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壁ひとつ挟んでいるとは言え、目標はこちらにまるで関心を示さない。
その全身には深い傷、またはその痕が窺える。
何より、『何か』を見上げる顔には毒気がまるで、全く無い。
追撃命令が出ていない『理由』を推し量った雨宮アカリ(
ja4010)が本作戦の大まかな見解を述べる。
併せて、不可欠となる方針の転換について言及すると、リリィ・マーティン(
ja5014)が一歩詰め寄った。
「いいのか? アカリ。命令違反だぞ」
「あら、命令違反ではないわよ。目標は現在非戦闘要員。捕虜としての保護は認められるわぁ」
「異論はありやせんが……」
柳川 果(
jb9955)が袖の中で腕を組む。
「納得していただけるか、ですね、問題は」
佐藤 としお(
ja2489)が一瞥を送る。目ざとく勘付いた管理人は苛立ちを露わにした。
「何してるのよ、早くしてくださらない?」
「そうねぇ、これからすぐに始めるわぁ。危険だからここから離れてもらえるかしらぁ?」
管理人はこれを拒否。
「このアパートは私の所有物ですよ? どうなるか見守るのは権利じゃないの。さっさと仕事をしてちょうだい」
アカリの口から、ぐぇ、と潰れた声が漏れた。
(「……銃が使えないこの状況をいいことに……」)
強張る背中。
それを赦すように、久我 常久(
ja7273)が、ポン、と叩いて前に出ていく。
「心配いらねぇよ、こいつらは仕事をサボるようなことはしねぇ。ちゃんと『排除』するさ」
「だから、私は――」
「そら、判ったら離れろ離れろ。巻き添え喰らって怪我されたらワシらが困るんだよ」
有無を言わさぬ迫力と勢いで、常久は管理人をぐんぐんアパートから押し出していく。
「年の功ってやつかしら……」
「頼り甲斐も腹の迫力も、相変わらずだな、おっちゃん!」
アカリは溜息、リリィは笑みを零し、常久と逆の方角へ向かう。向かいの民家から覗いている者へカーテンを閉めるよう促し、路地裏に潜んでいた者にはスマートフォンを仕舞うよう頼み、井戸端会議には解散願いを通達する。
「手間取っているようですねぇ。いつの世も、世間様てぇのは目ざといことで」
「行きましょう。時間は限られていますから」
窓辺を見上げていた雫(
ja1894)の肩を叩く。居住まいを正した果、眼鏡を外して髪を降ろすとしおに続く雫は、引かれる後ろ髪に逆らわず、窓辺の悪魔を目視できる限り、見つめ続けていた。
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洗濯物を抱えた男は、窓から身を乗り出して、内心首を傾げた。
静か過ぎはしないか。
もちろん、それに越したことはないのだが――
「 ア」
「……ごめん。すぐに終わらせるから」
男が洗濯物に手を掛けた瞬間、ドアが二度ノックされた。
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黒字が並んだ黄色いテープは周辺住人の侵入を完璧に拒んだ。全ての通路を封鎖することは適わなかったが、テープが張られている事実は急速に辺りに広まり、これを踏み越えようとする者は現れなかった。
テープの内側に居るのは今任務に参加した撃退士、窓辺の悪魔、彼女を匿う男性、そして、彼らが住まうアパートの管理人のみとなる。
位置取りは見事の一言に尽きた。アパートに至る大小4つの道、そのうち2つをアカリが、残りを常久が管理人と連れ添いながら監視、リリィは『狙える』位置をキープする。
必然、それぞれの距離は離れてしまったが、学園からテープと共に借り受けた無線通信機が3名を繋いでいた。
「さて、幾つか質問に答えてもらうぜ」
常久が口を開くと、管理人はまた顔にしわを刻んだ。
「あの悪魔は、何かしたのか? 暴れたとか、誰かを攻撃した、とかだ」
「そうなる前に呼んだんじゃないですか」
「なるほどな。それじゃあ次だ。
殺してくれ、ってのはどういうことだ?」
「何言ってるんですか」管理人は呆れた、と眉を下げる。「それがあなたたちの仕事でしょう?」
「別の場所に引っ越してもらう、ってぇのじゃ駄目なのか?」
「別の場所がこの近くだったらどうするんですか? あんな気味の悪いのが近くにいたら安心して暮らせないじゃないですか」
「気味の悪い、ねぇ……」
「一度、『本物』がいる前線を経験させるか。案外長生きしそうじゃないか」
「お前さんにとって、あの悪魔は害虫みてぇなもんだってことか。
そんなもんをほったらかしてたら管理能力を問われちまう。だからさっきから野次馬のことを気にしてんだな?」
「当然じゃないの。あの人は仕方ないとして、契約してる他の人にまで出て行かれたら食べていけないもの」
「でもよぉ、その割にはお前さん、アパートが壊れても気にしねぇって話じゃねぇか」
常久がこの点に言及すると、管理人は一転、困ったようなはにかみを浮かべた。
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暫くして、ドアは開いた。
が、すぐにチェーンが稼働限界に至り、靴を挟めるか程度の隙間に留まる。予測できていた流れにつき、としおは笑みを崩さない。
暗がりの中から男が現れた。視線、姿勢、挙動、その全てに警戒と緊張が滲んでいる。
「どちら様ですか」
「役所の、住民課の者なのですが」
としおの言葉に、男は不信感を露わにする。としおの足元に雫が現れ、両者の奥に果の姿を見たからだ。どちらも、とても役所の関係者には見えない。
帰ってください。
言葉が喉まで出かかった瞬間、男の頭に声が染み入った。
――私達は久遠ヶ原所属の撃退士です
「え……」
動揺しながら視線を巡らせる。雫が手にする、回転する金属を支える木枠が目に留まった。
――管理人の方から、窓辺の方について相談を受け、ここへ来ました
――でも、私達はすぐに彼女をどうにかする為に来たわけではありません
――見ての通り武器は所持していません。どうか――
言葉は唐突に途切れた。果が雫の肩に手を置いたからだ。
雫が辿った先、果は、窓辺の悪魔を見据えていた。
外での異変に無反応だった彼女は、確かに顔をこちらに向けていた。
「理解はしていなくても、何かを察しているのかも知れやせん」
「……わかりました」
雫が木組みを仕舞うと、男は目が覚めたようにはっとして、悪魔はゆっくりと窓の外に向き直った。
「……今のは……?」
とりあえず、ととしおが笑みを傾ける。
「『近隣の方』の迷惑になっても事ですので、上がらせていただいてもよろしいですか?」
男は暫く悩んでから、渋々、という様子でチェーンを外した。
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「保険に入ってるんですよ。化け物――天魔、でしたっけ?――に私財を壊された時に降りる保険。
現場に撃退士の方がいれば報告書なりが証拠になるんですけど、持ち主の目視があれば、現場検証を済ませたあとすぐに降りるっていう話だから、ねえ?」
「……なるほどな」
悪魔の討伐は実に安易だったことだろう。無防備無抵抗、加えて瀕死と目されている相手だ。誇張でなく、一撃で仕留めることができたに違いない。
この場に駆け付けた撃退士がその行動を取っていれば、今ごろは全てが終わっていたのだ。
「そんじゃ、とっととテープの向こうに避難しな」
「ちょっと、私の話聞いてたんですか? 私が目視していないと――」
「撃退士の証言がありゃ事足りるんだろ?
それに、もうワシの仲間が突入してる。『間違い』が起こってからじゃ、それこそ受け取れなくなるんじゃねぇか?」
後で詳細を伝える。常久がそう付け加えると、管理人はもう一度名残惜しそうにアパートを眺め、立ち去った。
残された常久の方は、管理人の姿が街の奥に消えると、極限まで落ちた。
機械越しに『子供達』の声が飛び込んで来る。
「いい事情聴取だったぜ、おっちゃん! で、ターゲットは今何処だ?」
「駄目よぉ、リリィ。それこそ命令違反どころじゃないわぁ」
「判ってる。……ああ、判ってるさ」
「まだ全部が決まったわけじゃねぇぞ。暴れる可能性だってあるんだからな」
「護送車の手配は済んでいるのぉ?」
「ほんの数分で着くらしい。飲み物は適当に頼んでおいた」
入れ込み過ぎるなよ。口まで出かかった言葉を、しかし常久は飲み込んだ。
言葉尻の僅かな抑揚を感じ取り、アカリは辺りの警戒に戻った。
リリィが見守る中、窓辺の悪魔が再び屋内に振り向いた。
(「頼む、頼むぞ。攻撃しないでくれ」)
両手が空のまま『準備』を終えたリリィは、ただひたすら願い続けていた。
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寝室の手前、書物が散乱するリビングで、男は、窓辺に届かぬ声で経緯を語った。
偶々表に出た夜、彼女を偶然見つけた。
人でないことは一目瞭然だったが、全身の深い傷もまた、看過することができないものだった。
誰かに見つかれば追い出されるかも知れないので、こっそりと連れ込んだ。
役所に知らせれば追撃が来るかも知れないので、匿うことに決めた。
決めてから、彼女に特別な思いを抱いているのだと気付いた。
言葉も伝わらない。考えていることも判らない。判るようにもならないかもしれない。
それでも一緒にいたいのだと、男は言った。
「どうにかなりませんか」
声はどうしようもなく震えた。
「このまま、ここに居ることはできませんか。せめて夏が終わるまで」
「難しいと、思います」
としおは声の震えを押し殺して告げた。
「彼女を追撃する命令は出ていません。彼女と戦闘した撃退士の判断ですが、僕達もその判断を支持します。
ただ、彼女の意志が明確に把握できない現状では、この場に留まることは、撃退士として容認できません」
更に震えを増した声が零れる。
「では、やはり……」
「はい。ですので――」
男が腰に手を添える。
としおはニコリと笑みを浮かべた。
「久遠ヶ原へいらっしゃいませんか。彼女と一緒に」
男は目を見開いた。はっとして、というよりは、話が見えていないという様子。
としおは、久遠ヶ原が天魔を内包しているという事実を伝えた。
「受け入れについては問題ないと思いますよ。医療機関も整っていますし、留まるよりは回復する見込みがあります」
受け入れが通るか否かは賭けであった。追撃命令が出ていないとはいえ、一度は討伐対象に定められた存在だ。
だが撃退士たちはそれを男に伝えない。なんとかしてみせるという気概があった。
そしてここを穏便に離れることが、一同の出した答えだったからだ。
「それでも、何故……」
戦う意志の無い存在を攻撃することはできない。
表で仲間と出した結論に、雫が己の想いを加える。
「親近感を、抱いているのかも知れません。
私も似たようなものでした。天魔に襲われ、多数の死者が出た中でただ独り生き残った私は、他人を売って見逃して貰った等と、聞こえる様に陰口を叩かれました。
心が死にそうでした。寸前まで至っていたと思います。それでもこうして生活出来ているのは、温かい声を掛けてくれる人達がいたからです。
彼女も、貴方が近くに居るのなら、私の様に普通の生活を遅れるようになりますよ」
男は長い間押し黙った。
どれほどの葛藤があったかは推し量るしかない。
やがて男は腰を上げ、腰から包丁を抜くと、傍らのテーブルにそれを置いた。
ゆっくりと奥の部屋に進んでいく。
悪魔が振り向いた。
「ごめん。
ここを離れなくちゃならなくなったんだ。
本当にごめん」
悪魔の目は、しかし男ではなく、彼の背後に佇む果に向けられていた。
――お取込み中のところ失礼します。どうか、落ち着いて聞いてください
――この方からお話を聴きました。私も人を糧としていた身で、今は人に紛れて生きる身。他人事とは思えません
――きっとあなたは、あなたたちは、ここに留まることを望んでいるのでしょう
――ただ、それはもう難しい。このままでは、あなたにも、この方にもいずれ、良くないことが起こる
――私の言葉が伝わらなくても構わない。どうか、この方の気持ちは、汲んでいただけませんか
悪魔はただ一度だけ、ア、と呟いただけだった。
男が歩み寄り、悪魔の背中と膝裏に手を添える。
担ぎ上げられた悪魔は、それでも外を眺め、窓辺を掴んでいた。男が丁重にそれを外す。
撃退士に寄り添われて表に出るまで、悪魔の顔は鳥の巣に向けられたまま、決して逸れなかった。
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雫、としお、果に寄り添われた男と悪魔がアパート前に現れたのと、リリィが護送車の引継ぎを済ませるのはほぼ同時だった。
切羽詰まった表情の男へ、リリィは歯を見せて笑う。
「HAHAHA! そう警戒するな。私はただの、陽気でフレンドリーなアメリカ人だ。
さあ、乗った乗った。好きな物を飲んでいいぞ、頼み過ぎて冷蔵庫が閉まらなくてな!」
心ある選択に感謝する。
呟いてから男の背に手を置き、乗車を促し寄り添った。
野次馬や撮影を警戒していたアカリと常久の許へ管理人がサンダルをずりながら駆けてくる。
「まだ生きてるじゃないの!」
「彼女を学園島まで護送するわぁ。彼女に戦う意思は、今のところ認められないものぉ」
「国際人道法だな」車のドアを閉めたリリィが続く。「我々は戦闘を離脱した個人を攻撃できない」
「彼女は『天魔との戦い』に『巻き込まれて』後遺症を負っていました。生気も無く、衰弱し切っているので、養生の為に学園で保護します」
雫が言い切ると、管理人は常久に向き直った。
「話が違うじゃないですか!」
「ワシは間違ったことは言ってねぇし、依頼内容とも相違はねぇぞ。ちゃんと『排除』しただろ」
尚も詰め寄ろうとする管理人の前にとしおと果が並ぶ。
「経過は僕達が観察します。危険なことは起こりませんよ」
「……本当ですか? 報復とかも無いんですね? 今までもこれからも、本当に暴れないんですね?」
「勿論です」
口を噤んだ管理人が二歩下がる。
車中の小窓から男が頭を下げた。
「島までは時間があるぞ。皆でドライブを楽しもうじゃないか!」
リリィの踏み込みにエンジンが応え、護送車が出発する。
アカリが差し出した飲み物を受け取ると、男がぽつり、と呟いた。
「撃退士のお仕事は、彼女のような存在を駆逐するものだとばかり思っていました」
「名前は物騒だけれども、最近は戦争を終結させる方に重きを置くべきだって意見も多いのよ。
多くの人の理解が無ければ有り得ないことではあるのだけれどもねぇ」
今回痛感したわ。
出かかった言葉を押し流すように、アカリはドリンクを煽る。
アパートは見る見る遠のいていった。
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後日。
常久は単身、アパートを訪れていた。手前に大きなトラックが停まっている。
声を投げると、車体の陰から頭に手ぬぐいを撒いた管理人が姿を現した。
「今日はどうなさったんですか?」
「事後報告、だな」
あの後。
久遠ヶ原は悪魔を『要観察』と位置付け、受け入れを許諾、島内の病院に監視付で入院。
それから数日後、男性に付き添われたまま息を引き取った。
男性は実家に戻るつもりらしい。
ご丁寧にどうも。管理人は小さく頭を下げた。
一度消え、長い箒を持ってくる。
「次の入居者は決まったのか?」
「お陰様で。騒ぎにしていただかなくて助かりましたよ。ご近所さんにはいろいろ聞かれましたけどね」
業者が家財を運び出す中、清掃に精を出す管理人に、なぁ、と常久が声を投げる。
「あの『ふたり』は悪い奴らじゃなかったし、お前さんに迷惑をかけようとしたわけでもなかった。
それだけは、どうか覚えておいてやってくれねぇか」
わかりました、と管理人。
「また同じようなことがあれば、先に話をしてみようと思いますよ。
でもやっぱり怖いですから、その時はまた連絡することにします」
言いながら管理人が振り上げた箒が、軒下、土色の家を払い、壊した。