●病院・ロビー
声を掛けても、小日向千陰は顔を上げない。
医師は千陰の前で膝を折り曲げ、静かに彼女の病状を伝え始めた。
●商店街・喫茶店
「三ツ矢さんが?」
目を丸くした店長に、秋月 玄太郎(
ja3789)は小さくあごを引く。
「ここへ来ていないか」
店長は首を振り、豆を挽き始める。
「この辺りで有名だったからね、三ツ矢さんは。誰か見かけたらここにも連絡が来るだろうし」
「……そうか」
「こちらでも連絡を入れてみるよ。報告は保護者の方で大丈夫かな」
「済まない」
踵を返した玄太郎を店長が呼び止めた。振り向けばねずみ色の魔法瓶を掲げている。それが小さく揺られる。閉じ込められたコーヒーがちゃぽん、と鳴いた。
受け取り、小さく頭を下げて表に出る。向かいの屋上から五所川原合歓が飛び降りてくるところだった。
「いたか?」
合歓は首を振る。
「協力を仰いだ。次の場所へ向かおう。思い当たる場所があれば教えて欲しい」
一拍置いてから。
「案内、してくれるか」
頷きながら合歓は走り出した。
●久遠ヶ原学園
そうし出してから暫くすると、鉛色の空から雨粒が落ち始めた。残っていた生徒や職員は頭を抱えながら校舎の中に入っていく。
「もし」
シェリア・ロウ・ド・ロンド(
jb3671)はそれを懸命に呼び止めた。
「茶髪の小柄な女の子を見ませんでしたか?
丁度、わたくしと同じくらいの身長で……図書館の、司書見習いなんですけれど」
ああ、と手が打たれた。しかし回答は頼りなく、ここよりもあそこじゃない? と、既に調べ終えていた図書館を指さし去っていった。
真っ先に調べていたその場所は全ての出入口に施錠が施されていた。日が落ちた暗がりで出来る限り懸命に調べてみたが、侵入したような痕跡は見当たらなかった。
体の向きを変え、移動を始めたシェリアの前に、白髪の中年男性が立ちはだかった。
「いたかね」
「いえ……そちらは?」
市川は首を振る。頼れる限りのつてを、覗ける限りの映像を確認したが空振りに終わった。
そして付け加えた。目が届いていないところを、シェリアが声を掛けた生徒らのうちの数名が周ってくれている。
「何か判ればすぐに連絡を入れよう。君は病院に戻っているといい」
君まで風邪を引かないように。そして、彼女達のことを頼む。
頭を下げる市川から、シェリアはつい先ほど味わった熱を感じていた。
●廃ビル
天井のひび割れから滴る雨は熱心に大きな水たまりをこしらえている。吹く風は建物を無に返そうとしているようだった。
黒百合(
ja0422)は黙々と捜索を続ける。足音を殺し、全ての部屋をつぶさに、片っ端から見て回った。
「気にし過ぎるなよ」
背後から投げられた言葉には応えない。今は唯、『つづり』を見つけることだけが自分に出来る事だと、強く言い聞かせながら進む。気丈に保たれていた黒百合の想いは、しかし、突き当りの部屋が無人であることを認めてしまうと同時にぎゅ、と萎んだ。
そこへ冷たいものが流れ込んでくる。儚く床を穿とうとしている雨漏りのように。
『つづり』はきっと、こんな心地だったのだ。
咎められるだけのことをしたにも関わらず、咎められなかった。
償い方を模索して、それが最適解であるか判らないまま、誰も教えてくれないまま、歩いていたのだ。
その足を引っ張ってしまった。
自分が引っ張ってしまったのだ。
丸まりそうになる背をなんとか反り、黒百合は携帯を操作する。玄太郎とシェリアから似た内容の連絡が入っていた。
こちらの捜査結果を伝える為に指を走らせる。寒さと、震えで、入力にはとても時間が掛かった。
赤坂白秋(
ja7030)は一階を探索していた。既に黒百合との捜索でつづりが居ないことは判明している。にも拘わらず、そしてだからこそ、白秋は丹念に隅々を見て回った。
やがて足は階段に向いた。昇る時には見落としていた、段下の倉庫を発見する。もしや、と駆け寄るが、ノブには湿気た埃が積もっていた。
導かれるように開ける。照明の無い小部屋は暗く、息苦しい。足元には廃材となった椅子が詰め込まれている。
何の気なしに視線を上げた。
携帯の明かりを頼りに探りを入れる。
長身の白秋でさえ手を伸ばさなければ届かない壁のくぼみに、それは有った。ビニールに包まれた、小さな包み。
誰にともなく詫び、丁重に手に取って検める。
中身を確認すると、白秋は黴と埃に塗れた空気を胸いっぱいに吸い込み、肩と同期させて落とした。
恐らく誰かの手が入ったここで、それでもここにいたのなら、それは顔も知らないそいつの想い故なのだろう。
或いは神の寵愛か。すぐに首を振る。余りにも今更だろう。やはりとんだ阿婆擦れなのだ。
神などいない。そいつも、もういない。ならば誰がいる。
静かに扉を閉め、倉庫を後にする。
●公園奥
辛うじて枝にしがみつく色褪せた葉が執拗な雨に泣いている。それらに見下ろされる位置に黒い石碑は佇んでいた。他の物同様、雨に打たれている。同じことは玄太郎にも、合歓にも言えた。
彼女が指さした4つの名前は玄太郎が初めて目にするものだった。それが誰の物かは改めて言及するまでもない。
ベルトに預けた手が合わさることはない。どころか、辛うじて文字を確認できる位置から踏み込むことができなかった。並ぶ名前、そのひとつが刻まれる原因に関与しているという負い目が、芝生に乗り移って玄太郎の靴底を頑なに離さない。
合歓は石碑の前から動こうとしない。つづりの姿は無く、目撃証言も得られなかった。まだ捜していないところはある。それでも、どちらも動けなかった。
濡れた白い髪が垂れ、黒い背中が縮こまる。
手を置くことも、声を投げることさえも、到底許しは出なかった。出せなかった。
示された名前は既に、否応なしに自身にも刻まれた。背中がずん、と重くなる。振り落とせそうにないし、試す気にもなれなかった。
上目遣いで石碑を見遣る。
(「こんなものがある以上……忘れようにも忘れられるか」)
硬く拳を握ると同時、ポケットの中で携帯が鳴った。
●港
各所に連絡を終えた神喰 茜(
ja0200)の携帯が次々にアラームを吐き出す。色とりどりの文面からは安堵と息と、幾らかの涙が感じられた。
「みんな病院で待ってるって」
「こっちも。すぐに救急車が来てくれるみたいだ」
月詠 神削(
ja5265)は待合所のベンチに腰を降ろした。同じ物に茜も掛ける。両者の間には、事情を聴いた従業員が貸し与えてくれた毛布に身を包んだ三ツ矢つづりが座っていた。彼女は茨城県へ向かう船、その積み荷に紛れようとしていた。覚束ない足取りが物音を立て、それを聴き付けた茜と神削が駆け付け、確保に至った形となる。
「……具合、どうだ?」
神削の問いにつづりは応えない。毛布から覗く顔は充分に色が悪く、視線はタイルのある一点を見つめ続け、口は言葉を忘れてしまったかのように動かなかった。
茜が溜息を打つ。
「あの動物園跡に行くつもりだった?」
ぴくん、と毛布が震える。図星だった。
馬鹿、と呟く。
「参(サン)は陸(リュウ)たちのこと忘れようとしてたの?」
「……い」
言い直すと怒鳴り声になった。
「忘れようとなんてしてないッ!! あたしは、あたしは――!!」
「なら、それでいいんじゃない?」
かくん、と茜が首を傾げると、つづりの目は皿のように丸くなった。
「そう言われたから、そう思われてたからじゃなくて。
私は、参自身が忘れようとしていなければ、それでいいと思うよ」
大体さあ、と、強引に毛布に寄り添う。
「私が昔、使徒に親友ひとり目の前で殺されちゃってるんだけど。
今でもそれをちょっと引き摺ってるかも」
つづりの目がもう一回り大きくなった。そこへもう一段階強く身を寄せる。
「って聞いて……参は私がそんなこと思ってるなんて想像できた?
自分自身がしっかり覚えていれば、それでいいんだよ」
「俺は」
神削の視線は先程までのつづりを倣っていた。
「……俺は、あるヴァニタスの罠にはまって、人を手に掛けたことがある。
相手はまだ小学生の子だった。俺の、一番の罪だ」
小さく息を呑む気配が伝わってくる。
「……怖くなるんだ。俺も。
その子をいつか忘れるんじゃないかって、もう忘れてしまってるんじゃないかって、怖くなる。
そんな俺は救われる資格が無いって思えてくる」
ふい、と持ち上がった瞳は、普段よりも濡れていた。
「それが一番酷かった時に――参たちと出会ったんだ。
最初は敵として。だけど参たちも助けたいって思って。
弐(アル)や壱(イー)、肆(スゥ)や陸の手を掴めなくて。だけど参や伍(ウー)を助けられて――こんな俺でも誰かを助けられるって、参たちが教えてくれたんだ」
毛布越しに上着を小さく、それでいて力強く握られた。神削は裏地からそれを掴む。
「……俺には、参が弐たちを絶対忘れないって保証してやることはできない。
だけど、参たちが救った人間がここに確かに居ることは保証出来る。
だから――今はいかないでくれ。
……頼む……」
想いを伝えようと、息を呑み込んだ。しかし思いはどうしても言葉にならず、ただあごが微かに動くだけだった。
許すように茜がそっと抱き締める。
「とりあえず……治して、熱下がってからもう一度改めて考えなさい。
こんな茹った頭でマトモにもの考えられるはずないんだから」
意地悪く笑って。
「この話だってどこまで覚えてるか怪しいものだしねー」
「忘れないよ」
澄み切った声は微かに震えて。
「絶対に忘れない」
「まずは自分の体調を思い出しなさい」
馬鹿、と小突く。
雷雨をつんざくサイレンが、忙しなく回る赤い光を連れてきた。
●病院・緊急搬入口前
「どうぞ」
シェリアが差し出した色濃い赤の缶を、ありがと、と千陰は受け取った。左目の端は垂れ、口角は仄かに持ち上がっているが、それが意識されたものであることは一目瞭然だった。
頭を下げ、隣に腰を降ろす。目の前にある扉から医師らが慌ただしく動いている雰囲気が伝わってくる。ここよりも搬入口に近い位置に黒百合、玄太郎、白秋が掛け、ここよりも搬入口に遠い位置で合歓は壁に寄り掛かっていた。
千陰が紅茶を舐める。はぅ、と息が漏れていた。表情は変わらない。シェリアは封を開けていない缶を両手で握り締めた。またあの熱を感じていた。
(「本気で怒って落ち込めるくらい、大切なんだ……」)
家族という言葉が脳裏をよぎる。自分の今までには薄かったもので、彼女のそれには手が届きそうにないもの。
自分には何ができるだろうか。答えの出ない問い。それを丁寧に解くように、シェリアは言葉を並べていく。
「以前、看病でお伺いした時、つづりさんに、今度図書館においでって誘われました。
今まで遠目で見るだけだったから……その言葉が本当に嬉しくて」
千陰が笑みを強めた。
「いつでもいらっしゃい。待ってるわ」
「はい。必ず、必ず伺います。
だから――だから、あまり抱え込まないでくださいね、千陰様」
深く俯いた千陰が何か言いかけた瞬間、搬入口が開いた。医師らと、茜、そして神削に囲まれたベッドがつづりを乗せて廊下に転がり込んでくる。
飛び跳ねるように立ち上がった黒百合がそこへ飛び付いた。
「ごめんなさいィ」
絹を裂くような声が寒々しい通路に反響する。
「……本当にごめんなさいィ……貴女の気持ちに気付けなくてェ……」
シーツを握る手が震える。そこへつづりは手を置き、強く握り締めた。
「あたしこそ、ごめん」
覚えててくれてありがとう。
あの夜言いそびれた言葉を伝え、つづりは運ばれていく。
千陰は顔を上げない。代わりにシェリアが頭を下げる。医師らは腰を折り、開け放たれた治療室へ向かおうとする。
それを合歓が阻止した。猫のような挙動で跳んできて、看護師らの壁をすり抜け、つづりの胸ぐらを掴み上げる。茜が背後から組み付いたが合歓は止まらなかった。
つづりが塞ぎ込んだあの日から溜まっていた想いが、言葉となって爆発する。
「――私だって!!」
茜と神削が無理矢理合歓を引きはがす。それでも合歓は怒鳴り、暴れ、叫んだ。
「――ひとりにならないで!」
それで糸が切れたように、ぺたん、と座り込む。
「――ひとりに、しないで」
つづりは布団を被り、膝を抱えて縮こまると、腕を噛んで泣いた。
治療室に運ばれ、扉が閉められても尚、内外からの嗚咽は響き続けた。
●翌々日・303号室
面会謝絶は解かれた。そう言い残し、千陰は医師が待つ部屋へ向かった。
茜が扉を開けると、つづりはベッドの上であーん、と口を開けたまま石になり、視線を寄越してから頬を染めた。カットした林檎を突き出す黒百合は訪れた皆に手を振り、口の中に林檎を押し込む。つづりはしゃくり、とついばんで顔を伏せた。
白秋は鼻を鳴らす。ベッドの奥、つづりの脚元には合歓が覆い被さるように倒れ、寝息を立てていた。絶対に離さないと主張しているように見えて、自然と頬が緩んだ。久方ぶりに浮かべる笑みだった。
「紅茶はいかがですか?」
「飲みたーい」
はい、とシェリアは笑顔を傾ける。
カップに注がれたワインレッドを暫く眺めてから、つづりはそれを口に運んだ。温まった息が零れる。目と口が曲線を描いた。
神削が頬を掻く。
「すっかり良くなったみたいだな」
「今朝なんて病院食おかわりしようとしたのよォ?」
「もう仮病なんじゃないのー?」
「違うもん」
判ってるよ、と茜は笑った。
捜索が行われた夜、治療室から出てきたつづりは尚も泣き続け、泣き疲れると丸一日眠り続けた。目を覚ました彼女は体温も平熱に戻り、食欲もご覧のとおり。傍目にも健康そのものだが、自覚している以上に衰弱が酷いらしく、経過を見守るために入院は続いている。
「迷惑かけてごめんなさい」
ありがとう、とつづりが頭を下げた。
会話が途絶えた瞬間を見計らい、玄太郎が話を切り出す。
「俺も慰霊碑を見てきた。
彼らの名はその罪と罰も含めて刻まれている。
あれを見たら……関わってきた者たちは忘れようにも忘れることはできないさ」
つづりの眼差しは穏やかだったが肩肘は強張っており、白秋はそれを見逃さなかった。少しおどけてベッドに腰を降ろす。合歓が迷惑そうに眉を寄せた。
「ツンデレ気味なくせに口下手なところがあるよな」
反論に備えたつづりが眉を吊り上げる。栗色の髪をわしゃわしゃと撫でまわし、白秋は続けた。でもな。
「お前には想いを伝える手段があり、伝えるべき相手がいる」
「え……」
「地獄のド底辺だって付き合うぜ――そう言ってるんだ」
もう片側の手がつづりの手に置かれる。握らされたそれに、つづりは頭を傾けた。
「なに?」
「預かったんだよ」
口元を引き締め、おずおずと中身を取り出す。
それは髪留めだった。シンプルなデザインの、橙と青のつがい。
白秋が何処に向かっていたのかは黒百合から聴いていた。場所と包装の痛み方、何より品物のセンスが、たったひとつの答えを突き付けてくる。
途端に光景が溢れてきた。とうとうこれを渡す時、彼はきっとわざとらしく大袈裟に振る舞うだろう。彼は興味なさそうに眺め、彼はどこか達観した様子で微笑み、彼女は全力で茶化してくる。その時もきっと、彼女はこんな風に居眠りをしているかもしれない。
「はーぁ」
息をつきあごを上げて、俯いてから抱き締める。
「ほんっと、うちのチーム、馬鹿ばっかり」
布団に置かれた包み紙に、ぽたり、とひとつ小さな染みが浮かんだ。
2週間後、つづりは退院した。