫にいる彼らから場所は離れていても、密に連絡を取り合い、有事は駆けつける腹積りだった。玲獅が相槌を打つと、隣で向坂 玲治が(
ja6214)がちらりと見やる。
「倉庫はあいつらに任せてあるんだ。大丈夫だろ。俺達が出来ること、やってしまおうぜ」
これには全員がしっかりと頷いた。
(行方不明の人とディアボロ……か。考えたくはないけど、その人がディアボロなのかな……)
昏い予感がふと過り、フィル・アシュティン(
ja9799)の表情がにわかに曇る。胸騒ぎが収まらなかった。壱彦と同様の予想に至った彼女は、考えを払うように緑髪を振り、顔を上げる。
「曖昧なことで判断しちゃいけない。まずは情報を集める、だね」
意気込むように呟くと、足取りを速め、先へ行く仲間達を追いかけた。
●眠る人形と少女喪失
工場が閉鎖している今、近隣にある関連会社が職員の働き口となっている。
四人の撃退士達は、ここで早速聞き込みを開始した。
「久遠ヶ原の者だが、ちっとばかしいい……ですか」
慣れない敬語でぎこちなく話しかけた玲治に、パート職員は大らかに応じる。
「行方不明の人? 林さんのことだね。長い髪が印象的な、綺麗な人だった。針やミシンを使わせても上手くてね。だからというべきか……年配のパートからやっかまれて、酷い嫌がらせを受けていたんだよ。よく第三倉庫で泣いていたね。泣き止むまでずっと」
「第三倉庫……」
問題の倉庫だ。玲獅が呟き、四人は目と目を見交わす。フィルが後を引き取った。
「何かご存じありませんか。いつから行方不明だとか、他にご家族の方は……」
職員は眉をひそめる。
「私達が最後に見たのは、事件の日だよ。その日も酷い苛めに遭って、あの人が倉庫に姿を消したのを覚えてる。ちょうど四時頃だね。それきり連絡がつかないんだ。娘も行方不明だから、心配でね……」
「娘? どういうこと?」
フローラが素早く口を挟むと、彼女は頷いた。
「林さん、十四歳になる娘さんと二人暮らしなんだよ。旦那は亡くなったとかで、他に身寄りもなくてね。事件後連絡がつかないから、家まで様子を見に行ったら、もぬけの殻さ。机に勉強道具を広げっぱなしで、まるでちょっと出かけるみたいにして消えたんだ」
「そんな」
「そうだよ。事件の日に、二人ともね。娘さんは近所の人が家に帰るところを見たきり、いなくなったそうだけどね。怖いことだね……。仲の良い親子だったよ。林さん、娘が帰る五時頃までには、必ず仕事を終わらせて帰っていてね。二人暮らしだから尚更、寂しがらせないように、あの子の帰りをいつも暖かく迎えてあげたいんだって、そう言ってた」
職員の言葉に、各々が複雑な表情を浮かべる。静まり返った室内で、玲獅が静かに呟いた。
「一体何が起こっているんでしょうか……?」
+
裸のマネキンがずらりと居並ぶ中、身を隠すようにして壱彦は進んでいた。
(こういう時は小柄で良かったと思えるなあ)
心中で呟き、辺りを見回す。
床には死亡した警備員の血痕があり、当時の惨状をそのままに残している。眉をひそめながらも痕を辿れば、それは最奥の開けたスペースまで続いていた。
細心の注意を払い、マネキンの林をかき分ける。ミシン台の上にそっと顔を突き出し、一拍。
「!」
そこにいたのは、人形だった。
長い毛糸の髪に、ボタンの目。接ぎの当たった体にセーラー服を着付けたその人形は、壁に体を預け、ぴくりともしなかった。まるで本物の人形が佇んでいるように、静かに天窓から注ぐ陽射しを浴びている。
(眠っているのか?)
眉をひそめる。目をこらせば、人形の足元に重い鎖が巻きついていた。それはしっかりと固定され、台の上で拘束されているように見える。
一体何の為にそれはあるのか。壱彦は顔をしかめ、更に覗き込もうとした、その時だった。
「イヤアアアアアア――――――!!」
「――っ!」
耳をつんざくような女の金切声が響き渡る。
振り仰げば人形がすっくと立ち上がり、こちらへ駆け来ようとしていた。同時に銀針が舞い、空を切って飛来する。
人を食ったような不意の襲撃に、しかし壱彦は冷静だった。マネキンを倒し防壁にすると、迷わず走り出す。毒針が服に掠ったが、脇目も振らなかった。
「こっちだ」
出口から静かな声がし、銃撃音が響き渡る。恭弥だった。
悲鳴の上がる方へとライフルを連射し敵の注意を逸らす。
壱彦は耳を覆いながらしっかりと頷き、足に力を込める。持ち前のスピードで疾風のように駆け抜けた。
●ドールレディの鳴く夕べ
「とにかく、無事で良かったわ」
事の顛末を聞いたフローラは、息を吐いて壱彦を見やった。
彼はぺこりと辞儀をして返す。
六人の撃退士達は情報共有を終え、倉庫前に集まっていた。
既に日は傾き、美しい夕陽が西の空に輝いている。
その夕映えを横顔に映しながら、フィルはそっと俯いた。
(やっぱり、あの人がディアボロなのかな……)
手元の携帯には、倉庫内の生命反応を調べた玲獅からのメールがあった。“倉庫の奥に生命反応が一つ”という報告に、肩を落とす。敵の特徴からしても、行方不明の職員の目撃情報からしても、彼女がディアボロであることは確実であるように思われた。
おまけにその娘まで行方不明とは、何らかの事件に巻き込まれているとしか思えない。
ぎゅっと目を瞑れば、玲獅がそっと肩に手を置く。同じ色をした目を認め、フィルは小さく笑みを返した。
「五時だ」
恭弥が呟いた。同時に町内放送から五時の音楽が響き渡る。古いフランス映画のテーマだ。
哀愁のある調べに耳を澄ますと、やがて倉庫から女の泣き声が聞こえてきた。咽び泣くようなそれは、悲哀に満ちた沈痛な声。
玲治が眉根を寄せ、倉庫のドアを静かに開け放つ。
「逢魔々時を告げる声ってやつか? 五時のチャイムにしてはちと物騒だがな」
呟くと光纏し、素早く中へと飛び込んだ。
+
潜入しながら、フローラが手際良く周囲のマネキンをどかす。
六人は各自の射程限界の位置まで移動すると、積荷に身を潜めた。
倉庫の奥で響く女の泣き声が、徐々に大きくなる。
その声の中でそれぞれが目を見交わし合い、静かに頷いた。
まず動いたのは恭弥だった。スナイパーライフルを構えると、咽び泣く人形に照準を合わせる。
金の瞳に迷いはなかった。その人形が誰であったとしても、冥魔となった以上、討ち取ることには変わりがないのだから。
「鎖のおかげで行動範囲も狭い、狙い易い的だな」
低く呟くと、狙いを定めてショットを放つ。アウルの光を纏った弾丸は、過たず敵の脚部を撃ち抜いた。
「イヤアアアアアア――――――!!」
倉庫を震わせるような悲鳴が轟く。アシッドショットを見舞った左足が、白煙を上げて腐敗していた。皮膚である布は引きちぎれ、中から綿が零れ出る。縫合しようとするが、溶け腐る方が早くそれは叶わない。
人形が痛みにのたうつ隙を見計らい、次にフィルが動いた。倉庫の中程まで進んだ彼女は、アウルを足に貯め飛び上がる。マネキンの肩を踏み更に跳躍すると、阻霊符を取り出した。向かうはミシン台の奥。冥魔の元へ。
視認した途端、フィルの顔が曇った。
左足を押さえてしゃがみ込み、身も世もなく泣いている、長い髪のディアボロ。
(やっぱり、そうなんだね……)
ふと直感した。行方不明のパート。十四歳の娘の母。そのなれの果てだと。
痛みをこらえるように唇を噛みしめながら、阻霊符を発動させる。その時。
人形が不意に振り返り、金切り声を響かせた。同時に無数の銀針が形を為し、フィルへと向けて飛来する。初動が遅れ逃げ場を失った彼女の前に、躍り出る影がひとつ。
「私の後ろへ!」
玲獅だった。涼やかに声を上げると白銀の盾をかざし、襲い掛かる無数の針を見事にいなす。魔を払う白蛇の盾の前に、毒針は無力だった。かすり傷一つ与えない。
ありがとう、とフィルが息をつくと、玲獅も微笑みを返す。
人形が叫ぶ。悲しみから怒りへと変化したそれに、呼応するように無数の針が生まれ出る。玲獅が盾を構え直し襲撃に備えると、ふとミシン台の下で声がした。
「相手になってやるぜ、ボロ人形」
玲治だ。輝くオーラを放ち、指で手招きする。その挑発に人形は鳴き声を上げ、向きを変えた。感情のないボタンの目が彼を捉える。その目を真っ向から受け、玲治は口の端を上げた。
人形の腕が上がる。針が放たれようとした、その時。玲治の横で突風が吹き荒れた。出現するは氷の蛇。白い氷晶を散らしながら、光の速さで人形の脇腹に牙を立てる。
直後、つんざくような悲鳴が上がった。
「相手は鈍いし、射程距離も短い。予想通りね」
Eisschlangeを放ったフローラが静かに声をかける。負傷した人形は、全身に毒が回り痙攣を起こした。
「毒を以て毒を制するってところかしら」
フローラが呟くと、好機を逃さず壱彦が前に出た。その表情は晴れやかなものではなく、いっそ悲壮を帯びている。
「――っ!」
鳴き喚く人形の声に、そしてその素体となった女性を想い、思い切り顔をしかめ。それでも霊符をかざし炎の刃を放つ。
それは真っ直ぐに人形へと走って、爆ぜた。
痛みを全身で訴えるその冥魔。
それ自体がどんな悲劇を内包しているとしても。
「討つことだけが、楽にしてやる方法だ」
玲治が決然とした声で言い放った。
+
「動きが鈍いのなら、遠慮なく遠くから削らせてもらうわ」
フローラの言葉通りに、遠距離からの攻撃は極めて有効に作用した。
光弾が撃ち抜き、氷蛇が牙を剥き、炎の刃が切り裂き。
鎖に繋がれたドールレディは、白綿を散らしながら、銀針をばら撒きながら、舞台の上で踊り狂う。
右腕と左足を失った体で回る、死のワルツ。
おぞましい絶叫と、鎖の重たい音が、その舞を彩る。
やがてその声は言の葉を作り、意味を持って紡がれた。
『カエリタイヨオオオオォォォ――――! カエラセテヨオオォォォ――――!』
はら、と玲獅の瞳から零れる。
自身の意図と反して溢れるそれ。気付いたフィルが素早く手を握る。目は人形を見据えたまま、手が白くなるほど、強く握った。
『カエリタイヨオオォォォ――――!!』
異変が起こったのは、その時だった。
右腕左足が欠損し、右足も恭弥のアシッドショットによって完全に腐敗した人形は、その部位を捨て、這いつくばるように前へと進みだしたのだ。
鎖から解き放たれた人形が目指すは、右腕が飛ばされた場所。縫合する為に糸を伸ばす。
「させません、没収させてもらいます!」
躍り出たのは壱彦だった。鋼糸で腕を絡め取り、しっかりと抱きかかえる。人形は一声上げると、今度はマネキンの腕へと糸を伸ばした。
途端、破裂音が響き渡り、マネキンが一斉に粉砕する。
「この場、フィールドを使ってくると思ったよ」
恭弥だった。威力あるナパームショットで周囲の物を吹き飛ばし、縫合を阻止する。
人形が苛立ったように吠えると、ミシン台に転がった銀針が息を吹き返す。それは宙を舞って人形の頭上に浮かび、鋭い切っ先を揃え飛来した。
傍らにいる壱彦の元へ。
「!」
思わず目を瞑った壱彦に、しかし針は当たらなかった。そっと目を開ければ眼前に仁王立ちする玲治の姿がある。
「おいおい、俺を無視するんじゃねぇよ」
額から流れる血を舐め、唸るように呟く。壱彦を庇い、全身に毒針を浴びたものの、かすり傷程度で済んでいる。壱彦はその事実に息を呑んだ。
人形は鳴く。
「これで終わりにしましょう」
玲獅が静かな決意をもって呟くと、詠唱を始める。浮かび上がらせるは、聖なる鎖。
人形が啼いた。巻き付いた鎖が身体を縛り、苦悶の悲鳴を上げる。
その隙を逃さず、フィルとフローラが走った。
フィルの手に持つ白刃の剣が煌めく。それを舞うように高く振り上げ、飛び上がる。
「数多なる刃よ切り裂け……残影波閃!!」
美しい一太刀が閃いた。続けざまにフローラが飛び上がる。
悲痛な声を上げるよりも早く。痛みを感じる間もなく。その前に。
「あなたを解放してあげるわ」
澱んだ氣が辺りに満ちる。舞い上がる砂塵を浮かべ、人形を見据え。
氷刃を纏う細剣を構えると、渾身の力で振り下ろした。
●終章
最早動かぬ人形の、その背後に見つけたのは夥しい血痕と女性物のバッグ。行方不明の職員の物だった。
娘は何処に行ったのか、何故鎖で繋がれていたのか。全てがまだ謎の中にある。
ただ一つ分かっていることは、仲の良い母娘を引き裂き嘲笑した、冥魔の存在があるということ。
現場で見つかった手作りのお守りを握りしめ、フィルは唇を噛む。
中に入っていたのは、母娘の写真。幸せそうなその笑顔に、自身の過去がふと蘇る。
「なんで、こんなことになったの……?」
今はただ、嘆くことしかできなかった。