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「……なんとかは風邪引かないって聞いたんですけどねぇ……」
聞き覚えのある声に朦朧とした意識の中で首を傾げていると、ごろん、と体を転がされた。湿った枕に顔をうずめていると足首を持って両膝を立たされた。2回咽込んで肩越しに顧みる。アーレイ・バーグ(
ja0276)のKカップが見えた。
「……え……?」
「あら、起きちゃいましたか」
「 気 が 付 い た の か !? 」
ドズバアアアアアアン!!
「……表で待っているよう言「参(サン)んんんんんんんんんんんん!!」
顔面大洪水の赤坂白秋(
ja7030)が彼女の首元に抱きついた。
「参! 生きてるか!? 死んでないか!?」
「……あ、うん、え……?」
「死ぬのまだ早いな!? まだデートしてないな!?」
「いや、ちょ……」
「結婚もしてねえぞ!? するか結婚!! 今するか!!」
白秋が声を荒げると、アーレイは極めてやる気なくKカップの前で歪んだ小さい十字を切る。
次の瞬間、白秋の頸部が半端ではない力で圧迫された。それでも金色の瞳でなんとか後ろを見遣ると、
「何をしに来たか忘れたのォ?」
黒百合(
ja0422)の笑顔があった。
「……なんで……?」
というか、これは、何事なのだろう。
俯けにされた状態でバックをアーレイに取られ、叫びながら泣きついて来ていた白秋が黒百合に片手で締め落とされようとしている。
更に今、出入り口から神喰 茜(
ja0200)が現れた。落ち着いた色合いのエプロンを掛けた彼女は室内の惨状にこの上ない呆れ顔を浮かべ、肩と息を落とした。
「茜……?」
「おはよ。具合はどう?」
「……なんで、いるの……?」
「お見舞いと看病だよ。せんせーと伍(ウー)、仕事で帰りが遅くなるんだって」
答えながら茜は進み、つづりの傍らにしゃがみこむ。腕を秒間16連打された黒百合が白秋を引きずってベッドを離れていく。ぼんやりした瞳が見詰めてきた、と思ったら枕の中に慌てて隠れてしまった。茜は目を細め、エプロンのポケットからストローを取り出した。
背中に当たる野太いすすり泣きに肩をすくめながら、茜は程よく冷えたスポーツドリンクにストローを挿してつづりの顔近くに持って行く。呼ぶとゆっくり顔を向けてきた。小さな口がはむ、とストローを銜え、一呼吸だけ飲み込んで、放した。
「もういいの?」
「うん……ありがと」
「病院行った方がいいんじゃない?」
やだ、と首を振られてしまう。茜は溜息を落とすだけで、繰り返さなかった。
「まあ、本当に風邪なら、栄養を摂って寝ていれば治りますよ」
沈黙する2人に代わり、アーレイが動き出す。
「というわけで、栄養摂りましょうねー」
言いながらの一挙動で、パジャマのズボンをパンツごとつるん、と脱がした。
「ちょーーーっ!?」
顔を真っ赤にして仰向けになり、裾を引き延ばして下半身を隠そうとするつづり。
「何だと!?」
身を乗り出した白秋の顔面を黒百合の中段回し蹴りがカウンター気味に捉えた。
目元を抑えてのたうつ白秋、つづりの下半身に布団をかける茜を余所に、事態はがんがん進行していく。
「じっとしていてくださいねー」
アーレイが取り出したのは、ネギの白い部分。人差し指程度の長さに切られたそれが、切り口をつづりへ向けたまま、アーレイの視線に倣うようにベッドと程近い位置まで下がっていく。
「なに……?」
「硫化アリルって成分に解熱効果があるんですよー」
「何……!?」
「痛いのは最初だけですからねー」
この一言で意図をまるっと理解したつづりが力をふりしぼって暴れる。それを難なく抑え込み、狙いを定めで大きく振りかぶったネギが、横から茜に掠め取られた。
「やめときなさいって」
「ちゃんと医学的根拠もあるんですよ?」
「にしたってだよ……」
あのさ、とつづり。
「首に巻けばいいんじゃなかったっけ……?」
「あら、知ってたんですか」
でもせっかくなので、とアーレイがスペアを取り出した。狙いを定めて大きく振りかぶられたネギを、再び茜が横から掠め取る。
「布に包めばいいんだっけ?」
「焼くと匂いが抑えられますよー」
口を曲げたアーレイが体を前後に揺らしながら言った。
「じゃあ焼いてくるね。こっちのはおかゆに使わせてもらうよ」
「どうぞー」
「おかゆ……?」
「何か食べて栄養つけないと中々治らないよ」
「うん……えっと、あのね……」
アーレイが耳を傾けると、辛うじてパンツという単語が聴き取れた。
「これをもう一回穿くのはお奨めしませんね」
言ってズボンごと持ち上げる。汗の重みを感じるほど湿っていた。
「一度着替えた方がいいわねェ。ついでに体も拭いてあげるわよォ」
「だね。パジャマの替え、ある?」
「これじゃねえか?」
白秋が箪笥を肘で閉じつつ、ほら、と突き出していたのは、間違いなく着替え『一式』。
「〜〜〜ッ!!!」
口をへの字に曲げたつづりが布団に潜り込んだ。
ひらり、と身を返した黒百合が着替えを受け取る。そして満面の笑みを浮かべて、満面の笑みを浮かべる白秋のレバーに腰の入った鉤突きをお見舞いした。
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シェリア・ロウ・ド・ロンド(
jb3671)が鍋を混ぜていると、火にかけた本人が戻ってきた。
「ありがと、見ててくれて」
「いえ。御容態はいかがでしたか?」
「うーん、思ってたより酷そう」
「だな。イケメン渾身のギャグで笑わないとは重症だぜ」
「あれで笑ってたら病院直送だよ。笑わせようとした方も、だけど」
「おかしいな、俺はイケメンのはずなんだが……」
微妙に食い違っている会話に首を傾けるシェリアを余所に、白秋は椅子に掛ける。救急箱の中身を確認、取り出した湿布を自分の患部に貼り付けた。
「……風邪の看病で負傷なさったのですか?」
「脇にブローを受けちまってな」
(「比喩でもなんでもないのでしょうね……」)
「ちょっと身体浮いてたよね。
足りない薬、ある?」
えーっとな。白秋はがさごそと薬箱を検め、
「咳止めが切れかかってるな」
「じゃあ一緒に頼んでおくよ」
茜は取り出した携帯を操作、肩と頭で挟むと、シェリアの隣でネギの調理を始めた。淀みない動きと真剣な眼差しにシェリアは僅かに相好を崩す。
(「わたくしには、何ができるでしょうか……」)
頬を引き締めた。
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ええと、と月詠 神削(
ja5265)は辺りを見渡して、
「参が務めてた喫茶店の近くだ」
――ちょっと遠回り?
腕に提げた大入りの三角袋を持ち直す。スピーカーからはトントンと小気味よい音が漏れていた。
「ああ。頼まれたボトルキャップが中々見つからなくて。気が付いたら学園の近くだったから、先生と伍に差し入れしてきた」
――そうなんだ。ありがと。せんせー達どうだった?
「やっぱり遅くなるみたいだ」
――そっかー……
茜が追加の買い出しを頼んできた。指を折りながら覚えて、確認してから通話を終える。
不意に差し込んだ光に目を細める。本日は秋晴れ。あの夜とは真逆だ。
千陰は、あれが原因ではない、と笑ってくれた。有難かったが、納得はできない。
「……よし」
呟いて駆け出す。
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一眠りして目を覚ましたつづりは、茜が作った素朴で優しい卵粥と、白秋が手を加えた塩の効いた白粥をぺろりと平らげた。ごちそうさま、美味しかったと微笑む顔には随分血の気が戻ってきている。
白秋が粉薬を呑ませようとした。勢いが付いてしまい、咽られて顔に浴びてしまう。心配半分の笑顔が部屋の中に渦巻き、アーレイは腰を上げた。それだけ食欲があれば大丈夫な気もしますけど。
「おかわりを作ってくるので、食べたくなったら言ってくださいねー」
栄養ドリンクも後ほどが良いだろう。持ち上げたバッグには炭酸飲料のペットボトルが覗いていた。およそおかゆに似つかわしくない材料でネギを思い出し、茜がつづりの喉に手を伸ばす。汗とは別の水気を感じ取れた。
「交代、かな」
タオルを外して茜が立ち去り、入れ替わるようにシェリアが前に出た。気に入っていただければいいけれど、と窓辺にやや大きめの器を置く。湯が貼ってあるそれにオイルを2滴垂らすと、すぐにつづりが反応した。
「いい匂い……」
「もし気分が悪くなりましたら、遠慮せず言ってくださいね」
伝えながらつづりの脚を揉んでゆく。はぅ、と息を吐いて目を細めた。その表情にあどけなさを見つけたシェリアは更に献身的なマッサージを施し、その表情に安らぎを見出した黒百合は無言で部屋を後にした。
「ごめんね、いろいろ」
「気になさらないでください。早く元気になって、小日向先生達を安心させてあげてくださいな」
「……千陰?」
「べ、別にあわよくば取り入って千陰様に急接近とか、そんな事は考えて――」
「……はは。
今度図書館においでよ。千陰も喜ぶし、あたしにも、できること……」
「莫あ迦」
白秋がつづりの額に濡れタオルを強めに置いた。
「こういう時はな、素直に甘えとけばいいんだよ」
「……うん。ありがと」
「おっ、惚れたか!? 惚れ直したか!? 結婚するか!?」
「……バーカ……」
つづりは再び眠りに就いた。
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日が暮れて暫くした頃、買い出しを終えた神削が戻ってきた。彼を出迎えたのは、底抜けの甘ったるい匂い。
顔を顰めて進む。通路には黒百合が壁に背を預けており、リビングでは茜とシェリアが頭を抱え、キッチンではアーレイがるんたったと片手鍋をかき混ぜていた。謎が氷解して、浮上する。
「……何、してるんだ?」
「見てのとおり、おかゆを作ってるんですよ」
眉を寄せて鍋を覗き込む。煮込まれた黒色の液体は飴のようにぷつぷつと泡と米を噴いていた。更に計量されたトマトソースが投入され、輪切りにされたサラミとウインナーが転がり込む。まな板には仕上げの時を待つチーズが。
「……参は、ずっとこれを食べてたのか……?」
「私も赤坂さんも普通のを作ったよ」茜が両腕と脚を投げ出した。「でも……」
「ちょっと色が薄すぎたと思うんですよねー」
やっぱりこれくらいでないと、とアーレイが二つの意味で胸を弾ませる。
説得を断念した神削が冷蔵庫の前に荷物を降ろす。ボトルキャップを茜に渡すと彼女も動き始めた。
そこへ電話が掛かってくる。シェリアが向かった。カタカナは裏声である。
「はい、もしもちちちカげさマッ!?
――……はっ! ももも申し訳ございません、その、思わず天にも昇りそうというか……いえ! つづりさんではなくわたくしが……な、ナんデって! そ、それは、その……!
あ、ああ、申し訳ございません。
ええ、ええ……まあ、そうなのですか。
畏まりました、くれぐれもお気をつけて。ご連絡、アりがとうございマしタ!」
がちゃり。
「せんせー? 何だって?」
「普段と変わらず甘美なお声で――」
「な・い・よ・うー」
「あ、はい。今からお戻りになるそうです」
「そっか……」
神削はそっと息を付く。仕事量を目の当たりにしていただけに気を揉んでいた。
粗方の物を仕舞い、プリンと桃缶にメモを踏ませたところで、通路の奥からつづりが現れた。冷蔵庫を閉めて出迎える。
「具合は?」
大分よくなった、ありがとう。白秋に付き添われているものの、つづりは自力で歩けるほどに快復していた。表情も柔らかい。
「先生と伍も帰ってくるぞ」
「仕事終わったんだって。よかったね」
茜の言葉に表情が一層解れた。その背に黒百合が手を置く。
「汗、流してあげるわァ。お風呂行きましょうかァ」
「ぇえ、恥ずかしいんだけど……」
「流せるなら流したほうがいいですよー?」
「任せな。このイケメンがばっちり綺麗にして――」
はいはい、と、茜と神削が白秋を抑え付ける。黒百合に背中を押されて浴場へ向かうつづりはここでも笑顔だった。
アーレイが肩を竦め、シェリアはくすりと噴き出した。
もう安心だと思った。
●
アーレイと神削はリビングの椅子に掛け、シェリアが淹れた紅茶で一息ついていた。同じくカップを傾ける白秋は浴場前から動かず、忙しなくタオルやパジャマを準備する茜に何度も釘を刺されていた。
団らんとさえ呼べそうな光景、それらがひと段落したときのこと。
浴場からぽつり、ぽつりと言葉が漏れだした。
「そういえば、今から2年くらい前だよねェ……貴方達が千陰先生ちゃんを捕まえて色々したのォ……懐かしいわァ」
学園から討伐対象とされ、されるだけのことをしていた時の話。
「……あの……」
「あァ、別に昔の事を今更、怒ったり、追及するつもりは無いわァ。だって過去の事だからァ」
神削がカップを置いた。
「でも、気になるのよォ」
「え……?」
「壱(イー)とか肆(スゥ)、陸(リュウ)に、弐(アル)。
彼らの事を忘れ去ってるんじゃないか。
『あの場所』に御墓はあるのか、ってねェ」
アーレイの視線が流れる。
「自論だけど、死者にとって、この世に生きていた事が、誰からも忘れ去られる、自分を表す物が何も残ってない、って事は物凄く悲しい事と思うのよォ。それがムカつく相手でも、大親友でもさァ、友達でもさァ……」
神削が浴場の前に向かう。茜が似た眼をして佇んでいた。
白秋は扉の前を動かない。
シェリアは只々、息を呑んでいるしかなかった。
「貴女は……まだ彼らを覚えているのかしらァ……それとも忘れようとしてるのかしらァ……?」
ぬるま湯で濡らしたタオルの向こう、つづりの狭い背は微動だにしない。
「……ごめんなさい、病気の人に言う言葉じゃ――」
「お墓はね」
背中は氷のように冷えており、言葉は凍えきっていた。
「……東にある、慰霊碑に……千陰と、市川さんが捩じ込んでくれたんだって……やっぱり、反対もされたみたいだし……壱なんかは、文句言いそうだけど……」
言いそびれていたことをつづりは謝罪した。
言えずにいたのは、自分たちが絶対的に『加害者』であるから。
彼らの死について言及してしまえば、自分たちもまた『被害者』であると誇張しているようで、それがどうしてもできなかった。
「……でも、さ……」
遠くから名前を呼ばれている。三ツ矢でも、つづりでもなく、参と。
名前を呼ばれているのだと言える。
彼らの分まで生きると約束したから。背負って生きていくと決めたから。
なのに。
「ねえ……あたし……忘れようとしてるって見えてたのかなあ……?」
頬に熱いものが溢れて、つづりは跳ねるように立ち上がった。黒百合の腕を振り払い、浴場を飛び出す。
脱衣場には茜がいた。広げたバスタオルで包みながら抱き留めようとする。しかしそれされも拒み、つづりは受け取ったバスタオルで頭を隠しながら自室に駆け込んでいった。
誰もが何度も名前を呼んだ。しかし、もうつづりが顔を見せることはなかった。
千陰らが帰宅し、一同が帰路についても、千陰も、合歓さえ部屋に入れようとしなかった。
翌日、つづりは入院した。
<続く>