●何故、こんなことに
「ったく、どんな理由でシキを攫いやがったのか‥‥。所長の姐さんもその辺の調査、手伝ってくれねえか? こっち方面には強そうだしな。礼は後で、あー‥‥身体で返すからよ」
カルム・カーセス(
ja0429)が、どことなく偉そうな口調で、依頼斡旋所の所長に協力を要請する。
「ほう、身体でか。なら、この事務所を移転させる際に、労働力となってもらおうじゃないか」
にやりと所長は口の端をつり上げ、そして真顔に戻った。パーテーションで区切られたアリス・シキ(jz0058)の机の周りには、ピクニックやお花見等で撮った写真が飾られていた。
「所長さん、アリスさんと出会わせて下さってありがとうございます。今度は僕達に任せて下さい」
鈴代 征治(
ja1305)が深々と頭を下げ、セカンドハウスの見取り図データを丁重に受け取る。
(通じるかな‥‥?)
壊された携帯が、自分のプレゼントしたものではないことに気づき、征治はアリスに携帯メールを送ってみた。
件名:大丈夫
本文:きっと大丈夫だよ。頑張るから。
送信した途端に、プルルル、と、アリスのハンドバッグから着信音が聞こえた。ハンドバッグをそっと開けてみると、手縫いのポーチに、プレゼントした携帯が収められていた。取り外しが可能なストラップに、カフスボタンをビーズで編みこんで作った指輪が光っている。
アリスが普段から持ち歩いているロッドも、ぽつんと机に立てかけられたままだ。
――何も、持って行けなかったのだ。
「撃退士で良いなら正式に依頼を出せば済む話です。‥‥つまりは“『彼女』が撃退士である事”が重要だったのでは?」
マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)が淡々と、言葉少なく客観的意見を述べる。
「もし、幼い頃はシキ先輩が父親に愛されてたなら、不要としたのは父親ではなくその周囲だったのでは? 先輩が撃退士になった今なら、護衛という名目で再び側に置ける筈‥‥」
黒いゴスロリ服を着た姫路 ほむら(
ja5415)が、髪をワックスで直毛に直しながら、考え込んだ。
「撃退士を要する火急の用‥‥とも取れますねぃ」
十八 九十七(
ja4233)が頷いた。
「ヒトトセグループについて知りたい。そもそも、どういったものなんだ?」
カルムが尋ねると、慣れた様子で所長がデータを検索した。
最盛期は約500社の企業を傘下においていた、元財閥組織。
現在では天魔関係の事件もあり、おおよそ130社、雇用労働者5万人と、規模も小さくなってきている。
更に細かく経済状態を調べていくと、ある時期を切欠にいきなり株価が暴落していた。
当時のニュースを検索すると、春夏秋冬千歳(シキ・チトセ)なる後継者(10歳男子)が何者かによって、誘拐されかけたという報道があった。また、資金繰りに困っているのか、ここ半年でかなりの規模の土地を次々と手放していることも判明した。テレビCMもこの半年で流れなくなった。
この半年――アリスが屋敷を出て、自由を得た後である。
「所長さんがアリスさんを連れて逃げた時の話を、聞かせてもらえませんか?」
征治が頼むと、所長はごそごそと一枚の紙を出し、その場でコピーを始めた。
「私は迷いペットの捜索専門だからね、あの時は、セカンドハウスの管理人、棚邑(タナムラ)って客に、血統書付きのスフィンクスちゃん(無毛猫)を連れ戻すよう頼まれていたのさ。で、引き渡しに行った時に隠し扉を見つけちまってねえ。ここなんだが」
所長は見取り図の一部を指す。
「隠し部屋は、バス・トイレと暗くて狭い寝室とあって、あとは主厨房には出入り出来るようになっていたねえ。そこから出るには電子ロックがかかった扉が邪魔して、密室状態になっていたな」
そこで見つけた女の子を、放ってはおけなかった。
母親と思しき外国人女性に「コノコ、アリス、ニゲテ」と拙い日本語で頼まれ、咄嗟に親権移譲の念書を書かせ、棚邑を通じてケイグに「報酬はこの子で十分だ」と伝え、答えを待たずに逃げたのだという。
その後、アリスにアウル適性が認められ、学園に入学できることになったのだとか。
「コピーで悪いが、本物を渡すのはリスキーなんでね。役に立つかも知れんし、持って行きな」
英語で書かれた念書。コピーの質は良好で、「ナディア・シルヴェストリ」というサインと拇印がはっきりと読み取れた。
「これがある以上、私がお嬢の親代わりなんだよ――法的に有効かどうかは、わからんけどな」
●下見
黒い服に身を包んだ猫野・宮子(
ja0024)はセカンドハウスの周辺を回って、リョウ(
ja0563)は離れた場所から双眼鏡で、屋敷内の様子を観察していた。やる気のなさそうな様子で、ジェイニー・サックストン(
ja3784)が、リョウの手伝いに回っている。まあ、知人の知人程度でしかない相手を救出するなんて、ジェイニー的には面倒事でしか無い。
「これといって、カメラの死角になれそうな場所は、なさそうかな?」
宮子が、隠されている監視カメラまで次々と見つけ出して、チェックする。
その代わり、警備員や見張りの数がやたらと少ない‥‥ように感じるのは、気のせいだろうか?
見取り図で確認した離れを外から見て回る。確かに、窓が少なく、小さく、高い位置にあった。
「やっぱり、小火騒ぎを起こすのがいいかもだよ」
その時。
すごい勢いで、がうるるると唸りながら、ドーベルマンが3匹、庭から走り出してきた。
宮子に噛み付こうと、襲いかかってくる。
しかし、撃退士相手に、ただの犬っころが何を出来ようか。
あっさりとドーベルマン3匹を無力化し、宮子は見つからないうちに、と、さっさと屋敷を離れることにした。
(ごめんね、動物に悪気がないのはわかってるんだけど‥‥)
宮子は心の中で謝った。まあ、猫ではなかったから、いいことにした。
「本当ならこっそりいって、こっそり帰って来たかったんだけどな‥‥。吉と出るか凶と出るか、だね」
宮子が屋敷を離れた後も、リョウは双眼鏡で様子を見ていた。
すると、黒塗りのリムジンが一台、すっと屋敷に入っていくのが見えた。
(何事だ?)
様子を引き続き、窺う。
リムジンから、中背の男が出てきた。
そのまま、セカンドハウスの中へ入っていく。
暫くして出てきた男は、ジェラルミンケースを抱えていた。
別の老いた男が、必死に立ちふさがる。
だが、邪魔をする老人をたやすく組み伏せ、中背の男はリムジンに乗り込んだ。
『これ以上はもう払えない!』
『それなら、あの小さい後継ぎに、今のうちに保険をたっぷりかけておくんだな』
『‥‥その言葉、いずれ後悔させてやるぞ!』
読唇術でわかった会話は、これだけ。
――ゆすられている?
ヒトトセグループの幹部(?)が。
誰に?
あの身のこなし。
中背の男は、年齢こそいっているものの、現役か、元撃退士のように思えた。
●情報を整理しよう
偵察組が帰ってきたところで、所長が出前をとり、昼ごはんを食べながら情報交換・整理をすることとなった。
「撃退士が関わっている、だって?!」
「わからん。確証はない」
リョウの報告に、騒然とする救出班。
『‥‥その言葉、いずれ後悔させてやるぞ!』
あの老人の捨て台詞が、リョウの中で引っかかっていた。
双眼鏡で見えた範囲で人相を説明すると、所長が「棚邑の可能性が高いねえ」と答えた。
「何故‥‥『彼女』なのでしょう?」
マキナが再び呟いた。
「いずれ後悔させる、ということは、対抗し得る何らかの手段を入手していると考えられますね。それがアリスさんだとしたら、一体アリスさんに何をさせる気なのか‥‥」
征治が、食の進まない様子で、恋人の心配をしていた。
「今も、離れに閉じ込められているとは限らないな。だが、あの時シキが出てこなかったということは、何であれ、外へは出てこられない状態にあるということだ」
カルムがふむと顎を掻いた。
「棚邑という人物について、調査はしてあるんですねぃ?」
九十七が念を押す。
「‥‥ちょっと待ちな。‥‥んー、ケイグの第三秘書だな。同時に、養育係でもあったはずだ。年齢は60代前半。元某大医学部教授。血統書付きのスフィンクスに平気で育毛剤を試すくらいの、好奇心の塊というか‥‥マッドな医学博士だと思えばいいかねえ」
所長が、過去の顧客名簿をパソコンでざっと洗って、情報を絞り出す。
「マッドな医学博士‥‥」
シキ・ケイグは、娘を連れ戻して、そんな危ない人物のもとで、娘に何をさせる気なのだろう。
考えれば考えるほど、皆の不安は増していく。
「そう言えば、姐さんはこのあと、何処に事務所を移すつもりなんだ?」
カルムが所長に尋ねると、「姐さんたぁ、恥ずかしいじゃねえか」と所長は返しつつ、少し天井を見つめて考えた。
「幾つか候補地はある。が、問題はお嬢が戻ってきた時に、安心して留守を任せられるかどうかってところだな。私のことは心配しなくていいさ。迷子動物専門だが、一応撃退士だからなあ。お嬢には3つ目のセーフハウスを貸してある。あそこは未だ、誰にも知られていないはずだ」
確かに、誰もアリスの住居を知らなかった。
恋人である征治でさえ、いつも帰路の途中で分かれていた。
「‥‥だが、不安があるようなら、戻ってきた後、お嬢も転居せざるを得ないだろうな。何か案はあるかい?」
所長は一人ずつ、集まった者の顔を見つめた。
「シキさんの危機管理手段として、身元引き受け人の立候補をしますねぃ、ええ、はい」
九十七が真っ先に手を挙げた。
「撃退士の知り合いがいる場所なら警備面でも安全だと思うよ。ボクは九十七さんの寮に入れればいいと思うんだけど‥‥」
宮子が後押しをする。
「アリスさんが学園の数多ある寮の一つに居を移すことには賛成です。新しく斡旋所はその寮で開設し、所長がそこに出入りする形というのは? 或いは、管理を任されている僕の執事喫茶を利用するのはどうでしょうか?」
征治が提案すると、「うーむ」と所長が腕を組んだ。
「斡旋とお茶汲みのバイトしかやったことがないお嬢に、寮費が払えるのか、それだけの稼ぎが見込めるのか、自信がないねえ。その、羊喫茶ってのは何だい?」
「執事、です」
征治は改めて、自身が任されている喫茶店の様子や構造について語った。2階の教室が空いていること、離れ校舎内なので立地条件も悪くないこと。簡単には不審者が近づけないこと。
「だが‥‥征治が依頼で不在になったら、誰が彼女を守る?」
リョウに言われ、女性陣にも倫理的な観点から、女子寮への転居を強く勧められる。
「あ、いや‥‥僕は別の寮に入っているので、そこは大丈夫だと」
「ってことは、今までどおり、夜はシキ一人になっちまうじゃねえか」
カルムに突っ込まれ、征治は返答に窮する。
「恋人成立ってことは、いずれ結婚するという誓いではないのですか? 何で住む場所で揉めるんだろう? 鈴代先輩とシキ先輩が一緒に住める上、所長さんも居るんだったら、問題ないんじゃないのですか?」
ほむらが不思議そうに皆を見回す。
「女子寮に入れるのは確かに良策だと思うが、その費用は誰が出すんだい? 彼女は依頼を斡旋することはできても、依頼をこなせるだけの能力は残念ながら未だないんだよ」
所長が肩を竦める。
「お菓子を作って、お店で出せばいいんじゃないでしょうか。彼女の腕前なら保証できます」
征治が思案の末に提案する。お菓子部で一緒のほむらも、アリスの作った菓子なら売り物になると保証した。
「でも、これってシキ先輩が決めることじゃないのか? そもそも、再襲撃の可能性は根本を潰さないと解決にはならないと思うけど‥‥」
自身も父親に怯えて逃げる生活中のため、ほむらは逃亡生活の辛さを身に染みて感じていた。
「そうだな。まずは、シキを取り戻さないと」
リョウが頷き、用意したサングラスを布で拭いた。
●火事ですよー
まだ、午後6時になっても明るい季節。
長い長い時間、じりじりと待たされながら、救出班は準備を整えていた。
陽動班も、作戦を再確認し、準備を整えて本番に備える。
やっと、夜が訪れた。
セカンドハウスの近くまで所長から借りた車で行き、そこに駐車して、各自散る。
「待ちくたびれたよ」
宮子が昼間、偵察で見かけた黒服に着替え、スタンバイする。
「いくぜ」
携帯で連絡を取り合いながら、カルムが煙玉に点火した。
もくもくと煙が立ち上る。
「火事だー! 火事だぞー!」
そこへ、とぅりゃっと景気よく灯油をぶちまけるジェイニー。
「ま、どうせ気付いたら出てくるでしょうから、どーんと派手に行ってもいいでしょう。火が大きければ、狙いが分かっていても出てこざるを得ねーですよ」
煙を出すだけだったはずが、ジェイニーは機嫌よく(しかし不機嫌に見える顔のままで)、丸めた新聞紙に火をつけて更に投下した。
流石に10メートルほども炎があがると、屋敷の中からでも見えるらしい。
黒スーツの男たちが、消火器を持って走り寄ってくる。遠くから、消防車のサイレンの音。
男達を、スパンスパンと、ショットガンにゴムスタン弾を装填して撃ち抜いていくジェイニー。
「あ〜、やっぱりこういう荒っぽい任務の方が私にはしっくりきますね。やっぱ縁のない相手を助けるなんて、理由がねーですもん」
(ま、昼飯はタダにしては美味かったですがね)
のびのびとショットガンを撃ち続け、ノリノリで黒スーツを撃退していく。
そして、気絶している黒スーツから消火器を奪い取り、すかさず消火。
ジェイニーを見て、慌てて自分も消火活動に入るカルム。
消防車の音が近づいてくる。
証拠を完全に隠滅し、さっと壁を乗り越えて屋敷内に身を隠す2人。
消防車が、目的の場所を見つけられずに、通り過ぎていく。
監視カメラだけが2人を見ていた。
●アリスとナディア
同時刻、セカンドハウス裏口。
九十七が電子ロックをかるくショートさせ、開錠する。ほむらが続き、生命探知で、離れ方面を調べていく。
「ん、そこカメラあるから気をつけて」
黒スーツに化けた宮子とリョウが先行し、カメラを発見次第、報告する。九十七は、途中途中にあるカメラを、アサシンダガーで破壊し、その都度、得物を回収するという作業を繰り返していた。
陽動の火事騒ぎが功を奏したのか、警報が鳴っているのに、誰も出てこない。
(あ〜〜〜、こう、なんていうか、相手の胸ぐら引っつかんで、ホラー映画を見るよりも、おっそろしーい精神攻撃をしてやりたいと思っていたんですけどねぃ)
「ここだ! この奥! 何人かいるみたい!」
ほむらが隠し部屋の入口を見つける。慎重に開錠し、侵入する救出班。
真っ暗な空間が広がっている。九十七の装着したナイトビジョンには、黒スーツの男たち――ではなく、身を寄せ合う女性が3〜4人映し出されていた。
女中たちであろうか。皆、エプロンや三角巾を身につけている。こちらの邪魔をする様子はなく、黒スーツに化けた宮子とリョウに怯えている様子であった。
「シキさんがいる部屋はここかな? それじゃあ救助してさっさと帰るよ。お話するのはそれからでも遅くないからね」
宮子が奥の扉を開けた、その時。
薄暗いあかりが見えた。
高い位置に小さな窓があるだけの寝室。
ベッドの上で、きらきらと輝くナニカが、眠っていた。
「アリス!」
征治が駆け寄る。金色の光が、蝶の羽のように、彼女の背中から噴き出していた。
太陽と接することなく育てられ、ほくろもシミもない真っ白い肌に、痛々しい注射の痕。
彼女は、光纏したまま、目を覚まさない。
触れようと征治が手を伸ばした直後、ベッドと彼の間に割り込む影があった。
思わず睨みつけようとして、薄暗がりに浮かぶ白いエプロンに気づいた。
女中の一人、のようだ。
「アナタ、アリス、キズツケル? ダメ!」
たどたどしい日本語。
30代前半くらいの外国人女性だった。
はっと思い出し、征治は所長からもらった念書のコピーを取り出した。
「えーと‥‥あーゆー、ミズ・ナディア・シルヴェストリ?」
「ハイ」
‥‥そこに居たのは、アリスの生母だった。思わず、その手をぎゅっと掴む。
「アリスを産んで下さって、育てて下さって、本当にありがとうございます!」
「‥‥ドナタ?」
訝る母親。征治は簡単に自己紹介と、アリスとの関係、それから色々な意味での感謝を口にしたかったのだが、「長居は危険だよ、何してんの!」と宮子にせっつかれ、やむなく「アリスいずまいすいーてすと」とだけ、答えた。
(これで意味、合っているのかな?)
ちょっと英語に自信はなかったが、生母は理解したらしく、どいてくれた。
「ニゲテ。アリス、マモッテ」
「勿論です」
征治は上着を脱いでアリスに着せかけ、抱えあげる。そして、ミズ・ナディアにも手を差し伸べた。
「お母さんも一緒に、自由な世界に、行きませんか」
「ワタシ、ムリ。デラレナイ」
ミズ・ナディアはそう言うと、目覚めない娘の両頬にさよならのキスをした。
「ドウカ、アリス、ヨロシク」
そして電子ロックのキーナンバーを教えると、足を引きずりながら、暗闇に――女中たちの部屋に消えていった。
「何ぼさっとしている。行くぞ」
リョウが征治の肩を叩く。
追っ手は来ないが、監視カメラは生きているし、警報も鳴っている。
いつ、何が起こるか分からない。
教えてもらった電子ロックキーナンバーで主厨房から離脱すると、大きな食堂に出た。
そこから庭に逃げ、‥‥累々と気絶している黒スーツたちを発見し、カルムとジェイニーが好き放題(?)暴れたことを確認すると、停めてあった車に乗り込んだ。
追っ手が全く来なかった謎が解けた。
「アリスのお母さんも、助けられませんか?」
征治は皆に問うが、「今は欲張るな。我慢しろ」とリョウに止められた。
「虻蜂取らず、だ。恋人が大事なら、今はそっちに専念しろ」
●思い出して!
「ん、それじゃあボクは今後住む場所でも探しに行ってくるね」
宮子は何を思ってか、さっさと行ってしまった。
ほむらが念じながらアリスの注射痕に手をかざす。白金色のほむらのアウルの光が、ゆっくりとアリスの身体に融合していき、注射痕が徐々に薄くなり消えていった。
光纏したまま、アリスが目を開ける。
のろのろした動きで、体を起こす。
背中から金色の蝶の羽が生えているように見え、本物の妖精ではないかという錯覚さえ覚える。
「シキ先輩?」
「‥‥」
ぼんやりとアリスは周囲を見回した。ほむらの呼びかけに応じる様子はない。
「先輩、もしかして記憶が‥‥?」
ちょっとショックを受け、ほむらが泣きそうになる。
「覚えてないんですか? お菓子部でお菓子を作ったり、ほら、俺の恩人の作ったお花見団子も再現してもらったんです。思い出せませんか? 一緒に、綺麗に歩く練習とかしましたよね?」
ほむらの言葉にとろんとした目で、小首を傾げるアリス。
「お帰り、シキ」
手に苺大福を持たせるカルム。
「今度また、お茶をご馳走しますから。あの時と同じアッサムの紅茶を、今度はローズペタルのジャムを添えたスコーンと共に」
(だから‥‥正気に戻って。貴女と知り合ったのは文化祭。私は部で喫茶店を。貴女はお客として。‥‥まぁ、それだけと言われればそれだけの関係ではありますが‥‥あの時の事を、私は今も覚えている。例え彼女が、私の事を覚えていなくとも‥‥)
ありったけの想いを言葉少なく訴えるマキナ。
アリスは、とろんとした目で、苺大福を見つめ、花見団子を見つめ、そして。
「アリス、ヴリャウ サ スタウ ク チーネ メレウ(アリス、僕は君とずっと一緒にいたいよ)」
突然、征治から呼びかけられた言葉に、確かに、微かだが、反応した。
(どういう意味?)
皆の視線が征治に向く。アリスも、ゆっくりと征治を見た。
「握手はお嫌いですか?」
手を差し出し、じっと待つ征治。呆然とアリスはその手を見つめ、‥‥しかし、動く気配は無かった。
「それじゃあ、これ、お返ししますね」
プレゼントしたプリペイド携帯を取り出し、ストラップからカフスボタンの指輪を外すと、征治はアリスの手を取り、細い指にはめた。何だか結婚式の予行演習のようで、少し気恥ずかしかったが。
更に、自分の携帯を取り出し、不意打ちで撮った、二人で肩を寄せて映っている写メを見せる。
「‥‥!」
アリスの瞳に光が戻ってきた。
「わ、わたくし、あなたを存じておりますわ。夢の中の‥‥あれは、夢?‥‥わかりませんの、何が夢なのかしら、何が現実なのかしら?」
ぽろぽろと涙が雨のように落ちた。金色の羽がゆっくりと消えていく。
「シキ先輩!」
「ひ‥‥めじ、さん? カルムさん‥‥喫茶店の、文化祭の‥‥」
記憶が、戻っている。名前こそ出てこないが、マキナのことも、思い出したようだった。
「‥‥征治‥‥」
再び差し伸べられた手を、アリスは、今度はそっと握った。
征治はにっこり笑って、「一緒に帰ろう、アリス」と、彼女の肩を抱き寄せた。
「アリス・シキ。君はどうしたい? 逃げたいのか、戦いたいのか。あるいは変わりたいのか。諦めて蹲るのもいいだろう。だが、もし君が『納得』していないのならば声を上げろ。君の為に動く人にはそれで十分な筈だ。あまり自分を諦めない方が良いぞ」
正気を取り戻したアリスに、リョウが問う。
「‥‥わたくしは、‥‥どうしていいのか、わかりませんわ‥‥」
暫く逡巡するアリス。
「ですが‥‥今は、この学園に居たいと思いますの。‥‥お父様に認めて頂きたい気持ちはありますわ。わたくしは不要ではない、お父様のお役に立てるのだ、と、思えるようになりたいのです」
「で。一体何をされたのか、覚えてますかねぃ?」
九十七が尋ねると、アリスは首を横に振った。
「薬を打たれたんですの。そこまではわかりますの。‥‥そこからは、訳がわからなくなりましたの‥‥」
アリスに答えられることは、それだけだった。
生母と再会したことも、わかっていない様子だった。
やはり、棚邑を締め上げにいかねばなるまい。
でなければ、彼女の安全は確保出来たとは言えないのだから。
●とっとと吐きなさい!
荒事が楽しみなジェイニー、保護者に立候補した九十七、カルム、そして、アリスに似せて変装したほむらで、再びセカンドハウスを訪ねることになった。征治はアリスが回復するまで傍にいてやれ、とリョウに止められ、恋人に付き添って残ることにした。
交渉班は、今度は正面から堂々と入り、呼び鈴を押す。
出てきた黒スーツに、笑顔で「本物のアリス・シキですわ。お父様に会いに来ましたの」と演じるほむら。
「さあ、お父様に会わせて頂けますわよね?」
通された応接室には、父ケイグではなく、第三秘書の棚邑が待っていた。
「有子(ありす)さんでは、ありませんな」
老人は、眼光鋭く、ほむらを見やった。
「昨晩は何をどうしたのか知りませんが、部下が随分とお世話になりましたな」
さあ、なんのことやら、とジェイニーが口笛を吹いて誤魔化す。カルムも目を逸らした。
「ふ、流石にマッド医学博士、簡単にバレますか。でもシキ先輩のお父様に用があるのです。佳狗さんを呼んでください」
「会長はご多忙でして」
棚邑はやんわりと断った。
「では何故、撃退士を一般人如きが拉致したのですか? 学園を敵に回して無事で済むと思ったのですか? 勿論、相応の理由があるのでしょうね?」
「えーえー、誘拐・投薬・洗脳と来れば、九十七ちゃん正義的には抹殺級の悪事なれど、今回はおイタは封印してあげたのですねぃ。この慈悲に見合う対価は必要ですとも、ええ、はい」
九十七がヒャッハーな光を瞳に宿して、老人を見据えた。
「‥‥脅されているのです」
「は?」
「元撃退士の、荒本という男に、我がグループはゆすられているのです」
棚邑の話をまとめると、こういうことになる。
半年前。荒本という撃退士の男が、天魔狩りをやめ、非合法集団を形成した。
そして、目をつけられたのが、ヒトトセグループのような、元財閥組織であった。
勿論、ここだけではない。ほかの元財閥組織にも、被害は及んでいる模様だ。
荒本は、みかじめ料と称して、頻繁に大金をゆすり取り、遂にグループ経営が傾き始めている。
時には、次期後継者である千歳を誘拐しようとしたり、佳狗に殺害予告を行ったり。
まるで獲物を精神的に追い詰め、愉しんでいるかのような手段を使って、大金を奪い続けている。
当然だが経営陣としては、傘下企業の5万人の労働者の生活がかかっているため、脅しに屈するわけにはいかない。しかし、悲しきかな、一般人では撃退士に手も足も出ないのである。
テレビCMを流す金もなくなり、かと言って、現役の撃退士を雇い入れ、常駐させる資金すらも奪われてしまい、打つ手がなくなったと思われた、その時。
学園発の依頼斡旋ネットに、アリス・シキの名を見つけたのであった。
事情を説明して、アリスが素直に来ればよし。
来なければ、薬を使ってでも来てもらえ、と、佳狗が指示を出した。
こちらにも撃退士が常駐して居ると知らしめれば、今までのようには手を出してこないと思えたからだ。
だが、アリスはとても『弱い』撃退士だった。
そして精神的に追い詰められていた佳狗は、あることを思いつく。
千歳が――次期後継者が、アウルの力に目覚め、久遠ヶ原学園に入学できればいいのだ。
それなら安全だし、自分の身も守れるし、荒本に抵抗することだって可能だ。
もしかすると、荒本を懲らしめることすら、可能かも知れない。
適性のない者を人工的に覚醒させることなど、出来ない。
そんなことは、子供でも知っている常識である。
しかし、異母姉が覚醒したのだ。今は適性がないといっても、いつ発生するかわからない。
なら、アリスの体を調べてみればいいではないか。
では、何を、どう、調べればいいのか?
それは分からない。
とりあえず、健康診断程度の検査しか、思いつかない。
そこで佳狗は、医学博士の棚邑に全てを任せた。
棚邑は、アリスの薬が切れたら、血液採取をまず実行するつもりでいた、という。
もし学園にこのことがバレて、学園側から圧力がかかった場合、棚邑は自分の部下と共に、独断で動きましたと自供し、佳狗に被害が及ばないようスケープゴートになると誓った。
そのため、セカンドハウスに常駐させる部下は、最低人数に抑えた。
見張りがおらず、屋敷に人が少なかったのも、そのためである。
どうせ荒本は勝てない相手。
荒本に潰されるにしろ、学園に潰されるにしろ、人的被害を抑え、のみならず、金銭的な被害も抑えようと考えたのだ。
今、佳狗と千歳は、荒本に命を狙われているため、ひっそりと身を隠していると言う。
「我々を、佳狗さまを、千歳坊ちゃんを、助けてください。荒本を何とかして欲しいのです。我々は5万人の労働者と、その家族の生活を、支えねばならないのです! もうこれ以上お金は出せません。有子さんなら、お身内ですから、もしやと思いましたが‥‥有子さんをアテに出来ないのでしたら、どなたか、荒本を‥‥!」
老人はソファからおりると、カーペットに頭をつけるように、土下座した。
「そーゆーことだったのねぃ」
九十七はふぅんと鼻を鳴らした。
「ふん、つまんねーのです‥‥」
存分に暴れられると思っていたジェイニーは、ちっと舌打ちをした。
●で、どうする?
計算してみた結果、やはりアリスの稼げるバイト代だけでは寮費が出せない上、人見知り過ぎていきなりの集団生活は難しい、ということで、未だ誰にも見つかっていない現在の家をキープすることになった。斡旋所だけは執事喫茶の2階に移すことになり、引越しを進めていた所長のもとへ、セカンドハウス交渉班が戻ってきた。
「‥‥そういうことかい。なら、今後、その荒本ってのをどうするかだねえ」
「とりあえず、棚邑にゃあ、もうシキに手ぇ出さないっつー念書は書かせておいたぜ」
カルムが、抜かりなく、作らせた書類を見せる。
「気になるのは、アリスのお母さんですけどね。僕はアリスのお母さんも自由にしてあげたいんですが‥‥」
征治が考え込む。
薄暗い中だったので、足を引きずっているように見えたのは、気のせいか、事実なのか。
「何にせよ、無償で動いてくれる撃退士を探さないといけないねえ。これは私から依頼するものでもないし、お嬢の実家からは出るべきもんが尽きているようだし。もっと早くに手を打てば、何とかなったのかも知れないが、半年で経営が傾くってんだから、荒本って奴は余程のことをしたんだろうねえ」
所長は「ふむ」と視線を上にあげると、長椅子に手をかけ、戻ったばかりのカルムに呼びかけた。
「そういや約束したろ。身体で返しな! ほら、長椅子の端を持つ! これから階段上がるからな、気をつけろよ」
「えー。休憩くらいさせてくれよー」
カルムはやれやれと肩を竦めた。