●大学部
昌信はしきりに腕時計を気にしていた。講義など元より捨てている。鬱陶しいカップルのいちゃつきも今は事も無しと聞き流せる。
今日は特別なのだ。今日を逃せば次の機会は一ヶ月後。その日まで財布の中身が残っている保証はどこにもない。
講義が終わった瞬間食堂にダッシュして10久遠渡して終わりだ。それで2日分のカロリーは摂れるだろう。
繰り返し言い聞かせる。失敗は許されない。
「(気もそぞろ、ですね)」
彼よりやや後方、入口のすぐ近くの席から二上春彦(
ja1805)が彼を観察する。
「(さて……どれほどの覚悟か、見せていただきましょうか)」
春彦は笑みを深める。
講義終了まであと3分。
●高等部
與那城麻耶(
ja0250)は手鏡で教室の後方、同じ授業を受けるもみじとかえでを確認した。どちらも真面目な様子で熱心にノートを取っている――ように見える。しかしその実、二人は小まめにノートを見せ合い、今後の予定を入念に練っているに過ぎなかった。
かえでが分身を残し、もみじが代返する。過去無敗を誇った定石を、しかし彼女らは使えずにいた。
何故か。
それは、4限目が始まる前に教室を訪れた叢雲硯(
ja7735)の一言に起因する。
「ほっほっほ。ダブり寸前がおるというクラスはここかえ?
ぶーざーまーじゃーのー。そんな輩がおるクラスとは、どいつもこいつも同じ穴のムジナなのじゃ!
片腹痛いのー。ほーっほっほっほ!」
硯の姦計は見事にハマる。元々素行に問題がありあまり相手にされてこなかった2人は、彼女の一言で一気にクラスの問題児へと格上げされてしまったのだ。
全方位から刺さる蔑みの視線を受けながら、それでも2人は策を練る。
全ては至高の昼食の為に。
彼女らの心が、折れるどころか亀裂さえ入っていないことを麻耶は察する。
黒板の上、シンプルな時計の秒針が自分のペースで回遊していた。
●中等部
「(あと……じゅうびょう……)」
並木坂マオ(
ja0317)は机に突っ伏しながら開戦の合図(チャイム)を待ち続けた。
数学・科学・歴史と続いた午前中の授業も、この物理で最後。頭からぷすぷすと上る煙も間もなく治まる。
「(……ごぉ……よん……っ)」
細い秒針がスライドする度、彼女の集中は増していく。
幻とまで言われたハンバーガーを手に入れる。そのことだけに全神経を研ぎ澄ませてゆく。
「(にぃ……いち……っ!)」
キーン コーン カーン コーン
●大学部
教授の合図を待たず、昌信は荷物もまとめず席を立った。この時の為にわざわざ競争率の高い出入口付近の席を確保しておいた。僥倖なことに扉も開いている。今の自分には1分1秒でも無駄にできないのだ。
しかし、廊下に飛び出した彼を――
「うおっ!」
春彦の上段回し蹴りが襲った。昌信は寸でのところで後退して回避、事なきを得る。
「おや、今のを避けますか」
言って眼鏡の位置を直す春彦。表情は笑顔。だが、その色は黒だと初見の昌信でも容易に悟った。
「ッ……! なんだ若造、邪魔をするつもりか!?」
「それはあなた次第です」
二人の放つ異様な緊張感を感じ取ったのか、廊下に出始めた生徒らは悉く彼らを避けた。
すまん、通してくれと人垣をかき分ける女生徒が一人。
「今回は引いていただけませんか。引いていただけるのでしたら、向こう1ヶ月僕が昼食を奢ります」
「む……」
昌信は暫し思考を巡らせ、やがて首を振った。
「例えフレンチのフルコースだとしても譲らん」
「ですよね、『僕ら』も絶対に嫌です」
睨み合う両者の上を影が滑った。
「なにっ!?」
微笑を湛える春彦の後方に、ブロンドをなびかせてクロエ・アブリール(
ja3792)が着地する。
「頼んだぞ」
「そちらこそ」
眼鏡越しに意思疎通を果たすと、春彦は構え直し、クロエは走り出す。
「おのれ……行かせはせん!」
昌信が右手を伸ばすと、クロエの足元にうねり狂う黒が浮かび上がった。それはまるで意志を持ったように鎌首を持ち上げ、クロエの四肢を目指してにょきにょきと伸びる。
「くっ……」
顔をひきつらせてそれらを往なすクロエ。が、最後の一束が左手首に絡み付いてしまった。
「どうだ、『異界の呼び手【髪は長い友】バージョン』! 決して振りほどけはしな――ッ!!」
悠長に語る昌信の顔面を今度こそ春彦の靴の裏が捉えた。彼が籠った声を上げながら倒れると、床から伸びた髪がはらりとほつれて霧散する。
「行ってください」
「感謝する」
笑顔で頷き、今度こそクロエは出発する。
「ぐぅっ……貴様ら、二人がかりとは卑怯な……!」
「勝てば官軍、って知りませんか」
やっとこ体を起こす昌信の前、春彦は膝を曲げて屈み、笑んで凄む。
「もう間に合わないと思いますけど、それでもまだ目指すのでしたら、加減はしませんよ」
言葉を受け、昌信は歯ぎしり、しかしやがてがっくりと肩を落とした。
●高等部
チャイムと同時、二つの影が教室を飛び出す。
一つは麻耶、もう一つはかえで。どちらも相手を一瞥、学食までの最短距離を進む。
やや遅れて廊下に飛び出したもみじ。
「……邪魔は……させない」
足を前後に開き、腰を落として腕に気を溜める。
しかし――
「させんのじゃー!」
彼女の腰に硯がタックルを仕掛ける。もみじは膝こそつかなかったものの体勢を崩した。
踏ん張り、麻耶に放つ算段だった気を――
「無粋な――!」
硯のあごに叩き込む。
弾けるような高い音と共に硯が仰け反る――が、手は離さない。
「……何故、そこまでして……」
ぐりん、と顔を戻す硯。
「食への執念は肉体を凌駕するぞ!」
「あなた……生意気!」
もみじの手の甲が硯のこめかみに直撃した。
「ッ」
本来ならこの程度の攻撃、硯は涼しい顔で堪えただろう。
しかし彼女は今日、この時の為に朝食を抜いていた。
健啖家が一食抜く。何を言わんかや、である。
「うあぁぁっ!」
硯は壁に背中から激突、目から星を飛ばした。
それを確認するや否や、妹を追うべくもみじが駆ける。最短ルートを行くと事前に決めていた。この階段を降りれば後は直進するだけだ。
だが、その降り口には――
「ごめんね」
――桐原雅(
ja1822)が立ちはだかっていた。
「……どいて」
雅は首を振る。
「通すわけにはいかない」
「怪我、するよ」
もみじの敵意を内包した視線を、しかし雅は真っ向から受け止める。
「いいよ。
ボクは君の攻撃を避けたりしない。それでボクを地に伏せられたなら素直に道を譲るよ。
でも避けて行こうなんてしたら、どんな手を使ってでも先に行くのを邪魔させてもらうから、そのつもりでいてね」
どころか、上回る敵意を返した。
たじろぎ、後ずさるもみじ。
「……どうして、そこまで……」
「ボクは、彼女の為に、君らの前に立ち塞がると決めたんだ。だから――」
体中のアウルを燃焼させる雅。
もみじは咆哮一喝、拳を固めて彼女に特攻した。
●学食付近
背中に生やした小さな羽をぱたつかせるアタルは、己を猛追してくるマオをしきりに気にしていた。
「……うぬも特濃(略)バーガーを目指せし者か」
「そうだよ! 絶対追い抜いてやるんだから!」
「笑止」
口元を歪ませ、アタルがカーブを曲がる。学食のテラスが見えた。パン屋は――噴水前で開店準備をしている。
「勝つのは――我ぞ!」
「行かせないってばぁっ!」
マオが前に跳び、手を伸ばす。彼女の手は辛うじてアタルの足首を掴んだ。
「ぬ……!」
彼は成す術無く前のめりに倒れる。
ズドオオオオオオオ……
それは宛ら、校舎がひとつ崩落したかのような轟音だった。
なんだなんだ、と窓という窓から生徒たちが顔を出す。
彼らの間を縫い、壁を蹴って跳躍する影が二つ。
「だああ! しつっけぇな!」
「そっちこそ! いい加減諦めてよね!」
「うるっせぇ!」
テラスの上空で繰り広げられる乱打戦。
あくまで撃墜にこだわったかえでに対し、麻耶は徹底して回避に専念。それが決定的な差となった。
「チィ!」
右フックを空振りしたかえでの腹を蹴り、麻耶は急降下、テラスに着陸する。パン屋は目の前だ。
「よぉっし!」
――だが、そこはアタルの目の前でもあった。
「行かせぬ」
丸っこい指で麻耶の足首を掴む。既に駆け出す姿勢になっていた麻耶は
「うあっ!?」
そのまま前のめりに倒れてしまった。
「いったぁー……」
鼻を強かに打ち付けた彼女が顔を上げると、ちょうどかえでがひらりと着陸するところだった。
「フン、勝ったな」
「くっ! まだまだぁっ!」
アタルを飛び越え、かえでに迫ろうとするマオ。
だが彼女の足もまたアタルに掴まれてしまった。
「はせふっ!」
マオは四肢を投げ出すようにして顔から倒れる。麻耶もまだ彼の手を逃れられず、アタルは一人では起き上がれない。
かくして、この場で動けるのはかえでのみとなった。
勝利を確信した彼女は腕を組み、声を上げて笑う。
「さァて、特上ランチと洒落込もうか!」
きゅい、と踵を返し、彼女はパン屋を目指す。
マオは麻耶に視線を送った。
的確に意図を組み、麻耶は頷く。
二人は揃って胸いっぱいに息を吸い込んだ。
「「うわー! おっきなお尻!!」」
刹那。
先程までとは一転、油が切れたような動作でかえでが振り返る。広いおでこに青筋が浮かんでいた。
「……負け犬の遠吠えってことにしといてやらァ。食後の腹ごなしに、ボッコボコにしてやるからな!」
「ははっ」
「食後、ね」
「何が可笑しい!!?」
「Aランチでも食べていろ、ということだ」
唐突に降ってきた声にかえでが振り向くと同時、声の主、クロエがパン屋の前に滑り込んだ。
慌ててかえでが走り出す。が、時既に遅い。
「特濃照り焼きタルタルチキンダブルバーガーヴァニタス一撃必殺エディション、ひとつ」
がっくりと膝をつくかえでを尻目に、クロエは自分たちの昼食も注文した。
●エピローグ
「これが……特濃照り焼きタルタルチキンダブルバーガーヴァニタス一撃必殺エディションなんですね……!!」
注文の品を受け取った女生徒は目を輝かせた。
「しからば早速……いっただっきまー……――」
じーっ
四方八方から刺さる視線で女生徒は動きを止めた。
麻耶、マオ、クロエはもちろんのこと、あごを痛めた硯も、彼女の治療を受ける雅もハンバーガーを凝視している。
春彦がぽん、と女生徒の肩に手を置いた。
「お裾分け、という文化をご存知ですか」
「も、もちろんですよぅ」
バーガーを上下に裂き、片側を春彦に手渡す。彼は受け取ると、どこから取り出したのかまな板と包丁を構えた。
「千陰(jz0100)も食べるか?」
クロエが尋ねると、
「いいあおー。みんられられららい(いいわよ。みんなで食べなさい)」
千陰はチーズバーガーを咀嚼しながら答えた。
では遠慮なく。
春彦が6等分し、皆に配分する。
「それでは、改めて――」
「「「「「「「いただきます」」」」」」」
それぞれ万感の思いで頬張った。
「わぁー……!」
「うまっ!!」
「これは興味深い」
「へぇ……」
「ほう、これは……」
「美味なのじゃー!!」
「……ぐすっ」
女生徒の丸い頬を涙が伝う。
うんうん、と頷く麻耶。
「泣いちゃうのも判るなー。すっごく美味しいもんね!」
違うんです、と女生徒。
「それもあるんですけど……これで本当に『卒業』なんだなって思うと……」
「あ……」
依頼が成功するということ。
それは即ち、彼女が『卒業証書』を手にすることを意味する。
道を修めた末ではなく、自ら選んだ岐路へ逸れる道を行く決意。
「別に辞めることないんじゃないかな?」
ベーコンとレタスをサンドしたバーガーを頬張り、マオが言う。
「え……」
「前線に出なくても重要な仕事っていろいろあると思うよ」
「確かに。オペレーターとかいてくれると助かるよね」
「斡旋所にもバイト募集の張り紙がいつも貼ってあるのう」
「食に造詣が深いなら、学食もいいと思いますよ」
「若しくは、コネクションのある所、とか」
ついと流した視線の先、千陰は眉をひそめていた。
「図書館は人足りてるわ。
でもまあみんなの言うとおり、居場所なんて探せば幾らでもあるわよ」
「ある……のかな……。
できるのかな、わたしにも……」
「できるできる!」
麻耶が背中を叩いた。
「私たちだって争奪戦初めてだったけど、できたもん! 次は君が何かをする番だよ!」
女生徒は――
涙を拭き、顔を上げた。
「わたし、やってみます。
まずはもう少しウエスト絞らなきゃ! これ、みなさんで食べてください!」
サックから取り出したお菓子を両腕いっぱいに抱える。
湛えた笑顔は、まんまるい輪郭も手伝い、まるで太陽のように輝いていた。