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「オキシドールを最低1L、だって?」
緊急の依頼要請を受けた斡旋所の所長は、翡翠 龍斗(
ja7594)の言葉に目を丸くした。
「ああ。オキシドール‥‥またの名を、過酸化水素。こいつは、消毒薬でもあり、酸素を作り出せるものでもある。100mlからだいたい、1Lの酸素が取れる計算だ」
「分解させる触媒があればだな」
「俺の血を使う。人間の赤血球には過酸化水素の分解反応を触媒するカタラーゼが含まれているはずだ」
所長はやれやれと首を振った。
「大根や人参、ごぼうをおろし金ですったものの方が早くないかねえ。あれにもカタラーゼは含まれているはずだが?」
まあいい、と所長は龍斗のリュックに、1Lのオキシドール瓶と、大きなゴミ袋を突っ込んだ。
「それにしても、あっさりした通報ですね。何というか、焦りが感じられません」
木嶋香里(
jb7748)が、依頼人であるトモエの話をまとめたファイルをめくった。
「要救助者のハルオさんは、現実に攫われているのに、『スマホアプリの脱出ゲームが得意だから、そんなに心配いらないと思う』って‥‥現実はスマホとは違うんですよ」
夜桜 奏音(
jc0588)がもどかしげに言って、着ている巫女服をぎゅっと握り締めた。
「何が起きるかわからねーからな、手早くいこうぜ」
ラファル A ユーティライネン(
jb4620)が面倒くさそうに言った。
正直、要救助者がスマホ中毒だろうが、依頼人の奥さんがスマホ三昧だろうが、そのガキが以下略だろうが、まあ、とにかくそんなことは彼女には関係ない。
ラファルの仕事は、天魔共を叩き潰して、その心を折る事だと考えていた。
「殺さなくていいと言うなら好都合さ。是非とも殺してくださいと言わせてやるぜ」
にやりと唇の端があがった。
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リュックを背負い、普段通りに目を閉じ、油断たっぷりに歩きスマホをして、柩男と鬼を誘い出す龍斗。
仲間は事件現場の港湾倉庫を張っている。
程なくして鬼が現れ、龍斗を殴って気絶させた。
いや、一般人なら気絶するレベルの攻撃だろうが、撃退士にとってはなんということはない。
だが龍斗は「うっ」と気を失ったフリをした。ダミーのスマホを取り落とす。
柩男が背中の柩に龍斗を収め、飛び立つ。
どこか――恐らく港湾倉庫へ運ばれていくのがわかった。
柩から解放されたと思うと、どんと背中を押されて、檻の中に押し込まれる。
がしゃん、と背中で檻の扉が閉められる音がする。
柩男は、檻の鍵の仕掛けをごそごそして、扉が開かないようにする。
モーニングスターをぶら下げた巨漢が、縦と横の列のピンが、合計9になっていることを、指を折って確認しているようだ。ゆさゆさと檻の戸を揺らし、確実に鍵がかかったことを確認する。
龍斗がアップグルントゴーグルで窺うと、暗い倉庫内は正面が全面シャッターになっており、その開閉装置が、シャッターのすぐ横に設置されている。従業員通用口は開閉装置のすぐそばだ。
柩男と鬼は、正面のシャッターを透過して出て行った。
「何か、ピンのようなものが複数刺さった仕掛けが、檻の鍵の役割をしているようだ」
ハンズフリーのスマホで仲間に連絡する龍斗。巨漢の行動も併せて伝える。
内部の状況と、柩男と鬼が透過で出て行ったことを連絡し終えると、酸欠でぐったりした人々をなるべく集め、オキシドールで酸素生成を始めようとした。
リュックを開けると、所長から「貧血になるなよ」とのメモつきで、大根、人参、ごぼう、おろし金までひとそろい入っていた。
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「透過ですか‥‥」
鷹司 律(
jb0791)は物陰に隠れ、唇を噛んだ。
ハイドアンドシークで身を潜め、ナイトビジョンで視界確保。
サイレントウォークで自身の音を消し、スナイパーヘッドセットで音を収集。
そして、柩男を途中から捕捉し、港湾倉庫の2番倉庫まで、尾行した。
そこまではよかった。
阻霊符を使えば、透過は妨害できるが、使用者の気配も悟られてしまう。
龍斗からの報告と、アサニエル(
jb5431)の<生命探知>で、中にかなり多くの人質がいると分かった現在、判断に迷う局面だった。
「あたしが<物質透過>で通用口のロックを開けたほうが良さそうかい?」
アサニエルは周囲を警戒しながら、律のもとへ進み出て、慎重に内側から通用口の鍵を外した。
「助かります」
律はそっと通用口から内部に侵入した。
倉庫内は、暗く、澱んだ重い空気が立ち込めている。
明かりは裸電球が幾つか点いているだけ。
巨漢の汗臭く息苦しい匂いも相まって、息をするのも苦痛なくらいだ。
空気を入れ替えなければ。
そう思った律は、正面口のシャッターの開閉スイッチを押した。
がらがらと音を立てて、シャッターが巻き上がり、外の光が、新鮮な空気が、倉庫内に流れ込んでいく。
何が起きたのか把握できないのか、不思議そうに目を細める巨漢。
雫(
ja1894)が走り込み、檻と巨漢の間に立ちふさがって、<ウェポンバッシュ>で巨漢をずるずると日光の下へ後退させた。
「暫くの間、私の相手をして貰いましょうか」
全長180cmもある両刃の大剣、太陽剣ガラティンを掲げながら、雫は巨漢を睨んだ。
同時に、巨漢と檻の間に<瞬間移動>したラファルが、<トラクタービーム砲「ハイメガマウス」励起>で巨漢を更に吹き飛ばし、『麻痺』を与える。
「取り敢えず檻は守っとくから、あとは任せたぜ。ちゃっちゃと片付けてくれよな」
そう言ったラファルの目にとまったのは、この倉庫を目指して歩いてくる小学生だった。
「おいあんた、止まりなよ! 近づいたら危ないって!」
<光の翼>で飛行して、倉庫周辺を哨戒していたアサニエルが、サカキに気づき、いち早く身柄を確保した。
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「とにかく、怪我なく人質開放を達成しましょう!」
ほの明るくなった倉庫内で、香里がピンのパズルに向かう。
「四つ角に挟まれた部分のピンを、各場所2本抜いて1本ずつにし、四つ角に各場所1本刺して、4本ずつにすると条件達成ですね」
檻の扉が開いた。人質たちの顔がぱっと明るくなる。
「助かるんだ!」という声もちらほらと聞こえてくる。
「まあ待て、皆、落ち着いて俺様の言葉を聞け」
ラファルは悠然と、巨漢VS雫の戦いを見ていた。
雫は危なげなく、巨漢の吹く炎を大剣で受けきっている。
一歩踏み込み、大剣を一閃。よろける巨漢。実力差は傍目に見てもぱっと分かる。
「こんな倉庫にこの人数じゃ、酸欠になっていても仕方がねえよな。お前ら、まだ素早い動きができねーだろ。まずは倉庫内に酸素を十分に取り入れて、回復を待ってから避難に入るぜ」
「気をつけてくださいね、このパズルキー、壊すと檻の天井部分が落ちてくる仕掛けになっているようです」
香里が、龍斗が酸素を作るために負った怪我を、<ダークフィリア>で治している律にも、注意を呼びかけた。
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「サカキ!」
ハルオと思しき男性が、アサニエルと奏音に保護されている小学生を見て、呻いた。
父の頭には大きなたんこぶが出来ており、切れた場所から少し出血もしている。
「パパは絶対大丈夫だって。脱出ゲーム上手いんだよ」
こどもスマホから目を離さずに、サカキはアプリゲームを続けていた。
「パパ、ここにいるんでしょ? 対戦させてよ」
不意に、日常では聞きなれない音がしていることに、サカキは気づいた。
目の前で、雫と巨漢が戦っている。
「何これ、ホログラム? 面白そう!」
目を輝かせ、不用意に近づこうとするサカキを、アサニエルと奏音の2人がかりで止める。
「なんだよ、離してよ。どうせなんかのゲームなんでしょ?」
「ゲームじゃないんです。これは現実です」
「そうだよ。死んだら最後なんだよ」
「死んだら、リセットすればいいじゃん」
「現実にはリセットなんて無いんだよ」
「何で? やばそうだったらセーブしとけばいいじゃん」
「人生にはセーブポイントも無いんですよ」
サカキは、本気で、現実とゲームの世界が区別できていない様子だった。
一方、檻の中。
サカキの名を呼んだ男に、龍斗は確認する。
「お前さんが、依頼主の夫か?」
トモエから通報を受けて駆けつけたことを龍斗が話すと、「はい、はい」と萎縮したサラリーマンのように、ハルオは頷いた。
捕まった経緯を聞くと、公園で鬼と柩男に襲われたのだという。龍斗も体験したパターンだ。
ここに閉じ込められているものは、スマホの所有の有無はさておき、不意をつかれて攫われたものが大半のようだった。
ハルオの家の事情を聴くうちに、龍斗の眉根が寄っていく。
「スマホ依存症の一家とは情けないな‥‥下手をすると、子供はゲームと現実の区別がつかなくなる。もしかしたら、手遅れかもな。人を殺しても、怪我をしても、リセットすれば、全ては元通り‥‥既にそう信じているかもしれん」
龍斗自身も妻のいる身だ。いずれ自分の子供を抱く日も来るかも知れない。
そんなことをつと思いながら、ハルオに言って聞かせた。
「全てをリセットできるなら、理想の世界ではあるが、そんな世界は現実にはない。失った時は、二度と帰ってこないんだ」
「わかっています。私は職を失った‥‥リセットできれば、どんなに良いかしれません」
泣きそうな顔でハルオはうなだれていた。
「いや、お前さんがわかっているかどうかが問題ではないんだ。俺は息子のサカキくんを心配している。相手は小学生だぞ。こどもスマホとはいえ、際限なく使わせていいものか、よく考えろ」
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ずずん、と大きな音を立てて、巨漢は倒れ伏した。
肩で息をしながら、それでも軽傷しか負うこともなく、雫は巨漢の背中を踏みつけた。
白銀の大剣、太陽剣ガラティンを掲げ、「よく見なさい」と雫はサカキに言った。
そして、サカキの目の前で、大剣を振りおろし、巨漢にトドメを刺す。
毒々しい色の血が噴き出して、地面を汚らしく染めていく。
鉄錆のような匂いが立ち込めた。
「目を逸らさないで。良く見なさい。現実にはリセットもセーブもロードも無いんです。命というものは、何かの拍子で壊れてしまったら、元に戻せない脆いものなんです。だからこそ、掛け替えの無いものなんです」
きつい口調で雫は言った。
「え‥‥嘘、これマジなの?」
サカキは動揺していた。
「何これ、血みたいのいっぱい出てるじゃん‥‥臭いし‥‥嘘だ、嘘だよね?」
「嘘じゃないんだ、サカキ」
ラファルが順番に人質を解放していく中、律に肩を借り、ハルオがサカキに歩み寄った。
「おじさん誰だっけ?」
大きなたんこぶと、額に流れる血、ぐしゃぐしゃに乱れた髪で、もう父親の顔ですら判別がつかなくなるらしい。
ハルオはサカキに自分のスマホのアバターを見せた。
「あ、パパだ!」
やっと認識される。
「スマホは便利ですが、ゲームのアバターを見ないと、親すら認識できないのですか」
奏音はため息をついた。
「サカキ君が、この世界をゲームのように思っているのも、家族の間でちゃんとした交流、ふれあいや会話がないのも原因の1つだと思います。今後はもっと会話をしてあげてください」
「早いとこ避難するぜ。柩男と鬼が戻ってきちまってからじゃ、面倒だからな」
ま、そんときゃ俺様が身を挺して守り抜いてやるけどな、とラファルは付け加えた。
ついでに、柩男と鬼に、お願いだから殺してくださいと頭を下げさせるくらい、ひどい攻撃を叩き込んでやるぜ、とほくそ笑んでいる。
要救助者たちも、新鮮な空気の入れ替えでしゃっきりし、光の元に戻れたこと、救助が来たことで、怪我はしているものの、すっかり元気を取り戻していた。
龍斗と律は、動けないものがいないことを確認し、少人数ずつ倉庫の檻から脱出する。
「依頼人と斡旋所に連絡しておかないとね」
アサニエルはスマホで通話を始めた。
斡旋所には、要救助者の正確な人数を伝え、至急運搬用マイクロバスの手配を頼む。
依頼人には家族との立会いを要求した。
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マイクロバスは、近くの病院へ向かった。
鬼によって打撲傷を受けたものが殆どだったため、皆、揃って手当を受けた。
しかし、ハルオの傷の手当だけは、看護師さんではなく、家族であるトモエとサカキにやらせることにした。
「まずは顔を見て抱きしめてあげてくださいね」
香里は、無事に助かったことを家族に直接伝えるよう促し、お互いに感じたことを話し合える様にお手伝いをしようとした。
「サカキ君に、世界はゲームでないと理解させ、家族にもっとコミュニケーションを取らせるには、どうしたらいいかしら?」
「私は肌と肌のふれあいが絆になっていくと思います」
奏音の言葉に、香里は笑顔で答えた。
サカキは父の傷を間近に見て、血を拭う手伝いをして、脱脂綿で消毒液を塗る作業を手伝った。
トモエが傷口にガーゼを押しあて、あとは看護師さんが手際よく包帯でガーゼを固定する。
たんこぶは内出血が止まるまで冷却するらしい。
「アプリなら、やくそうボタン押せば治るのに。パパは何ですぐに治らないの?」
「アプリじゃないからよ」
トモエの言葉に、「そうですよ。これが現実なんです」と香里が付け加えた。
「あの、倒れたおじさんは死んだの? おねーちゃんが殺したの?」
サカキに問われて、雫は冷たい態度で「そうですが?」と答えた。
「あのおじさんがパパを痛い目に遭わせてた、牢の番人だったの?」
結局脱出ゲーム気分のままなんですね、と思い、雫はつっけんどんに「それが何か」と流した。
後から、無意識に自分が、サカキにきつくあたっていると気づき、反省する。
「自分が欲しているものを蔑ろにされて八つ当たり‥‥なんて、未熟ですね、私は‥‥」
欲しているもの――それは、家族の絆。
「冷静さを取り戻したら、お詫びに行かないといけませんね」
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その後。
撃退士たちは、新たなる犠牲者を増やさないため、戻ってきた柩男と鬼を待ち伏せて討ちとり、倉庫内の檻は完全に解体し、焼却処分することにした。
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「サカキ。明日はパパと動物園に行こう、そうしよう」
トモエの伝手で再就職も決まり、ハルオはサカキを頻繁に外へ連れ出すようにしていた。
「動物園? そんなアプリあったっけ?」
「いや、生きている動物と実際に触れ合ったり、目でしっかり見るのはスマホでは出来ないからな。ゾウは本当に大きいんだゾウ〜」
「面白くないよ、パパ」
そう言いながらも、徐々に徐々に、サカキは変わっていった。
傍目にはこどもスマホ中毒のままだったが、食事の時間はスマホを置くことも覚えた。
ファミリーメールでの会話も減り、自分の言葉で伝えるようになった。
そして、何よりも。
図画工作の時間、両親の代わりにアプリのアバターを描いていた彼は、今では、拙いながらも、人間に見えるような何かを、3人、画用紙に描くようになっていた。