●図書館−1
雲一つない寒空の下、礼野 智美(
ja3600)は小脇に本を抱えて歩いていた。向かう先は学園図書館。夜なべして読みふけっていた最愛の妹の代わりに返却へ向かおうとしていた。
上着の前を閉じるようにして進む。今日は殊更冷え込む。静謐な雰囲気の図書館は氷に包まれたようになっているに違いない。
だが、ようやく見えてきたその建物は――
「定刻まで3時間! とっとと終わらせて忘年会行くわよー!!!」
――陽炎が見えそうなほど沸きに沸いていた。
小首を傾げる智美に、通りかかった赤毛の女性が声を投げる。
「今は緊急で休館よ。……返却くらいなら、受け付けてくれるでしょうけど」
「あれは?」
図書館の周囲で声と拳を突き上げる面々を示すと、暮居 凪(
ja0503)は困ったように微笑んだ。
「忘年会をやるらしいわよ」
「図書館で、か?」
まさか、と凪は首を振る。
「司書さんが主催者なのだけれど、手違いで今日中に清掃を終わらせないといけないらしくて、参加者はその手伝いをしている、というわけ」
「そういうことなら、俺も助太刀しよう」
掃除が遅れて忘年会に参加できないのは忍びないし、図書館には知り合いが世話になっている。義を見てせざるはなんとやら、だ。
凪は笑みを強めた。
「荷物、持ちましょうか?」
申し出を丁重に断り、智美は足を速めて図書館へ向かう。
「ふはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!」
マクセル・オールウェル(
jb2672)は晴天に声を轟かせながら空を奔る。
「司書殿ぉぉぉぉーーーーー! 見ているであるかーーーーーー!!」
手にした雑巾で屋根を拭いてゆく。縦横無尽に駆け回り、力を入れて拭いた箇所はなるほど、冬の弱い光を跳ね返しそうなほどピカピカに仕上がっていく。
「む、返事がないであるな。司書殿ぉぉぉぉーーーー! 司ぃぃぃぃ書ぉぉぉぉ殿ぉぉぉぉーーーーーー!!」
「聞こえてるわよ!!」
「小日向、また光纏出てる」
やっと届いた応答に、マクセルは白い歯を見せた。
「我輩が手伝えばこの程度造作もないのである!! 疾く終わらせ、忘年会に間に合わせるであるぞーー!!」
膨らませた全身の筋肉に神々を思わせるオーラを纏い、顔の横で両腕を曲げるマクセル。
彼の背に、おい、と尖った声が突き刺さる。
「ムラを残しては二度手間ぢゃと何度言えば判る!? 気取っている暇があるならさっさと掃除をせんか!!」
言ってBeatrice (
jb3348)が指し示した軒を眺め、しかしマクセルは尚笑う。
眉を曲げるBeatriceの視界で、ハッド(
jb3000)がふらふらと件の軒に宙から近づく。そして手にした虫かごに蜘蛛を追いやると、掃除の邪魔にならぬよう腰のベルトに引っかけた。
はたきを振りながらあごを上げる。
「ここは王たる我輩に任せるのである〜」
「と、いうことなのである! 適材適所というやつであるな!!」
「綺麗になるならどちらでも構わん」
Beatriceは腕を組む。笑みには少々不敵さが混じった。
「そも、『翼持ち』がこれだけおるのであれば造作もないぢゃろう」
「それについては同感である!!」
「王の威光を示すのじゃ〜」
あっはっは。
似た種類の笑みを放つ3名。
己が働きっぷりに半ば以上の確信を持った彼らの背に、
「ふっ……」
と、誰かの鼻が鳴る音が。
「うむ〜?」
ハッドが振り向くと、彼の背後、空中(と言っても彼より幾分低い位置)に、掃除道具に身を包んだ若杉 英斗(
ja4230)が浮いていた。
「みんな忘れてると思うが、人間であってもディバインナイトは飛べるのだ」
ばっさぁ、と背中の真白い羽根を羽ばたかせる英斗に、マクセルは顔色を一変させる。
「莫迦な……屋上は我輩らの独壇場である!!」
「お、蜘蛛がもう一匹いたのである〜」
「悪いな。ぴっかぴかにさせてもらうぜ!!」
「やらせはせんのである!!」
「手が多くて困ることはないぢゃろ! 目的を履き違えるでないわ!!」
一喝するBeatriceの肩がトントンと叩かれる。振り向くと、
「何やってんだー?」
宗方 露姫(
jb3641)がきょとん、と首を傾げていた。
「賑やかな大掃除ね。噂の司書さんの人柄、かしら?」
「いやいや、私は何もしてないわよ」
用具を的確に用い、テキパキと窓を磨いていく影野 明日香(
jb3801)の横で、小日向千陰は手を真っ赤にして雑巾を絞る。2人の間には黒夜(
jb0668)がしゃがみ込み、背の高い雑草を抜いていた。
「そーいや、一年くらい前にも大掃除したな」
呟きに反応したのは千陰の傍らで壁を拭いていた白蛇(
jb0889)。片眉を上げ、屈む千陰を見下ろす。
「一年ぶりの清掃、というわけではあるまいな?」
「普段はちゃんとやってるんですよ?」
彼女の奥から、月居 愁也(
ja6837)がひょい、と顔を覗かせた。
「普段から掃除してれば大掃除で慌てなくてもい――」
「なんか言った、月居君?(にっぽり)」
「……なんでもないです(ほほえみ)」
「でもさっき、何もしてないっつってたよな」
「黒夜さんがいじめる! 私こんなに頑張って壁拭いてるのに!」
「む。小日向殿。此処は故あっての拭き残しか、それとも見落としか?」
「? ……あ……こ、後者です……」
「わしの眼が節穴じゃったかのぅ……」
「白蛇様ー、そこ俺がやっときますから進んじゃってください」
「司書さんは掃除が苦手、と。弟に教えてあげないとね。それとも、もう知ってるかしら?」
「大丈夫ですよ。もう下がる株もありませんし」
「な、泣くなよ小日向。悪かったって……」
和気藹々(?)と壁掃除を行う面々のもとへ、バケツに水を汲んできた凪が戻ってくる。彼女の奥で頭を下げる智美。立ち上がり、手を挙げて挨拶する千陰。
その背に、
「千陰ー!」
空から露姫が降ってきた。広げた腕が絶妙の角度で千陰の首に入る。彼女はぐお、と呻いてよろめいたものの、すぐに笑顔を取り戻し、露姫の頭をぽんぽんと撫でた。
「宗方さんじゃない。お久しぶり」
「お! 覚えててくれたんだ!」
もちろん、と千陰は右目に付けた眼帯を指さす。露姫は左目を線にして、顔の右の白を指で2回小突いた。
「何かさぁ、俺もどーも親近感とやらが湧いちまってさ。ってことで、よかったら俺と友達になってくれねーかな?」
「もちオッケィよ。改めて、よろしくね、宗方さん」
ニッコリと微笑み合い、互いの手を打ち鳴らす。
「眼帯女子同士仲良くやろーぜ!」
「ね! 女子同士仲良くしましょ! 掃除終わったら忘年会あるからね!」
「ほっほう、忘年会か! よく分からないけど面白そ! ならとっとと作業終わらせねーとな!」
気合いを入れ直し、露姫は自慢の尻尾にハタキを結びつける。
彼女の奥から愁也が覗く。
「……女子?」
「(んにっぽり)」
「(――ほえみ)」
さてと呟き、凪はブラウスの袖を捲った。視線で人数分布を把握する。屋上は騒がしいが人数は充分、一階部分に至っては露姫が加わったこともあり付け入る隙さえ無い。それらの間、中二階に当たる位置は、阿手 嵐澄(
jb8176)が掛けた梯子から体を伸ばして窓を拭いていた。
頷き、軽やかに跳び上がる。軒に難なく到着した凪へ、下から智美が尋ねた。
「見たところ、内部を担当している者がいないようだが」
答えたのは白蛇。
「外側のみで良い、とのことじゃ。のぅ?」
千陰は頷く。
「中は綺麗にしてあるから」
黒夜が一年前を回顧する。
「……ほんとか?」
「してあるの!」
「なるほど」
ならば俺も、と、智美は壁に立てかけてあった柄の長いモップを手にした。限界まで引き伸ばし、凪が拭いた窓の水気を順に、丹念に取っていく。
協力無比な援軍に嵐澄は目を細める。
「助かる。実は少し息が上がっていて、な」
ふう、と一息つく彼を千陰が見上げた。そして思いっきり息を呑んだ。
「ちょ……阿手君、阿手君!」
嵐澄が顔を向けると、千陰は自分の頭の上で両手を回していた。遠回しに指摘されて気が付き、慣れた仕草で長髪を『戻す』。
「今日はお転婆な風が吹いてやがる……」
「風の所為じゃないってば!」
行き過ぎ、戻して! と腕の動きを反転させた千陰。彼女を横目に露姫は笑う。
「なんか面白れー掃除だな!」
「ここの掃除はだいたいこんな感じだ」
そういえば、と愁也。
「入学して初参加の依頼も掃除だったなー。懐かしい」
「楽しいのはいいことだけれど、時間までに終わるのかしらね?」
「やるしかなかろう。西側へ行くぞ」
号令を出し、白蛇は移動を開始する。未だに嵐澄へ注意を飛ばす責任者に頭を抱えながら。
●喫茶店−1
「――って感じかな」
「せんせー……」
神喰 茜(
ja0200)は呆れて肩を落とし、
「まあケーキを作る時間ができたってことでいっか」
切り替えて厨房へ進む。彼女が通れるだけ背中側を開け、つづりはカウンターにクリームソーダを差し出した。
「はい、先輩」
「わーい、ありがとー」
嵯峨野 楓(
ja8257)がストローを咥える。冷えた甘い飲み物は、暖房の手伝いもあって良く進んだ。すぐにグラスが透明に戻り、ずずずとストローが鳴る。
「にしてもつづりちゃん、料理できるなんて凄いね!」
「ケーキも慣れてる?」
「ううん、初挑戦。わかんないとこ訊いていい?」
茜が頷き、つづりが笑う。その表情のまま楓を見た。
「先輩は?」
「私まじで全くできないんだけど暇だから手伝うね!」
2人が首を傾げていると、入口のベルがカラン、と鳴った。
「お久しぶり。元気そうで何よりだわ」
入店してきた月臣 朔羅(
ja0820)に、つづりは小さく頭を下げる。久方ぶりの再開を果たした2人の間に重苦しいものはなく、自然な表情のまま距離はどんどん詰まっていった。
「さて、ケーキを作るのだったかしら」
「はい。あ、エプロンこれ使ってください」
茜はこれね、と赤いそれを渡したところで再びベルが揺れた。
「つづりちゃんこんにちはー!!」
「お手伝いに来ましたよー!」
手を繋いだ藤咲千尋(
ja8564)と櫟 諏訪(
ja1215)が満面の笑みでやって来る。微笑ましい光景と恰好につづりは笑みを深めて手を振る。2人とも、既に揃いの、動物の足跡が並んだエプロンを着用していた。
やや遅れて、千尋の陰から菊開 すみれ(
ja6392)が入ってくる。知らない顔の多い店内に思わず一歩引いてしまうものの、すぐに胸の前で拳を固めた。ケーキ作りなら、自分にも役立つことはできるはず。
「いろいろ揃ってますねー?」
「楽しみー! 早く作ろうー!!」
「そういえば、どういうの作るの?」
「3つくらいあれば足りるかな。いちごのと、チョコのと、あとひとつは楽しみながらって感じで」
かくして、サプライズの仕込みは始まった。茜とつづりは厨房でスポンジ作りを、隣では諏訪がチョコレートを湯煎にかけ、千尋とすみれはいちごをカットしていく。朔羅はカウンターに腰を降ろして生クリームの作成を始めた。
「つづりちゃん! 私も! 私もいるよ!」
「一応念の為にも一回確認させてください。嵯峨野先輩、料理は?」
「うん、私まじで全くできないんだけど」
「じ、じゃあクリーム作り、お願いします」
ごとん、とカウンターに置いた大きなボールに、
「おっけーおっけー。甘いほうがいいよね?」
新品の砂糖の袋を開け、逆さにする楓。どばさー。
「どああああああああ量ってええええええええ!!」
カランコロンカラーーン!
「よお参(サン)! ケーキ作ってるかー!?」
「あー! ハクさんー!!」
名前を呼んで手を振る千尋。彼女の後ろですみれがはっとして息を呑んだ。
千尋に軽く手を挙げつつ、赤坂白秋(
ja7030)はカウンター、朔羅と楓の間に紙袋を置いた。
「喜べ。イケメンの俺が、ケーキ作りの心得三ヶ条を説いてやる」
半ば近く呆れつつ、半ば以上期待して眉を寄せるつづり。彼女に白秋が突き出したのは橙色の布。
「ケーキ作りの心得その一! エプロンをつける!」
「つけてるじゃん」
愛用のオレンジのエプロンをぱたぱたさせたつづりだったが、せっかくなので受け取って替えた。胸元に大きく付けられたネコのアップリケに眉をぐにゃりと曲げる彼女に、更に白秋がアイテムを渡す。
「その二! 猫耳をつける!」
嬉々として突き出された装飾付のカチューシャをなんとか受け取る。様々な感情が胸の内で渦巻き、手とそれがぷるぷる震えた。
何を考えているんだこの人は的な雰囲気が蔓延しつつあったが、白秋は止まらない。両腕で頬杖をつき、上に向けた拳を口に添えた。朔羅が器具を置く。
「その三! 『ケーキより私を食べてにゃん……?(裏声)』って上目遣いで言――」
彼が言い切るより早く、
「そろそろ作ってにゃん?」
にゃん、のタイミングで朔羅が放った水平チョップが白秋の両目に直撃した。
目元を抑えてのたうつ白秋を余所に、つづりはぺこりと頭を下げる。
「マジ助かりました」
「お安いご用よ」
「もう少し遅かったら自分が止めてましたけどねー?」
「ハクさん……」
「三つ目、作り方じゃなくて作った後だったよね」
「裏声のとこ録音したー。忘年会でぶっぱなすよっ」
「あら、それ面白そうね」
「あ、あの……」
店内に再びベルの音が鳴る。訪れたのは落ち着いた物腰の男性。
「あ、お久しぶりです」
「や、どうもご無沙汰」
雪代 誠二郎(
jb5808)は帽子を上げて微笑む。てけてけと近づくつづり。手に合ったカチューシャは痛みを堪える白秋の頭へ。
誠二郎はカウンターから離れた窓際の席に腰を降ろした。
「邪魔はしないさ。代わりと言っては何だが、珈琲貰えるかな」
賜ったつづりがカウンターに戻りコーヒーを淹れる。慣れた仕草に感心しつつ、少し乱れた栗色の髪を、茜がさりげなく直した。
どうぞ、と運び、どうも、と受け取る。
「今日は貸し切りなんで、お代は結構ですから」
「そういうわけにもね」
「いいんですって」
ごゆっくり、とテーブルを離れかけたつづりを、ああ、と呼び止める。
「これは、新作かな?」
つづりが振り向くと、誠二郎はメニューを指さしていた。どれのことだろう。戻り、テーブルに身を乗り出す。
「失礼」
軽やかに言いながら、細い首に手を伸ばす。つづりが硬直するよりも早く、誠二郎はその動作を終えた。はっとしたつづりが手を運ぶと、硬いものが指に触れた。シンプルな、シルバーのネックレス。
「行き掛けに見つけてね。簡単なものだが」
「あ……」
「まあ食事代だと思って。勝手な言い分だが、似合っているよ」
「……ありがとうございます」
「なに。騙す様な真似をして済まなかったね」
それきり、誠二郎は持ち込んだ小説のページをめくりながらコーヒーを愉しんだ。
つづりはほんのりと頬を赤らめながら厨房に戻っていく。気恥ずかしさもあったが、なにより驚いていた。
厨房では、千尋が、きゃーーーーーーーー、と声なき叫びを上げつつ、両腕をぶんぶんと振っていた。彼女と、彼女をなだめる諏訪の後ろを通り、つづりは元の位置に戻る。よかったね、と茜。うん、と小さく頷いた。
「かっこいーなー」
材料のバナナを剥く楓の隣で、本当ね、と朔羅が頷く。
「彼のような人を、イケメン、と称すのでしょうね」
「呼 ん だ か ?」
白秋がすっくと立ち上がった。
「(タフだなー)」
材料のバナナを頬張る楓。
「(さて、何をしてくれるのかしら?)」
録画の準備を整える朔羅。
白秋は彼女らの間に進むと、真面目な表情を浮かべ、すっかり仕上がったクリームが入ったボールを引き寄せた。
「料理のコツを教えてやる。それは、食材を、惚れさせることだ」
さしもの誠二郎も、この一言には顔を上げた。
皆の視線の交点で、白秋は、慈愛に満ちた眼差しをボールの中に注ぐ。
「なあ、お前ホンット可愛くなったよなー」
諏訪が器具を落としそうになり、楓はぽかんと口を開けた。
千尋が二度見し、朔羅は口元を腕で抑えながら撮影を続ける。
首を振る茜の隣でつづりが二歩下がった。
猫耳を付けた自称イケメンがガチで生クリームを口説く、という真冬の珍事は続く。
「なあ、俺のもんになれよ」
「(……皆で食べるのよね?)」
「そんなつれない事言うなって。こっち向いてくれよ」
「(あ、顔あるんだ)」
「(何が聞こえているんですかねー?)」
「お前を、もっと甘くしてやるよ……☆」
「(ハクさんウィンクしたー!!)」
「(あれ、砂糖入れる流れ?)」
「(先輩はとりあえずバナナ食べといてください)」
誰も、何も言う事が出来ない。誠二郎は既に読書へ戻っている。
収束不能と思われたこの死地へ、しかし、単独踏み込む者がいた。
「あ、あの……!」
修羅の空気を掻い潜り、カウンターへ躍り出たすみれが声を掛ける。
振り向いてすみれの顔を確認すると、白秋は口の中で小さく呟いた。
「この前は、本当にごめんなさい!」
一気に言い切り、勢いよく頭を下げるすみれ。そしてすぐ、唇を噛み締めて体を起こした。
『この前』の出来事を思い出した白秋は、バツが悪そうに顔を逸らし、曖昧な笑みを浮かべていた。
やっと治まった。ほっと胸を撫で下ろすつづりの横で、尚も諏訪は目を光らせる。彼がこのまま終わる訳がない。
似た思いは朔羅も抱いていた。一瞬たりとも逃すまいとカメラを向け続ける。そこへ楓が手を振る。揺れた肘がバナナの皮を粗相してしまった。
「まあ、なんだ」
弁明か、釈明か。ともかく顔を逸らして一歩踏み出した白秋は、バナナの皮を思いきり踏み潰してしまった。
盛大にバランスを崩す白秋。を、すみれが咄嗟に前へ出て受け止める。間一髪間に合い、互いにほっと息をついた。
のも、つかの間。
ふにふに。
「ん……?」
「え……」
ふにふに(2回目)。
念のために確認し、今度こそ白秋は確信する。
目を見開いたすみれが恐る恐る視線を下げると、彼の大きな手が、自身の胸部をむんずと鷲掴みにして動いていた。
「ッ……いやーーーーーーーーっ!!」
ばちこーーーーん!!
「めろんけえきっ!?」
断末魔を残し、壁まで吹っ飛ばされた白秋の頬には大きく鮮明な椛が。
そこをアップで撮影し、朔羅はふふ、と相好を崩す。
「この面白さはイケメンだからこそ、よね」
「あははー」
適当に相槌を打ちながら、楓は足を伸ばし、そっとバナナの皮を隠した。
●小日向宅−1
陽は徐々に、しかし確実に傾いていく。
膝を抱えた五所川原合歓は、手にしたカーペットクリーナーを狭い範囲に掛け続けていた。他にできそうなことを探したが、ひとりでは何もできそうになかった。
また一段と部屋が暗くなる。また涙が零れそうになった。
顔を上げる。
そこには点喰 瑠璃(
jb3512)がいた。
ビクッとなる合歓に、瑠璃は構わず笑顔を見せる。
「おそーじときいて、とんできました!」
合歓が覗き込むまでもなく、なるほど、確かに瑠璃の背には真綿を思わせるような白い羽根が、彼女の上がった呼吸に合わせてぱたぱたと動いていた。
その奥。窓の外、庭に衣装ケースがいくつかどすん、と降ろされた。
「到着〜っと☆ 結構距離あったね〜」
「この程度、造作もない」
「あの、ここどこ……?」
きょろきょろするフレイヤ(
ja0715)を余所に、藤井 雪彦(
jb4731)は衣装ケースの具合を確かめ、久我 葵(
ja0176)が窓をノックした。玄関の鍵が締まっていたのだ。
尚も固まる合歓の代わりに瑠璃がベランダの窓を開ける。彼女はそのまま壁をすり抜け、玄関の鍵を開けに向かった。
雪彦は小さく呟いて気合を入れ、
「まずは邪魔になりそうなの表に出しちゃおっか☆」
「おじかんはありますっ。がんばりましょー!」
合流した瑠璃が声を上げながら羽ばたき、ひっくり返っていたカラーボックスを外に運び出した。続けてゲーム機や洗濯物や豊胸グッズが次々と運び出されていく。
「――あ……えと……」
目を白黒させる合歓の前でフレイヤが膝を曲げる。
「えーっと、ねむちゃん、だっけ。なーんで泣いてるの?」
訊かれると、合歓はまた目に涙を溜め、話し出した。せっかく頑張ろうとしたのに、私なんにもできなくて。
話を聞いていたフレイヤは、言葉の中ほどでぽん、と合歓の肩に手を置いた。肯定の合図だと合歓が思った直後、フレイヤの手はするすると上がり、合歓の両頬に添えられる。合歓がぱちくりとまぶたを動かすと、フレイヤはにっこりと笑い、ぐいとほっぺたを親指で吊り上げた。
「この口の形、ちゃーんと覚えときなさい。そんで絶対に忘れないこと」
フレイヤが笑う。ニッコリとニヤリを混ぜたような色だった。
「いい事? 女は笑ってなんぼの生き物よ。どんな時でも、とりあえずしっかり笑いんしゃい!」
一転、グスンとメソメソを混ぜたような色を浮かべて
「……ついでにここどこですか私迷子なんですけどぉぉぉ!?」
両手に古雑誌を抱えた瑠璃が、あ、と振り返る。
「千陰せんせーに、おへやのかざりつけ、たのまれてたんでした!」
「そういうことならまっかせんしゃい!」
意気揚々と立ち上がり、作業を開始するフレイヤ。
取り残された合歓を葵が呼んだ。彼女がいたのは調理場。肉、野菜、果物などの食材が、押せば崩れてしまいそうなほど積み上げられていた。
「手伝ってくれ。私ひとりじゃ量が多過ぎるからな」
戸惑った。料理などできない。だが葵は構わず手招く。
「出来る事だけでいい。合歓の力が必要なんだ」
「――……が」
頑張る。
合歓はしっかりと頷くと、葵の隣に並び、勢いよく出した水で葉物を洗い出した。盛大に水が跳ね、ごめんなさい、と横を見る。葵は笑っていた。それを見て、合歓も、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「この鏡って外しちゃっていいのー?」
「千陰せんせーにきいてみます!」
「絶対忘れられない忘年会にしてやるぜぃ☆」
笑みと声が零れる度に、会場の準備はみるみる整ってゆく。
●図書館−2
「うん、外しちゃって。こっち? すこぶる順調よ」
瑠璃に伝え、図書館を見上げる。
屋上には英斗が残り、雨どいに残ったゴミを丹念に片付けていた。反対側ではBeatriceが同じ作業を行っている。これが終われば屋上の清掃は十全と言えた。
中二階の壁は引き続き凪と嵐澄、更に屋上から移動したハッド、白鱗の馬竜に跨った白蛇が懸命に作業を続けている。
一階部分の壁は既に終了していた。黒夜と露姫、明日香はそれぞれ箒、ハタキ、ワイパーを用いて入り口の清掃を行っている。無駄が無く、千陰が思わず息を呑むほどの手際だった。
「ってことで、時間には間に合うと思う。お料理楽しみにしてるわ。あ、怪我には気を付けてね」
またね、と言い合い通話が終わる。携帯をポケットに仕舞って失礼、と言いながら入り口を通り、館内へ。
「お待たせ。あとどの辺?」
「そちら側をお願いします」
掃き掃除を続けながら、口だけで智美が応えた。念のため確認した館内は、やっぱり――去年ほどではないにしろ――埃が散見された。
「オッケィ。……って、あれ? 月居君は?」
バアンッ!!
「ここは俺に任せてくださーい!」
「おおっ、トイレやってくれてるのね。ありがとう」
「ピッカピカにしますからね! 『トイレの阿修羅様』と呼ばれた俺の掃除力、見せてやるぜ!」
全身にアウルを滾らせ、バァンと扉を閉じる愁也。言葉は明るく、目つきは真剣そのもの。いつか受けた差し入れの恩を返すなら今だ。陶器を磨く腕には自然と力が入る。
「頼もしいわー。お願いねー」
優しく微笑む千陰の携帯電話が震えた。
●喫茶店−2
「こっち? まだかかるかなー。うん、じゃねー」
口調と裏腹につづりは焦っていた。スポンジはまだ1つしか焼き上がっておらず、もう一つは今オーブンの中、もうひとつは型に入ったままの状態だ。座り込んでオーブンの中を眺めていると、楓がにょい、と腕を伸ばした。
「火力上げれば早く焼けるよ?」
かちかちかち。
「炭になります炭になります」
ちかちかちか。
そうこうしている間に焼き上がった。甘く、優しい香りを上げるスポンジを取り出し、朔羅に渡す。
「あ、トッピングなら本当に任せろー!」
目の色を変えた楓が身を乗り出す。
「あら、そうなの?」
「トッピングって料理じゃないでしょ?」
朔羅はこめかみを抑えた。
気持ちは判らないでもない。真っ先に完成していたスポンジは諏訪と千尋、そしてすみれが取り囲み、黄色い声を上げながら色づけをしている。既に出来上がりつつあるケーキに興奮する千尋に、諏訪が残ったクリームをスプーンですくって差し出す。
「はい、千尋ちゃん味見ですよー?」
顔を真っ赤にしながら、千尋はぱくっとチョコレートクリームを頬張る。
「どうですかー?」
「おいしいーーー!! すみれちゃんもすみれちゃんもー!!」
こっそりこの一言を待っていたすみれは、手にしていたいちごでクリームをすくい、頬張った。とろけるような甘味に身悶えしながらキャッキャと喜ぶ。この光景を見せつけられた楓は、先程からそわそわしっぱなしだったのだ。
とはいえ、総監督の許可がいる。朔羅がオーブンの前を覗き込むと
「(大丈夫ですよ。先輩もどうぞ一緒に)」
即席の簡単な手話が飛んできた。
「それじゃあ、一緒にやりましょうか」
「いえーい! 可愛くしよっと。女子力爆発っ」
膝を抱えてオーブンを見つめるつづり。彼女の隣で茜が同じポーズを取る。
「どういうのにする?」
「残ってるのはいちご、だよね。一緒にやろ?」
「うん、わかった」
互いの肘で小突き合い、最高の仕上がりを誓う。
●図書館−3
蛇口をひねると、高い位置から細かいお湯が降り注いだ。掃除で溜まった疲れが温められ、溶けていく。
「〜〜♪」
短い髪を掻き上げると、自然と鼻歌が零れた。
瑞々しい肌をボディソープの泡が覆っていく。形の良い胸が、引き締まった腹筋が、見事な張りの太腿が、まるで喜ぶように、挙動の度に小さく揺れた。
シャワールームの扉がノックされる。
「まだかかる? そろそろ出発しようかって話なんだけど」
「うむ! 道が全く判らんのである!」
「はいはい。待ってるわね」
離れる声に返事をし、マクセルはお湯の量を増やした。
夕闇の中に佇む図書館は遠目に見ても綺麗になっていた。蜘蛛の巣などはもちろん見当たらないし、壁や窓に点在していた汚れもすっかり落ちている。
芝生に腰を降ろして束の間の休息を取る。一同が見守る中、現場監督が
「ほんとにありがとねー!」
と、手を振りながら図書館の中に入っていく。細かい部分の最終確認のためだ。
館内、カウンター前には智美がいた。
「返却処理をお願いします」
「はい、確かに」
書物を受け取り、元あった棚へ進む。
「この後予定ある? 大掃除のお礼に、忘年会来てくれない?」
「はい。ありがとうございます」
軽い足取りで中二階へ進んだ千陰、だったが、その足は突然ピタリと止まった。そしてダダダ、と窓に駆け寄る。そこには、気だるげな自分の姿が写されたブロマイドが貼られていた。
「……小日向先生?」
先生は顔を真っ赤にして飛び降り、受け身を取りながら図書館を飛び出す。
「コレ貼ったの誰ーーー!?」
「買い出しはスーパーだったっけ先行ってるねっと!」
絶好のスタートを切った愁也を千陰が猛追する。置いていかれては敵わない、と、他の生徒らも苦笑交じりに追い駆ける。校舎から出てきた湯上りたまご肌なマクセルも、目を白黒させながら飛び上がり、続く。
どうやらのんびり、とはいかないようだ。智美は一旦肩を落とし、顔を上げ、仲間らの背を追った。
●小日向宅−2
ぐつぐつと煮立った鍋から空腹を煽る匂いが立ち昇る。会心の出来を確信しつつ、葵は手を休めない。油の中でぱちぱちと踊る鶏肉を順番にひっくり返していく。隣では、持ち込んだ雑誌を踏み台にした瑠璃が懸命にサラダを盛り付けていた。
調理場を譲った合歓は、フレイヤ、そして雪彦と飾り付けを進めていた。
「あ、花持ってきたんだった。ここでいい?」
「んー? ねむちゃん、どう?」
「――い、いと……思う……!」
背中に当たる会話に葵は思わず微笑む。落ち込んでいた彼女もすっかり元気になったようだ。油を払う腕には力が入り、しかし、とても軽やかだった。
●忘年会−1
「たっだいまー」
くつろいでいた合歓が身を返し、走る。
「――お……おか、えり……!」
軽く手を挙げ、千陰は道を開けた。息が上がった、或いは切らせた生徒らが続々と靴を脱ぎ、家に上がっていく。最後にやってきた愁也は両手いっぱいにドリンクやお菓子をぶら下げていた。合歓が手を伸ばす
「――半分、持つ、よ?」
「お、ありがとー! 正直腕が取れそうで」
苦笑いを浮かべて袋を渡すと、合歓はお疲れ様、と笑顔で受け取った。
「おお……」
「へぇ……」
英斗と黒夜は感嘆の息を漏らした。久方ぶりに訪れたその家は小ざっぱりと片付いていた。季節に沿った壁の花は鮮やかな彩りで、眺めているだけで口元が綻びそうになる。会の準備も万端だった。並んだテーブルの上には既にカセットコンロが設けられており、3つの鍋がコトコト呼んでいる。
「完璧じゃない。ありがとう」
葵は首を振る。
「合歓の協力があったからこそ、です。それに、部屋の片づけは他の皆がやってくれましたから」
「前より綺麗なくらいだわ。本当にありがとう。あとは任せて、ゆっくりしていってね」
それでは、と頭を下げた葵だったが、冷蔵庫に荷物を詰める愁也と合歓を発見し、急いで救援に向かった。
彼女らを横目で眺めつつ、さて、と千陰は袖を捲る。厨房に大きな箱を置いた露姫と目が合うと、2人はニヤリと微笑んだ。
程なくして。
「ただいまー」
喫茶店組が到着した。ギリギリになってしまったが定刻には間に合った、と油断していたのも束の間、玄関を埋め尽くす靴に息を呑む。
「冷蔵庫は?」
「近くに小日向さんがいますねー?」
「じゃ、とりあえずあたしの部屋で」
クーラーボックスに入れて来て正解だった。茜とつづりはそれを慎重に部屋へ運び込み、
「こんばんは。遅れてしまったかしらね」
「待たせたな、イケメン様のご到着だ!!」
朔羅と猫耳をつけた白秋が声を張って会場入りを果たす。見事な陽動だった。湧き上がる歓声に紛れ、茜らもちゃっかりと席を確保する。
全員に飲み物が行き渡ったことを確認して、葵、瑠璃、合歓が鍋の蓋を取った。湯気と共に芳醇な匂いが広がる。既に空腹の限界に至っていた掃除組は早くも箸に手を添えだした。
まあ落ち着け、と微笑んでBeatriceが立ち上がる。顔の横に掲げたグラスに視線が集まった。
大業に咳を払い、かっと目を見開く。
「皆の者、一年間ご苦労であった。
辛い事もあったろう。苦しい時もあったろう。それら全てを糧にして、更に前へ進み、高みへ至るがよい!
とはいえ、今日は忘年会。全てを忘れて盛り上がるのぢゃ!!
来年も頑張ろう!
それでは、乾杯!!!」
\かんぱーーーーーーい!!/
●忘年会−2
半ばほど中身を減らしたグラスを置き、凪はこっそり息を吐く。
「(全てを忘れて、ね……)」
試しもしなかった。忘れることなどできるはずもない。忘れていい訳がなかった。
だが。それでも。
「凪おねーさーん!!」
千尋が背中にくっついた。手にしたコップを、中身が零れそうなほど振る。凪は優しく微笑み、応じた。テーブルの上でチン、とガラスが音を立てる。
だが、それでも、片時くらいは、心の隅に置いても良いはずだ。
少なくとも、満面の笑みで語り掛けてくれる友人が隣にいる時くらいは。
「――さて、何から楽しみましょうか」
眼鏡の位置を直し、凪は箸を掴んだ腕を伸ばす。
「……これは、なんの鍋であるか?」
赤いスープが煮立つ鍋を覗き込むマクセルの問いに、取り皿を配っていた瑠璃がひょい、と顔を出して答える。
「『ちべなげ』ですっ」
「『チゲ鍋』、か?」
智美の助け舟に、それです、と瑠璃が乗る。ふむ、と唸って観察を続けるマクセル。正面から楓が腕を伸ばし、スープの中で震えていた豆腐をさっと口に運んだ。
「んー! 味染みてておいしー!」
「で、あるか。では、我輩も――」
と、スープを掬った瞬間、
「お、この鍋旨そうだな」
と、嵐澄が横から身を乗り出した。肩がぶつかり、その衝撃で、あつあつのスープがマクセルの身体、前面へ盛大にブッ掛かる。
「あっついのである!」
暴れた拍子に振り回した腕がぶつかり、嵐澄は壁に激突してしまう。
「ぬおおおお! 済まぬであうううううううう!!」
「なに、気にすることは無い。今拭いてやるから、大人しくしてろよ」
皮肉を込めた笑いを浮かべ、マクセルの腹筋を拭く嵐澄。の、顔の横までずれた襟足を、智美がそっと直した。
「こっちは豆乳鍋かー。あ、俺取り分けるねー」
「はい、どうぞ。まだまだあるから沢山食べなさい」
白いスープが張られた鍋は愁也と明日香が率先して取り分けていた。すみれが、白蛇が受け取り、口に運ぶ。
「あ、美味しい……!」
「うむ。これは実に美味じゃのぅ」
つゆを飲んで幸せそうな息をつくすみれ。口いっぱいに豚肉や白菜を頬張る白蛇。ひょい、と豆腐を掠め取り、クリーミーな口当たりにサイドポニーを揺らす楓。
第一陣を平らげた凪は腰を浮かせて少しだけテーブルから離れた。
「すわくん!! すわくん!!」
「はいはい、どうしたんですかー?」
「はい、今度は私から!! あーん!!」
「嬉しいですねー! いただきますよー?」
すぐ隣で繰り広げられる仲睦まじいやり取りを眺め、そっと目を細める。
「(『今度は』、ね……昼間何をしていたの、と訊くのは野暮そうだわ)」
寄せ鍋の中でよく味が浸み込んだつみれを頬張り、茜が小声で作戦会議を始める。
「やっぱり、サプライズっていうくらいだから最後に出す?」
「かな。絞めの締めって感じで」
「じゃ、その分お腹開けとかないとね」
にしし、と笑い合う2人。
そのやりとりをこっそり聴いていた朔羅が、白菜をもぐもぐしながら白秋に合図を送る。
正面で行われる無言の密談は黒夜の眼にも入っていた。が、彼女は黙々と器に具材を移し続ける。あとこの辺を、とおたまを出そうとしたところに、楓がスプーンを滑り込ませ、最後の豆腐をかっさらった。
「んー、こっちは素朴で優しい味って感じ」
「……おたく、他の鍋でも豆腐食ってなかったか」
楓はとても優しい目になった。
Beatriceが荷物を漁る。取り出したのはスパークリング・ワイン。日頃の労いの為、こっそり用意していたものだった。
「のう、千陰――」
「駄目だ」
彼女の前に、両手に器を持った黒夜が躍り出た。
「む。なんぢゃ?」
「それ、酒だろ? 小日向には駄目だ」
「余り強くないのか? まあ、一口くらいなら問題なかろう?」
「一滴だって絶対に駄目だ」
「(黒夜さん……)」
英斗が目尻の涙を拭う。
「(よっぽど前回の鍋パーティがトラウマだったんだな……)」
誠二郎はその光景を横目で眺めていた。
「本当に慕われているのだね、君は」
いえそんな、と唐揚げを頬張った千陰を、隣に座った露姫が揺らす。
「なあ、もうできたかな!?」
「もうちょっと、かな?」
「んー、そっかー……」
唇を突き出して足と尻尾をぱたぱたと動かす露姫。千陰ははにかんでぽんぽん、と頭を撫でる。
そこへ雪彦が切り込んだ。
「今日はお招きありがとうございまっす!」
「会場準備ありがとね。楽しんでる?」
「楽しんでますけどもっと楽しませてくださいっ☆」
言って彼が取り出したのは、千陰が映ったブロマイド。1枚を見ただけでも頬を染めた彼女だったが、扇のようにするりと5枚に広がると耳まで真っ赤になった。
「サインしてもらえちゃったりします?」
「やったるわよー!!」
「ぃやたっ☆ あ、ついでに記念撮影とか……?」
「はいはい、もうなんでもどうぞ!!」
千陰が返事をする前に、雪彦は誠二郎にデジタルカメラを渡していた。やれやれ、と構え、合図を送ってからシャッターを押し込む。心底嬉しそうな雪彦の笑みと、照れきった、また半ば自棄にも見える千陰の笑みが対照的な1枚となった。
目的の達成に小躍りする雪彦と入れ替わるように英斗がやって来る。
「ミルクティですけど」
「ありがと」
「今年ももうすぐ終わりですね。小日向さんはどんな一年でした?」
「比較的穏やかだったけど、ずっと顔赤くしてた気がするわ。今とか今とか今とか」
「ち、千陰!」
Beatriceと黒夜が揉み合いながらやって来る。
「ワインを持ってきたのぢゃ! 一杯付き合わぬか?」
「飲むなよ。絶対だぞ。絶対だからな」
千陰は盛大に苦笑い。
「そうね。せっかくだから、会が終わったらいただこうかしら。私本当に弱くって。ありがと。ごめんね」
「ふむ、そうか……」
では、とBeatriceが取り出したのはシンプルな魔法瓶。
「これを使え! 差し入れに受け取ったブイヤベースぢゃ!」
おおっ! と千陰が手を叩く。
「ありがとう、助かったわ! これで味付けさせてもらいましょ、宗方さん」
「お、それ美味そうだな!」
まるで生徒のように笑う司書だ。誠二郎は口角を上げ、身体の向きを変えた。
「美味いか?」
葵の問いに、合歓はこくんと頷いた。そこにフレイヤが寄りかかってくる。
「誰かと何かをするっていうのは、それが何であれ楽しいものなのよ。
ぼっちだった私が言うんだから間違いないわ……」
泣いていた。慌てふためきながら、合歓は彼女の頭をぎこちなく撫で、て不安そうに葵を見つめる。笑みが返ってきた。
「できることをしてあげればいい」
はっきりとあごを引き、手を動かす。フレイヤはしばらくされるがままだったが、
「王の撮影であるぞ〜。皆笑うがよい〜」
カメラを構えたハッドが訪れると
「いえーい!!」
ニッコリと笑ってピースサインを浮かべた。
目を剥く合歓に微笑みながら、葵はそっと立ち上がり、炊飯器に向かう。
●忘年会−0
表は想像していた以上に冷え込んでいた。夜空では呑気に星が瞬いている。千陰は一度震えてから、咥えた煙草に火をつけた。
「……こっちに来れば?」
声は暗闇へ送る。
「みんな待ってるわよ。もちろん、あの子たちも」
暗闇の中、人影が微かに動く。
「こっちに来れば?」
もう一度伝える。が、人影――戸次 隆道(
ja0550)は僅かに首を振り、宵闇の中に消え行ってしまった。
壁に寄りかかり、考え込みながら紙巻きを燃やしていると、明日香が出てきた。
「お、2匹目の『蛍』が」
「さすがにあの中では、ね」
緩やかに昇った対の紫煙が穏やかな夜風に吹かれて飛んでいく。
「で、あの子とはどこまで行ったの?」
千陰は咽た。
「……う、海、とか……」
「あら、てっきりキスくらいしてるかと……まあでもあの子に限ってそれはないか」
顔を真っ赤にして項垂れる千陰。彼女の肩を明日香が軽く叩く。
「昔はもっと素直だったのよ、色々あって塞ぎこんじゃったけど……司書さんと一緒にいれば昔のあの子に戻るかも、なんてね」
千陰は曖昧な笑みを浮かべながら、夜に煙を送り続けた。
●忘年会−3
「ふぅ……大変美味であった」
腕を支えにし、やや膨れた腹をさすりながら、白蛇は満足げに頷いた。絞めに振る舞われた雑炊は期待以上の出来で、会話も忘れて夢中でかき込んでしまった。
隣のテーブルでも会話は忘れられていた。ようやっと蒸し上がった大ぶりな蟹を一心不乱に剥いている所為だ。懸命に、丁寧に剥いた者はぷりぷりの身にありつける。
「とってもおいしーですっ!」
瑠璃の言葉に頷き、嵐澄は向かいの露姫に声を投げた。
「いい蟹だ。高かっただろ?」
「気にすんなって、千陰もちょっと出してくれたからな。あ、髪の毛ズレてるぞ」
「でも、ちょっと甘いのも食べたくなってきたわね」
ぽつり、とフレイヤが呟くと同時、リビングのドアが開いた。やってきたのはクーラーボックスを運ぶ茜とつづり。慣れない注目の眼差しに戸惑いつつ、ボックスを降ろし、開く。
「えーっと……ケーキ、みんなで作ってみたんで、食べてください」
家を揺らすような歓声の中、順番にケーキが取り出されていく。
チョコと抹茶クリームでコーティングされた可愛らしいケーキ。
果物があちこちに散りばめられたボリューム満点のケーキ。
生クリームといちごだけのシンプルで上品なケーキ。
次々に取り分けられ、それぞれの口に運ばれていく。どきどきしながら見守っていたが、順番に咲いていく笑顔に、つづりはそっと胸を撫で下ろした。
はい、と茜が小皿に乗ったいちごのケーキを差し出す。
「ありがと」
「やったね」
「うん……ホント、ありがと」
頬張る。旨かった。本当に嬉しかった。
思わず足をパタパタさせていると――
「あら?」
と、背後から朔羅の声が。
「ほっぺたにクリームがついているわよ」
「え?」
伸ばそうとした腕は、しかし上がらない。背後からがっしりと掴まれてしまっていた。眉を寄せて振り向こうとするが動かせない。足まで抑えられている。
「……あの……」
「あら、拭けないの? 大変ね」
困惑するつづりの瞳に映ったのは、真顔で滑り込んで来た白秋。
「どうした参、敵襲か!?」
「や、クリーム取りたいだけなんだけど……」
「完璧に理解したぜ。このイケメンに任せな」
「あ、うん」
「動くなよ」
動かないよ。
喉まで昇った言葉が、頭に手を置かれた拍子に詰まった。代わりの言葉を用意している間に、白秋の顔はどんどん近づいてくる。
そして――
ぺろっ
――白秋の舌が、つづりの頬についたクリームを根こそぎ舐め取った。
「きゃーーーーーーーーーーー!!」
千尋が感情を爆発させ、
「ッッッ!!!」
つづりは耳どころか首まで真っ赤にして、
「『ケーキより私を食べてにゃん……?(裏声)』」
楓が音声を再生する。
「なっ……!?」
「どうした参。クリーム取れたぞ」
「え、や、は!?」
「大変。気が動転しているようね」
「そいつはいけねえな。ちと荒療治だが我慢しろよ参ッ!!」
言うが早いか、白秋はつづりの両脇に手を突っ込み、滅多矢鱈に指を暴れさせた。
「なーーーー!! ちょ、駄目、あははははははははは駄目だってマジで無理あはははははははははははは!!!」
「……あれは、いいのか?」
訝しんだ表情の葵が問いかけると、合歓は頷いてから、口いっぱいのケーキを呑み込んだ。
「――……嫌がってない、から……」
ガチ抵抗だった。
「戯れにも限度が有る。ブレーキを踏んでくれる彼の友人はいるかね?」
「自分がやりますねー?」
誠二郎の問いに挙手した諏訪が集中する。彼の緑色の髪がしゅるしゅると伸びた。それは音も無く白秋に這い寄ると一瞬で下手人よろしくがんがら締めに縛り上げ、壁際まで隔離する。
どうやらここまで。腕の力を緩めた朔羅を、ぜえはあと息を切らしたつづりが見上げてきた。力強い頷きを返す。
「存分にやってらっしゃい」
解き放たれたつづりは頬を赤らめたまま立ち上がる。
「何か、言う事ある?」
「はっはー! ゴチ!!」
嬉々として言い放った白秋の顔面に、つづりの低空飛び膝蹴りが叩き込まれ、その衝撃で猫耳が吹っ飛んだ。
「相変わらず騒がしいのな」
黒夜の呟きに、そうね、と千陰が笑う。
「でも、すっかり『いつもどおり』だわ。これもみんなのお陰ね」
「ん、そうか……」
グラスを置く。
「な、なあ……」
「ん?」
「まだ早いが……来年も、いれたら一緒にいていいか?」
「もちろんよ。どこか行きたいとこある?」
「え、そ、そうだな……」
もじもじする黒夜と、彼女の頭を撫でる千陰。微笑ましい様子をハッドのカメラが捉えていた。
「千陰ん〜、ポーズを取るのじゃ〜」
言われるがまま、両手を振って見せる。ハッドはふむふむ〜と頷き、
「着痩せするようじゃ〜。千陰んははちじゅう〜……」
左目を見開いた千陰が跳躍、テーブルに手をつき、刈り取るような水面蹴りを放った。ハッドはそれを屈んで躱し、てけてけと去っていく。
「じっくり検証するのである〜」
「待てこらああああああッ!!」
「そういえば、去年もこんなことあったっけ」
今年もいろんなことあったなぁ。ケーキに舌鼓を打ちながら思いを馳せていると名前を呼ばれた。
「あ、茜……ッ!!」
見れば、逆襲すべく朔羅にかかっていったつづりが返り討ちに遭い、関節技を極められながら助けを求めている。
茜はゆっくり頷くと、頭上に高々とグラスを掲げた。
「みんな、来年もよろしくっ」
\よろしくーーーー!(茜ええええええええッ!)/
●
人工島の片隅で行われた忘年会は、結局、夜遅くまで続く事となった。
目前に迫った新年が逃げ出しそうな大騒ぎを、濃い紺色の空に浮かんだ大きな月が、いつまでも優しく照らし続けていた。