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――心愛楽、のどこが不満なの?
心に愛が満ちた人間になりますように、楽しいことでいっぱいの人生になりますように。
そう、おかあさんとおとうさんが祈りを込めて、決めた名前よ。
読み方だってわかりやすいし、改名したいなんて、ワガママだわ。
心愛楽、どうしても名前を変えたいならね、「さいばんしょ」に行かないといけないのよ。
「さいばんしょ」にお世話になるには、なんじゅう万円もお金がかかるのよ。
「えっ」
沢田心愛楽(さわだ・こあら)は、蘇芳出雲(
ja0612)の言葉に耳を疑った。
「改名手続きは、手数料+αだけで済むんですか? 家庭裁判所に関わるには、もっと大金が必要だと、常々母から聞いていたのですが‥‥」
「母親から、ですか‥‥」
出雲はため息をついた。親は彼に、よほど改名させたくなかったのだろう。
天魔が心愛楽に、何らかの方法で間違った知識を吹き込んだのだろうと、出雲は予想していたのだが、事実は違ったようだ。
「但し、正当な事由がなければ改名は認められません。心愛楽というあなたの本名が、社会生活上支障があると認定されなければいけません。『心愛楽』がそれに当てはまるかは、珍名の多いこの時世、僕にも保証はしかねますね」
出雲は続け、轟闘吾(jz0016)をちらりと見やる。
「轟さんが、通名の使用を勧めたのは、あながち間違いではないでしょう。日常生活で通名を、少なくとも10年間以上使い通せば、改名はより認められやすくなりますから」
観察狂のアイリス・レイバルド(
jb1510)は、じっと心愛楽を観察していた。
今の心愛楽は、改名費用の現実を知り、そしてそれを隠していた両親の意図を知って、愕然としていた。
アイリスの髪が青灰色に変化し、<マインドケア>を心愛楽に試す。
「沢田。落ち着くために茶でも飲め」
同時にことんと、応接室のテーブルに、湯呑を置いた。
「あ‥‥有難うございます」
心愛楽は茶をすすった。
その間にアイリスは<異界認識>を試みる。結果は白。彼は普通の人間だった。
(今まさに、この瞬間を見張っている者がいるかもしれないです)
知楽 琉命(
jb5410)も光纏し、<生命探知>をかける。
だがこの場所は、学園内の応接室のひとつ。
廊下を通り過ぎる学生や教職員の気配に、<生命探知>はいちいち反応した。
(‥‥場所が悪すぎますね)
琉命は、心愛楽がお茶で落ち着いたところで、ゆっくりと事情を繰り返し、聞き出した。
どんな内容にも反論せず、聞き役になり、具体的な話が聞きだせるよう、心を砕いた。
「なるほど。きみの家を淑女的に見せてもらいたい。その折に、身長・体重、手や足のサイズなどを測らせてもらっても、構わないだろうか?」
アイリスの言葉に、心愛楽は首を傾げながらも、頷いた。
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ヤナギ・エリューナク(
ja0006)は、学園の図書館で過去の新聞データベースを検索していた。
心愛楽の両親が襲われたという、天魔事件の概要を調べる。
「これじゃねーか?」
高速道路をおり、暫く市道を走ったところで発生した、奇怪な事故。
被害者は中年夫婦。遺体は見つかっていない。
見えない何かにぶつかったかのように、新聞の画像に残る、ねじくれてひしゃげ、炎上する車。
柩を担いで空へ飛んでいった男を複数見た、という、目撃者の証言。
車の持ち主は沢田姓で、年齢的にも心愛楽の両親と合う。
「豪に両親の名前、聞いときゃよかったゼ‥‥だがこれで間違いなさそーじゃねーかな」
ヤナギはプリントボタンを押し、新聞記事を印刷した。
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フェリーが行く。
久遠ヶ原島を離れ、一行は心愛楽の住んでいる地域へ向かっていた。
「コアラなんて可愛い名前だべ」
心愛楽の隣に近づき、御供 瞳(
jb6018)が緑の髪を風になびかせた。
黒い肌に、茶色い瞳がくりくりとしている。
「だども、どんなに可愛くても、親が子供につけていい名前じゃないべなー。オラの名前も、逆さに読んだらば、ヒトミゴクウになっちまうっちゃよ」
どこの方言ともつかない口調で、瞳は続ける。
「今回の事件が天魔の仕業なら、どえらい狡猾だべ。人間が逃避する最後の砦である夢を悪用しているとしたら、オラ絶対に許せないべさ」
心愛楽の親戚の家に近づく。
「捜査の基本は足で稼ぐって、ドラマで見ました♪」
自身も名前に悩む、華子=マーヴェリック(
jc0898)は、行方不明の親戚のおじさんの足取りを追うことにした。
華子は、心愛楽の親戚に、行方不明のおじさんの写真を借りる。
親戚一同は、誰もおじさんの心配をしている風ではなく、「あの人は自由人だからねえ」「きっとそのうち、ふらっと帰ってくるわよ」と、慣れた様子だった。
「何処に行っちゃったんでしょう?」
心愛楽本人、警官、ご近所の人達、他の親戚達に、おじさんの事を聞いて足取りを追う華子。
おじさんの職業は、無名の登山家で、自称セミプロカメラマンでもあるそうだ。
何度か、写真の大会で賞をもらっているらしく、カメラ型のトロフィーが幾つか飾ってあった。
行動、性格は自由奔放、豪放磊落といった感じで、近所の飲み屋にもよく顔を出していたという。
酒が入ると、心愛楽の名前を笑いものにして、よく遊んでいたようだ。だが心から莫迦にしている様子ではなかったと、飲み屋のおやじは証言した。
寧ろ、甥である心愛楽を可愛がっていたほうではないか、と。
確かに、心愛楽の部屋には、おじさんからプレゼントされた沢山の風景写真が飾られていた。
あたたかい風の吹くある夜、家で酒を飲み、心愛楽をイジって遊び、そのままふらりと出かけ、飲み屋で飲み直し、公園のベンチで寝入って、‥‥行方が絶えた。
その夜、心愛楽は例によって、悪夢を見たという。おじさんを刺し殺す夢を。
華子が公園へ行ってみると、僅かながら、ベンチに血痕が変色したような黒いシミが見つかった。
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ヤナギは悩んでいた。
心愛楽の両親が襲われた理由が、いくら調べても、わからないのだ。
偶然天魔の目にとまったのか、それとも何か理由があるのだろうか‥‥?
「時に豪、お前は両親を死に追いやった天魔にゃ、どんな感情を抱いているんだ? そいつは復讐したい対象に入らねーのか?」
「‥‥復讐したいとは、思います。でも、おれには撃退士さんを雇うお金がないですし、天魔に立ち向かうなんてできっこないですし‥‥諦めています」
心愛楽はうなだれた。
「じゃあ、質問を変えるぜ。夢の中で豪は、どうやって他人の家に入ってんだ?」
「わかりません。気づいたら、刃物を振りかぶっているんです」
悪夢を思い出し、震える心愛楽。
心愛楽の部屋は、こざっぱりと整えられていた。
両親の遺品と言われるフォトフレームに、出雲が目を向ける。
「これは沢田君の趣味ですか?」
「あ、いえ、写真はおじさんの趣味‥‥仕事かな? とにかく、おじさんにもらったもので」
その写真を撮った者が、行方不明で、あの悪夢にも出てきていることを、心愛楽は告白した。
「フレームは確か、『両親の遺品』として渡されたものでしたよね?」
「はい。警察の人から、無事な遺品はこれだけだったって‥‥あとは車と一緒にダメになったって‥‥」
ヤナギは新聞記事の画像を思い出す。炎上する、ひしゃげた車。
記事は手元にあるが、心愛楽の前で取り出すのは気が引けた。
「ちょっと写真を失礼しますね‥‥おや?」
出雲がフレームを掴み、写真を引き抜こうとする。写っている人物は、確かに心愛楽にそっくりだった。しかし。
抜けない。
撃退士の力で引っ張っても、写真もフレームも、びくともしない。
光纏し、出雲が<中立者>を使用してみても、カオスレートがわからない。
青灰色の髪のアイリスが<生命探知>と<異界認識>を使用した。
この部屋にいる人数より、明らかに多い生命反応。
そして、想像通りの、天魔反応。
「沢田。フォトフレームにつけた傷がきみと連動するか、確認したい」
アイリスはそう言って許可を取り、そっとフォトフレームを叩いた。
びくともしない。
物質透過を使用して、写真を引き抜こうとしても、何故か透過できない。
「か、硬いな? どういうことだ?」
終いにはV兵器を持ち出して殴ってみるが、フォトフレームには傷ひとつつかない。
ふうむと考え込んだアイリスに「あれ、おかしいな?」と心愛楽が手を伸ばした。
心愛楽自身がフォトフレームの端を軽く弾くと、弾けるように彼自身の左腕が吹っ飛んで、くっきりとアザが残った。
どうやら、フォトフレームに打撃を与えられるのは、現時点では、心愛楽本人だけらしい。
何か条件を満たすまでは、他の者には手を出せない仕掛けになっているようだ。
琉命は、やむなくフォトフレームにおさまっている状態の写真を観察した。
スナップ写真の日付を確認した上で「これは偽物です」と言い切った。
「理由は単純です。豪さんのこの姿を見て、ご両親が笑顔で撮影できる筈がありません。そして、ご不快な事を申し上げますが、豪さんの御両親はすでに身罷られ、『今』ご両親と一緒に写真におさまるのは不可能です」
笑顔で3人並んでいる写真。中央の心愛楽だけが血まみれで、刃物を持って笑っている。
「従って、この写真が撮影される為には、豪さんとそのご両親に偽装できる者か、画像操作できる者が必要になります。追い詰める為に用意したかもしれませんが、この写真は何者かが貴方の周囲にいる事を示す証拠でもあります」
「え、でもこの写真、最初は普通のスナップ写真だったし‥‥おれが高3に上がった時に、両親と一緒に撮った写真なんですけど‥‥」
心愛楽は不安そうに写真を見た。写真の中で自分だけが成長していき、自分だけが血塗られていき、自分だけが刃物を持つようになっていった、その経緯を話す。
「まずはこれが、アナログカメラによる写真なのか、デジカメによるものかを確認するべさ。アナログカメラなら偽造するのは難しいし、どうしようもなかんべ? でもデジカメ写真なら改竄はかなり容易なはずだべさ!」
瞳がじっくり写真を見る。写真の素人が見ただけではよくわからないが、綺麗な発色だと思った。
「ああ、フィルム撮影ですよ。おじさんがセミプロ写真家で、デジタルはあんまり撮らないんです」
心愛楽は、風景写真なども取り出して見せた。
はっとするほど美しい夕焼け。
真っ青な空にくっきりと浮かぶ白い雪山。
海に沈みゆく太陽の輝き。
「おじさんは自然物を撮るのが好きなんだそうです‥‥」
そう心愛楽が言ったところへ、華子が帰ってきた。
「その、カメラマンのおじさんも悪夢の被害にあったみたいですね。公園のベンチに血痕が残っていました‥‥」
華子の言葉に、蒼白になる心愛楽。
「豪君、フォトフレームを落とした時、確か手首を骨折してしまったんですよね?」
わざと間違った所を聞いてみる華子に、「いえ、足首です」と心愛楽が修正する。
(うーん、誰かと入れ替わっているわけではないのですか‥‥?)
「夢は夢です。現実ではない。ただそれを現実と思いこませるだけの仕掛けが施されています」
出雲は考え込みながら呟いた。
現実で彼に干渉してきた人物を特定した結果、改名代は親がついてきた嘘と判明した。
遺品は、警察が、事件現場に残っていたものとして、遺族に届けただけ。
誰かが、彼を生きたまま絶望の淵に追いやり、またはそこで殺す為に仕掛けたと考えてはいるが、まだ確証がない。
「あなたの両親を殺した天魔と、おそらくこの事件の犯人は、一致するのではないでしょうか」
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くつくつと、誰かが笑っている。
この遊びを終えたら、次は何をしようかと、考えながら。
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夜。
フォトフレームを恐れる心愛楽を捜査のためと説得し、琉命が彼の部屋に留まることとなった。
悪夢体験の続いた心愛楽が、眠る事にも恐怖を感じている可能性を考慮し、<クリアランス>や<マインドケア>で落ち着かせると約束した。
同時に、心愛楽を常に監視する者がいる可能性を考えて、言いたいことはスマホのメモ機能で見せ、監視者に悟られぬ様工夫することにした。
『貴方が眠る間、どこかに隠れ、不寝番につきます』
スマホのメモ機能で見せ、心愛楽を安心させる。
ヤナギ、アイリス、瞳は、最後の一人、次の被害者と噂される菊池くんに会いに行った。
他の者は、心愛楽の親戚宅の客間で待機することとなった。
心愛楽がベッドにもぐると、タンスに潜んだ琉命は<現世への定着>を施し、心愛楽に変化があるか、隙間からじっと観察していた。
<生命探知><異界認識>を駆使して部屋をチェックする。
フォトフレームの中のスナップ写真から、ぬうっと影が飛び出してきた。
血みどろで、刃物を持った、心愛楽の影だ。
フォトフレームと影、どちらにも天魔の反応がある。
ベッドで眠っている心愛楽は、うう、うう、と苦しげなうめき声をあげていた。
悪夢にうなされているのだろう。
影は暗がりの中にすうっと消えていった。心愛楽はベッドで苦しげにうなされている。
『皆、起きて。こんな動きがありました』
客間の仲間と、菊池くん宅の仲間にメールを送る琉命。
一方、ヤナギ、アイリス、瞳は、菊池くんの部屋にいた。
「まぁ何だ、事情を説明し‥‥なくてもダイジョブか、護衛を買って出るゼ」
どんとゴスパン衣装の胸を叩き、ヤナギは菊池くんに戸締りを確認するように言った。
「何か思い当たる節でもあるのか?」
アイリスが<マインドケア>を使い、無表情に且つ淑女的に話しかける。
「ウチに引き籠っているからには、何か事情を察して隠れているもんと考えて構わねえべか? そげん怯えんと、オラたちが保護してやるけえ、身辺や友人らに起こったことで気づいたこととか、聞かせてもらえねえべか?」
瞳も頷く。すると、菊池くんは頭を抱えて、ベッドにうずくまった。
「次は俺の番なんだ。俺しかもういないんだ」
菊池くんは、心愛楽が皆を殺して回っていると信じ込んでいた。
「警察が学校にも来たっていうじゃん。どうしよう、次は俺だ‥‥絶対俺だ、だって皆、ほかの連中は消えちまったじゃねーか‥‥」
「まあ俺らは撃退士だからな、大船にでも乗った気で待ってろ。お前は守り通すゼ」
ヤナギがはっきりと宣言した。
深夜の部屋に、スマホのメールが点灯する。
琉命からのメールだった。写真から影が抜け出して消えた、と書かれていた。
「阻霊符発動‥‥しといて、正解じゃねーの」
はっとヤナギがベランダを見ると、そこには、刃物を持った心愛楽の影と、柩を背負った男のような人物が立っていた。
しかし、ガラス戸を透過できず、部屋まで入ってくる様子はない。
菊池くんが悲鳴をあげた。