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校庭から屋上を見上げ、高野 晃司(
ja2733)は頬を掻く。浮きそうになった歯はなんとか鎮まりそうだ。頓狂な事態だが、切迫しているのもまた事実。
彼の隣から三善 千種(
jb0872)が笑顔で問う。相手はブラウスを羽織った少女。
「随分ご大層な出迎えですねぇ、歓迎ありがとうございますよ」
少女の鼻が鳴る。
「歓迎?」
「えぇ。招待されて来ましたよぉ☆」
「覚えが無いわ。気の所為か、妄想じゃないかしら」
晃司は眉を顰める。貴女がそれを言いますか。
千種は表情を変えない。晃司に横目で短い合図を送り、頬に手を添え、声を張る。
「あなたは人間? それとも別の存在? あ、そっちの飛んでる方のは別にいいです、見てわかりますから☆」
空に浮く女性は答えない。ぴくりとも動かない笑みは仮面のようにも見て取れた。
少女が大げさな身振りで口を動かす。
「後者よ。私も、ターリウも、あなたたちとは別の存在だわ」
「って言ってますけどぉ?」
「人間ですね」
晃司は断言する。
「浮いてる方は……すみません、よく判りません。あれも間違いなくディアボロ、みたいです」
歯切れの悪さは違和感から。屋上に居るのは間違いなく、人間と何かとディアボロだ。なのだが。
ふむふむと頷き、千種は再び声を投げた。
「人間ですってよぉ」
「違うわ」
言葉には棘が生えていた。
「違うのよ、あなたたちとは」
お、と千種は口の中で呟く。もう少し話が広がりそうだ。これで更に時間が稼げる。
だが、少女は千種の思惑を裏切り、空の女性に顔を向けた。
「そうよね、ターリウ」
うんうんと頷く。
「ターリウが太鼓判を押すのにゃ! あなたは間違いなく特別なのでごわす!」
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窓から届いた声に、秋桜(
jb4208)は何もない右上に視線を投げた。
「……ターリウ……?」
聴き間違えではない。空のあれは再三自分の名前を繰り返している。
いつかの大きな戦いで似た成りの悪魔を見た。似た名前の悪魔だった。
別の悪魔、なのだろうか。以前の様子では堅実な印象を抱いた。必要でないことはせず、ましてや、こんな三文劇のようなやり方はとても結びつかない。あのピエロ気取りの悪魔ならまだ分かるのだが。
屋上の奇特な存在。
ピエロ気取りの悪魔。
三文劇。
招待状。
線になりかけた点は、やはり腑に落ちず点のまま。思案を傍らに片付けながら、秋桜は『放送室』と掲げられた一室に入っていく。手には愛用のスマートフォン。
初めて見る器材にはボタン一つひとつに用途のシールが貼られていた。事もなく、操作する。
♪〜(校内のスピーカーから流れるあのテーマ)
「あー、緊急事態だから、おまいら体育館に集合しろくださーい(ぽりぽり)」
大きく揺れた校舎。スピーカーから流れるのは聞き覚えの無い声と、誰でも一度は聞いたことのあるあのテーマ。
何が起こっている。誰が放送室にいる。あと何食ってる。
一時パニックは更に深まるかと思われた。動揺していたのは、生徒らよりは彼らを護るべき教師陣。右往左往していたまだ若さの残る男性教諭の肩に、駆け付けた鈴木悠司(
ja0226)が手を置く。
「落ち着いてください。撃退士です。屋上は危険だから、取りあえず体育館へ皆を避難させてください」
でも、でもと職員は狼狽える。悠司は別の肩に開いていた手を置いた。
「確りしてください。大丈夫です。先ずは生徒達の安全。そして彼方の安全も」
微かにあどけなさの残る顔は真剣そのもの。
アイスブルーの双眸に見詰められた教師は、しばらくしてから頷いた。よろしくお願いします、と頭を下げる。
「大丈夫です。敵は必ず倒します」
悠司はゆっくりとあごを引く。
3階でも似た光景は繰り広げられていた。
慌てふためき、少数が異様に盛り上がる中、新任の女教師は生徒ら以上に右往左往している。そんな彼女を、背後から誰かが優しく抱き締めた。突然のことに女教師は短い悲鳴を上げて振り解くが、その動作さえサポートしてのけ、ルティス・バルト(
jb7567)は微笑んでみせる。
「助けに来ました、レディ」
漂う香りは薔薇のそれに似ていた。女教師は相変わらず切羽詰まった表情のまま、頬だけを赤らめていく。
「生徒達と一緒に避難して。放送が聞こえるかい?」
首を傾げる女教師にスピーカーを指さして見せる。抑揚のない秋桜の言葉と耳慣れたテーマは続いていた。
「さあ、急いで」
もう一度ルティスが告げると、女教師はこくこくと頷いて生徒らを先導し始めた。懸命な仕草に頬を緩めつつ、ルティスは教室の隅で怯えていた女生徒に付き添い、体育館を目指す。
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「聴いた通りよ。それで、どうするの?」
千種は困ったような笑みを浮かべてから、晃司の肩をポン、と叩いた。
「高野さん、あの子を口説いちゃってください☆」
「えっ」
張った声は屋上まで軽く届いた。
「やってみます」
「ええっ」
照れる、というよりは驚く少女を余所に、晃司は行動を開始する。纏った淡い光は少女の視線を一手に引き受けた。その隙に千種が別働する。彼とは対照的に、気配も息も押し殺し、校舎へ向かった。
晃司が校舎の陰に消えるまで少女は目で追い続けた。だから、屋上に起こった異変に気付くのは、彼の姿が見えなくなってから、ということになる。
「っ」
息を呑んで顔を向ける。
「気付かれちゃった、か……やっぱり、『惹かれ合う』のかな」
桜 椛(
jb7999)は穏やかに微笑みながらもふもふの翼を動かし、屋上に着陸する。
少女は口元を抑えた。
「あなたは――!」
笑みに不敵を混ぜる椛。
「そう……よく気付いたね。ボク達は『組織(ギルド)』から派遣された『光輪の救済者(ロスフェイル・メサイア)』。真実のキミをボクは『知識(し)って』いる」
少女の頬は赤みを増していく。先程までとは別の赤だった。憤怒には程遠く、恋慕とも異なる。
敢えて表現するなら――待望。
「……来ると思っていたわ、『光輪の救済者(ロスフェイル・メサイア)』」
初めて耳にしたはずの単語を完璧に返す。
「『真実(ほんとう)』の私を『知識(し)って』いる、と言ったわね?」
静かに頷く。
「キミは勘違いしている。『暗黒郷(そこ)』にキミの望む『楽園(エデン)』なんて無いんだよ」
「嘘よ」
「嘘じゃないよ。
全てを失った先に残るのは……『虚無(ゼロ)』だけなんだから」
言葉の中ほどで目を伏せる。
息を呑む気配がして、荒くなった鼻息が聞こえた。効果は絶大だったようだ。
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全校生徒がほぼ一斉に移動したにも関わらず、避難は比較的スムーズに行われた。教師らが一丸となって行動した事に加え、撃退士らの姿があったことにより適量の緊迫感と安心感が合ったことが大きい。
無駄口も最小限に避難していく中、場に不釣り合いな成りの人物がいた。サイズの合っていない作業着のなんとか前のボタンで閉じた秋桜が、方々から(主に思春期ど真ん中の男子の)視線を浴びながら『捜す』。
生徒らと職員らで埋め尽くされた体育館。その入り口の手前で悠司が教師らの質問へ簡潔に答え、ルティスが女生徒と女教師をなだめていた。そこへ最後の生徒らと、彼らに付き添っていた千種が到着する。
「これで全部、かな」
「みたいですねぇ」
「追撃は?」
千種ははにかんで肩を竦める。
「まだ屋上で盛り上がってるんでしょうかねぇ」
「ここからが本番、いや、第2章かな?」
「急ごう」
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「『虚無(ゼロ)』なんかじゃないわ。だって、私は手に入れたんだもの。見つけてもらえたんだもの」
少女の奥、女性は動かない。笑みは、その質も形もずっと変わらない。
「ターリウに出会えた。この子に出会えたの」
そして『黒竜』も動かない。首を振りはするが、仕掛けて来る様子はまるで無い。
「だから――『虚無(ゼロ)』なんかじゃない……!」
「この後は? ボク達を退けて、その後は、ターリウと、その子と一緒に?」
「そうよ」
「キミはそこで何を手に入れるのかな」
「きっと、何もかも」
「それは本当にキミが望んだものなのかな」
「――っ」
「キミはまだ失っちゃいけないものがあるんじゃないかな」
「ない! そんなの……そんなもの、ない!」
歪んだ父母の愛は彼女に届いていなかった。
孤独の中で育んだ『個』は周囲の同年代に受け入れられず、更に歪み続けていた。
帰るところは必死で探すか、或いは作るか、気付くしかなかった。
頑なさでは椛も負けていなかった。
「キミが嫌だと言っても、ボクはキミを守るよ」
「違うわ」
私が護るの。少女は両腕を広げた。
「……そう。わかった」
喜劇は終わりを迎える。
「ここからは――」
「――取り敢えず貴女の覚悟、見せてもらいますよ!」
屋上に飛び出した晃司が咆え、走る。
踏み込み、腕を振った。先端の輪は風を斬りながら少女の奥、赤い光を目指す。
少女は――そして『黒竜』も――避けようとしなかった。唇を噛み締め、顔を逸らす彼女の足元へ、晃司は咄嗟に手錠を叩き付ける。
ふう、と一息。
「そこまで日常が嫌いかー。でもま、帰ってもらうけどね」
言う彼の後ろには椛、そして
「なんとか間に合った、かな?」
「一気に行くよ」
駆け付けた悠司とルティスが。
ああ、ここまでか。溜息をつく。
少女の心臓は高速で叫んでいた。
望んでいた非日常の先にあった、本当の非日常に、たった一発で度肝を抜かれてしまった。
このままではいけない。私だけではこの子を守れない。
顔を上げる。
「た、ターリウ!!」
そこに彼女はいなかった。
「誰の事?」
ウェイブのかかった青い髪。片側が折れた羊のそれに似た角。感情の失せた貌。虚を湛えた双眸。
「はぁ……」
溜息、次いで指が鳴る。
直後、『黒竜』が消え失せる。頭が、首が、翼が、尾が、跡形も無く北風に消えた。
「あ……」
残ったのは胴――の形をした、蛞蝓(なめくじ)のような成りのディアボロ。
「あ……あ……!」
少女は酸欠の魚のように口をぱくつかせるだけで、動けない。
舌打ち、溜息、あるいはぼやき、椛を先頭に駆け出す撃退士たち。
そこへ――
「……鬱陶しい」
タリーウが掌を翳した。
刹那、椛は全身で強い風を感じ取る。が、それだけ。懸命に走り抜け、狼狽える少女を強く抱き締める。
「ひっ……」
「ボクを信じて!」
訴える。
「必ずキミのことはボクが守るから!」
縮こまる少女の後ろで、黒い塊がごぽりと蠢いた。
椛の肩には仲間の足音が当たる。
「晃司サン!」
振り返る。
昏い瞳のまま多節棍を振り被る晃司の姿がそこにはあった。
咄嗟に広げた凧の形をした盾が白塗りの棍を弾く。
高い音に紛れる、泥が沸騰しているかのような音。
考えるより先に、椛は横に大きく跳躍する。彼女がいた位置に、ディアボロが吐き出した色濃い紫の液がぶつけられた。
こちらを向くディアボロ。
こちらに迫る晃司。
椛は翼を広げ、飛び上がる。更なる非日常に、少女は椛の服を強く握った。
離さないで、と囁き、弓を取り出す。孔雀の飾り羽がひらひらと揺れた。
視線の先には赤い光。一瞬で照準を合わせ、光を乗せた矢を放つ。それは寒空を切り裂きながら直進し、しかし寸でのところで顔を背けられ、墜落してしまう。
「あ……ああ……!」
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
少女の救出は、成った。あとはあのディアボロを払えれば、悪魔は去るだろう。
「ということで、そろそろ集中したいんだけどね?」
口角を上げ、黒い円形の盾を構える。そこへ、我を見失った悠司が我武者羅に斬り込んで来た。曲刀による渾身の斬撃をルティスは辛うじて受け止める。が、重い。肘と肩が軋む音を聴き、それでも尚ルティスは余裕を崩さない。
面妖なディアボロ。心を奪われた仲間。他者の心に踏み込む悪魔。
「君ならどうする、千種さん?」
「知ったこっちゃありませんね☆」
応え、踊り場を蹴り、千種が屋上に躍り出る。可能な限り移動した先はギリギリ射程内。つんのめるような体勢で、しかし力強く弓を構える。
狙いを定めた先、椛の攻撃を避けた赤い光がこちらを向いた。
笑い、目を見開き、矢を放つ。
炎に似た光を纏った矢は地を這うように疾走し、赤い光源を抉るように突き刺さった。
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声なき声を上げ、身体を大きく反るディアボロ。
そこへ間髪入れず千種が手を翳す。即後、ディアボロの周囲に大小様々な刀剣が浮かび上がり、主の命に応じて一斉に斬り掛かった。成す術の無いディアボロは、主に狙われた光源から、滅多矢鱈に切り裂かれた。
溜息をつき、手を閉じるタリーウ。
彼女を見上げながら、椛は、崩れて落ちるディアボロからやや離れたところに着陸した。へたり込む少女の元には、自らの傷を癒すルティスと、彼に謝り倒す悠司が駆け寄る。
ふぅ、と息を吐き、晃司があごを上げた。
「始めましてーですよね? 美人さん?」
タリーウは応えない。
ねえ、と椛。
「この宴の感想を聞かせてほしいな。一体何が目的だったの?」
タリーウはやはり応えなかった。
千種が興味なさそうに見送る先で、翼を動かして旋回、給水塔を飛び越える。
その陰から声が訪れた。
「最低の上司がいると大変だねぇ」
最後のチョコ菓子を平らげた秋桜が指を舐める。
「意味のない事はしない性格だと思っていたけど、誰かに唆されでもしたかぉ?」
表情が一際険しくなる。
「『はぐれ』に話すことなんて、殊更無いわ」
鼻を鳴らし、秋桜が腕を振る。
放り投げられた物――最近流行した、銀行員の仕返しを描いたベストセラー小説――を、タリーウは面倒そうに受け止めた。
「糞上司に嫌気が差したら、コッチにくるといい。『いろは』くらいは教えるぉ」
青毛の悪魔は表紙を一瞥すると、無造作に放り投げ、寒空を飛び去って行った。
少女は泣きじゃくっていた。『誰も居なくなった』虚無感と、目の前で屈み込むルティスの身体に刻まれた傷。彼女は泣く事しかできなかった。
ルティスは微笑み、優しく語り掛ける。
「黒竜を護ろうとした貴女はとても強い意志を持っていたよ。その力を目の前のことに向けられたら、もっと魅力的だ」
指で頬を拭う。
「貴女は唯一無二の存在なんだよ。不安なら、いつでも訪ねておいで。俺がいくらでも証明しよう」
語らう二人の後方で、悠司は俯いていた。
「(あれが、悪魔の幻術……)」
震えは寒さの所為でなく。
己の身体にこべりつく感覚に、拳を硬く握り締めた。
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やはり駄目だ。
術が通じないものがいる。餌を場に出すのも面倒なだけ。並のディアボロでは壁にもならない。
もっとだ。もっと何か考えなくてはならない。だが迂遠なのは向いていない。研鑽を積む気はさらさら無い。
では、さて、これからどうするべきか。
溜息を落とし、タリーウは半ばほど目を閉じて冬の空を飛んでゆく。