腹の音が鳴り止まない── それが厚木 嵩音汰(
jb4178)が抱える目下の、そして最大の悩みだった。
思えば、昨日の昼から何も食っちゃいねェ…… 鳴く腹を押さえながら、当てもなく廊下を流離う。金も無い。バイト代が入るのは今日の午後。それまで気合と水で凌がなければ……
ふと鼻腔をくすぐる甘い香り。嵩音汰は弾かれた様に匂いの元へと駆け出した。そこは料理研究会の調理場──化学実験室だった。卓上に並ぶ美味そうなチョコケーキの山…… ふらふらと入り込みそうになって、嵩音汰は慌てて足を止める。
(待て待て。見ず知らずの怪しい男がいきなり入っていって、ただでケーキをくれるだろうか? 否だ。ここは何か考える必要が……てかもう少し考えとけ昨日の自分。つかいい加減もう目が回ってきたので土下座でもすればひと切れくらいは恵んで貰えるのではなかろうかー)
一方、室内。
悠奈たちと同じ卓で調理をしたエプロン姿の月影 夕姫(
jb1569)は、卓上に溢れかえるケーキを見下ろし、その笑みを引きつらせていた。
「私としたことが…… ケーキ作りのテンションの高さで、材料と作る量を間違えたわ……」
ほっぺたにホイップクリームをつけたまま、呆然と呟く夕姫。同じ卓で、こちらは巫女服を襷がけにした彩咲・陽花(
jb1871)が苦笑しつつそれに答える。
「とりあえず、1ロールはお土産に持って帰るとして…… それでも流石に食べ切れないよね」
「う〜ん…… ここはやっぱり人海戦術で捌くしかないかな」
となれば、ネットの学内掲示板でケーキの配布(お茶会)を告知するのがいいだろうか。問題は会場の確保だが……
「食堂が一番良いだろうな。そちらの交渉は任せて貰おう」
いつの間にか、卓に嵩音汰が交じっていた。
これが嵩音汰の計だった。仕事に対する成功報酬なら、彼女らも心置きなくケーキを恵んでくれるはずだ。
驚く悠奈たちを他所に、報酬はケーキでお願いしますと土下座する嵩音汰。夕姫と陽花は苦笑しつつ、了承した。実質ただ働きに等しい事情を隠しつつ、笑顔で頼ることにする。
「じゃあ、食堂の手配はよろしく。取れなかったら、最悪、この部室でもいいわ。皆は準備と告知を始めて。『超甘党大歓迎』って文句も忘れずにね」
「私は飲み物の用意をしようかな? 珈琲、紅茶? とびっきり苦いのがいいよね。紗希ちゃんと加奈子ちゃんは手分けして購買とかからなるべくたくさん仕入れてきて。悠奈ちゃんは…… そうだ。ここは折角だし勇斗くんにも手伝って貰おうか」
大学部の夕姫と陽花を中心に、女生徒たちが動き出す。
作業に入った学生たちに向けて、夕姫が手を叩きながら呼びかけた。
「さぁ、なんとしても全部捌くわよ。……私たちの体重とプロポーションの為に」
●
「勇斗くん、灰慈くん! 青春は突撃だ! 獲得の為には手段を選んでいる場合じゃないぞ!」
「獲得って…… チョコを貰いにいくだけですよ?」
「甘いぞ、二人とも! 俺は幸運体質なのに、これまでなぜかバレンタインには恵まれなかった…… 義理チョコさえもだ! いつもいつも忘れていたと…… 俺は、お前たちに俺の様な思いはさせたくないんだ!」
勇斗と、そして桃枝 灰慈(
ja0847)に対して、珍しく熱弁を振るう秋武 心矢(
ja9605)。
その時、勇斗たちは初めて気が付いた。松岡の『指示』がバレンタインを模していることに。
「えーと、せんせい、それってこく……っ!?」
その巨躯に似合わぬほど狼狽し、顔を真っ赤に染め上げる灰慈。そんな彼等を見上げて事の推移を見守っていたシャリア(
jb1744)が、慌てて手を挙げ、質問する。
「えっと、その…… 私も、なのです……?」
「大丈夫だ。バレンタインの愛(チョコ)に性別は関係ない」
「ふぇっ!?」
松岡の返事に半泣きで驚愕するシャリア。訓練後の心地よい疲労(←かったるい倦怠感、の意訳)に任せてグラウンドに転がっていた草薙 十拳(
jb3975)は、あまりに適当な事を言う松岡にツッコミを入れた。
「いや、あちらサイドは配りたがっているんですよね? なら、こっちが何も言わずとも勝手にくれるんじゃないですか?」
松岡は笑った。まぁ、元々、勇斗に度胸をつけさせる為に言った事だ。別に『告白』する必要はない。
その言葉にホッと息を吐く灰慈。その服の端を背中からちょいちょいと引っ張られ、灰慈は「ん?」と振り返った。
「ねえ、ねえ、そのチョコケーキって、誰にお願いしたら貰えるの〜?」
なんかツインテールの可愛い女の子が、どこかワクワクした面持ちで灰慈を見上げていた。灰慈がしゃがんで説明すると、女の子はパァァ、と笑顔を輝かせた。
「いいな〜、いいな〜、食べたいな〜! とっても甘いと嬉しいな〜♪」
灰慈の周りをクルクル回る女の子。勇斗とシャリアは顔を見合わせた。訓練で見た顔ではなかった。
「はじめまして〜。ルルウィ、はぐれ悪魔なんだよ〜」
握手に手を差し出そうとして。ルルウィ・エレドゥ(
jb2638)はハッと気付いて引っ込めた。……ケーキに浮かれて思わずはしゃいでしまった。世の中にははぐれ天魔を嫌っている人もいるのに。
勇斗と灰慈、シャリアは顔を見合わせ、自ら手を差し出した。笑顔を取り戻したルルウィが両手でぶんぶんと握手をする。──嬉しい。やっぱりお菓子好きの人に悪い人はいないんだ。
「ねえ、ルルウィも一緒についていっていい? 一人で貰うの、恥ずかしいんだもん……」
3人が勿論、と答えると、ルルウィは小躍りして喜んだ。ぴょんぴょんと飛び跳ねり、次々と3人に抱きつくルルウィ。その光景を心矢が温かい眼差しで見守る。
「あー、お前たち、やっぱり『チョコください』って言って来いや。3人はもう少し度胸をつけといた方がいいだろうしな」
松岡の言葉に、和んでいた3人の表情が凍りつく。それを見たルルウィは、3人もチョコ貰うの恥ずかしいのかな、と小首を傾げた。
●
お茶会のスペースが確保できた、と嵩音汰から連絡を受け、夕姫は皆に移動を指示した。
嵩音汰が確保したのは中庭のスペースだった。食堂は営業中であり、しかも『商売敵』になるということで借り受けることはできなかった。お茶会の準備を始めた学生たちに教師が事情を尋ねてきたが、そちらは安原青葉の名前を出し、事後の申請で納得して貰った。
形式は立食形式。テーブルクロスをかけた長テーブルの上に、切り分けたケーキの乗った皿をずらりと並べ、紙コップに無砂糖のコーヒーと紅茶を用意しておく。
準備がすっかり整った時には、そこそこの数の学生が集まり始めていた。ネットの掲示板を見た者の他、十拳が広めた噂を聞いて来た者や、嵩音汰が声をかけておいた部活上がりと思しき体操服姿の生徒も多くいた。
夕姫は胸中で気合を入れた。──勝負はこの初日のみ。甘すぎる、との噂が立てば、以降は殆ど捌けないだろう。故に、この日に全てをかける。
配布開始の合図と共に、ケーキが皆に配られ始めた。最初の一口はあちこちから感嘆の声が上がった。二口目になると小首を傾げる者が出始め、夕姫がすかさず合図を出して皆に飲み物を勧めさせる。食べるのを止めた者には、夕姫が小声で囁いた。──ケーキは粗末にしないでくださいね。でないと『あの』青葉先生の『誅罰』が下りますよ……
「うぅ、なんか普通にケーキ配ってます…… でも、それで貰ったことにするのは、きっとよくないのです。……楽しちゃいけないのです」
シャリアがお茶会を遠目に見やって、胸の前で両の拳をキュッと握った。一歩、二歩、と前に出て…… だが、それもすぐに挫けた。やっぱり関係ない人から貰うのは恥ずかしい。
と、配り手の中に悠奈を見つけて、シャリアはその表情を明るくした。彼女とは最初の訓練の後、打ち上げで夕食を共にしたことがある。
「あ、あの、悠奈さん、です……?」
声をかけれた。相手は覚えていてくれた。その事実に気を強くして言葉を続ける。
「その…… 料理教室をやってるって聞いたのです。私も、にいさまに美味しいものを食べさせてあげたいのです。今度、お邪魔してもいいです……?」
「勿論だよ!」
笑顔を輝かせる悠奈。それを見たシャリアは申し訳ない気持ちになった。……これではダメだ。ちゃんと顔見知り以外の人からケーキを貰わなければ、自力で獲得したことにはならない……
「あ、そうだ。シャリアちゃんもケーキ食べる? 私が作ったんだけど…… って、あれぇ!?」
悠奈が振り向いた時、シャリアは既に別のテーブルへ行っていた。悠奈と同様に会話を向けて…… 良かったらどうぞ、と差し出されたケーキを受け取る。
「美味しそうなのです……! ほんとに貰っても良いのです?」
寮のみんなと食べるのです、と箱ごと受け取り…… 呆然とする悠奈をよそに、松岡教室の皆に『戦果』を掲げてみせる。
「シャリアちゃん、頑張ったなぁ…… よぅし、僕だって……」
それを見て、改めて気合を入れる灰慈。正直、自らの風貌にコンプレックスを持つ灰慈にとっては、衆人の中で「ケーキをください」と言うのも結構なハードルだ。だが……
「それじゃあ、勇斗くん。いってくる」
手にしたポテチの袋をギュッと握り、気合を入れて歩みだす灰慈。その歩みに自然と人込みが分かれて道が出来る。テーブルに辿り着いた灰慈は、ギュッと目を瞑って大きく息を吸い込み……
「僕にケーキを分けてください!」
一息に言い切った。
恐る恐る目を開ける。そこには…… 10個以上(女生徒全員分)のケーキがどっちゃりと置かれていた。
「っ!?」
「いや、だから、みんな配りたがってるんですって」
ぼそっと告げる十拳。灰慈の背に冷や汗が流れた。どこかの茂みの中から感じる青葉センセの気配…… 耳元に「残したら、全身に樹液を塗ったくって裏山に放置」という囁きが聞こえてくる……
「虫だけはっ! カブトムシだけはー!」
突然、勢い込んでケーキをかっ喰らい始める灰慈。ルルウィは感嘆の声を上げると、「ルルウィにもケーキくださ〜い!」と同様に山ほどケーキを貰った。「わ〜い、ありがと〜♪」と礼を言い、そのまま灰慈の横でぱくつき始める。
勇斗は一筋の汗を流した。……これで残るは勇斗のみ。だが、このままでは灰慈と同じ道を歩むは自明の理だ。
「ほら。そこで『告白』ですよ」
十拳がそうけしかけた。一人を指名してケーキを貰えば、灰慈のようにどっちゃりと貰うことはない…… かもしれない。
心矢もそれにのっかった。
「ほら、陽花ちゃんなら付き合いが長いから大丈夫だろ。恥ずかしいとは言わせんぞ。この機を逃したら、恋という青春を失うことになる!」
「恋っ!?」
背を押す心矢に抵抗する勇斗。じわじわと陽花の方へと押し出されていく勇斗の背に、ルルウィが「勇斗さん、がんば♪」と声をかける。
「あ、お兄ちゃん。ケーキ……」
「すまん、悠奈。お前からケーキを貰う事は禁じられている」
「ほへっ!?」
どんっ、と陽花の前に押し出され…… 勇斗は抵抗を諦めた。にこにこと笑いながら、あれ? 勇斗くんにしては珍しいね、と微笑む陽花。真っ赤になってふてくされながら、勇斗は覚悟を決めた。
「彩咲陽花さん!」
勇斗の叫びに、何事かと視線が集まる。勇斗は目を瞑った。……言葉を止めるな。ここで怯んだらきっともう声は出ない……!
「貴女のチョコを、僕に下さい!」
「はい、どうぞ」
あっけなく、ぽふん、と渡されるチョコケーキ。周囲から大きな歓声が上がった。
「ふむ。美味しいじゃないか。悠奈ちゃんのチョコケーキは」
なんか拍手まで湧き起こた現場を他所に、心矢は悠奈の盆からケーキを一つ取ると頬張ってそう告げた。
激甘に対する辟易を顔に出さずに食べ終える。兄の所業()にショックを受けてはいないかと、松岡の条件について語り、フォローする。
「わかってますから」
と呟く悠奈。その表情に動揺は見られない。
「妹として、複雑?」
心配して来た夕姫が訊ねると、やはり悠奈は首を振った。
「……お兄ちゃんって、結構もてたんですよ。でも、ここに来る前の私たちにはとてもそんな心の余裕はなくて…… だから、お兄ちゃんが誰かに興味を持てるのなら、きっといい傾向なんです。多分」
顔を真っ赤にする勇斗を見やり、大人びて微笑む悠奈。夕姫はその肩をギュッと抱き、心矢は無言でケーキを食べ続けた。
「でも、お兄ちゃんって鈍感だから…… 恋人になる人は、きっと苦労するんだろうなぁ」
囃し立てていた学生たちの注目もすぐに外れて。勇斗は陽花に向けて申し訳なさそうに頭を下げた。
「すいません。こちらの都合に巻き込んでしまって……」
「気にしないで。分かっているから」
微笑で勇斗に応える陽花。勇斗は再び頭を下げて…… ふと、ケーキと共に手渡された物に気がついた。
ケーキとは違う、小さな普通のチョコレート。多少、歪で不恰好なのは手作りだから、であろうか。
「あ、それはおまけだよ。バレンタインに渡せなかったしね。……不恰好なのは、気にしないでくれると嬉しいなぁ」
そうはにかんで見せる陽花。勇斗は感激に身を震わせ、顔を上げ…… 今ですか? と半泣きで呟いた。
「はい?」
小首を傾げる陽花が見ている前で、次々と勇斗に手渡されるチョコケーキ。単独指名でも彼女らの『お裾分け』を逃れることはできなかった。
あれぇ? と呟く陽花を他所に、ぐりんと十拳を振り返る勇斗。震える手で余ったケーキを口に押し込もうとする勇斗に対し、十拳はきっぱりとこう言った。
「遠慮します。私、甘いもの、苦手なので」
●
『盛況』の内に、『宴』は終わった。……ケーキ自体は余ったが。
あまりのケーキの量にダウンした灰慈と勇斗、心矢、十拳を他所に、一人、割り当て全てを食べ終えたルルウィは、皆を手伝うシャリアと共に後片付けをした後、ご機嫌で帰っていった。
仕事を終えた嵩音汰はバイトの遅刻が確定したが、報酬の他にもう一箱、言い訳用のケーキも確保していた。
「ふふふ、これさえあれば、多少の遅刻は大目に見てもらえるはず」
呟き、小腹を満たす為にケーキを口に入れ…… 瞬間、嵩音汰はその甘さに愕然とした。
「なん……だと……!?」
カロリーはともかく、こいつで腹は膨れない。更に言えばこいつは遅刻の『盾』にもならない。……遅刻が確定した今、今日、出るはずだった給料は、はたして今日中に出してもらえるだろうか……
後片付けを終えた女生徒たちは、中庭に車座になって座ると、覚悟を決めて最後に残ったケーキを呑み込んだ。
涙を流す女生徒たち。夕姫がゆらりと立ち上がる。
「私、これからちょっと訓練をするんだ…… 少しでも、減らさないと」
そのまま寮へ向けジョギングを始める夕姫。多くの女生徒たちがそれに続いた。