●8回表
(「さっきヒット打ったから、次は長打狙ってたんだけどな」)
ハリー・トライベル(
ja0856)がくるくるとバットを回す。
7回まで投手を務めていた五所川原合歓(jz0157)はセカンドで内野のボール回しに参加していた。代わりにマウンドに上がったのは、2メートルはありそうな大柄な男子生徒。
投球練習が終わり、内外野がボールを戻し、主審がハリーを招く。
バッターボックスに立ち、足の位置を確かめ、バットを肩に担いだ。
視線は正面、抑えの投手――の更に奥、センターを守る友人、鏡国川煌爛々(jz0265)。
「プレイボールなのですよっ!」
「煌爛々〜、こいつの使える球種は〜!?」
「タアアアイムッ!!!」
監督、小日向千陰(jz0100)がずかずかと歩きながらこいこいと手招きしている。
小首を傾げたハリーがキャッチャーの前を横切って近づくと、千陰が首に腕を回して顔を寄せてきた。
「そういうのはナシ!」
「なんで? 楽だろ?」
「ナシなの! 試練を乗り越えてこその達成感とスポーツよ!!」
「わかってるよ、冗談だって」
俄かに浮き足立った外野の声が聞こえてきた。それに負けぬように、そしてこちらの声は聞かせぬように、千陰はハリーの耳元で囁く。
「あのピッチャーは間違いなく切り札だわ。高低差のある球だけでも厄介だけれど、何をしてくるか判らない」
「おう。で?」
「それだけよ。楽しんでらっしゃい」
背を二度叩き、監督はベンチに戻っていく。
軽く見送り、ハリーは再びバッターボックスへ。
(「まぁ、これまでどおり真面目にはやるかね」)
初球。
気迫に満ちたモーションから投げられたそれは、大きく弧を描き、低い位置を通り過ぎていく。
「ストライクですのっ!」
(「よく曲がるじゃん」)
スリークォーター気味のこの投手は、今まで相手にしていた合歓とほぼ真逆のタイプと言える。やりにくく、合わせにくい。が、それもまた一番打者の宿命。
カウント0−1、第2球。
目まぐるしく回転しながら内側へ抉るように飛んでくる。その鋭さとコースから、ハリーは小さく一歩下がった。
(「2種類目」)
カウント1−1からの第3球。
初球と似た軌道で訪れたそれは、しかし先程以上の速度で、目まぐるしく回転しながらやってくる。
舌を打ち、ハリーがバットを合わせに行く。
軽い音に弾かれた白球は主審の上を越え、バックネットを弛ませた。
「シュートや」
黒神 未来(
jb9907)が鋭い眼光そのままに呟く。
「球種が豊富で球速もそこそこ、おまけにあの回転……ええ投手や」
三ツ矢つづり(jz0156)もスコアを取りながら熱心に見入っている。
張り詰めたベンチの中、月詠 神削(
ja5265)がスポーツドリンクを煽った。口元に紙コップを合わせたまま、隣、監督に尋ねる。
「どう攻める?」
「一択よ」
短い間隔で体を三度触った。
(「任せた、ね」)
見放されたのではない。信頼されているからこそのサインだ。
視線をマウンドへ。
カウントは2−2、次が7球目となる。
(「内と外に変化球。それが基本なんだろうけど……」)
そして投じられた7球目。
素早い腕の振りから放たれたそれは、相変わらず複雑な回転をしながらやってくる。
変化は――しない。そして何より、今までの球よりも、目に見えて速かった。
踏み込み、腕を畳んでバットを振り抜く。
ぶん、と先端が風を切った。
顔の斜め後ろから、小気味よいほどの捕球音。
「ストライク、バッターアウトなのですよっ!」
賞賛と活気で賑わう内外野。それらを痛烈に一瞥して、ハリーはベンチに戻っていく。
「わりぃ」
「いえ、お見事でした」
水無瀬 雫(
jb9544)は力強く頷き、バッターボックスに立った。
掛けた言葉は慰めではない。ハリーは見事に一番打者としての仕事を済ませた。即ち、相手投手により多くのカードを切らせることである。
変化球を左右に投げ分け、速球で虚を突く。無論、裏をかいてくることも考えられるが、そこは駆け引きである。手の内が判らなければ弄られるだけだ。ハリーは後続の自分を『駆け引きができる場所』まで押し上げてくれたのである。
(「ただの訓練、のつもりでしたが――」)
勝ちたいと強く思うようになっていた。ネットで調べた記事に書かれていたからではない。プレーを続けるうちに、成績と戦績への欲を抱いていた。
「かっとばしてなー!」
「球筋よく見ていけよ!」
ベンチからの叱咤も心地よい。力みも良い具合に取れた気がする。
一礼し、バッターボックスに立つと、頷いた投手が振り被った。
あごを引く。
投球。
忙しなく回転しながら膝元に迫る。
(「そこ……っ!」)
左足を三塁側に踏み込み、思い切りバットを振り抜いた。
快音――とはいかなかった。手応えも悪く、地面を転がる打球の先には既にショートが回り込んでいる。
雫は懸命に走った。向かう先、ファーストは既に捕球の準備を整えている。それでも諦めるわけにはいかなかった。
ベースの手前で踏み切る。両手を伸ばし、頭から滑り込んだ。
巻き上がる土煙の中、しかし、顔を上げることができない。
「アウトなのですっ」
唇を巻き込んで、立ち上がる。
「ナイ……ラン……」
「惜しかったぜ!」
ベンチから次々と飛んでくる声援。
それらを貫いて、ホームから一際大きな声が飛んでくる。
「ナイスランだよっ! ボクも頑張るからねっ!」
ぶんぶんとバットを振り回し、大山恵(jz0002)は、立て続けに三度、大きく空振りした。
●8回裏
打席には相手の一番打者。
同点の8回裏という状況。切迫した場面にも関わらず、緊張は見て取れない。初球、ゾーンを離れていくカーブを悠々と見逃し、続く厄介なコースに突き刺さったストレートには見向きもしない。
手をこまねいている場合ではなかった。神削は一計を案じる。
未来が振り被った。
「……ズボンの後ろ、破けてますよ」
「ええっ、そん――」
一瞬バッターが手を腰側へ、しかしすぐに構え直した。
「――なわけはないわね、騙されないわよ」
そして投じられた第3球。
甘く入ってしまったカーブは、快音に弾かれ、未来の頭上を越えて行った。
「あっ!」
「チッ……!」
ショートの恵、セカンドの赤坂白秋(
ja7030)が見上げる。弾道は低い、が、鋭い。
「いちいち騒ぐなよ」
センター、ラファル A ユーティライネン(
jb4620)が猛然と走ってくる。守備位置で待っていれば安全に捕球できただろう。しかし打者は俊足、待っていては余計な進塁を許すことになる。そして後逸してしまえば、そのまま勝ち越しされてしまう危険もまた、含んでいた。
ボールがグラウンドに近づいていく。
ライトの雫が回り込み、白秋が駆け寄る。両者に見えたのは、捕球を確信したラファルの眼差し。
落下地点に合わせるようにグラブを突き出す。手のひらに突き上げるような衝撃が返ってきた。
「フェアなのですっ!」
危うく転倒しそうになるラファルがグラブトス。受けた白秋はすぐさま振り返り、ファーストの千陰を目掛けて――駆け抜けた打者の姿、そして彼が飛ばしてきたウインクと投げキッスに一瞬硬直してから、2塁をカバーしていた恵へボールを戻した。
無死1塁。
2番、合歓。
(「ここでかよ」)
先発を務めながら上位打線を任されていた合歓は小器用なプレーを重ねていた。
今回もきっちり送りバント。
転がされたボールをハリーが捕球したときには、既に2塁は踏まれており、ファーストへの送球もぎりぎり間に合う、という段階だった。
一死2塁。
(「踏ん張りどころやね……」)
赤い縫い目に力と想いを込める。
白線の内側に踏み込んだバッターは、そのままマウンドまでやってきて、未来の左手を取った。
「さぁ私とめくるめく野球拳の世界――」
「あ゛?」
「――あっはいマジメにやりますマジメに」
バッターは咳払いから思案顔、やがて、
「良いでしょう、では私が貴女の球を打つごとに一枚ずつ脱いでいって貰うということで!」
「……」
未来の胸中で、様々な種類の怒りが圧縮されていく。
様子を眺めていたつづりが、溜息を落としてスコアブックに『K』と書き込む。
そして数瞬後、未来の今日一番のストレート3球が、それを現実のものとした。
二死2塁。
威風堂々と構えた四番バッターの向こうから神削が指示を飛ばす。
(「内野は定位置な、了ー解」)
(「んで、外野は後退。なるほどな」)
センターのラファル、ライトの雫、そしてレフトのベアトリーチェ・ヴォルピ(
jb9382)が内野から距離を開ける。それぞれがその場で腰を落とす中、ベアトリーチェはライン側に寄った。
(「この指示……1点は……仕方ない……けど……」)
(「『次』に繋がせない為の布陣、でしょうか」)
(「勝負させてくれるんやな。おおきに!」)
(「多少甘くなってもいい、さっきのを越える一球を頼む」)
ミットを叩き、構える。要求は直球、内角低め。
目を見開いた未来が振り被り、ありったけの想いを込めて、投げた。
キャップが飛ぶほどの勢い。
左腕から放たれた白球はぐんぐんと伸びながらミットを目指し――
カキーンッッ!!
力強く振られたバットに迎撃された。
「ぐうっわ……!」
一同が空を仰いだ。
ランナーは笑みを湛えて驀進し、バッターはボールを目で追いつつ横向きでステップしながら1塁へ向かう。
「内野! カバーだ!」
「レフト!!」
ベアトリーチェはホームに背を向けて走っていた。そうしなければ間に合わない、そしてそうしたとしても間に合うかどうか、しかし考察している暇などない。
肩越しに振り向く。
ボールは随分大きくなっていた。
風で更に離れていく。
芝と土の境目が視界の端に映る。
腕を伸ばして踏み切った。
タンッ
ホームベースに靴跡が残ったことを確認し、神削はすぐに左翼を見遣った。レフト、ベアトリーチェは勢いをそのままにフェンスの間際まで転がっている。
ここからではボールは見当たらない。
やがてベアトリーチェが、どこか痛めたのでは、と心配になるほどゆっくりと立ち上がった。
頭上にグローブが掲げられる。遠目からでもしっかり見えるように。
黒色のそれの中には、光さえ放ちそうな眩い白。
「(……どや……)」
「アウトなのですーーーっ!!」
ウオオオオオオオオオオオ!!!
チームメイトが歓声を上げ、手を打ち鳴らし、飛び跳ねた。
ボールを戻し、ユニフォームの土を払いながらそちらへ向かう。内野に差し掛かる頃、すっかり無色透明の表情に戻っていたベアトリーチェを、千陰がダイビングキャッチで出迎えた。
「ナイスプレーだったわよベアトリーチェさんっ!」
冷めない興奮で頭を何度も撫でられ、そのまま抱き上げられる。それでも気が済まなかったのか、千陰は戻りしな、ベアトリーチェの柔らかい髪に頬を摺り寄せてきた。
内野の外で未来が待っていた。
「おおきに! ほんまに、おおきにな!」
グラブ同士でハイタッチを交わす。
ベンチの手前でラファルとすれ違った。
「いい仕事だったぜ。後は任せな」
打ち鳴らした手が高らかな音を立てた。
「ヒーローのご帰還よ! 労いなさいっ!!」
すっかり温まったベンチに戻っていく。
入れ替わるように、顔を真っ赤にしたつづりがベンチの前に立った。
●9回表
「でっでっででっでっででで〜♪(口頭)
うーてよなーげろーよはしぃってまもーれー(ふりふり)
オー、オー、われらがしゅほーう(きゅっ)
わーれーらーがーよばーんー、ラファル A ユーティライネンー!(びしっ)」
歌い切り、踊り切ったつづりを満足げに眺めてから、ラファルはバッターボックスに入った。
一瞬だけネクストサークルを見る。ヘルメットを被った監督は、あごで短く外野の奥を指し示した。
彼女の奥にあるベンチは顔をしかめそうになるほど賑やかで。
「参(サン)のチア9回表エディション。よし、これでいいな」
「言われたとおり写真撮ったよっ!」
「記録すんなって言ってるじゃん馬鹿ーっ!!!」
思い思いに楽しんでいるようだ。
ならばこちらも楽しませてもらおう。
「さーて、どーこーにー打ーとーうーかーねー?」
肩にバットを添え、品定めするように外野を順に眺めていく。
投手がゆったりと振り被った。一転、力の籠ったフォームでストレートを投じてくる。ラファルはこれを微動だにせず見送った。判定はボール。
「ふーん。癖のある回転してんのな」
人を食ったような態度で語り掛けるが、投手はまるで動揺を見せない。
2球目。外角、深い位置に抜けようとするボールへ、強引にバットを合わせに行く。白球は軽い音に弾かれ、主審の背後に転がっていく。
「んー? 見逃せばボールだったかなー?」
尚も言葉を重ねるが、やはり投手は揺れない。しかしそれで構わなかった。この行為には『相手を揺さぶる』という効果の他に、『ラファルの調子を上げていく』という狙いがあったからだ。
それが遂に実を結ぶ。
カウント2−2から投じられた5球目、
「ま、これにしとくか――ねっ」
狙っていたコースを訪れたスライダー目掛けてバットを振り抜いた。
カッキーン!
快音を残してボールが飛んでいく。外野フライの軌跡にも関わらず、ラファルは全力疾走。
少しでも守備にプレッシャーを。そして、少しでも先の塁へ。
「踏み損ねるなよー」
軽口と眼差しを送るハリー。その隣から雫が身を乗り出す。
「少し低い、でしょうか。伸びてくれれば……」
そうして一同で見遣った先、打球の方角、レフトにて――
「……あ」
――どういうわけか、観覧席に向いていたレフトの脳天にボールが落下した。
(「当然、構わず走らせてもらうぜ」)
ラファルは更に速度を上げ、大きく回り込むようにして2塁を蹴った
しかし。
「……っと」
姿勢を倒して猛ブレーキをかけた。スパイクががりがりと土を削り取る。その破片の隙間から眺めた先、カバーに入ったセンターからの壮絶な好返球。瞬く間にボールはサードの手に渡った。
鼻を鳴らし、ラファルはセカンドベースに片足を置く。
無死2塁。
5番、千陰。
果敢にリードを取るラファルを何度も気にしてから投じられた初球、高めに浮いたストレートを、腕を畳んで打ち返す。
打球は右中間に伸びていった。ラファルは軌道を一瞥して3塁を蹴り、千陰も目を離して2塁を狙う。
その瞬間、ベンチの神削が、口に両手を添えて声を張った。
「ストップ!!」
耳を疑いながらも、ラファルと千陰は慌ててそれぞれ引き返した。眉を寄せて振り返った先、ライトから投じられたボールが鋭く戻ってきて、2塁で待ちうけるショートのグラブに収まる。ノーバウンドであった。
(「今のに追いついたの!?」)
(「いいねー、引っかきまわし甲斐があるじゃん」)
無死1、3塁。
6番、白秋。
ここまでノーヒットである。にも拘わらず、白秋はバットの先端でセンターを指し示し、目を閉じた。
「思い出すんだ、俺……あの特訓の日々……そして参との思い出……」
ズバーンッ!
「目開けろ馬鹿あああっ!!!」
「鍋を囲んで笑い合ったあの日……」
「大掃除の後にね! 覚えてる覚えてる!」
「……いいな……」
「頬についたクリームを言い訳にぺろぺろした日……」
「え、参、今のマジ?」
「羽交い絞めにされてたけどね!」
「それは、その、なんと言いますか……」
「猫耳メイドでおむおむを召し上がれしてもらった日……」
「ああ、俺も覚えてるよ」
「忘れて! 今すぐ忘れて!!!」
「なんや、めっちゃ仲ええんやなあ」
ズバーンッ!
「そして……丘の上の教会で挙式したあの日――!」
「そうなん!?」
「水臭いな、言ってくれれば祝ったのに」
「御成婚おめでとうございます」
「おめでとう司書さんっ!」
「……ジャスティス……」
「あ、ちかちゃんからサイン来てるぞ」
「(私は)(別に)(焦って)(ないです)」
「 し て な い し !?
ってかお願いだから目ぇ開けてえええッ!!!」
勢い、ベンチを飛び出したつづりを、白秋の眼差しが捕えた。
「この想い出と! 参のチア姿を胸に!! 俺は今こそ敵を砕く!!!」
投手が振り被る。
「喰らええええ必殺ッ!」
そして投じられた3球目。
「『参愛してるぜ膝の裏の窪みぺろぺろさせて下さい打法』おおおお――」
本当にこう叫びながら振られたバットは、しかし偶然か、或いは気迫の賜物か、内側へ食い込んでくる変化球との邂逅を予感させた。
そして一同が息を呑み、目を見張った瞬間――
「せーの、「\イッケメーン!!/」」
「――おおぉぉぉオおぉぁああ゛あ゛あ゛ッ!!」
外野から飛んできた黄色い声援にぐにゃり、と曲がった。
キン゛ッ
それでもボールに当てたのは執念と言う他無い。バットを投げた白秋がもたつきながら走り出す。
打球はのんびりとショートへ向かった。
「あかん……!」
「いや、面白れーんじゃね?」
「ゴーだ!!」
ラファルは既にスタートを切っている。
打球は大きく跳ねていた。否応なく捕球には時間を要する。
キャッチャーの苦い顔が見えた。口角を上げ、効き脚から滑り込む。
「ホームインなのですっ!」
ボールはショートからセカンドへ。受け取り、ベースを踏んだ合歓が「アウトなのですっ!」すぐさまファーストに投げるが、白秋が転がり込むのが僅かに早かった。「セーフなのですっ!!」
「おー、やりやがったな」
「これは、どうなったのですか?」
「勝ち越したんや!!」
「ね、ね、なんかやろ!」
「さっきのベアトリーチェさんのとか、いいかもな」
「せーのっ!」
\ジャスティース!/
沸騰する1塁ベンチに、ハイタッチを交わしたラファルと千陰、そして白秋の声が返ってくる。
「左脚で頼むぜ!」
「えー今のでー? 記録的にはノーヒット――」
唇を尖らせたつづりの肩に千陰が手を置いた。
「もう1点でケーキ食べ放題ツアー」
「せーんぱいっ☆ ホームで待ってるにゃん♪」
「はっはー! 軽く3周してくるぜ!!」
一死1塁。
7番、ベアトリーチェ。
(「……もう1点で……ケーキって……聞こえた……イチゴのショートケーキ……ジャスティス……」)
こくん、と喉を鳴らし、サインを実行する為に腰を落とす。
しっかりと目を開き、やってくるボールへ丁寧に照準を合わせた。
コンッ、と軽い音。
白球がラインの際を転がっていく。併走しながら2塁を見遣れば、既に白秋はすぐ手前まで至っていた。
(「……確実に送る……私……仕事人……」)
一塁へ駆けるベアトリーチェは、手前でその腕をグラブで強く押される。突っ込んできた一塁手が捕球からタッチアウトまでを刹那の判断で処理してきたのだ。
続け様に送球が成されるが、これは辛うじてセーフの判定となる。
二死2塁。
8番、未来。
(「送りバントで得点圏に送って2アウト。打つしかない場面に思えるやろ?」)
事実、未来は左打席で真っ当に構えている。
(「せやけど、それがうちの策やねん!」)
振り被り、投じられた瞬間、未来はバットを地面と水平に構えた。
(「もろたで!」)
軽い音を立ててボールが転がる。完璧なセーフティバントであった。
しかし、視界に突然投手が躍り出てくる。
「嘘やろ!?」
「読み通り、ですね」
送球は完璧かつ完全に成され、スリーアウトに至った。
「ドンマイよ、切り替えていきましょう」
千陰が差し出したグラブを受け取る。と、ほぼ同時、背後に負のオーラを感じて振り向いた。
「残塁……この俺が……ぺろぺろが……!」
ぐぎぎと唸る白秋の顔に、ハリーがグラブを投げ付けた。
「守備頑張ったら考えてやるって参が言ってたぞ」
「はっはー! 残り全部セカンドライナーにしてやるぜ!」
(「切り替えの良さなら、うちも負けへんよ」)
両頬を叩き、マウンドに登る。
●9回裏
ガッキーン!!!
「つぁ……っ!」
相手方5番打者、煌爛々が、突飛な打法にも関わらず、ぐんと伸びたストレートをジャストミートする。
「クソッタレが……!」
頭上を大きく超えていく打球をラファルが懸命に追い駆ける。不意打ちで、予想外だった。
だが、特異な打法にはもちろん代償もあった。高速で回転した煌爛々は三半規管を根こそぎ持っていかれていたのだ。
よたよたとよろめき、あろうことか直接3塁へ向かおうとする煌爛々。ベンチからの絶え間ない指示でようやく直進を思い出し、ホームを経由して1塁に至る。それと同時、ラファルが投じた矢のような一投がセカンドに返ってきた。
(「同点のランナー出してしもた……」)
6番打者がバッターボックスに入る。静かな瞳で内野を眺め、ベンチを顧みてからバントの構え。
(「手堅ぇな」)
ハリーが見守る中、バント、続いてその処理が成される。転がったボールを神削がファーストへ送り1アウト、煌爛々はその俊足で瞬く間に2塁へ。
延長無し、という取り決めである。煌爛々がホームに生還した時点で、自軍の勝ちは消失する。
(「幸い打順は下位だ」)
(「このバッターを打ち取ればええんや!」)
ぶんぶんとバットを振り回す7番打者に、先の煌爛々の打席が被ってしまう。
イメージを振り払い、サインに頷く。
鋭く長く息を吐いた。
こうして全力で投じたストレートが――
カキーーンッ!
「っ……!」
――物凄い速さで未来の横を抜けて行った。
千陰が飛び付くが触れることすらできない。
ボールは芝へ上がり、ライト、雫の許へ至る。
捕球を終えたときには煌爛々がサードベースに差し掛かっていた。
「バックホーム!」
「中継だ!」
グラブを掲げる白秋にボールを投げる。受け取るモーションは投球の動作を兼ねていた。
ランナーが3塁を蹴る。
(「これは――!」)
その時だった。
「鏡国川、止まるんだ!」
全員が竦み上がるような声が3塁側ベンチから放たれた。
煌爛々が目を白黒させながら3塁へ戻ると同時、絶妙、絶好の位置で神削が捕球する。この間に打ったバッターは2塁に到達した。
千陰が苦々しい顔で見遣る。敵将、ミハイル・チョウ(jz0025)は元の静かな面持ちでグラウンドを眺めていた。
(「ミハイルせんせえええ! ……タイミング的にはアウトだったわよ、今のは……!」)
一死2、3塁。
「タイムなのですっ」
神削がマウンドへ向かいながら内野を呼び、白秋が外野を招いた。
ここまで戦ってきた9名がマウンドに揃い、円状に並ぶ。
「後生や、最後まで投げさせてや!」
「あ? そういう話なのか?」
「ボク、送球先の確認だと思ってたよっ」
「少し……前進……?」
「だな。雫は俺に回せ、このイケメンがばっちり中継するぜ」
「全力を尽くします」
「俺はいいや。本気で投げるから死ぬ気で捕れよ」
「ああ。みんなも、バックホーム最優先で頼む」
「あと2アウト、任せたわよ、エース!!」
千陰がグラブで未来の背を叩き、人差し指を立てた右手を頭上に掲げた。7つの人差し指が倣い、未来のそれが合流すると、各々が声を上げながらポジションに戻っていく。
未来は笑った。
(「もう絶対に打たせへん……!」)
睨んだ先、打者は既にバッターボックスに入っていた。
打球が外野へ抜ければ、そのまま試合が終了し兼ねない重要な場面である。にも関わらず、相手の8番打者は飄々とした表情と構えを見せ、そしてそのとおりのバッティングを行った。
低めに集めた直球は見送られてボール判定を貰い、空振りを誘うカーブはカットされてしまう。やがて繰り出した、意表を突いた外角高めのストレートは、あわや決勝打となる特大のファールとなった。
カウント3−1から投じられた5球目、内角低めを襲ったカーブを、バッターが無理矢理引っ張ってカットする。
(「なんやねんな……!」)
代わりの球を受け取ると同時、バッターから言葉が届いた。
「え、何? こんなおっさんにカッティングされて恥ずかしくないの? 恥ずかしくないんだーへぇーほぉー」
反応させる間すら置かず、セカンドからフォロー(?)が入る。
「恵! いつボールが飛んできてもいいよう訓練に最適な垂直跳び済ませとけよ!」
「こうっ?(ばるるーん)」
「あと10セット頼むぜ!」
「ちかちゃーん、あたし乱闘していいー?」
「ええ、私もカバーに入るわ!」
「せめて誰かひとりはランナー見てえええッ!!!」
ベンチからの大絶叫で未来の表情が解れたことを確認して、神削がカウンターを叩き込む。
「カットせずに前へ打てばヒーローになれるのに……どうしてカットなんだろう……何度か失投あったのにな……」
「 ぐ っ 」
本人にだけ向けられた絶妙の声量は無事届いた。
間髪入れずに追撃する。
「自分の子供ほどの相手に口まで使って本気になるの、大人げないですよ」
「そ、そこまで離れてな、い……だろ!?」
反論は聞き流す。この間にサインを出し終えていた。受け取った未来は両目を爛々と輝かせている。
そして迎えた6球目。
未来が振り被ると、神削は直球、と囁いた。
バッターが身構える。
しかしその実、投げられたのは――伝家の宝刀、チェンジアップ。
ここにきて初登場の球種にバッターは対応できない。泳ぎがちに振られたバットが、ボールのかなり上を通り過ぎた。
「ストライク、バッターアウトなのですっ」
「よっしゃあ!」
二死2、3塁。
ボックスに立つのは、8回からマウンドに登ったピッチャーだった。
(「凄い……気迫……」)
(「おっかねー顔しやがって」)
外野からでもはっきりと感じられる気概。ここで終わらせないという強い思いが滲み出ていた。
裏腹に、展開は高速で進んでいく。
初球、低めいっぱいに入ったカーブを見逃し。
次球、高めに浮いたストレートを空振り。
3球目のサインを出す。
が、未来は頷きも拒否もせず、クラブからボールを取り出した。
確かめるように白球を握る。はっきり見て取れるように、直球の握りをして、バッターを見た。
(「宣戦布告……ってわけじゃねえな、あれは」)
(「好きに投げな。最後まで真面目に守ってやるよ」)
ピッチャー、第3球、振りかぶって、投げました。
白球は忙しなく回転しながら、緩い弧を描いて落ちていく。
奇襲として投じた、苦楽を共にしてきた変化球。
強引に踏み込んだバッターが、そこへ無理矢理バットを振り抜いた。
――――ッ!!
端が暮れ始めた空、高らかに白球が舞っている。
決して目を離さず、小走りで下がっていった。
真上でなく、額の延長上で。昨夜遅くまで調べたノウハウを何度も思い返して。
やがてボールが落ちてくる。
雫は最後にもう一歩だけ下がり、グラブを翳した。
重く、鋭い痛みが手のひらに走る。それに負けぬよう強く握り締め、仲間によく見えるように、グラブを掲げた。
「アウトっ! ゲームセット! なのですっ!」
●打ち上げ
慰労会が始まって暫く後、唐突に千陰が立ち上がり、相手チームのMVPを発表、賞賛した。
「では、ミハイル先生、お願いします」
「ふむ、では。ベアトリーチェ・ヴォルピ。ライン際のフライをアウトにされるとは思わなかった……その諦めない心に、敬意を」
「ということでベアトリーチェさんには特別メニューをプレゼントよ! はい拍手ー!!」
ぱちぱちと手が打ち鳴らされる中、運ばれてきたイチゴのショートケーキにぺこりと頭を下げ、ベアトリーチェはスプーンを手に取った。
「どした、焦げるぜ?」
ラファルの問いかけに、雫はもう一段階深く俯いた。
「その……試合後は訓練をするつもりでしたので……」
「開き直っちまえばいーんじゃね?」
ほれ、と箸で示した先、バッテリーと恵が忙しなく網の上に箸を運んでいた。
「へーっ、その背番号の人そんなにすごい選手だったんだっ!(もぐもぐ)」
「(ごっくん)そうやねん! 今でも47っちゅーたら左腕投手の代表的な番号やねんで!」
「あー、そっちはまだ焼けてないから……あ、次は何を焼く?」
「「カシラ!」」
あんな感じで、とラファルが箸の先端で円を描く。
「んで?」
「……いただきます」
苦笑いを浮かべた雫が大ライスを注文した。
「じゃ今日は元々映画観に行く予定だったのか」
「楽しかったからいいんだけどね。明日からはまた仕事だしなー……」
「レイトショーとか行く? 伍(ウー)も誘って」
「あ、いいか――」ぱっと顔を明るくしたつづりだったが、不意にふくらはぎに触れられ、絶叫。「――もおおおッ!?」
「今更何ビビってんだ参! 約束どおり膝裏ぺろぺろさせろ!!」
「追加点入らなかったじゃん!?」
「守備頑張ったら考えてくれるんだろ!? さあ考えろ今すぐ考えろ!!」
「は!?」
「あ、伍もお疲れー」
「ちょっと待ってスケジューリングと事情聴取があるからちょっと待って!!!」
「いやいやシンカーとかどう?」
野球談議に花を咲かせていた千陰に、ベアトリーチェが静かに寄り添ってくる。
「……おかわり……」
「ケーキ? いいわよー」
頭が小さく二度横に振られた。そのまま深くあごを引く。その真意を、やがて千陰は察した。
「お疲れ様。本当に大活躍だったわね」
かいぐり、かいぐり。
優しく、何度も頭を撫でられ、ベアトリーチェは猫のように目を細めた。
そして、宴もたけなわ。突然、顔を真っ赤に染めた煌爛々が立ち上がる。
片手、いや両手にはなみなみと(ウーロン茶が)注がれたジョッキ。雰囲気に酔ってます。
「やきゅーたのしかったかーですしー!」
\うおおおおお!!/
右手が高らかに掲げられ。
「おにくうまいかーですしー!」
\うまあああああ!!/
左手が負けじと振り上げられる。
ノリにノッた一同が賛同の雄叫びを上げるのに満足そうに頷くと。
「じゃあ食べ終わったら2試合目ですしーー!!!」
焼肉屋に、ブーイングがこだましたのであった。