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理不尽に生を絶たれた少女がいる。
凄惨な光景に泣き叫ぶ子どもがいる。
惨劇から目を背けて嘔吐する女がいる。
恐慌に陥って、我先にと逃げていく人々がいる。
人間たちの悲鳴を聴きながら、街を見下ろす鴉の群れがいる。
そして、次の獲物を求めて目を血走らせる、般若面の巨大蜘蛛がいる。
秋田県男鹿市に到着した久遠ヶ原学園生や国家撃退士たちを待ち受けていたのは、そんな糞ったれの現実だけだった。
「紅い脚……食べたんだね。なら、もう引き返せないんだよ?」
スピネル・クリムゾン(
jb7168)の怒りを含んだような声に、漆黒の蜘蛛が八本脚をかさかさと動かして振り向く。その前脚や口元はべっとりと赤く塗れ、脚下には紅色の小さな海が出来上がっていた。
人間の血液量は、全体重のおよそ十三分の一を占める。
鬼蜘蛛の周囲に広がる約三.五リットルの血溜まりは、つまり哀れな少女の命が全て流れ出たことを意味していた。
喪われた命は二度と戻らない。
けれど、これから喪われる命を守ることのできる英雄が、ここにいる。
スピネルに続き、着物姿の小柄な少女が一歩を踏み出す。
「やあやあ、平成の源頼光一派とは私たちのことなの」
神埼 律(
ja8118)の言葉を継ぐように、颯爽と飛び出した千葉 真一(
ja0070)が叫ぶ。
「これ以上、お前たちの好きにはさせないっ!」
熱い言葉と共に、真一は光纏。ヒーローとなり、高らかに名乗りを上げた。
「変身っ! 天・拳・絶・闘、ゴウライガぁっ!!」
同じく光纏を終えた律も、鬼蜘蛛を見据えて静かに開戦を告げる。
「さあ、蜘蛛退治の時間なの」
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凄まじい機動力で、獰猛な巨大蜘蛛が大地を駆ける。
サーバントの素早い駆動を、スピネルが注意深く観察し、眼で追っていく。
土蜘蛛は、敵である自分たち撃退士ではなく、手近な一般人へと迫っているようにも見えた。
人間を見ると見境なく襲い掛かる性質なのだろうか? だとしても、そのまま危害を加えることは絶対に許さない。
一条の光が空を裂く。
「ったく、好き勝手に暴れてんじゃねェよ。ぶっ飛ばすぞコノヤロウ!!」
遠方から放たれたのは、長い射程を誇る氷晶霊符の刃。
陰陽師、獅堂 武(
jb0906)による攻撃だった。
ぎょろり、と般若の眼が武を捉えた。
闇の翼で飛翔するケイオス・フィーニクス(
jb2664)が、地上の国家撃退士たちに声をかける。
「人の子らよ。此処は我らに任せよ」
自分たちが鬼蜘蛛の気を引いている隙に一般人を早く避難させろ、とケイオス。撃退署からの増援は頷き合うと、手はず通り逃げ遅れた人々のもとに駆け寄っていった。
これで心置きなく戦闘に集中できる。ここからが本番だ。
地上班に先行して空中班が動く。
はぐれ悪魔のユウ(
jb5639)が闇の翼を広げて飛行。撹乱するように、鬼蜘蛛の頭上を飛び回る。
ユウの動きと連動するように、緋色の翼で空中に舞い上がったスピネルがプルガシオンの矢を発射。目潰しを狙って放たれた魔法矢は、咄嗟に首を動かした鬼蜘蛛の胴体部に命中して弾けた。
「うぅぅ……絶対あの目こっち見てるんだよぅ……もぉ〜ヤだぁ〜!!」
んべっ、と舌を突き出すスピネル。目や口を潰せれば有利になるだろうが、何の補助もないまま一発で決めるのは流石に難しかったか。
狙いが外れたことは残念だが、ユウやスピネルのアクションに、鬼蜘蛛は僅かに頭上を見上げた。鬱陶しい蝿でも見るような目で、凶貌の鬼がはぐれ天魔たちを睨む。
「今です!」
ユウが叫ぶのと同時に、律は地面を蹴っていた。
「エサをばらまいてあげるの」
鬼蜘蛛の意識が上空に逸れた一瞬を狙い、和装の少女が急接近。アウルで出来た蝶の群れが、至近距離から鬼蜘蛛に襲い掛かる。
忍法『胡蝶』。相手の意識を朦朧とさせ、動きを封じる技だ。
続いて律は、この隙を突いて鬼蜘蛛の高い脚の下へと滑り込もうとしていたが――その刹那、鬼蜘蛛が小さく唸った。
「っ……気づかれたの……!」
胡蝶が効いていない。特殊抵抗力が高いのか、バッドステータスを無効化されている。
迎撃するように低く構える鬼蜘蛛を見て、律は失敗を悟った。いかに小柄な律といえど、真正面から敵の懐に潜り込むのは簡単なことではない。
とはいえ、特殊抵抗力が高めであることを確認できただけでも収穫だ。
「交戦記録が少ないみたいだし、迂闊な真似はできないわよねぇ……未知の能力があっても可笑しくないもの」
後方でErie Schwagerin(
ja9642)が艶美な笑みを浮かべる。
悪魔の血を引く魔女、エリー。
魔術によって魂の器を拡張した少女は、一時的に魔性の美女へと変貌していた。
その姿は神を冒涜する獣に跨る者――『大淫婦』。
「ま、今後の為にもデータは多く取った方がよさそうね。いろいろ試してみましょ」
そう言って妖しく微笑み、エリーは炎剣を召喚。灰燼の書より生み出した魔法攻撃を、漆黒の巨大蜘蛛の各部へと向かって飛ばしていく。
光の翼で飛行する命図 泣留男(
jb4611)も畳み掛ける。
「スパイダーは好きなモチーフだ……だがッ! ブラックノワールでは、この俺の方が圧倒的に上ッ!」
サングラスにレザージャケット装備という漆黒の堕天使、メンナク。彼の周囲には異能封じの魔法陣が展開していた。
「喰らえッ! この俺の高ぶる伊達ワル魂がFUGA!!」
エリーの炎剣とメンナクのシールゾーンが、鬼蜘蛛へと到達。衝撃波が巻き起こる。
どちらも確実に命中した手応えがあった。
だが、魔法攻撃に優れて尚且つ冥界寄りである猛撃を浴びた割に、鬼蜘蛛の負傷度はエリーの予想よりも低い。シールゾーンによる封印にも失敗しているのが見て取れた。
「あの個体は、どうやら魔法に長けた種類のようですね……私が対峙した鬼蜘蛛とは、明らかに違います」
「成程な……やっぱり別ヴァージョンって訳か」
ユウが仲間たちに告げ、メンナクが頷く。道理でシールゾーンが通じないわけだ。
「ならば、これならどうだ?」
二人に続き、空中のケイオスが不意討ち気味に攻撃を放った。
焔の意匠を施された鉤爪状の指輪が輝き、赤色の魔弾が五連続で発射される。
死角を狙った一撃だったが、広い視野を持つ鬼蜘蛛は、上空からの攻撃にも反応して見せた。八本脚を素早く動かし、回避を試みる。
旧き悪魔は薄く笑った。
「ほう、その巨体でそれほどの動きができるか……だが、避け切れる一撃ではないぞ」
魔界の影響を色濃く受けるケイオスの攻撃。
対天界戦において、その命中精度と威力は凶悪なまでに高い。
炎のような魔弾が、緋色の流星群となってサーバントに降り注ぐ。
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確実にダメージは積み重なっているが、鬼蜘蛛はまだ倒れない。
鬼蜘蛛の正面に立つ武は、注意を自身に引きつけるべく氷刃を撃ち込み続けていた。
陰陽師の少年を標的に定め、巨大蜘蛛が迫る。
武は刀印を切って八卦石縛風を発動。石化の砂塵で迎撃した。鬼蜘蛛の顔面に石縛風が炸裂する。
石化は付加されない。だが特殊抵抗力が高いのは承知の上だ。
隙を作り、味方の攻撃に繋げるのが武の狙い。
「――ゴウライストリング!」
ゴウライガの放ったヴィリディアンが、黒々とした太い脚の一本を絡め取る。さらにユウがタイミングを合わせてパイオンの糸を繰り出し、脚に巻きつけた。
「普段それだけ動けていると、一組絡まるだけでも随分違うだろ!」
ワイヤーによる脚封じ。
だが、巨大蜘蛛はそれを強引に振りほどいた。高硬度を誇る脚部と超重量の巨体による力業。動きを縛ろうとした二人が鬼蜘蛛に引きずられそうになり、ワイヤーが解ける。
鋼糸に裂かれた脚からは血飛沫が噴き上がったが、こいつの機動力を削ぐのは中々骨が折れそうだった。
鬼蜘蛛の口元が光る。
「避けろっ! 魂の兄弟(ソウルブラザー)!」
不可視の糸を警戒していたメンナクの声が飛び、反射的に武が後ろに跳躍。見えない糸が吐き出された瞬間だった。回避したと思ったのも束の間、武の全身にほぼ無色の糸が纏わりつく。
「くそっ、ここままで見えにくいとは――」
威力は低いが、容易に避けきれないほどの命中精度だった。刀に持ち替え糸を解こうとする武だが、腕にも糸が絡まって自力で解くのは困難だった。
メンナクが迅速にサバイバルナイフを取り出し、武のもとへと急ぐ。
避けにくい技だからこそ、万が一味方が喰らった時のことを想定してメンナクは次善策を用意していた。
心優しき堕天使がナイフで糸を斬っている間に、スピネルが武の正面に降り立った。
「たけちゃんはあたしが護るんだよっ!」
スピネルが盾を構え、鬼蜘蛛の進撃を阻む。スピネルにとって武は、信頼している大切な友人だった。
「大事なお友達も仲間を、そう簡単には傷つけさせないんだよ!」
スピネルの言葉の意味を、狂猛なる漆黒の鬼は理解しえない。そんな知能も感情もない。
ただ本能の赴くまま、目障りな少女を排除せんと、鬼蜘蛛は爪を振り上げスピネルへと突き進んでいく。
鬼蜘蛛の身体に無数の血の線が走る。
「排除されるのは、あなたのほうです」
ユウの鋼糸による薙ぎ払いだった。
悪魔であることを自覚している少女は、自ら行った罪を生きて償い、その力を誰かを守る為に使うと決めている。
鬼蜘蛛の蛮行を食い止めるべく、全力で戦うユウの一撃は重い。天冥の差は強靭な眷属に大打撃を与えていた。
しかし――鬼蜘蛛はまだ倒れない。殺意を絶やさず、立ち続けている。
狂える鬼が、乱暴に前脚を振るった。鋭利な爪が連続で繰り出され、ユウの全身を深く切り裂いていく。
「おのれ……! ゴウライ、ナッコォっ!」
倒れた仲間の仇を討つべく、ゴウライガがブロウクンナックルを装備した拳を突き出した。『ROOT OUT!』のアナウンスと共に、稲光の如き閃光が走る。
必殺の薙ぎ払いが鬼蜘蛛にブチ込まれる。大打撃。
だが、やはりスタンが効いてない。
「まさか、スタンへの耐性を持っているのか……!?」
一部の天魔や眷属の中には、特定の状態異常が通じない個体が確認されている。カオスレートの乗った阿修羅の薙ぎ払いを二度も受けていながらスタンがかからないということは、このサーバントも、もしや――。
ゴウライガの思考はそこで途切れた。
鬼蜘蛛の爪が再度振るわれ、ゴウライガの腹や腕へと突き刺さる。
重傷を負った倒れたユウと真一のもとに、メンナクが急ぐ。
メンナクが駆け寄るより早く、鬼蜘蛛は倒れ伏す二人に牙を近づけた。
鬼蜘蛛が真一の頭に齧りつこうとして――ばっと頭上を見上げる。
黒き炎を纏う旧き悪魔が、そこにはいた。
「汝の思い通りにはさせぬ――これを受けるがいい!」
クロスグラビティ。
ケイオスが上空から落とした漆黒の逆十字架が、般若の頭に叩き込まれた。威力は絶大。がくん、と頭の位置が下がる。
スピネルが炎や闇の軌跡を描いて追撃。その手に握られているのは、彼女の身長を超える大剣だった。
魔法が効きにくいのならば、物理で。狙いは先ほどと同じく、鬼蜘蛛の眼球。
「出来ること全部してないのに、諦めたくないんだよっ」
叫びと共に、ウェントゥスブレイドがまっすぐと伸びる。突き出された刃は、偶然か必然か、鬼蜘蛛の右眼を刺し貫いた。
眼から血を噴出しながら、鬼蜘蛛が頭を振り乱して苦悶の咆哮を上げる。
訪れた最大のチャンスに、雷の如く飛び出した律が鬼蜘蛛へと突っ込む。何とか反応した鬼蜘蛛が、律に爪を振るって迎え撃つ。
「躱しづらいけど……一か八かなの……!」
律は地面を転がり、降り注ぐ鋭い前脚の回避していく。肩口や太腿を鬼の爪が掠めるも、直撃は免れた。着物ごと裂かれて激痛が走るが、致命傷ではないと判断。最後の賭けを続行する。
「硬そうな体してるけど、お腹の下はどうかわからないの……!」
攻撃を受けながらも懐に潜り込んだ律が、地面に背中をつけたまま思い切り下腹部を蹴り上げた。脚甲を装着した脚で。
鬼蜘蛛の腹に、律の脚が突き刺さる。般若の顔に悶絶したような表情が浮かんだ気がした。
「直接蹴るよりこっちのほうが痛そうなの」
思ったとおり腹部への一撃はかなり効いている。恐らくはここが弱点なのだ。
攻撃を終えると共に、律は離脱。迅雷の速度で後退していく。
そんな律を、鬼蜘蛛が怒りの形相で追う。律に噛み付き、喰い千切ろうとしたが、それは叶わなかった。
大きく開いた般若の口に、刃が捻じ込まれる。
「借りは返すぜ、サーバント」
糸を解いて動けるようになった武が、律との間に割り込んで、紅炎村正を突き出していた。口内を妖刀でずたずたに引き裂かれ、鬼蜘蛛が後ろに下がる。
それでもまだ倒れないのは凄まじいが、鬼蜘蛛はもう終わっていた。
「――蜘蛛の心臓って、腹部の背面にあるんだってぇ。あなたはどうなのかしらぁ?」
魔女の声は、鬼蜘蛛の背後から聴こえた。
エリーは瞬間移動で、鬼蜘蛛の後ろを取っていた。
いかに視野が広いとはいえ、流石に背中までは見えないらしい。何より鬼蜘蛛は、武やユウたちに気を取られ、背面への注意が薄れていた。
「随分と手ごわかったけどぉ……これでお仕舞いねぇ」
破壊のルーンを宿した赤髪の魔女が、決定打となる魔術を発動。
漆黒に染まった灼熱の槍が放たれ、巨大蜘蛛の無防備な背中に容赦なくブチ込まれる。
あらゆるものを燃やし尽くすと言われる黒槍を喰らった鬼蜘蛛が、あっという間に獄炎に呑まれていく。
猛火は彼女の心の闇を表すかのように、激しく燃え盛る。
黒い炎に炙られたサーバントが灰燼に帰すのを、エリーは恍惚とした表情で眺め続けていた。
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「この俺の放つ輝きで、身も心もとろけちまいな!」
レザージャケットの前をはだけながらメンナクの治癒魔法が施され、ユウと真一が気絶から回復していく。
同じ頃、男鹿市に出現したヤタガラスの掃討が完了したと、撃退署から連絡があった。
一般人の避難も無事に終わり、新たな被害者は出ていない。
その報告を聞いて、真一は安堵の表情を浮かべた。
鬼蜘蛛には苦汁を舐めさせられたが、人々を護り抜くことができたのは彼らの頑張りがあってこその結果だった。
「けれど、このサーバントを生み出した天使は一体どのような目的を持っているのでしょうか?」
ユウの疑問は恐らく全員の疑問でもあった。天使たちの真意を、今はまだ誰も分からない。
だが、敵について分かったこともある。
「真の伊達ワルは、目の前のことだけに惑わされないのさ」
さっそくメンナクは、鬼蜘蛛戦で得た情報をメモに纏めていた。後で学園に報告するためだ。
「他所も天使の動きが活発と聞く……この地が平穏になるのはまだ先のようだな」
ケイオスが苦笑する。東北での新たな戦いは始まったばかりだ。真の安寧は遠い。
凍てつくような寒風が、撃退士の傍らを過ぎ去っていった。