●
インプの長い黒髪が夜風になびいた。
緩慢な動きで、少女が風の来た方向に視線を向ける。
視線の先には、小さくなっていく人影があった。インプから逃げようと男が全速力で走っていた。
「…………」
それで逃げ切れると思っているの? とでも言わんばかりに小鬼が首を傾げる。ディアボロにしてみれば、ただの人間の全力疾走など退屈するような鈍さに違いない。
たんっ、とインプが軽く地を蹴った。次の瞬間には青年の頭上を舞い、かろやかに着地。
一瞬で、インプが青年の前まで跳躍していた。
「ひぃっ!」
異貌の少女の接近に、青年が短い悲鳴をあげた。逃げようとするが、人外の殺戮者への恐怖で足がもつれて転んでしまう。
倒れる青年に、容赦なくインプが腕を構える。手には槍の穂先のように鋭い五本の爪が並んでいる。軽く振るっただけでも人間の命を刈り取れる死の刃が。
鮮血が跳ねる。
それは青年のものではなく、インプの血液だった。
青年が見たのは、自身へと向けられた魔手が何かに弾かれた光景。撃退士ほどの動体視力があれば、インプの腕に撃ち込まれた黒いカードも見えたかもしれない。
カードが放たれた方角をインプが振り向く。暗赤色の髪に中性的な美貌の男が、夜空を飛んでいた。その背中には翼。
はぐれ悪魔の天耀(
jb4046)が、煽るように指をくいっと動かす。
「よう。殺したいなら俺にしな?」
「…………」
挑発を受けて、インプは標的を天耀に変更。相手がただの人間ではないことは直感的に理解していた。目の前に倒れる獲物よりも頭上の男を殺すべきだと、インプの本能が告げている。
本気で相手をしなければ自分が死ぬ。インプの意識が虐殺から闘争へと切り替わる。
インプの足がたわんだのを、天耀は見逃さなかった。
天耀が弾かれたように羽ばたく。直後、それまで天耀が存在していた空間をインプの爪が一閃する。
高速の一撃をかわされたインプが、中空で驚愕の表情を浮かべる。
「はっ、やっぱ跳んできたか」
跳躍攻撃を読んでいた天耀が、回避の勢いを利用して夜空を疾駆。そのまま来た方向へと踵を返す。もちろん挑発することも忘れない。
「どうした? 追って来いよ!」
天耀に扇動され、インプが地を蹴って跳躍。少女の姿をした鬼が、街路樹や屋根を足場にして弾丸のような速さで天耀へと詰め寄る。
だが、インプを弾丸とするならば、天耀は光線とも呼べる速度だった。
全速力で飛翔する天耀が、インプの追撃を振り切ってゆく。
やがてインプは広所へと出た。天耀の姿はいつの間にか見失っていた。
この場所へと誘導されたことに、インプは気づいていない。
空を切る音に、インプが身をかがめる。水平の落雷がインプの頭上を通り過ぎていく。
雷帝霊符を手にした仁良井 叶伊(
ja0618)が、物陰から姿を現していた。
叶伊だけではない。
「ふーん、ほんとに女の子のディアボロだぁ」
叶伊に続き、青髪の少女、鈴原 りりな(
ja4696)が現れる。
「こんな小さな子と……戦うの……?」
りりなの後方で、柏木 優雨(
ja2101)が戸惑うように呟く。
優雨の呟きに呼応するように、りりなが光纏。禍々しいオーラが噴き上がり、りりなの雰囲気が一変する。
「どんな姿であれ、悪さをする天魔なら私が壊してあげるよ」
一瞬前の無邪気な少女とは、何かが決定的に違っていた。それは、天魔に対する復讐心から生まれし狂気のせいか。
「ま、女の形してるってだけでもやりにくいっすよね」
九 四郎(
jb4076)が鎖鞭を構えながら言う。女性を傷つけることに罪悪感を感じるが、相手が敵の天魔であれば容赦をするつもりはない。
りりなと四郎の言を受け、優雨が決意したような顔つきで双剣を構えた。
撃退士たちの戦いが始まる。
四人の前衛がインプを取り囲むように動く。
慎重に間合いを詰めながら叶伊が戦斧ゴライアスを取り出した瞬間、インプが動いた。大地を蹴り、一瞬で叶伊の懐へと入る。
急接近したインプの瞳が赤く発光するのを見て、スキルによる精神攻撃が来ると読んだ叶伊が即座に盾へと切り替える。
敵の能力は事前に把握済み。視界を遮れば対処できるはずだと叶伊は考えていた。
だが。
深紅の光は、盾を透過して叶伊の心へと直接届いた。インプの魔眼に、物理的な防御は無意味、ということか。
魔眼を受けた叶伊に、しかし異変が起こることはなかった。
自身の能力が通じず戸惑うインプの側面に影。後衛の黛 アイリ(
jb1291)による援護攻撃だった。放たれた十字手裏剣を、インプは後方へ跳躍することで回避する。
――叶伊に魔眼が効かなかったのは、アイリによって『聖なる刻印』が事前にかけられていたからだった。同じく前衛のりりなにも刻印は刻まれており、二人の魔眼への耐性は一時的とはいえ飛躍的に高まっている。
そのことを直感的に悟ったのか、インプが次の標的に選んだのはアイリだった。前衛たちを無視するように突き抜け、小さな鬼がアイリへと迫る。
進むインプの前に、緑髪の女性が立ちはだかる。月影 夕姫(
jb1569)の周囲には、黒く光る五つの玉が浮遊していた。
「後ろへは行かせない。代わりにこれでも受けなさい」
夕姫の言葉と共に、五つの魔弾が一斉に弾ける。インプは素早く動き回って魔弾をかわすが、そこへさらに光矢が飛来する。
「アイリちゃんには近づけさせないっすよ!」
大谷 知夏(
ja0041)が弓を構え、次々に光の矢を放つ。夕姫と知夏の二人に足止めされ、インプは接近するどころか回避することしかできない。
その隙を前衛たちは逃さなかった。四人が視線だけで通じ合う。
まずは優雨がスキルを発動した。彼女の足元から波紋のように闇が広がり、巨大なムカデが顕現。インプへと襲い掛かる。
ムカデを避けようとしたインプの足元に爆発が起こる。それは撹乱のために四郎が放った炸裂符だった。炸裂符に一瞬だけ気を取られたインプに、ムカデが絡みつく。四肢に巻きつかれ、インプは思うように動けない。タイミングは完璧だった。
叶伊とりりなが同時にスキルを発動。叶伊がゴライアスを、りりながハイランダーを、それぞれ凄まじい速さで振るった。二重に放たれた高速の斬撃が、動けないインプへと到達する!
炸裂符の爆発と斬撃の衝撃波とで、白煙が立ちこめていた。
「やったかな?」
煙が広がっているせいで、りりなの位置からでもインプの姿がよく見えない。
不用意に追撃するよりも、念のために距離を取ろう、とりりなが一歩下がろうとした瞬間。
白煙からインプが飛び出てきた。りりなの全身に怖気が走る。妖しく光る赤眼と目が合ってしまったからだ。聖なる刻印はすでに消失している。
頭のなかを掻き乱されるような不快感が、突如としてりりなを襲った。まるで心をいじられているような感覚。これが魔眼の力か。
「っ! 厄介な能力だね。でも、だからこそ壊し甲斐がありそうだねっ! あはははっ!」
狂気的な笑みを浮かべ、りりなはインプに突進した。よく見れば何のことはない。さきほどの連携攻撃を浴びて、インプの体はぼろぼろだった。強烈な一撃を与えればすぐに倒れそうだ。
りりなが斜め横から大剣を突き出す。満身創痍のインプに――ではなく、味方である柏木優雨に。
りりなが敵に幻惑されたことに気づいた優雨が、咄嗟の判断でスキルを発動。現れた様々な虫の美しい翅が何重にも重なり、一つの盾を形成していく。
宝珠にも似た盾が、りりなの突きを受け止める。けれど、阿修羅の剣は易々と盾を砕いた。
衝撃で優雨が吹き飛ぶ。
「優雨ちゃん先輩!」
倒れた優雨のもとに知夏が駆け寄る。
優雨の右頬には、保護のルーンがうっすらと浮かんでいた。それは彼女の危機に現れる、もう一つの人格の刻印。
「平気、なの……」
頬に浮かんだはずのルーンは、いつの間にか消えていた。よろめきながらも優雨が立ち上がる。盾を展開させたことで、致命傷は防げたようだ。
優雨の無事を確認した知夏は、りりなの回復が先決と判断。りりなの方へと走る。
りりなの物理攻撃力は、八人の中では最も高い。味方であれば心強いが、敵となればその力は脅威と化す。早急に手を打たなければ危ない。
知夏が向かっていることに気づいたりりなが、大剣を構える。りりなの眼には知夏が敵に見えているのだ。
知夏が防御のために盾を取り出そうとした、その瞬間。
五つの魔弾が、りりなの進行方向へと撃ち込まれた。
それは夕姫による牽制攻撃だった。
「フォローに入るわ! 解除はお願いっ!」
間髪入れずに、夕姫が虚空のリングから第二射を放つ。
放たれた魔弾の連撃を、りりながすべて紙一重でかわしていく。
だが、もちろん夕姫には仲間に攻撃を当てるつもりなどない。回避に集中させ、一瞬でも動きを止められれば充分。
すでに知夏は、クリアランスの射程内にりりなを収めていた。
知夏の掌から、浄化の光が放たれる。
知夏たちがりりなを回復している傍らでは、四郎と叶伊がぼろぼろのインプと相対していた。
四郎がレヴィアタンの鎖鞭を振るうも、俊敏な動きでかわされていく。攻撃を潜り抜けたインプが、猛禽の爪を叶伊へと向けた。
甲高い金属音。
インプの鋭い爪を、叶伊が杖で受け止めていた。
インプに割り込むように四郎が鎖鞭を振るうが、インプは跳躍して回避。
「ちょろちょろしないでくれっす!」
さきほどの攻撃でだいぶダメージを与えたはずだが、あいかわらずのすばしっこさだった。
インプが動き出す。四郎たちの方に、と見せかけて傍らの少女たちへと。
狙われたのは知夏。咄嗟に盾で防御しようとするが、間に合わない。
インプの魔手が知夏へと迫る。
「――おい、俺にしとけって言っただろ?」
不意に聞こえた声に反応し、インプが弾かるたように跳ねた。それまでインプが立っていた地面を無数の鋼糸が切り裂く。
ゼルクを構えた天耀が、インプの行く手を阻むように割り込んだ。その隙に知夏が後退。同時に、何かのスキルを発動しているのがインプの目に映った。
邪魔をする天耀を先に処理しようと、インプが天耀の懐に一気に飛び込む。距離を取らせる隙など与えず、インプが魔眼を発動――したはずだった。
けれど、赤い瞳が輝きを放つことはなかった。
インプの顔に幾度目かの驚愕が浮かぶ。なぜスキルを使用できないのかインプには理解できない。
それの正体は、後退の際に知夏が展開した魔法陣――シールゾーンによる異能封じ。
困惑するインプの背後から轟音。好機を窺っていたアイリが、虚を突いて審判の鎖を撃ち込んだ音だった。
放たれた聖なる鎖が、インプの体を縛り上げていく。
「隙が出来た、囲んで!」
アイリの声に呼応して、前衛たちが動く。叶伊、りりな、優雨、四郎がすばやくインプを取り囲んでゆく。
包囲から逃れようとインプが足掻くが、知夏のシールゾーンにスキルを封印され、アイリの審判の鎖で肉体を麻痺されている。
完全に無力化されたインプに、もはや逆転の術は残されていなかった。
「これで最後です」
叶伊の言葉が、終局の合図となった。
撃退士たちの攻撃が、一斉にインプへと殺到していく。
●
戦闘を終え、がらんとした歓楽街を撃退士たちが歩く。
「被害の拡大は抑えられたかしら」
街を眺めながら、夕姫が呟く。新たに死傷者が出た様子はない。実際、被害者はひとりも出ていなかった。
迅速に行動した彼女たちは、充分すぎる成果をあげたと言える。
けれど、インプ襲来時に二名の一般人が死亡したという事実が、アイリの気持ちを重くしていた。
(あなたたちの犠牲は、決して忘れない)
かぶりを振って、アイリが悼む。その想いは、散っていった者たちにもきっと届くだろう。
「……はぁ」
アイリたちの後方では、りりなが肩を落として歩いていた。普段は明るい彼女だったが、その表情は暗い。魔眼に惑わされ味方を傷つけてしまったことが、りりなを自己嫌悪に陥らせていた。
(壊して良いのは悪さをする存在だけって、ボクはそう決めたのに)
そんなりりなを見かねて、優雨が声をかける。
「……私は、大丈夫なの。だから……元気出して、なの」
「……ありがと、柏木さん」
優しき狂戦士は、簡単には自分を赦せない。だが、こうして自分を労わってくれる仲間がいることに、少しだけ救われたような気がした。
りりなと並んで優雨が歩く。この程度の傷であれば、学園に戻ればすぐに癒える。気にすることなどない。
(――あなたは甘すぎるのよ)
不意に聞こえたそんな声に、優雨がはっとして振り返る。
後ろには誰もいなかった。
隣を歩くりりなが不思議そうな顔を浮かべる。
「……なんでもないの……」
そう言って、双貌の魔術士は再び歩き出した。