●初心者コース
樒 和紗(
jb6970)は透き通った空気を胸いっぱいに吸い込んだ。そのまま息を止めること暫し。遥か遠方まで伸びている雄大な白い坂道、白粉を纏った針葉樹、辺りを万遍なく輝かせる穏やかな冬の陽。その全てを満喫してから、ほぅ、と白い息を吐き出した。
砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)が隣まで歩み寄ってくる。準備は万端だった。青味がかかったウェアが整った顔立ちを更に引き締めている。
「さて、それじゃ目一杯楽しもうか♪」
伝え、リフトに進もうとする竜胆を和紗が呼び止めた。振り返れば、板を履いた和紗の体は微動だにしていない。
「……今気付いたのですが、俺、スキーした事ありません」
竜胆ははじめ何度か瞬きを繰り返したものの、やがて口元を緩めた。
(「体弱かったし、狭い世界で育ったもんね……」)
噛み締めながら一度頷くと、竜胆は一度肯いてから体の向きを戻した。
「よし、じゃあ僕がレクチャーするよ」
今度は和紗がぱちくりと瞬き。
「よろしい、のですか?」
「もちろん。ちょうどこの辺りが良い感じになだらかだし、さっそく始めよっか♪」
「……ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
指導は簡単且つ肝要な部分から始まった。膝を内側に向けて板を八の字に、重心は板と垂直を意識して。
言われたとおりに和紗が努めると、意志に反してするすると初めてのスキーが始まった。
「お、ん、ぬ?」
「もう少し体を起こしてみて」
「え、あ、お?」
「そそ、上手いじゃない」
ふたりきりのスキー教室は暫く続いた。
*
あ、と、お、がごちゃ混ぜになった悲鳴を挙げながら大山恵(jz0002)は転倒した。受け身こそ日頃の鍛錬からなんとかなったものの立ち上がることはまだ容易ではなく、指導を仰いでいた雪室 チルル(
ja0220)の手を借りることとなる。
「いい感じだったわ!」
「ほんとっ!?」
「もっとがーっと行ってだーっと回ってぐーっとやればバッチリよ!」
「ふんふんっ!」
「あとはギッとなったところでどばーってやったらびしーんって決められるから!」
「あっ、向き変える時ってどうやればいいのっ?」
「ら゛っ、な゛っ、じゃっ、ぽんっ、っしゃーーーっ、よ!」
「 な る ほ ど っ !!
ありがとう! これでバッチリだよっ!!」
「あたいの教え方ったらさいきょーね!
それじゃああたいは超上級者コース行ってくる!! 冬が! 雪が! 冬が! あたいを呼んでるのよ!!」
言い始めながらボードを外したチルルが、言い終える前にゲレンデを猛ダッシュで駆け登っていく。
遠のいていくクリアブルーのウェアを手を振って見送ってから、よし、と意気込んでリフトへ向かおうとする恵。
その肩に、
「待てヨ」
と、狗月 暁良(
ja8545)が手を置いた。
「チョット、あのヘンから滑って来い」
「ボク、もう殆どバッチリだよっ?」
「半端なテクで滑ったらマジで轢かれるゼ」
暁良の見遣った先では、三ツ矢つづり(jz0156)がスノーモービルに跨り腕を組んでいた。
恵は笑顔で肯いてゲレンデを駆ける。従うに至ったのは暁良の風貌に因るところも大きい。暁良の装いはウェア、帽子、ボードに至るまで黒を基調に揃えられていた。帽子のスカル、ウェアのライン、ボードのクロスは銀色で統一。使い込まれていながら良く手入れされた器具の数々は問うまでもなく上級者の証。
「いっくよーっ!」
両手を振り回してから雪を蹴った。暁良が見守る中、徐々に加速し、両腕でバランスを取りながら滑ってくる。
「なんでスゲー上手くなってンだヨ……」
目元を覆った瞬間悲鳴が聞こえた。顔を上げた時には、もう恵は両腕をぐるんぐるん回してバランスを取り戻そうとしながらあさっての方向に向かっている最中。
恵の進路の先には人影があった。恵を発見してはいるようだが、もうあまり距離が残されていない。
「転べ転べ」
「こうっ!?」
慌てて無理やり尻餅をついてみるものの勢いは殺せず、ボードが削ぐように吹き飛ばした雪の波が人影――川澄文歌(
jb7507)をがっつり呑み込んだ。
「大丈夫っ!?」
「え、ええ……なんとか」
体に積もった白を落とす。赤と桃を基調としたウェアが陽を受けてキラキラと輝いた。
やってきた暁良が恵を引き起こす。恵がごめんなさい、と頭を下げ、いえいえそんな、と文歌が両手を振った。
「あの、私にも手伝わせていただけますか?」
「あぁ。筋は悪くネーから、直ぐになンとかなるダろ」
「初めまして……でしょうか? 私、同級生の川澄文歌っていいます」
「大山恵だよっ! よろしくね、川澄さんっ!」
「私こそ、よろしくお願いします、恵さん」
*
腕を組んで唸るつづりに黒夜(
jb0668)が首を捻って問いかける。
「何やってんだ?」
振り向いたつづりは黒夜を発見して、ぽつりと一言。
「ぐるぐるに海苔巻いたおにぎりみたい」
「うるせー」
もこもこの黒いダウンコートに手を突っ込み、黒夜はつづりの視線を辿る。
「で?」
「恵轢こうと思ってたんだけどさ」
「真顔で何言ってんだ……」
「友達と合流しちゃったみたいで、暁良さんもいるし、迷惑はかけられないかなーって」
「轢くのも充分迷惑だろ」
「そういえば「聞けよ」
つづりの手がくい、と上がり、黒夜の背後、レストランを指差した。
「中、行かないの?」
「あぁ」
「居るよ?」
「知ってる」
●レストラン
小日向千陰(jz0100)が箸で差し出された鶏のつみれを、雫(
ja1894)はぱくん、と雛鳥のように頬張った。出汁の効いた醤油味の露がこれでもかと染み出してくる。五所川原合歓(jz0157)が白菜を勧めて来るが丁重に断った。
そうこうしている間に雫が注文したもの――の、一部が届く。きゅるきゅると悲鳴を上げていた雫のお腹の虫は、目の前に厚切りの肉がたーんと運ばれてくると更に主張を強めた。
いただきます。手を合わせてから頭を垂れ、既に充分温まった網の上に一枚目を置く。じゅうう、と肉が白く染まり、香りと煙、脂を溢れさせた。
「はーい、残りの注文とか持ってきたわよー」
ナナシ(
jb3008)を先頭に、若杉 英斗(
ja4230)、月詠 神削(
ja5265)がやって来る。誰も彼も大なり小なりの食べ物を運んでいた。給仕は自分たちで賄いますので、と申し出ていたのだ。
「ご一緒してもいいですか?」
「もちろん。一緒にだらだらしましょ」
「伍(ウー)もよろしくな」
「――うん」
「足の具合はどう? 半泣きだったけど」
「なななな泣いてなんかな痛(いった)い!」
動揺して椅子の脚に患部をぶつけるアラサーに、英斗が身を乗り出した。
「ライトヒールしましょうか?」
「ありがと。でも手当てもしてもらったし、大丈夫よ」
「今みたいに騒がなければ、ね。
ほら、小日向さん足見せて」
千陰が膝を伸ばすと、ナナシは座り込んで精神を集中。まず足首を固定する小型のギプスを創造しててきぱきと装着させると、次いで彼女の傍らに分解可能な松葉杖を2組4本、創り上げた。
「今日は大人しくしてるのよ、いいわね」
「はーい」
「――ありがとう」
「いいのよ、見ていられなかっただけだから」
「まあ、大事がないなら何より」
言いながら神削がビンの封を切る。この地方で採れる米を醸した地酒だった。
やや大振りな猪口を差し出すと千陰はそっと受け取った。半ばほどまで注ぐ。続いて自分の分も注ごうとすると千陰がビンに手を伸ばしてきた。はにかんで手渡す。並々と注いでくれた。
合歓がサイダーを、英斗がコーラを、雫がウーロン茶を手にする。
ナナシが掲げるのも、同じくウーロン茶。
「あれ、ナナシさんは呑まないんですか?」
「ええ。いや、慰安旅行だから良いんだけどね。 昼間からお酒を飲むと駄目人間になった気がして」
「はは……耳が痛いな」
「年末! 旅行! 甘んじてダメになりましょう!! それじゃ!!」
\かんぱーい!/
●中級者コース
リフトを降りた櫟 諏訪(
ja1215)は、何度か楽しんだゲレンデを目を細めて眺めた。コースには自分の描いたシュプールしか残っておらず、しかし寂しいという感想を抱かずに済んだのは、見慣れた友が2名、同じ場にいたからである。
手前側、リフト降り場近くで蹲る黒百合(
ja0422)に声を掛ける。
「何をするか決まりましたかー?」
「そうねェ、計測は終わったわねェ……♪」
黒いコートを着込んだ黒百合の近くに用具らしきものは見当たらない。その代わり、足元には大きさの異なる雪玉がふたつ並んでいる。いやに形が整えられたそれを見てなんとなく察した諏訪に、黒百合がダメ押しの一言を放つ。
「何かデカい事したくってさァ……?」
やっぱり。諏訪が係員を見遣ると、まあ大丈夫じゃないですか、と笑みで応えてきた。どうやら安全に楽しめるのは今回が最後らしい。
「始める前に合図いただけると嬉しいですよー?」
黒百合は「きゃはァ♪」と笑みを浮かべただけだった。
ストックを扱いでゲレンデへ。中央には赤坂白秋(
ja7030)が仁王立ちしていた。
「何をしているんですかー?」
「参(サン)が来ねえんだ……!」
「黒夜さんと雪遊びしてましたよー?」
「 は あ !? 道理で来ねえわけだぜ……! うおおおおおお待ってろよ参!!!」
雪を蹴り上げながらゲレンデを駆け下りていく白秋。
諏訪はゴーグルをかけ直すと、白煙を避けるようなコースを選び、最後のスキーをのんびりと楽しんだ。
●レストラン前
つづりがサイドスローで放った雪玉が黒夜の脚に直撃した。全身之もこもこの黒夜にダメージは無く、気怠さを隠そうともしないやんわりとした反撃を行う。が、つづりは横っ飛びでモービルの陰に隠れて難を逃れた。
黒夜がため息を落とす。
「もういいだろ」
「えー、終わりー?」
子供みたいにむくれたつづりが、耳で何かを拾った。
「なんか聞こえない?」
「いや、別に」
向かい合っている黒夜には『なんか』の正体が見えている。教えてやってもよかった、のだが、脚にはまだ雪がこべりついている。
「……あ〜〜〜〜〜〜ん……」
「なんか地鳴りみたいなのもしない?」
「小日向のどこが好きなんだ?」
「んー、いろいろあるけど、なんだかんだで優しいとこかなー――っていうのは全部嘘だから!!!」
「……さ〜〜〜〜〜〜〜〜ん……」
「ほら、今のは絶対聞こえたでしょ?」
「もうひとついいか?」
「何?」
「怪我するなよ」
「参(さあああああああああん)!!」
駆け下りてきた白秋がつづりの後頭部にラリアットを放った。実のところは肩に手を置こうとしただけなのだが、ゲレンデを全速力で駆け抜けた勢いが乗っていればもう充分な攻撃である。不意打ちとなったつづりはモービルごと吹っ飛んだ。
全身雪まみれ、顔を真っ赤にして起き上がるつづりに、白秋が抱え続けてきた風呂桶を衝き出した。
「混浴しようぜ、参!!」
「行きたいくらい汚れたよ!!!」
つづりが蹴り上げた雪を白秋はひらりと躱す。舌を打ちながら桶から落ちた桃色のそれを拾った。
「ピンクのタオルって……」
「バーカ、よく見てみろ。それはタオルじゃなくてだな、俺が直々に選んだ浴室用のビキニだ!」
確かめたつづりが素っ頓狂な声を上げて桃色をぶん投げる。腹部にアニメのキャラがプリントされた子供用のフリフリビキニは純白の雪に良く映えた。
「サイズバッチリだろ?」
「ちょっと大きいくらいかな? うるさいッ!」
つづりは鼻息を荒げてモービルに跨る。
「もういい。先輩を轢く」
「俺が逃げ切れたら混浴しようぜ、参!」
「いいよ。あたしが轢けたら先輩バリカンで丸刈りね」
到着した諏訪へ黒夜が視線を投げる。
「……止めた方がいいのか?」
「ほっといていいと思いますねー?」
「合図頼むぜ!」
「了解しましたよー!」
諏訪が桃色を拾い、摘むように持つと、フラッグよろしく振り下ろした。
白秋がゲレンデを駆け登り、つづりがフルスロットルで追い立てる。
「怪我するなよ」
黒夜の言葉に、つづりは一瞬だけ左腕を上げた。
*
「もうチョイ体起こセ」
「こんなっ、感じーっ?」
「そうです、お上手ですよ!」
声援に得意満面の恵は、手を振る文歌の寸前で減速、見事停止を成して見せた。暁良と片手で、文歌と両手でハイタッチを交わす。
「さテ。ンじゃ俺は上級行ってくるゼ」
「ボクも行くよっ!」
「いや、キツいダろ」
「そう、ですね……ほぼ林、ということですので」
「中級コースにも暴走車両がいるけどナ」
「むーっ」
「むくれるなヨ。腕が上がっタら、また一緒に滑ろうゼ」
翠色の髪をわしゃわしゃと撫でると、恵はくすぐったそうに両目を閉じた。
*
「うん、もう基礎は完璧だね」
「竜胆兄の教えでここまで出来るなら、存外スキーも簡単ですね」
「敬ってくれてもいいのよ!?」
短く笑い合う。
さて、と竜胆。
「それじゃ、本格的に滑りに行こっか」
「ええ、参りましょう」
大きく腿を上げて、ぺた、ぺたと向きを変えると、和紗は、真っ直ぐ目的地を指差して決意を口にした。
「いざ、超上級者コースへ」
「いきなり!?」
「時間は有限です。やるからには極めねば」
言い切り、一度肯いて見せると、和紗はストックを扱いでリフトを目指して出発した。
安定した滑りに若干気を軽くしたものの、林からやたらと聞こえてくる絶叫にひとつため息を落とし、竜胆も動き出す。
●再・レストラン
英斗は絶句していた。
主因は正面、合歓の食べっぷりである。絶えず動かされる箸と口と喉は、まるでこちらの食欲まで貪っているかのよう。
見入っていると、不意に目が合った。
「――お鍋、食べないの?」
「あ、すいません、すごい食べっぷりだな、と思って」
「――まだまだ続くよ?」
みんなも、と隣、雫を見遣った。雫は箸とトングを同時に操り、肉を焼きながら肉を食べる、という荒業で6人前をぺろりと胃へ収めたところだった。
そしてさり気無くほぼ同量を食べる神削も凄まじいの一言。
「奢り甲斐があるわね」
「美味しく頂いてるよ」
地酒のお代りを注がれながら千陰がニヤリと頬を緩める。
「伍ね、まだまだ育てたいんですって」
「(ごくり)」
「――勝手に育つんです」
雫がぶ厚い肉を音を立てて噛み千切った。
「小日向さんは育てないんですか?」
「振っといてなんだけど何よその切り返しは。
私は腕っ節のことを言ったんだけど、若杉君はどこと勘違いしたのかしらー?」
「あ、出汁が利いていて美味しいですね!」
「――でしょ?」
「猪と言えば、白い猪のサーバントが出てくる作戦の報告書を以前読んだんですけど……」
「くっ、逃げられちゃったかー」
「小日向さんはもっと食べて腕っ節育てないとダメよ……合同訓練で部下のチームに負けないくらいに」
「ぐっ」
「訓練、ですか?」
廃棄される工場を舞台に実戦形式の訓練が行われたことをナナシが説明すると、英斗が感嘆の息を漏らし、千陰が酒を煽り、神削が微笑みながらお代りを注いだ。
「懐かしいな。あれからもう1年……と、半分くらい経つのか」
「メンタル面ではむしろ小日向さんが大山さんに学ぶべきだと思うわ、私」
「喫煙しようよっ!」
「モノマネお上手ですね!」
「大山さんの真似なんて、特徴を掴めば簡単よ」
ロースの脂を味わったナナシがウーロン茶で一息。
「あの訓練からもう1年半も経ったのね」
「そうよー。それから参が入院して脱走して、年が明けてから天体観測して、二人とも司書の資格を取って、伍は一緒に児童保護施設の資格もゲットして」
「本当に色々あったわ……」
「お祝いで喫茶店をお借りして飲み会やって、大雨降った時は泥だらけになって――あっ」
慌てて口を押えるがもう遅い。ナナシは抉るように見つめてきていた。
「加勢に来た私に阻霊符使って泥だらけにしたのよねー」
「出来心だったのよぅ。ほら、私もパサランに食べられたしおあいこ、ね?」
苦笑いを浮かべた神削が猪口を手にして残りを飲み干す。間を置かず次を注ごうとすると、合歓がビンに手を伸ばしてきた。掲げて、注がれる。
「――美味しい?」
「ああ、気に入った。
伍とも一緒に呑めればもっと良かったんだけど、運転があるんじゃあ、な」
「――うん。またの時に、だね」
「ああ、次の機会に、な」
猪口とジョッキが小さな音を鳴らす。
さて、と千陰が手を合わせた。
「ちょっと一服してくるわね」
「はいはい。転ばないようにね」
松葉杖に腕を置いた千陰、その服の裾を、箸を置いた雫が引っ張った。
●露天風呂
白蛇(
jb0889)は既に長い事湯に浸かっていた。白い猪口を傾ければ、充分に火照った体の中を刃のような地酒が滑り落ちていく。ビブラートの効いた長い吐息が自然と漏れた。
仰ぎ見れば青い空、寒々しい針葉樹林とゲレンデからは笑い声と若干の悲鳴。目を細めてもう一口楽しむ。不可であることを確認するべく従業員に尋ねたところ、許可を貰えたどころか地酒を提供してくれた。
もう一口。中ほどで空になったとっくりを傍らへ置き、一気に喉へ流し込む。白蛇は頭を垂れて身悶えた。こうでなくては。冬の温泉はこうでなくては。
酒が尽きていることに気が付いたのはそれから一息ついてからだった。ふむ、と一考して立ち上がる。まだまだ浸かり、まだまだ楽しむのだ。休みを挟むことはマイナスではあるまい。
浴場を後にし、簡素な浴衣に袖を通して帯を結ぶ。
脱衣所を出る前に一度振り向いた。
「あちらもあちらで、味わい深い風呂であったがのぅ」
後ろ髪を引かれながらも、野暮な真似はすまい、と白蛇はゆっくりと暖簾を潜った。布ずれの音さえ立てぬように。
●女湯
濃い湯気が浴場全体を覆っていた。中央から端、壁の辺りが見渡せないほどに。無論それは、外気が冷え切り、普段より幾らか厚い湯気が現れていたからであるが、セレス・ダリエ(
ja0189)には何か、別の要因がある気がしてならなかった。即ち己の心持ち。
(「……そう言えば、温泉、初めてかも知れない……」)
上げた腕を撫でてみる。温泉特有の湯の硬さと香りを、セレスは独り、味わっていた。
(「どうせなら彼女と、一緒に来たかった、な……」)
思い浮かべた『もしも』を、しかし沈めてしまうように、セレスは顔半分まで湯に浸かった。
(「……だけれど、彼女はきっと一緒には来てくれない……」)
想定を裏付けるリアリティという後押しがまるで描けず、問い掛けることさえ憚られたまま今日を迎え、現在に至っている。
思い浮かべる。
(「強く脆い人……綺麗な硝子の様に消えてしまいそうで……その存在すら割れて落ちて……そして消えてしまいそうで……」)
思い描く。
(「……彼女は独りで生きてきた人。そして……これからもそうする人……。
……私の大切な……初めて大切だと心から想った人」)
思い抱く。
(「もう今は、遠く遠い存在」)
縁に背中を任せ直し、膝を抱えた。額を乗せる。顔は見る見る熱くなるのに、頭の中はどうしようもなく冷めたままだ。
(「否、初めから遠かったのかも知れない。全て私の見た夢であり、幻。
……私は彼女にとって何なのだろう……何だったんだろう……」)
幾ら頭が冷えていても、熱さを我慢できるわけではなく。
息を吐きながら顔を上げると、遠い天井から落ちてきた雫が、ちょうど瞳に当たった。
走る痛みを堪え、湯で顔を注ぐ。
誰かに話したくなった。誰かと話したくなった。誰かはとっくに決まっていた。
しかし彼女はいない。
(「やっぱり、一緒に来たかった……」)
火照った体にも、冷えた心にも、湯は等しく温かい。
●超上級者コース
「さーーむーーいーー!」
「えーい、とっとと腹を括らんか!」
緋打石(
jb5225)がいくら力を込めて引っ張っても、カーディス=キャットフィールド(
ja7927)は頑なに持ち込んだこたつから出ようとしない。
「だいたい私は小日向さんの奢りで旅行だという話しか聞いていませんよ! 雪山なんて聞いてませんしーー!」
「旅行には変わりないじゃろ! 観念するのじゃ!」
「いーーやーーでーーすさーーむーーいーー!」
「強情な……止むを得まい、手荒なことはしたくなかったのじゃが」
言いながら緋打石はこたつの天板を外した。
「っ! 血も涙も無いのですか!?」
「やかましい!」
布団を剥がし毛布を巻き取って畳み、本体をどかして、ここに遂にカーディスは剥かれた。
「さあ、滑るのじゃ」
「あががががががががが」
「そんなもっこもこの着ぐるみを着てまだ寒がるとは……滑れば体も温まるじゃろ」
「ででで、でも私道具がありませんよ?」
「安心せい。ほれ、自分がボードを選んでおいたのじゃ」
「おーありがとうござ……ちょ、足のサイズに合いませんよ!?」
「着ぐるみサイズのボードなどレンタルで置いてあるわけがなかろう?
ほれ、後が閊えておる。とっとと――」
行け。
ドロップキックで放たれたカーディスが上級者コースを滑走していく。
「ふぬおおおおおおおおおおおおおお!?」
前述のとおり後ろ足にも前足にもサイズが合わなかったのでサーフボードの要領で進まざるを得ない。それでもカーディスは障害物てんこ盛りの不整地を良く滑った。思わず緋打石が声を上げて笑うほどに。
「やるのぅ」
「緋打石さんもお上手ですね!?」
「はぐれ化する前に人間界でやったきりじゃが、なんとかなるもんじゃのう」
涼しい顔ですいすいと滑っていく緋打石。
それとなく楽しくなってきたカーディスの顔に弾かれた雪の塊が当たった。これを機に一息で寒さが戻ってくる。背骨がバラバラになりそうなほど身震いをして、当然のようにバランスを崩した。
「ふおおおおおおおおおおお!?」
「おっと!」
翼を展開した緋打石が浮遊、方向を転換、逆走する。懸命に伸ばした腕はカーディスの前足を掴み、針葉樹への激突をなんとか免れる。
「し、死んでしまうかと思いましたよ!」
「よーしよしよし、次はまともに楽しもうな」
超上級者コースは、蓋を開けてみれば大盛況であった。
振動で落ちる雪の塊を潜って進むのがラファル A ユーティライネン(
jb4620)、スタイリッシュに飛び越えて進むのが暁良、甘んじて全身で受けて進むのがチルル、落ち着いた頃に猛スピードで滑り落ちていくのがRehni Nam(
ja5283)、盛り上がった雪に板を取られ転倒するもすぐさま立ち上がり滑走を再開したのが陽波 透次(
ja0280)。
順に追っていく。
「やるじゃねーの」
呟き、ラファルは笑う。青いウェアの襟元から白いインナーが覗く様はそのままトレードモチーフであるペンギンを連想させた。そしてその挙動も、北極で生まれ育ったペンギンのように無駄が無く、完璧と言って差し支えない美しさを湛えていた。
対して、併走する暁良の滑りは華やかと言い表せた。余裕、とでも言おうか、ただ曲がる、その挙動ひとつを取っても他者を魅了する力に満ち溢れていた。
暁良がフラットスピンを決めれば、間髪入れずラファルがバックサイドスピンを繰り出す。暁良がトゥウィークで枝を揺らせば、ラファルはマックツイストで枝葉をかき混ぜた。
そうこうしている内に終点となる。こんな状況で運営するなよ、と言わざるを得ないような、切り立った崖が目の前に現れた。必然減速、停止する暁良。その横をラファルが減速せずに疾走、跳躍した。目を剥く暁良など何処吹く風とぎゅるるるーと回転すると、ラファルはフライトシステムを展開、そのまま頂上へ飛び上がっていった。
「冬ーーーーーーーーー!!!」
叫ぶチルルが終点付近に滑り込んでくる。その顔に纏った雪は転倒したからではなく、暁良、ラファル両名が降らせた雪を甘んじて受けながら進んだからである。しかしどちらでも同じことであった。
「雪ーーーーーーーーー!!!」
程よい位置で跳躍したチルルは、勢いそのままに体の全面から雪面にダイブした。しかしそれは危なっかしいものではなく、全身全霊で季節と風物詩を味わいたいという思いの表れであり、ごろごろごろーと転がりながらぱぱぱっとボードを外すと、しゅたっと起き上がってだだだだだっと走り去っていった。
先駆者が充分に慣らした雪の上をRehniが軽快に滑っていく。
「ふーんふーんふーーーん♪」
鼻歌混じりながらも滑りは鋭利。危なげない挙動で木々の間を滑り降りていく。その気になればすぐにでもインストラクターとして芽を出すことができるだろう。残念ながら呼び出しNGを言い渡されてしまった召喚獣の分まで、Rehniはウィンタースポーツを満喫した。崖を迂回し、一路眼下の温泉施設へ。
透次は転倒した。意図的に、である。誓ってミスではない。むしろ透次はこの場の誰よりも超上級者コースを往復していたし、誰よりもスピードを出して体に負担を掛けていた。
歯を食いしばって透次は斜面を駆け登る。このくらいで音を上げるな、むしろそれが狙いだと己を叱咤した。
透次の狙いは特産品である豚の焼肉である。無類の焼肉好きである為、朝食を抜いてきた。しかしこんなものでは足りない。故にカロリーを極限まで消費する道を選んだ。苦ではない。全く苦ではない。空腹は最高の調味料なのだ。
「くっ…………オオオオオオオオオオオッ!!!」
雪に足を取られても、透次は血走った目を見開き、斜面を駆け登った。
「では、推して参ります」
「 こ の 惨 状 を 見 て も 尚 !? 」
無論です、と和紗が振り向いて頷く。
「俺にもしもの事があれば、その時は介錯をお願いします」
「ちょ――」
竜胆の制止は僅かに遅れ、その隙に和紗は出発する。
ハラハラしながら見守っていると、なるほど、無難にではあるが、それなりにしゃかしゃか滑れている。和紗の胸裏に、いざとなれば助けてくれるであろう信頼する人物がいたことを竜胆は知らない。
竜胆は頬をぽりりと掻いてから後を追った。いざとなれば体を張って守らなくてはならない。
●再・レストラン前
ぺちぺちと雪を叩いていた諏訪の許へ、物陰から飛び出してきた白秋が転がり込んできた。
「匿ってくれ……あいつ、GA☆CHIだ!!」
「目が据わってましたからねー?」
「エンジン・ハイみてーなのになってんのかもな」
よいしょ、と黒夜が持ち上げたのは雪うさぎ。小石と枯葉のトッピングだが、そこはかとなくシックで味わい深い仕上がりとなった。前後左右から覗き込み、仕上がりを確認して一言。
「できた」
「何がー?」
聞き慣れた声にびくっとして振り向くと、見覚えのある人物が見慣れない状態でレストランの入口前に表れていた。
「……何やってるんだ?」
「えへへ、運んでもらっちゃったのよん」
よっこらせ、と雫が千陰をベンチに降ろす。ありがとね。いえ。千陰は紙巻を銜え、雫は千陰に手渡された豚串をもしゃもしゃし始める。
「櫟君のは、ごめんなさい、何? こけし?」
「会心の出来ですよー!」
「そっちの四角いのは……かまくら?」
「細部の造形にこだわってみましたよー!」
「ふむふむ。
黒夜さんは?」
「あ、ああ……」
三段の階段をてててと上り、千陰の前に雪うさぎを差し出す。
「可愛い」
千陰は指で右目を四角く囲った。
「私が乗っ取りました」
「……来年幾つになるんだったか」
「司書チョップ!!」
ひらりと躱した黒夜が階段を飛び下りる。雪うさぎに負荷をかけないよう慎重に。
千陰は吸殻を捨てて、視線を雫へ。
「もう一本吸っていくから、先に戻ってても大丈夫よ?」
「いえ、大丈夫です。帰りも任せてください。必要も無いのに怪我人に鞭打つ真似はしませんよ」
言う雫は既に豚串を平らげており、且つ、ぎゅるごごごと腹を鳴らしていた。
「せっかくの旅行なんだから、楽しまないとダメよ?」
「御心配なく。
過去に何度か重傷を負って、怪我の不自由さは理解しています。だから手伝いを名乗り出ました、それだけです。
本当にそれだけですから」
ありがとね、と、千陰が飴玉を差し出した。雫はそれをぱくんと含む。それから千陰は雫の頭を撫でた。雫の頭が取れてしまいそうなほど、入念に、念入りに撫で回した。
「千陰はもうなんつーか、オカンだな」
「聞かれたら埋められますよー?」
黒夜は上機嫌であった。これを雪で作った猫の隣に並べて写真を撮ることで頭がいっぱいだった。
足を止めて膝を折り、猫の隣にうさぎを置いたところで、爆走してきたスノーモービルが激しく猛ターンしてきて、雪を巻き上げて両方埋めてしまった。
「……」
「豆腐先輩見なかった!?」
「見てねー」
「ほんとに!?」
「うるせー、このエンジン・ハイ」
「右手にアクセルがある安心感たるや。
ね、豆腐先輩見てない!?」
「ここですよー?」
「よっ!」
かまくらの中から白秋がにこやかに手を挙げるとつづりは転倒した。それから起き上がり、白秋を指差し、腹を抱えて大笑い。
「豆腐先輩が豆腐に呑み込まれてるーーー!!!」
諏訪が作成したこういう→[・_・]かまくらは口の部分が入口になっていた。目の部分は、観光地で良く見るアレよろしく顔が出せる作りになっており、白秋がイケメンスマイルを置いている。雪細工のクオリティはつづりのリアクションを見て推して知るべしであり、製作者である諏訪は満足げにシャッターを切った。
「女の子に指差して笑われるって……なんかこう、クるものがあるな……!」
「外科と脳外科の予約取っておきますねー?」
「あ? 脳外科はともかくなんで外科だよ?」
「これからあたしに轢かれるからだよ」
「あ?」
「次、ラストランにしようよ。混浴かかってるから全開で行くね」
「やべえ、マジで忘れてたぜ」
「お鍋でも食べに行きますかー?」
「やーだー! もーいっかいー!」
(「もう普通に甘えてますねー……」)
「っふ、そこまで言われちゃあ受けて立つしかねえよな?」
「吹っかけてきたの先輩だけどね。合図お願い!」
諏訪がツーショットをファインダーに収めてシャッターを切った。軽い音と光を受けて白秋が走り出し、一拍置いてつづりが追う。向かう先は、まばらに人が集い始めた中級者コース。
●再・中級者コース
「そういえば私、専攻をアーティストにしたんです」
「そうなのっ?」
「はい。なので今日の私の行動はすべてアートですよ☆」
笑みを浮かべた。原動力は勇気。
「時間も迫ってきましたし、最後に一緒に滑っていただけませんか?」
「もちろんだよっ!!」
せーの、で同時に出発した。大きく、緩やかなシュプールを対照になるように描いていく。二度目の交叉の折に若干接触しかけ、なんとか難を逃れて、歯を見せて笑い合った。
背後からはエンジンの音が聞こえる。またあの小柄な職員の方が大柄な生徒を追い回しているのだろう。
ハーフパイプの横を通過する瞬間、見慣れた影が飛び上がってきた。手を振ると、黒ずくめのボーダーはターンの終わり際、額に揃えた指を投げて見せてくれた。
「カッコいいよねっ!」
「はい!」
「楽しいねっ!!」
「はい、本当に!」
心地よい時間だった。胸に入る冷えた空気も清々しい。僅かに伝わる微振動だけが不思議だ。
否。
微振動、ではない。如実に、露骨に揺れは大きくなってきている。
すぐ隣をモービルが駆け抜けていった。あれ、と首を傾げる。この人は生徒を追い駆けていたのでは。
「頼む乗せてくれマジで頼む参!!」
「絶対無理!!!」
「文歌ちゃんっ!!!」
振り向く。
冗談のように巨大な雪玉が二つ、ごろごろごろごろと転がってきていた。横幅は温泉施設ほどもあり、並んで転がるとゲレンデに逃げ場はほぼ無い。
「え!?」
「文歌ちゃん急いでっ!!!」
「わわわわわわわわわっ!?」
そうこうしている内に白秋が巻き込まれた。ぷちっ。
「あらァ? 何か潰しちゃったわねェ♪」
「語尾に音符付いてませんか!?」
「ぁぁぁあああぁぁぁぁ……ぁぁぁんさああぁぁぁ……」(回転中的表現)
「今こそ風になれ、あたし――!」
雪玉は二つ転がっていた。ひとつは黒百合がドロップキックで操作している。透過を駆使してここまで大きく仕上げたが、ここに来てタフな『足場』が付随したので『効率』は飛躍的に上昇していた。
もうひとつの上には翼を現した緋打石が乗り、所謂玉乗りの要領で操作していた。まともに楽しもうと中級者コースを訪れたところで面白そうなことをしている黒百合に出会い手伝うことになった、という塩梅。
「そういえばカーディス殿の姿が見えんのう?」
「ぁぁぁあああぁぁぁぁ……ぁぁぁぎゃああぁぁぁ……」
「おお、いつの間に。だがこれが最後の一押し、我慢、もとい満喫するのじゃ」
身を屈めて自己最高速度を更新する文歌の隣に何者かが文字どおり滑り込んできた。文歌が助けを求める。しかしその者――透次はあろうことか小さく軌道を膨らませると、雪玉のほぼ直前まで下がった。
「どうして!?」
「『ここ』だ……! 唯の苦境でなく、明確に見える命の危機……! この状況下なら、カロリーを最後のひと絞りまで燃やし尽くせる……!
一 度 干 乾 び ろ、 僕 !! 」
目を白黒させる文歌の髪に押し固められた雪の欠片がガンガン当たってくる。高速回転する超特大雪玉はすぐそこまで迫っていた。このままでは白秋やカーディスのように雪玉の一部になってしまう。
(「私、明日からバラドル、か……」)
「文歌ちゃん、こっちっ!」
まず暁良が大きく先へ滑っていき、恵が続いた。考える前に進路を変える。暁良に先導されて位置を取り、促されるまま恵の隣へ。
「合図で内側に転ぶんだってっ!」
「はいっ!」
「один、два――」
три。
折り重なるように倒れた3名の両隣を雪玉が転がってゆく。巻き上がる雪こそ受けたものの、無傷で済んだのは、大玉が大きくなり切る前に隙間を発見して誘導した暁良のファインプレー。
がばっと起き上がった恵が頭を振って雪を払い、笑った。
「危なかったけど楽しかったよね、文歌ちゃんっ!」
「ええ、本当に――」
落ち着いて、ようやく気が付く。確かにあった隔たりは、もうとっくに無くなっていた。
「――うん、私も楽しかったよ、恵ちゃん!」
にかっと恵が笑い、にぱっと文歌も笑う。それから同時にくしゃみをして、もう一度笑い合った。
ふたりの頭に暁良が手を置く。
「温まりに行こうゼ、御二人サン」
*
ごろごろごろごろ〜〜〜……どーーーーーーーーーーん!!!
「きゃはァ、完成ィ♪」
振動で転倒した湯上りRehniを余所に、黒百合は満足げに手を叩いた。
緋打石に謝辞を述べ、今度はカーディスを掘り起こすのを手伝う。ついでにつづりを手伝い白秋を救出した。
風呂桶を抱えたナナシは、その作品を見て硬直した。ちょうどいいところに、と黒百合。
「雪持ってきてくれると嬉しいなァ?」
「はいはい……」
友の手を借りてなんとか完成。ノリノリでハイタッチに臨む黒百合をジト目のナナシが両手で迎えた。
「して」
両者に、地上から呆れ顔の白蛇が声を投げる。
「それは何じゃ?」
「ご覧のとおり雪ダルマよォ♪」
「げれんでのど真ん中にか……」
とにかくデカい。翼を展開したとしても頭頂部まで飛び上がれるかどうか。念の為、近くまで来ていたスタッフに確認を取ってみたところ、まあいいんじゃないですか、とのこと。
「運営の見直しが急務じゃのぅ……」
「あ、白ちゃん様ァ。温泉ってお酒飲めたかしらァ?」
問題なかったことを告げると、黒百合はナナシと共に浴場を目指した。
やれやれと頭を振り、雪だるまを見上げながら進んでいた白蛇は、不意に何かを踏んだ。
「む、大丈夫か?」
かひゅー。かひゅー。
「ふむ。ちと手荒になるが、許せ」
言いながら白蛇は板を外すと、透次の片足を掴み、レストランまで引き摺っていった。
●再・超上級者コース
時間的にこれが最後になるだろう。ラファルはこの日最速のスピードで林の中を滑り抜けた。
やがて見えてくる崖に備え、ジャンプのタイミングで屈めていた身を伸ばした。
飛距離は稼いだ。次は速度。フライトシステムを短く、強く吹かして下へ。
身をよじる。システムを動かす。腕を振る。腰を捻る。とどめにシステム全開、計5400度回転という離れ業を成し遂げて、且つ無事に着地した。
申し分ない仕上がりである。惜しむべきは相棒に見せられなかったことだろうか。
「雪だーーーーーーーー!!」
幾度となく聞いた声が、別にスキー用でない林の中から聞こえた気がした。恐らく滑っている、のだろう。ただ、時間を把握しているのだろうか。
「……ま、いいか」
大きなあくびをひとつ打ち、ラファルはボードを外した。
●再々・レストラン
「今度こそ本当に死んでしまうかと思いましたよ! こんな事もあろうかと着替えの着ぐるみを持ってきて良かったのです!」
「すまんすまん。お詫びと言っては何じゃが、ここは自分の奢りじゃ」
「当然です! 奢って頂きますのよ!」
「品書きはこれか。手始めにこの酒とー……」
「私はあまり飲めませんのでソフトドリンクで。あ、焼肉美味しそうですね」
「……酒と酒と猪鍋! あと酒持ってこい酒エ!」
「ちょおおおおおおおお!?」
「私の出資なんだけどなー」
「ウチは感謝してるから」
「ありがとう黒夜さんっ。おうどんもっと食べる?」
「じゃあ、少なめで」
よそられたうどんをちゅると吸い込み、黒夜は周囲を見渡した。空いたビンの林の中でまだ地酒を楽しむ神削、膨れた腹を抱えて満足げに椅子に凭れる英斗、ぱんっぱんに膨れた腹をさすりながら床で横になっている雫。
「伍は?」
「運転前に仮眠取るって、浴場の休憩室よ」
続々とやって来る利用者に出発の時間が近いことを告げる。そのどさくさに紛れて、黒夜はおしり半分だけ千陰側に近づいた。
●再・混浴
意識を取り戻した白秋は、鼻をつく硫黄の匂いで自身の居場所を把握した。
「気が付いた?」
声に顔を上げる。
つづりは件の、ピンクのレオタードを着込んでいた。
「お……っ?」
「なんだかんだで先輩遊んでくれたし、逃げ切ったし……そういうこと。風邪引いちゃうからあったまって」
白秋も湯着を纏っていたが、こちらはスタッフが対応してくれた、との事。
無言で湯船に進む白秋。足だけ浸からせたつづりと同様に、無言。
湯気にあてられた雪が溶け、枝から零れ落ちた。
「なあ、参」
「なあに?」
「パンツ貸してくれ」
「……あ゛?」
「おっと見損なうなよ! 直にパンツを愛でるなんてそんな真似はしねえ!
参のパンツを複製して、それを愛でたいだけだ! それだけなんだ!
だから頼む、参! パンツ貸してくれ!!」
つづりは重いため息を落とすと、立ち上がり、脱衣所に向かって歩き出した。
マジか。自身の腿をつねり、夢でないことを確める白秋。
つづりが移動しながら引き戸を開ける。
そこには、氷像のような笑みを湛えた合歓が立っていた。
「なんで伍がいるんだよ!?」
「――直感(フィーリング)だよっ」
「恵もいんのか!? あ今の伍か。って、ちょ、待っ――!!」
ざっぱーーーーん
●再・女湯
「いつも通りね」
「いつも通りねェ♪」
隣から聞こえてくる物騒な音を受け、黒百合は清酒を味わい、ナナシは持ち込んだ雪で直方体を作って遊んでいた。しかしそこに、隣から飛んできた湯がかかってしまうと、ナナシは肩を竦めて雪を崩し、欠片を黒百合の頭に乗せた。
湯を飛ばした主犯は恵。文歌に掛けようとした、その流れ弾だった。
「あンま騒ぐなヨ?」
暁良の言葉も、テンションが振り切っている2人にとって決定打とは成り得ない。ばしゃばしゃ、きゃーきゃー。説得を諦めた暁良が手拭いで顔を拭いた、その直後だった。
ざっぱーーーん
恵の放った湯を文歌が完全回避、結果、湯の高波は暁良をガッツリ呑み込んだ。
「やりすぎだよ恵ちゃん!」
「文歌ちゃんが避けるからだよっ!!」
暁良は一度ゆっくり顔の湯を拭うと、一転肉食獣のような挙動で、やいのやいの騒ぎ立てる二人の頭を押さえ、湯船の中に沈めた。
「いつも通りねェ♪」
「いつも通りね」
「ナナちゃんも呑むゥ?」
「ううん、大丈夫よ」
ナナシは黒百合の頭にもうひとつ雪の欠片を重ねた。
●再々再・レストラン
じゅうじゅうと肉が焼けていく。赤身が白く染まり、肉汁が溢れ出し、煙の質が変化する。
ここだ。透次は震える手で箸を整え、肉を掴んだ。待望の一枚である。タレも塩も付けず、頬張った。
「……っ……あぁ……っ!」
旨い。瞬間的に痩せ細った骨身に肉の脂が染み渡っていく。
「あぁ……あぁ……ああああああ……っ!!」
「泣いておる暇などないぞ。もう時間は残されておらんのだからな」
白蛇が差し出したおしぼりで透次が目元を拭う。そしてすぐに、網いっぱいに豚肉を敷き詰めていった。
やれやれと首を振って白蛇が熱燗を煽る。
「んっ……――っぷはぁー……」
あては肉じゃが。ほくほくのじゃがいもが連れてきた甘みを強い酒が押し流していく。
「これぞ幸せ、というものじゃのぅ……」
「体の芯が温まります」
「うんうん。いっぱい運動したんだから、ちゃんと食べて体力回復しないとね」
こくん、と肯いて和紗は水菜をはもはもした。小食ゆえにのんびりだが、咎める者はいない。
お代りを頼まれて、竜胆が箸を置いて応じる。量は少なくとも種類を多く。取り分けられたお椀は、宛ら小さな鍋のような装い。
礼をして受け取り、和紗がはもはもを再開する。
「美味しい?」
「はい、とても」
「そう」
目を細めてから、竜胆も再び箸を取った。
「じゃーーかーーらーー、聞ーとるのか、カーディス殿!?」
「うぅ……むにゃにゃ」
「なーーにをやっておる、まだこーーんな、こーーんだけしか飲んでおらんじゃろうが!?」
「……小日向、あれ――」
「シッ! 目を合わせたら取り込まれるわよ!」
「悪い酒ですね」
「悪い酒だね」
「まあ、ああいうのも味わいが――コラ、Rehniさん、それ私のウーロンハイよ!」
「う……え、えへへ、間違えちゃいました。
あ、その小鉢は何ですか?」
「切り干し大根の煮つけですって。食べてみる?」
「はい!」
「カーディス殿ーーーーーー!」
「緋打石さーん、そのへんにしときましょうねー」
「おお、小日向氏! こっちに来い! そして飲め! そも、最近部下に仕事を頼りっきり過ぎるのじゃ!」
「あっ、はい、ほんとすいません」
「若杉さん、判定を」
「これは、ちょっと……うん、大失敗ですね」
朗らかな笑みが飛び交うテーブルに、復活した雫が手を伸ばす。が、届かなかった。黒夜が皿をスライドさせることでようやく目当ての一本サラミに手が届いた。
もしゃもしゃと頬張る。5時を告げる鐘が鳴ったのは、ちょうど食べ終えた頃だった。
●駐車場
陽が落ち始めた世界で、久遠ヶ原ご一行はわちゃわちゃしていた。
「どうー、見つかったー!?」
「こっちにはいませんでしたよー?」
「マジで放送かけた方がいいんじゃねえか……?」
「それは最後の手段にしましょうって赤坂君はどうして顔面に包帯巻いてるの?」
「髪の白い司書さんにどつかれたんだけど上司は何やってんだろうな?」
「はーん? 大方参にセクハラまがいのことしたんでしょうが!」
「はっ! だったら何だって言うんだよ!?」
「自業自得って言うのよ!!」
「雪玉の中にもいなかったわねェ?」
「あれ残しておいていいんでしょうかー……?」
「この冬の目玉にするらしいですよ」
「中級者コースを封鎖するんですかー……」
そうこうしている内に単眼のライトがゲレンデを走り下りてきた。まっすぐこちらに向かってくるスノーモービルは後部に何かを引きずっている。やがて近づいてきて、それが総出で探していたチルルだと判ると、一同は胸を撫で下ろした。
「でも、水上スキー、じゃなくて、雪上スキー? みたいに戻ってこなくても……」
「最後に滑りたいって言うんだもん」
「冬があたいを雪で白があたい!」
「はい、帰りましょうねー?」
ぞろぞろと乗車していく。人数を確認してから松葉杖を抱えた千陰が助手席に乗り込んだ。
「さーて、それじゃ行きましょうか!」
と、言いかけた出資者の言葉を、口に指を立てた文歌が諌めた。
それから声を潜めて、
「ラファルさんが寝てます」
見れば、文歌の前の席で、ラファルは上着を布団代わりにして、泥のように眠っていた。帽子のペンギンが飛び跳ねるようにひょこひょこ動いているのが愛らしい。
「安全運転でお願いね」
「――はーい」
そろり、とバスが出発する。駐車場を大きく回り、道路に出たところで、スキー場がライトアップされた。
それぞれが窓際に寄って見上げる。
そこで一同が見たものは、暖色に照らし出されたレストラン、浴場、ゲレンデ、
そのいずれでもなく、
中級者コースに我が物顔で佇み続け、ライトアップで威圧感が5割増しになった、天まで届きそうな超特大の雪ダルマであった。