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深夜、久遠ヶ原学園。
神月 熾弦(
ja0358)とファティナ・V・アイゼンブルク(
ja0454)が、『誘惑の果実』を追って裏路地に足を踏み入れていた。
室外機やダストボックスが点在する薄暗い路地は、二人が並んで歩ける程度の広さしかない。
狭い道を抜けようとしたところで、二人はざらざらとした男の声を聴き取った。
ファティナが慎重に壁際から覗く。
彼女たちの立つ場所から、右折して十数メートル先の袋小路。
金網で出来たフェンスにもたれかかって、ひとりの男が携帯電話越しに何かを話しているのが見えた。
「……だから、売値なんざ適当に吊り上げりゃいいンだよ。……そうだ。一回でも使わせりゃこっちのモンだ。味を占めて向こうから寄ってくる。そうなりゃいくらでもボり放題よ。撃退士なんて言っても相手はガキだ、簡単に言い包められる……」
話している内容から察するに、おそらく惚れ薬を高値で売り捌く違法組織の一人だろう。
男を売人と判断するや否や、ファティナはすぐに動いた。
防犯用のカラーボールを取り出し、男に向かって投擲。
虚を突かれた男の腕に、カラーボールが命中した。
「くそっ! 追手か!」
売人はファティナたちの姿を認めると、その身を翻した。
慣れた動きで金網をよじ登り、逃走を図る。
二人も金網を飛び越えて男を追う。
売人は複雑に入り組んだ路地に入っていったが、さきほど付着した蛍光塗料が目印となっているため、暗闇のなかでも楽に追える。
とはいえ点在する邪魔な障害物は、夜闇のせいでよく見えない。
暗闇による視界不良を解消すべく熾弦が星の輝きを発動。少女たちと売人の周囲のみ、夜から昼に変わる。
周囲が照らされたことに気づいた売人は、少女たちに向き直り、懐から霧吹きを取り出した。
霧吹きの中には桃色の液体。
売人が霧吹きから、『誘惑の果実』を噴射した。
強力な薬効と即効性を備えた惚れ薬が、少女たちの前方に霧散していく。
これを浴びるのは危険だ。
熾弦が咄嗟に癒しの風を発動。アウルの光を伴った柔風を漂わせる。
発生させた風によって惚れ薬を吹き飛ばす、はずだった。
熾弦の隣にいたファティナが、その場に崩れ落ちる。
風で流れた微量の惚れ薬を浴びてしまったのだ。
「ファティナさんっ!」
熾弦が、倒れこんだファティナを抱き起こす。
ファティナの赤い瞳は、蕩けたように潤んでいた。
とろんとした眼差しが熾弦に向けられる。
熱っぽい吐息と共に、ファティナが口を開いた。
「シヅルさん……どうしていつも気づいてくれないんですか? 私はこんなにシヅルさんのことを愛しているのに」
その言葉が本心なのか、惚れ薬によって歪められたものなのかは分からない。
それでも、切実さを孕んだ声と表情でファティナが詰め寄る。今の彼女を突き動かすのは、熾弦への好意のみ。
熾弦が後ずさるが、すぐに壁際に追い詰められてしまった。
狭い路地。逃げ場はない。
銀髪の少女たちが、互いの吐息さえ触れ合う距離にまで密着。ファティナが真夏の雪みたいに熱くて白い指を、熾弦の手指に絡めていく。
困ったような照れたような顔で熾弦が弁明する。
「……ファティナさんは私にとっても、凄く大切な人です。でも、それはあくまで姉妹としてで……んっ」
首筋に熱。唐突な妹の愛情表現に、熾弦の声が半音上がってしまう。
「や、やめてください……ファティナさん……」
義従妹を引き剥がそうとするが、首を這う甘い感触に阻害されて力が出ない。
「好きです……大好きです、シヅルさん」
ファティナの溢れる想いと言葉が、義従姉である熾弦に零れる。
二人の背景に、百合の花畑が幻視できそうだった。
「へっ、なんとか撒いたか」
熾弦とファティナを振り切った売人が安堵の声を漏らす。
だが、安心するにはまだ早い。
売人の頭上に影。
空中から飛来してきた何者かがのしかかり、売人を地べたに押し付ける。
少女たちと共に売人を追っていた美森 仁也(
jb2552)が、闇の翼を使用して先回りしていたのだ。
持参したロープを使い、美森が手早く売人を拘束していく。
初撃で制圧された売人は、ろくに抵抗もできず縛り上げられた。
はぐれ悪魔がぼそりと呟く。
「わざわざ捕縛なんかしなくても、殺した方が後腐れないと思うんだがな……」
美森の呟きに売人が震え上がる。
男が懐に入れていた霧吹きが地面に落ちた。
転がる霧吹きを見て美森が眉をひそめる。もしも、自分の恋人がこんなものの被害者になってしまったら――。
美森は首を振った。恋人に被害が及ぶことなど考えたくもない。一刻も早く根絶やしにしなければ。
残る売人は三人。
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美森たちとは別の場所でも、撃退士たちは売人を追っている。
暗視鏡を装着した高峰 彩香(
ja5000)が、暗い路地の奥に人影を見つけた。
ハンドサインで仲間たちに発見を示す。
(慎重に、ね)
建物の角から覗くと、客と思しき学生に薬を手渡そうとする男の姿を確認。間違いなく売人だ。
彩香が突入の合図を出した。
腰に光球を下げたエーツィル(
jb4041)が男たちの前に出て、異界の呼び手を発動。
出現させた無数の腕を、的確に男へと伸ばす。
明かりがある以上、客と売人を間違えて束縛するようなヘマは犯さない。
勝負は一瞬で着いた。
動きを封じられた売人に、彩香が近づく。
「大人しくお縄についてもらうよ。大人しくしないなら、怪我しても恨まないでね?」
春の陽だまりみたいに素敵な笑顔を振りまきつつ、彩香が売人を威圧。
少女から並々ならぬ気迫を感じ、がくがくと売人が震える。同時に、密かに含んでいた『誘惑の果実』が口から零れ落ちた。
抵抗の意志を失くした売人と、ついでに逃げ遅れた客の学生を、エーツィルがロープで捕縛する。
「惚れ薬ですか……そもそも、こんなものが必要になることがあるのでしょうか……」
二人の少女が鮮やかな捕物劇を終え、イアン・J・アルビス(
ja0084)は押収した『誘惑の果実』を眺めながら呟いた。
イアンの言葉に売人が悪態をついたが、エーツィルによってスカーフで口を塞がれているので何を言っているのか分からない。
そのエーツィルといえば、客がいくら払って惚れ薬を買おうとしていたのかを聞き出して戦慄していた。
「そんなクソ高い値段で……っ!? コンビニスイーツ買い放題じゃないですの……プリン買い放題じゃないですの……!!」
神秘的な美女が独特の怒りを露わにするのを見て、イアンが苦笑する。
残る売人は二人。
「さて、業務外活動と行きますか」
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薄暗い路地の一角。
月詠 神削(
ja5265)が、不良学生を装って売人に接近することに成功していた。
「兄ちゃんよぉ、これ以上は値下げできねえぞ。だいたい、安い買い物じゃねえか。たかが十万久遠で誰でも思い通り、好き放題にできるんだぜ? たとえばこれを使えば……」
ちゃらついた格好の神削をドロップアウトした撃退士と思い込んだまま、売人が薬の交渉を続ける。
(……軟弱な物売り捌きやがって)
男の下卑た言葉を聞き流しながら、神削は内心で憤っていた。
怒気を押し殺した声で、神削が売人の説明を遮る。
「わかった、買うよ。だが少し待ってくれ。薬欲しがってる知り合いが、もうすぐ来るからさ」
売人が何か言おうとした時、携帯電話が鳴った。
すぐに売人が電話に出る。
「俺だ、どうした……何? 二人が捕まっただとっ? わかった、俺もずらかる」
売人は手早く通話を済ませると、うろたえた様子で神削に向き直った。
「悪いな、今日は店じまいだ。薬はまた今度に……なっ!?」
売人の隙を突き、神削は隠し持っていた蛍光塗料スプレーを噴射した。
蛍光塗料に塗れながらも、ようやく神削も追手だと気づいた売人が逃走。
「くそっ! 今日はどうなってんだ!」
売人たちは、これまで風紀委員の追跡を逃れ、時には逆上する不良撃退士も返り討ちにし、『誘惑の果実』で荒稼ぎしてきた。
それが、こんなガキ共に――。
必死な形相で売人が裏路地の暗がりを駆ける。
だが、蛍光塗料のせいで暗闇のなかでもどこにいるのか一目瞭然だ。
「逃げ場はありませんよ」
売人の行く手に、盾を構えたイアンが立ちはだかる。
小天使の翼で空を飛び、神削が足止めしている間に先回りしていたのだ。
神削とイアンに挟まれて、売人の動きが止まる。
「畜生がっ!」
売人は神削の方を向き、懐から水鉄砲を取り出した。
ただの水鉄砲ではない。中にはたっぷりと『誘惑の果実』が入っている。一滴でも付着させれば、撃退士をも行動不能に陥らせる、凶悪な惚れ薬が。
売人が神削に向かって誘惑の弾丸を連射する。
だが、所詮は一般人。
不意討ちで冷静さを欠いた状態で、すばやく動く撃退士に命中させることなど、出きるはずもなかった。
俊敏な動きで『誘惑の果実』をかわしながら、神削が売人に詰め寄る。
懐に飛び込んだ神削が、男の腹に強烈な一撃を叩き込んだ。
それは手加減された拳打だったが、一般人である売人の意識を刈り取るには充分だった。
気絶した売人を、合流したエーツィルが縛り上げていく。
残る売人は一人。
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(『誘惑の果実』のぅ……。惚れ薬で惚れさせ、何が楽しいのじゃろうか? 真実愛されているわけでもないというに。空しくはないのかの?)
召喚獣と共に売人を監視しながら、白蛇(
jb0889)はそんなことを思った。
白蛇は電柱の影に、召喚獣は反対側の上空から、裏通りにたむろする売人らしき男を見張っていた。
ふと、白蛇の携帯電話が振動。どうやら仲間の撃退士が到着したようだ。
「まあ良い。さっさと捕まえるのじゃ」
思考を断ち切り、売人の動きに集中する。
売人は懐から携帯電話を取り出し、どこかに電話をかけた。相手は、売人たちが所属する非合法商店の元締め。売人は小声で会話を済ませると、路地の奥に向かって逃げるように走り出した。自分以外の仲間が捕まったことを悟ったらしい。
このまま逃がすわけにはいかない。
白蛇が召喚獣に指示を出す。
「ゆくのじゃ、司」
主人に使役され、召喚獣が咆哮をあげる。発せられた特殊な鳴き声は、超音波となって売人の耳に響いた。
「ぐぁ……ぅ」
怯んだ売人を取り押さえるべく、白蛇が近づき、直前で足を止めた。
売人の周囲には、霧散された『誘惑の果実』が広がっていた。咄嗟に霧吹きで惚れ薬を撒き散らしたようだ。
近づくのは愚策と判断し、白蛇は後退して召喚獣による超音波攻撃を続行。足止めに終止する。
仲間が突入する時間を稼げれば充分。
――白蛇の傍らを、美森が矢のように駆け抜けていった。
誘惑の霧の中に、長身の青年が飛び込む。
しかし、美森の体に異変が起こることはなかった。
それもそのはず。『誘惑の果実』はすべて美森の体を透過していたのだから。
物質透過。確実性に欠ける危険な賭けだったが、なんとか成功した。
超音波で動けない売人を、美森がロープでしっかりと縛る。
これで、売人をすべて確保することに成功した。
見事な連携によって、彼らは風紀委員に頼まれた仕事を完璧に達成することができたのだった。
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無事に売人四名を捕まえた撃退士たちは、そのまま売人たちの身柄を風紀委員に引き渡すことにした。
「では、後はよろしくお願いしますね」
イアンの言葉に、風紀委員の少女がうなずく。
「今回はありがとうございました。あなたたちのおかげで、学園の風紀は守られたといっても過言ではありません。ですが……」
言いかけて、風紀委員の少女は口をつぐんだ。少女の視線は、顔を真っ赤にした銀髪の少女たちに向けられていた。
「…………」
「…………」
熾弦と、薬の効果が切れて元に戻ったファティナは、赤面したまま沈黙を貫く。
何があったのだろうと少女は思ったが、自身も恋人が『誘惑の果実』の被害者であるため、なんとなく想像はついた。言及しないほうが無難だろう。
「では、私はこれで失礼します」
風紀委員が去っていく。
何はともあれ、これで人の心を弄ぶ薬を絶つことができた。薬も押収できたし、あとは捕まえた売人たちが所属する組織を徹底的に調べ上げれば、この事件は完全に終わる。『誘惑の果実』が広まることもない。
ただ、この話には後日談がある。
売人を引き渡す際、実は白蛇がこっそりと『誘惑の果実』を持ち出していた。
他人に使うわけではない。召喚獣――司に使うためだ。
撃退士にのみ通用するこの凶悪な惚れ薬は、果たしてセフィラ・ビーストにも効果があるのか?
それを検証するための作業だった。
「別るーとにて再びこの惚れ薬が出てきた際に、役立つじゃろう」
そう言って、白蛇が司に『誘惑の果実』を飲ませた。
もしも効果が現れたら、すぐに送還してしまえばいい。
そう考えていた白蛇だったが、大切なことを失念していた。召喚獣に発生したダメージや肉体的不調は、そのまま術者にフィードバックするということを。
すぐに司に惚れ薬の効果が現れる。そして同時に、白蛇にも惚れ薬の効果が出た。
二人の金色の瞳にハートマークが浮かんだ、ように見えた。
白蛇と司が見つめ合う。
その後どうなったのかは、本人たちにしかわからない。
<了>