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「鯨‥‥? わぁ‥‥大きい」
浪風 威鈴(
ja8371)は、冥魔・影を撃退すべく、幻覚で惑わされている人々に紛れて、冥魔・ヘルくじらに近づいた。
思わずヘルくじらを見上げる。
確かにやたらと大きい。そして、ふわもこである。そう、本物のぬいぐるみのように。
(ファンシーなくじらで人間狩り、ね。どこまでもふざけているのか、悪魔は)
遠石 一千風(
jb3845)は、赤毛をなびかせながら近づき、唇をかみしめた。
(アウルに覚醒したからには、この力で手の届く限り全てを救いたいが‥‥今回、ある程度あきらめなければならない事が本当に辛いな)
「今回は、残念だがあの鯨は討伐するべきではないか‥‥」
サガ=リーヴァレスト(
jb0805)は影の幻覚に耐えながら、遠くからでもはっきり見えるヘルくじらを睨んだ。
手の中には、アリス・シキ(jz0058)が手を尽くして探し出し、支給した発信機3つと、透明な粘着力の強いテープが収まっている。
『申し訳ございません、発信機ですが、全部で3つしかご用意できませんでしたの』
転移前、斡旋所での会話が脳裏をよぎる。
『スマホのGPSと同じ機能がついてございます。ですから、電波の届かない場所では、お役に立てないかもしれませんわ』
それでも、ヘルくじらの行き先を突き止めるヒントになれば。サガはそう考えていた。
一千風はその折に、ヘルくじら出現位置を印した地図も、入念に把握しておいた。
浪風 悠人(
ja3452)はアリスと通信をつなげたまま、ヘルくじらを視認し、群がる人々を確認し、阻霊符を展開した。
サガもすっと姿を隠し、離れた場所から阻霊符を展開する。
「‥‥?」
威鈴は影を見失った。そこにいたのは、間違いなく、とても大事な、愛する夫である。
だが、本物の夫は後ろにいる、はずだ。
くらくらする。影の放つ、脳に直接響き渡る音が、撃退士でも抗えない幻覚を呼び起こす。
影が、一番大切な誰かに見える、そんな幻覚を。
(気をつけて)
悠人はこの幻覚に以前、一度かかっていた。だから、影の能力を皆に伝えておくことが出来た。
幻覚が激しく心を揺らそうとするが、もう撃退士たちは惑わされない。
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「何か起こったのかしら‥‥また害虫が邪魔をしに、湧いてきたのかしらね?」
悪魔小娘ジェルトリュード(jz0379)は、ヘルくじらの背中でぽふぽふ寝ころびながら、望遠片眼鏡で周囲を見回した。
銀髪眼鏡の見覚えのある撃退士(悠人)が、一般人を避けて<封砲>を影に撃ち込み、続いて妻の威鈴が、和弓・天波に<スターショット>を乗せて、絶妙な弓さばきで、追撃していた。
冥魔・影は、夫婦の絆を思わせる連携攻撃に耐えられず、幻覚をまき散らす音を発することが出来なくなってしまった。
そうなれば、影など、ただのハリボテ人形だ。
我に返った人々の間に、混乱が走る。
「少し仲間達を返してもらうわ。悪魔さん」
一千風が声をはりあげる。
「刹那の暗闇が翳る間に(=ちょっと目を離した隙に)よくもやってくれたわね――邪魔しないでよ!」
唇を尖らせ、悪魔小娘がホルンを響かせた。
「うっ!」
威鈴が体をくの字に折った。夫、悠人が、自分のことを後回しにして、妻を心配し駆け寄る。
魔装、常闇のローブが瘴気に侵食されかけている。【腐敗】だ。恐らく【封印】も同時にかかっているだろう。
このスキルも悠人は以前、目にしている。ダメージの無い、純バステ付与スキルだ。
しかし、ヘルくじらの背中からここまで届くなんて、どれだけ射程が長いのだろう。
更に見回すと、一千風も悠人自身も、影響を受けたようだ。
(長射程の範囲スキル‥‥!?)
(厄介な‥‥!)
悠人と一千風は、ぷんすこ怒っている様子のジェルトリュードに、交渉を持ちかけて、ディアボロや一般人たちから、注意をそらせることに決めた。
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サガは潜行状態で、ヘルくじらに接近していた。
影の放つ幻覚が収まり、集められた人々は困惑していた。
あぐ。
ヘルくじらはお構いなく、ぬいぐるみのような口をあーんと開けて、その場にいる一般人たちを飲み込み続けていた。
サガは、逃げ遅れた2人のポケットに、素早く発信機を忍ばせた。
そして、背中にいるはずのジェルトリュードの死角に回り、ヘルくじらのふわもこのおなかに、強力粘着テープで発信機を貼りつけた。
触った感じは、まさにぬいぐるみだった。
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「ジェルトリュードさま、凄いですね! とてもお強いのでしょう? 今のスキルで十分わかります。戦闘になってはこちらはひとたまりもないでしょう。我々のような虫如きの退治は、貴女程のかたがする事では無いですし、こちらももう楯突きませんので、少々お話がしたいのですが」
悠人は下手に下手にと意識しながら、頭上の悪魔小娘に頭を下げた。
(何があっても、狼狽えず、本音を殺して対話に臨むんだ!)
自分に強く言い聞かせる。最悪、土下座をしてでも、必要な情報を持ち帰るのだ!
「あたしのディアボロに喧嘩をふっかけて、あたしのクールでスマートな悪魔的計画をおじゃんにしてくれておいて、よくもまあ、そんなことが言えたものね。本心とは思えないわ。あんたの魂を不可視の世界の混沌深くへと送り込んでやる!」
コードレスマイクを持ち、怒りに震えるジェルトリュード。
「もう戦闘の意志はありません。失礼しました、武器をおさめますね」
悠人は魔具をヒヒイロカネにしまい込んだ。
「飛空艇エンハンブレでは、ジェルトリュードさまにお会い出来なくて残念でした」
ベリアル様が美しかった事、熱狂的な配下の日誌が捨てられていた事、ベリアル様にとても臭う飴を置いて行った不届き者が居たこと、など、次々と話題を振って、悠人は悪魔小娘の注意を引くとともに、時間を稼ぐ作戦に出た。
その隙に、彼の妻、威鈴と、一千風、遅れてきたふりをして混ざったサガが、影と戦っていた。
弓で足止めしつつ、機をみて接近し、剣撃をお見舞いする一千風。
<ゴーストアロー>で目に見えない闇の矢を作り出し、撃ち込むサガ。
和弓・天波にアウルの矢をつがえて、射貫く威鈴。
機敏に攻撃を躱そうとしながらも、影は追い詰められ、終いには威鈴の懐に飛び込み、抱きついて自爆した。
吹き飛ばされて転がる威鈴。耳の中で、ピーン、ぶつっという音がした。
あだは、撃退士を避けるように宙を逃げ回りながら、逃げ回る一般人を吸引している。
攻撃手段をもたないためか、保身行動に転じたようだ。
「何にしても厄介なディアボロを潰しきらねばな。あれも落とすぞ」
<氷の夜想曲>で、サガ自身を中心に、あだを巻き込みつつ、眠りを誘う凍てつく痛い風を巻き起こす。あだは【睡眠】には耐えたが、ぬいぐるみめいた表皮のあちこちが切り裂かれて、詰まった綿が顔を覗かせる。
あだも、ヘルくじらのように、ぬいぐるみに似た作りだったのだ。
「あの中には吸い込まれた一般人がいるが、脱出のさせ方は?」
一千風にクールに問われ、サガは「‥‥わからん。だが、このまま連れ去られても」と言葉を濁す。
「なら私は攻撃をやめておこう。中の一般人ごと切り裂いてしまってはいけない」
悔しさに唇を噛みながら声を絞り出し、一千風は剣をおろした。
一方その頃。
「‥‥ああ、大体仲間から聞いてはいるわ」
途中まで興味なさそうに悠人の話を聞いていたジェルトリュードだったが、愛しのベリアル様を讃えられると、一気に舞い上がった。
「そっそうよ、あのかたは我らケッツァーにおける泥中の蓮、銀の短剣の禍々しい瘴気にも似た香しさを放つ、魔界に咲き誇る一輪の真紅の薔薇、夫君しか触れられない炎の翼持つ気高きグリフォン‥‥あたしの憧れ、あたしの帰るべき場所、あたしを迎え入れてくれた唯一無二の存在だわ」
徐々にジェルトリュードの顔がうっとりとしていく。
‥‥悪魔小娘は意外とチョロかった。
「この後のご予定は? 差し支えなければお伺いしたいんですが」
「何よ。エンハンブレにはまだ帰れないわよ」
やはり、ヘルくじらには第二の目的地があるのだ。
「今度は何処に行けば貴女様に会えますでしょうか。次会えたら、飛空艇で撃退士が何を見知ったかお話出来るのに。その時は、美味しい紅茶とお菓子をご用意出来ます、なんなら可愛いアクセサリーや人形等もお土産にご用意しますよ」
「美味しい紅茶! いいわね、美味しくなかったら殺すけどね。あと人形よりぬいぐるみがいいわ」
ジェルトリュードは紅茶とぬいぐるみが好き。悠人は冷静に、脳内にメモを取った。
「あたしもいい加減、ゆっくりしたかったのよね。シェリルの治療が済んだと思ったら、莫迦アルファールでしょ、しかも次はカッツェが予約いれて待っているんだから。当分エンハンブレには戻れそうにないのよ。あーゆっくりしたい! 美味しい紅茶が飲みたい! 飲みたいわ!」
「アイドルって噂だったけど、実はナースで、越谷辺りに病院でも開いているわけ?」
剣をおろしたまま、適当な推測をつぶやいて、ジェルトリュードの反応を窺う一千風。
「あたしはアイドルよ。ナースじゃないわ。でもアイドルは仲間の癒しと支えを担うべきものでしょ」
あっさりとジェルトリュードは口を滑らせた。
「で、何でケッツァー治療院が、あたしの越谷結界の中にあるって知ってるのよ?」
アリスが頑張って揃えてくれた、発信機の存在意義が、失せた気がした。
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ケッツァー治療院。
そこには専用の魔術的治療機器が揃えられており、どんなにひどい怪我を負っても、かなりの対応ができるようになっている。
今まで何人ものケッツァー構成員が、そこで重篤な怪我を、驚くべき高度な魔術的治療により、癒してきたのだ。勿論、滅多にないことだが、病気も治療できるのだ。
ただし、治療機器の操作はジェルトリュード自身が行わなければならない。
現在、治療院の敷地には、幾重にも防犯バリアが張り巡らされており、出入り口を通り抜けるためには「ケッツァー(ベリアル様正規FC)会員証」と合言葉が必要になる。
「だから、なっかなか、エンハンブレに帰れないのよ。皆、怪我しすぎだわ。あんだけ無茶はするなって言い含めているのに‥‥」
そこまで得意げにしゃべってから、ジェルトリュードは我に返った。
自分の話を聞いているのが、悪魔の仲間ではなく、敵対中の撃退士たちであったことに。
「コ、コホン!」
大きく咳払いをして、ジェルトリュードは片眼鏡を直す。
「みんな、帰るわよ!」
ヘルくじらが最後のひと呑みを行う。
あだが、飛び回って、残された人々を吸引して回り、ヘルくじらに貼りつくようにおさまる。
中には、傷めつけられたぬいぐるみのように、ところどころ綿をはみださせたあだもいる。
「あら? 影はどこよ」
ぐるりと見回し、冥魔・影の死骸に目を留め、ジェルトリュードは半眼になって悠人と一千風を睨んだ。
「話であたしの気を逸らせて、大事なディアボロ達をいじめ殺す作戦だったわけね。害虫らしく、心根まで腐っているじゃないの。つくづく気に入ったわよ。存在を抹消したくなるくらいにね」
ヘルくじらはあだを貼りつけ、悪魔小娘を乗せた状態で、急上昇していく。
サガは<陰影の翼>を活性化させ、飛行して全力で追撃をかけた。
「何にしても厄介なディアボロ、あだを潰しておかねばな」
本気で追いかけるが、あだの中にも人質が生きたまま囚われていることを考えると、迂闊に攻撃は出来ない。
だが、撃退士たちの目的をディアボロ討伐・一般人の誘拐阻止と思わせるため、高度30mまでは精いっぱい追った。
ヘルくじらはどんどん上昇する。サガには追いきれない、空の高みまで。
そして。
「軽くお土産を置いていくわ。あんたたちに殺された影の無念を歌うわよ!」
マイクを通したジェルトリュードの声が響いた。
スキル攻撃ではなく、彼女の通常攻撃技。
厨二っぽい歌詞を紡ぐ悪魔小娘の綺麗な声が、撃退士たちと、かろうじて攫われることなく逃げ延びた一般人たちに、容赦なく襲い掛かった。
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「‥‥<アウルの鎧>、効いて‥‥ない‥‥?」
確かに悠人は、<アウルの鎧>で防御した。妻は、はっきりとこの目で見た。
続いて脳を揺さぶられるような感覚が、威鈴にも感じ取れた。
気絶した夫のもとへ、何とか駆け寄る威鈴。
冥魔・影の自爆で彼女は負傷し、耳がやられたのか、周囲の音がよく聞き取れない状態にあった。
つーんと何かが詰まったような感覚で、耳の中がこもっていて気持ちが悪い。
威鈴が意識のない夫を膝枕して、見回すと、一千風も、きりもみ落下したサガも、気絶している。
範囲内にいた一般人たちは、ことごとく命を落としたようだ。
ひどい。
しかし、驚くべきことに、一般人の中に、生存者がいた。
耳の聞こえないお年寄りたちだけ、軽い脳震盪で済んでいたのだ。
「あの悪魔‥‥音、使い?」
威鈴はジェルトリュードが去っていった方角の空を睨む。
「許さ、ない‥‥」
もしかしたら。
次からは、耳栓が役に立つかもしれない、などと、考えながら。
ヘルくじらは、確かに、越谷市の存在する方角に向かって、消えていった。
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3人は、撃退士御用達の病院で目を覚ました。
威鈴は病院で内耳の治療を受けたが、まだ回復には時間がかかりそうだ。
「威鈴が、完全に無事とはいえなくても、ちゃんと生きていてくれて、良かった」
夫・悠人は、愛する妻の手に手を添えた。
「心のどこかで、威鈴が死んでしまうかもって、とても心配だったんだよ」
「あのね‥‥ボク、思ったの‥‥あの、ね‥‥」
仲間3人が気絶し、一般人たちが薙ぎ払われて絶命した時、考えたことを、威鈴は話した。
まだ耳が聞こえづらいため、自然に声が大きくなる。
同室のベッドで休んでいるサガ、一千風も、耳を傾けていた。
「音を遮断する‥‥有効そうではあるね」
悠人がゆっくりと繰り返した。
サガと一千風も、胸中で頷いた。
「でも物理でも魔法でもない攻撃なんてあり得ない。俺の<アウルの鎧>が効かなかった理由がある筈だよ」
悠人は呟いた。
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埼玉県越谷市。
そこには、市境をぐるりと囲むように、赤い結界が展開されていた。
結界周辺は、冥魔の跋扈する無法地帯と化している。
攫われた人々は全員、生死を問わず、結界の中に運ばれていった。
「あたしとしたことが、一生の不覚だわ。害虫にホイホイ情報をくれてやるなんて、何なのもう! 自分が情けないじゃない!! ああ、過去の自分を殴りつけて、十四次元世界の狂気の泉に沈めてやりたいわ!」
ジェルトリュードは毒づきながら、ケッツァー治療院の機器整備に勤しむ。
「早く仲間の治療を終えて、エンハンブレに帰りたいのに。ベリアルねーさまのお顔もしばらく見ていないし‥‥久しぶりに、美味しい紅茶も飲みたいわよー!」