●
3名の調査隊を囲むようにして仲間は進軍を始めた。強い風に髪や服を靡かせながら、遥かに見える十字路を目指して疾走する。
橋の防衛に当たる面々は各自の準備を整え始めていた。
竜見彩華(
jb4626)とグレイフィア・フェルネーゼ(
jb6027)は移動を開始する。森田良助(
ja9460)は既に位置につき、得物の具合を確かめている。彼の傍らには九鬼 紫乃(
jb6923)がついた。
「出来る限り援護しますから」
「助かります」
彼らの正面、最前線にはアレクシア・V・アイゼンブルク(
jb0913)とグレイシア・明守華=ピークス(
jb5092)が立ち並ぶ。
「あれは……蝶、いや、蛾か。羽の一枚でも切り落とせればいいが……」
注意深く目標を観察するアレクシアを尻目に、グレイシアは五感を総動員して周囲を警戒する。
橋の中ほどで雀原 麦子(
ja1553)がノンアルコールの缶ビールを傾けた。
「何か見つかった?」
「ううん。今のところアレだけみたい」
麦子が肩越しに振り返る。ソフィア・ヴァレッティ(
ja1133)は首を振った。
「何も来てないよ」
「こちらもです」
告げ、知楽 琉命(
jb5410)は腰を落としてライフルを構える。遠くでは影野 恭弥(
ja0018)、そして斉凛(
ja6571)が似た構えで準備をすっかり終えていた。
「ってことは、とりあえずアレを落とせばいいのね」
缶を置き、弓を手にする。
「……不快な成りだ」
「大きくて、狙いやすくていいじゃない」
くぐもった羽音を響かせながら、ディアボロの影は見る見る大きさを増していく。
●
交差点に差し掛かると、遠くから戦闘音が手を伸ばしてきた。戦局を判断するには足りず、無視するのは憚られる、絶え間ない音と声だった。
一行は左折、北上を始める。先頭は久遠 仁刀(
ja2464)、彼の傍らには桐原 雅(
ja1822)がついた。周囲を注意深く見回しながらも決して脚は止めない。時間は限りなく有限であり、2人はそれを見失っていなかった。
先を急ぐ彼らではあったが、適時速度は抑えた。すぐ後ろ、調査隊が歩みを緩めたからだ。防衛班に囲まれた彼らは完全に分担し、僅かな情報も逃すまいと血眼になって辺りを観察、記録していた。
君田 夢野(
ja0561)は細く、しかし鋭く息を吐く。その音が同行する仲間に届くほど、辺りは静まり返っていた。
広い道路の両脇には生気を失った建物が軒を連ね、だんまりを決め込んでいた。傷の少ない、或いは全く無いそれらはあまりに不自然で、不気味だった。
龍崎海(
ja0565)は雑居ビルに背を預け、脇道の様子を窺う。奥にはディアボロの背が見えた。ただ徘徊していた。向かってくる様子は無い。斜向かいの路地を観察していた赤坂白秋(
ja7030)も似た感想を抱いていた。
「どう考えても罠だと思うけど」
「だからって止まれねえだろ」
白秋の言葉を肯定するように進軍が再開される。
だが直後、護衛班は先鋒も殿も揃って立ち止まった。
調査隊は慌てて踏み止まる。
彼らの周りで全員が一斉に得物を構えた。
黒夜(
jb0668)が阻霊符を起動させる。
すると脇から硬い音が鳴り始めた。
カン
コン
カカン
音は壁に反響しながら、不規則に、しかし確実に大きく、近くなってくる。
タンッ
隊の前方、高い位置から、馬を模したディアボロが踏み切った。額に湛えた鋭利な角を向け、急降下してくる。
迎え撃つは黒髪の少女。地を蹴った雅は体を捻りながら上昇する。充分に勢いの乗った回し蹴りはディアボロの頭部を強かに捉えた。
短い悲鳴を上げて墜落するディアボロに仁刀が迫る。咆哮と共に斬撃を叩き込み、刹那の後光が破裂した。
そこへ寒々しいほどに蒼白い刃が同じ色の光を湛えて振り降ろされる。たまらずディアボロは吹き飛び、建物の壁にその身を打ち付けた。
よたつきながらディアボロは立ち上がる。天風 静流(
ja0373)はその鼻先に薙刀の先端を突き付けた。ディアボロは短く、強く鳴くと、地を蹴って彼女から離れてゆく。
ディアボロの強襲は四方から同時に繰り出されていた。
調査隊の面々を狙ったその攻撃は、しかし注意深く警戒していた撃退士の策により、悉く阻まれることとなる。
「させません」
左から来た馬の突進は御堂・玲獅(
ja0388)の白銀の盾が食い止めた。一瞬の拮抗を見逃さず蓮城 真緋呂(
jb6120)が駆け込む。直刀に雷光が宿り、駆け抜けながら切り払う。立ったままのたうつディアボロに、
「オルァアアアアアアアアッッッ!!」
地領院 恋(
ja8071)が熱を帯びた大振りの戦槌を振り抜いた。大きく首を揺らし、たまらずディアボロは踵を返す。
右から訪れたディアボロは御堂 龍太(
jb0849)が食い止めた。纏った光の網が幾分衝撃を和らげたものの威力は凄まじく、龍太の肉体がみしり、と軋んだ。彼の背後で調査隊員の顔が青ざめる。安心させるように龍太は口角を上げた。
黒焔が立ち昇る。その中で金色の瞳が輝いた。
マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)の拳がディアボロの腹部を突き上げる。痛烈に穿たれた腹部を庇うように、ディアボロは暴れ、退く。御神島 夜羽(
jb5977)が繰り出した渾身の蹴撃は、しかし紙一重のところで躱されてしまう。
長剣と一本角は激しくかち合っていた。かちかち、ガリガリと耳障りな音を、夢野は疎み、楽しんだ。
「お前……ノイジーなんだよ!!」
叫び、思い切り押し返す。僅かな火花を散らし、ディアボロは大きく仰け反った。
その顎下に、後方から飛来した光弾が喰らい付く。炸裂した光が散り切ると、ディアボロはか細い鳴き声を上げて夢野から大きく距離を取っていた。肩越しに振り向けば、白秋が小さく眉を上げていた。
離れた位置で4体のディアボロは並び、互いの傷を舐め合った。斬られた胴体が、打たれた頭部が、撃たれた喉が、穿たれた腹部が、見る見る修復されていく。
「頼む」
短く告げると、静流は背を向けたまま頷いた。仁刀は調査隊を引き連れて走り出し、他の仲間も続いて征く。目指すは色濃くそびえる結界。
遠のく足音に応えるべく、それぞれの武器を構える。
馬の形をしたディアボロは頭をゆらゆらと動かしたかと思うと、一斉に襲いかかってきた。
●
柳のような一対の触角を揺らし、テニスコートほどもありそうな二対の羽を小刻みに忙しなく動かしながら巨大なディアボロは移動する。
遥か後方にて、小ぢんまりとした使い魔は大業に腕を組んでいた。その喉がごくり、と動く。
『上官』は言った。言っていた。撃破されぬことを最も優先せよ、と。もう一つ懸念はあったが、とりあえずは横に置いておく。今は眼前の戦局に傾注しなければならない。
「何事もなければいいが……」
思わず呟いた瞬間、ディアボロの背、左の羽で光が弾けた。
「良し、効いた」
良助は思わず呟いた。狙い定めた銃口の先、左羽からはもくもくと煙が吹き出し、強い風に流されている。
「お願いします」
「お任せ下さいですの」
応え、凛はライフルの引き金を握った。弾丸は正確に、寸分の狂いなく、良助のそれと同じ位置に着弾した。
狙撃は続く。恭弥が、そして琉命が放った銃弾が空っ風を突っ切って羽を穿つ。
「やはり羽を狙うか。想定通り、と言えばそれまでだが……」
使い魔の心配を余所に、ディアボロは前進を続ける。煙に塗れた黒ずんだ紫色が舞い踊っていた。
それらを切り裂いて飛来した、麦子が放った矢が、ドン、と音を立てて突き刺さり、食い破る。堪らずディアボロは羽を振り回すが、それで抜けるはずもない。しかも、矢を標と定めたかのような軌道で薄紫の花弁が舞い、続々、次々と患部に激突していく。
防戦一方、いや、最早狙撃訓練に等しい光景に使い魔は苛立つ。
「何をしている……! そら、もうじき間合いだ、止まるな!!」
痛む羽をなんとか動かし、ディアボロが体勢を立て直す。
頭部の先端がぱっくりと開き、内側のひだが何かを集めるように蠢いた。
「なんか来るわね。間違いなく」
「全員下がれ!!」
号令を出しながらアレクシアが最前線に立ち、明守華が並ぶ。
ディアボロの頭部に生まれた無色透明の圧力は一旦小さくまとまってから、ぽん、と放物線を描いた。
頂点を超えると急加速して急降下してくる。
光を纏ったアレクシアと明守華の盾が着弾点で迎え撃つ。
―――――――――――――!!
巻き起こる暴風を紫乃は屈んでなんとか堪える。乱れる髪から覗き見れば、他の仲間も思い思いの姿勢で衝撃に耐えていた。盾を携えた2人を除いて。
やがて高く短い音を残してディアボロの攻撃が散る。鼻を鳴らしてディアボロを睨み飛ばすアレクシア。痺れた手を振る明守華には琉命が駆け寄り、赤らんだ腕の傷を癒した。
「あれを止めるか……くっ、休むな、次だ!!」
従ったのか、或いは端からそのつもりだったのか。
ディアボロは大きく羽ばたき上昇する。狙いは誰の目にも明らかだった。
「させません」
「外さない――!!」
橋の上の銃口が一斉に上へ傾く。照準を合わせた者から順次発砲していった。羽を撃ち、腹を削ぎ、頭部を焦がす。しかしディアボロは止まらない。
「いけるか」
「当然よ」
巨大な頭はぐいと持ち上がり、我武者羅に振り降ろされた。
盾を構えた2人の少女が手すりを蹴って迎え撃つ。
!!!!!!!!!!!!!!!!!!
耳をつんざく轟音。それに弾かれるようにアレクシアと明守華は橋へ叩き付けられる。
揃って顔を上げた先では、ディアボロが頭を振って悔しがっていた。
そこへソフィアが書を翳す。開いたページから飛び出した火球はうねりながらディアボロに突撃、爆発する。熱と光にあてられてディアボロが悶える。びちびちと耳障りな音が当たりに轟いた。
「まだまだ!」
刀を構えた麦子が跳ぶ。狙いは刃圏に侵入してきた腹部。気合一喝、刹那に振るわれた五つの剣閃が黒一色の胴体を縦横無尽に切り刻む。
「スレイプニル!!」
彩華の命に応じ、黒蒼の馬竜が空を駆ける。繰り出されたのは的確で我武者羅な全力の乱打。
猛攻の隙間を縫いグレイフィアが迫る。
「受けてみなさい!」
手には白銀の槍。その神聖さを思わせる切っ先が、スレイプニルの突進と同時にディアボロの脇腹に叩き込まれる。
「何という事だ……!
いや、何故だ、何故連中は弱まらない!?」
呟き、使い魔は目を凝らす。そこに映ったのは、膝を付いて咽るアレクシアと、彼女を光の印で癒す琉命の姿。
やがてそれぞれの両目が持ち上がり、使い魔の視線とかち合う。
「野次馬か、それとも――」
「指揮官、でしょうか。いずれにせよ、あの距離では手出しもできないでしょう」
「他からは!?」
「東は大丈夫!」
「南からも来ていません!」
「こいつだけ! 畳み掛けるよ!!」
そして始まる、嵐のような迎撃の乱舞。
辛うじて耐えていたディアボロに、使い魔は大慌てで撤退命令を出し続けた。
●
地を蹴ったディアボロは低い位置を直進、一気に距離を詰めてきた。
狙いは――黒夜。鋭利な先端は彼女の喉笛に狙いを定めて迷いなく突き進む。黒夜は右目を狭め、後方に退く。
生まれた隙間に玲獅が飛び込んだ。矛と盾が真正面から激突する。ディアボロが一歩踏み込み、その分だけ玲獅の靴底がアスファルトを強く舐めた。負けじと押し返す。
動きが止まった瞬間を見計らい夜羽が蹴り込む。体重を乗せた渾身の一撃は、しかしひらりと躱されてしまう。だが夜羽は笑みを浮かべた。仄暗い視線の先で、静流の斬撃がディアボロの胴体に押し込まれる。蹄ががりがりと地面を削り、その上を静流と夜羽が疾走する。
「ったく……」
「出てはいけません」
黒夜を制し、玲獅が再び盾を構える。そこへ次のディアボロが襲い掛かってきた。再びぶつかり合う角と盾。伝わる衝撃と目前の赤く濡れた瞳が雄弁に語っていた。狙いは背後の少女であると。だからこそ玲獅は退かない。音が鳴りそうなほどディアボロを睨み、攻撃に耐え続けた。
一体が距離を開け、もう一体が襲い来る。鋭く息を吐き、受け止めた瞬間、横から更に一体が迫る。玲獅は瞳さえ動かさなかった。
迎撃の構えを取った黒夜の前に大きな背中が割り込む。光の網に包まれた龍太が、文字通り体を張って攻撃を受け止めた。打ち下ろすような一撃を受け止め、彼の膝ががくり、と曲がる。
「っ……今よ!」
号令が出た時には夢野は既に跳んでいた。宙で身を回し、遠心力を乗せた神速の一撃を放つ。その場の誰の目にも止まらなかった一閃はディアボロの臀部を深々と切り裂いた。
嘶き、踵を返すディアボロ。残った2体は一瞥するが追わない。再び呼吸を合わせて玲獅に激突する。倍以上になって襲った攻撃を、それでも玲獅は頑なに受け切った。
彼女の背後で黒夜が腕を掲げる。振ったそれには少しだけ力が入った。玲獅の奥、ディアボロの周囲で色とりどりの炎が爆ぜ、暴れ回る。
その奥。
孤立したディアボロに夜羽が脚から飛び込む。ディアボロはくいと身を返して回避。そこへ間髪入れず静流が切り込む。青白い刃に身を抉られながら、それでもディアボロは反撃に転じる。薙刀を振り払うように踵を返し、その脚を揃えて静流目掛けて弾くように放つ。彼女は身を反りながら後方に跳び退きなんとか躱す。が、着地した瞬間を狙って、臀部を斬られたディアボロが急襲、突進してきた。刺突だけは辛うじて回避したものの体の右側に当て身を受け、静流は弾き飛ばされてしまう。転がる彼女を夜羽が身を張って止める。顔を上げれば、ディアボロは互いに寄り添いその身の傷を癒し合っていた。
その奥。
足を止めず猛攻を繰り出すディアボロ、爆ぜる炎や氷と、そこに紛れて渾身の一撃を放ち続ける夢野。
足止めは成った。調査隊を追われるよりはまだ色の良い結果と言えた。
だが、果たしてこの戦況を抜け切れるのか。
脳裏に浮かんだ疑問に是非も無しと答え、静流は黒塗りの柄を握り締める。
●
県庁があるはずの位置には色濃い結界に包囲されていた。観察していた海は『立ち入り禁止』を意味するテープを連想していた。広大ではあるが強固ではない。しかし踏み越えるには相応の理由と覚悟が要った。
「頼めるか」
白秋の問いかけに白虎 奏(
jb1315)はニコリと頷く。呼び出したヒリュウ――ポチは短く鳴き、空高く舞い上がった。
「んー……うん、来なそう、ですね」
「どういうつもりなのでしょう」
真緋呂は眉を顰める。恋は短く頬を掻いた。
「誘い込まれた、かもね」
「だとしても、ここで引き返すわけにはいかないだろう」
「だな。鬼が出ようが蛇が出ようが、やる事は同じだ」
頷く代わりにマキナが歩み出る。意図を汲んだ雅が続き、他の面々も得物を向けた。
息を合わせ、一斉にそれぞれの一撃を叩き込む。
結界はぐらり、と揺れた。生じた結界は見る見る広まり、手前からぼろぼろと割れ、崩れ、零れ、消えていった。
●
「ッ!?」
よたよたと撤退を開始する蛾のようなディアボロ。使い魔がそれから目を離す様子をソフィアは見逃さなかった。視線を追えば、遥か彼方に見えていた紫色の円筒が崩れていくのが窺える。
程なくして良助の光信機に連絡が入る。これから県庁に侵入する。それを聞くと、肩の力が僅かに抜けた。
だが、グレイフィアは別の感想を抱く。視線の先には豆粒のような使い魔。
「破壊されて慌てるのであれば、何故守りを固めなかったのでしょう……?」
程なく次の通信が入るまで、橋を守り抜いた彼女らは僅かの休息に浸る。
●
調査隊を囲むようにして護衛班は県庁の敷地内に入っていく。それぞれが別の方角を見張り、虫一匹も逃さぬようにして。
踏みしめた地面は、まだこの地が人の手にあった頃と変わっていなかった。だからこそ浮世離れした県庁が際立つ。表面を覆う網のような蔦と真上にぽっかりと開いたゲートは、雅の眉間に深いしわを刻ませた。
入り口で待機する奏は県庁正面、群がり、群がっているだけのディアボロの様子をつぶさに観察していた。
彼は何度も首を傾げた。なんで距離を詰めてこない。どうして襲ってこない。いや、それより――
「……怯えてる?」
慎重かつ大胆に進軍は続いた。辺りの様子は調査隊が細大構わず記録していく。
ぽつり、と恋が呟く。
「階数が違う」
白秋が視線を送ってきた。恋は改めて県庁の窓の数を数え、ひとり頷く。
「やっぱり足りない」
「蔦に隠れてんじゃねえのか」
「いや、圧倒的に足りてないよ。位置もまばらだ」
言って海が指さしたのは県庁の案内板。確認すれば、なるほど、県庁に並ぶ窓は不自然な位置にある。
「作り変えられてる、ということでしょうか?」
「理由は?」
「中に入れば判ることです」
振り向いた先。
県庁の入り口に人影が立っていた。
「ようこそ」
言葉と交錯するのは白く光り輝く白秋の弾丸。
黒衣に身を包んだ単発の悪魔は、それを避けるでもなく、動じるでもなく、ただ受けた。
弾丸は肩を捉える。着弾と同時に弾け、悪魔の肩を強く押しやるが、悪魔は不遜な笑みを崩さない。
「些か挨拶が過ぎるのではないか?」
「見覚えがある」海が仲間にだけ聞こえる声で呟く。「県境の結界を破壊した悪魔だ」
白秋は光信機を顔に近づけた。
「よう、目標が釣れたぞ。『アップルパイ』を目指せ」
「こちらの言葉だ。貴様らに目指すなどという選択肢は最早無い」
睨み合うトゥラハウスと撃退士の中点に、空から、音も無く新たな人影が降り立った。
●
4体のディアボロは足を引きずりながら逃げ出した。
黒夜は右目をぱちくりさせる。突然のことだった。数瞬前までは確かに、こちらの命を奪いに来ていたのに。
「非常招集、でしょうか」
玲獅が見つめるのは紫が消えた晴天。静流は同じ方角を眺める。手には未だ得物を握っていた。
「果たして、誰にとっての非常事態なのだろうね」
彼女から離れた位置で、夢野は自らの腕を掴む。跡が残りそうなほど強く。
「(あの結界の中で、何が起こっているというんだ?)」
少し手強いだけの偵察任務、の筈だった。
「(なのに、この黒く禍々しいプレッシャーは何だ?)」
●
青く長い髪は地に着くほど長かった。その下には隆々とした無駄の無い肉体。
赤い瞳がぎろりと動いた。この時はまだ、そこに意志は無かった。
「……人間……」
最低限の動きで紡がれた言葉を聞いた瞬間、白秋の全身が粟立った。
「退くぞ」
「……にんげん……にん、ゲん……」
男の全身が膨張する。肩も、腕も、胸も、背も、腹も、腰も、脚も、徐々に、やがて急激に膨らみ、赤黒く変色していく。口は同じ言葉を繰り返しながら歪に前へ突き出てきた。
「ニんげン……ニンゲん……! にんげん、にんげん、にんげん、ニんげん、ニンゲン、ニンゲン!!!!!」
海が発煙手榴弾を投擲する。すぐに白く厚い煙がもうもうと広がり、立ち昇った。
だが、男の身体はそれを見下ろせるほどにまで巨大化する。
『それ』は雄牛を模していた。
大木のような腕が上がり、成人男性ほどもありそうな指が不規則に蠢いた。
洞穴のような口には鋭く尖った牙が並び、ぬらぬらと輝いていた。
血の色をした瞳が憎悪を宿して爛々と輝き、撃退士を見下ろしていた。
「そやつらが敵です、アバドン様。我らに仇成す、倒すべき敵です、アバドン様」
「振り向くな! 走れ!!」
仲間を追い立てるように叫ぶ仁刀。彼の隣で、雅が一瞬だけ顧みた。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!
ニンゲン!!! ニンゲンンンンンンンンンァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
咆哮が煙幕を消し飛ばした。
そして、暴将の、蹂躙にも似た追走が始まる。
●
「緊急事態です!!」
異変は橋を守る仲間らにも届けられていた。通信を受けた良助が即座に全員へ伝える。聞いたままに、とんでもないものが出た、と。
「ど、どどど、どうするべ!?」
「落ち着いてくださいですの、竜見様」
「応援に行った方がいいかもね」
麦子が顔を向けると、既に職員がマイクロバスを運転し、こちらへ向かってきていた。
丁寧に停車している暇などなかった。開け放たれたドアから転がり込むように飛び乗る。
全員の乗車を確認すると職員は更にアクセルを踏み込んだ。タイヤが高い音を立てて回転し、橋の上を爆走する。
●
「撤収だ! 走れ!!」
白秋と海を先頭に、県庁の正門から護衛班が飛び出してくる。奏は彼らの奥、丘のような悪魔――アバドンの姿に目を丸くした。
「ちょ、マジでええええええ!?」
叫びながら合流し、全速力で疾走する。殿を務める仁刀が方向転換、南下を初めて数拍後、アバドンも同じ道を辿った。勢いを殺し切れず門の正面、建物と奥にいたディアボロを巨躯で押し潰す。その出来事に一片の関心も払わず、アバドンは四肢でアスファルトを削りながら強引に方向を変え、地を揺らすほどの咆哮を上げて撃退士を追う。
「冗談だろ……!」
「逃げの一手だね。今はとても手に負えない」
困惑する仲間に、連絡が入りました、と玲獅が伝える。
「撤退用のバスが向かっています。交差点で合流しよう、と」
「それに賛成。ちゃんと帰らねーとな」
「こっちよ! 早く!!」
「ってことで、悪いが我慢してくれ!」
言いながら白秋が調査隊員を抱え上げる。もう一人は海が、隊長は合流した龍太が抱き上げた。
「あら、いい男ね。吊り橋効果って知ってる?」
「初耳だな。妻と娘に教えねば」
彼らの背中を見送り、真緋呂が振り返り、自身に急ブレーキをかける。道を埋めてしまうほどの巨大さを誇るアバドンは目前に迫っており、その間合いでは仁刀が孤立していた。
腕が持ち上がる。それだけで2車線の道路の殆どには影が落ちた。
指が畳まれ拳を作る。
一瞬の静止の後、無慈悲に振り降ろされる左の剛腕。
その横っ腹を、飛び込んできた雅が強烈に蹴り飛ばした。
仁刀の目には、その光景がスローモーションに映っていた。
大きく弾かれる腕。
宙で脚を振り抜いた雅。
彼女を平手で払う右の剛腕。
小虫のように払われ、雅は背中から灰色の壁に激突した。一度だけ跳ね、そのまま落ちていく。
盛大に咳込みながら、それでも彼女は着地した。両脚で立っていた。立つことで精いっぱいだった。今まさに振り降ろされようとしている自身が蹴り飛ばした腕を躱せるかは賭けの領域に至っていた。
右か、左か。
思案する間も寄越さず、特大の拳が打ち下ろされた。
雅は目を瞑ってしまう。覚悟ではなく、反射から。
だが、暗闇はそのままで、衝撃は訪れなかった。
直接は。
目蓋を上げる。
「あ……」
「……大丈夫か?」
巨大な拳を背で受ける仁刀の姿が、そこにはあった。
低く長く、大きく唸り、アバドンは拳を押し込もうとする。だが仁刀は折れず、退かない。肩越しに飛ばされた鋭い視線がアバドンを更に傾倒させた。懐に飛び込んでくる黒衣の戦士に気付かぬほどに。
「如何程だ、暴将」
打ち込まれた拳を通じ、黒焔がアバドンの大腿部に叩き込まれた。
確かな手ごたえを噛み締め、マキナが視線を上げる。相手もまた、彼女を見下ろしていた。
力任せに振り回された平手がマキナを弾き飛ばす。彼女は足元のアスファルトごと、道の脇の喫茶店まで吹き飛ばされた。
ガラスの割れる音はアバドンの咆哮に敗れる。大きな双眸は眈々と追撃を企んでいた。
その近くに矢が突き刺さる。続いて、ポチのブレスが同じ位置に吹き掛けられた。
「はしゃぎ過ぎよ」
「俺の仲間は……やらせないからなっ!!」
これでアバドンの目標は真緋呂と奏へ。その隙に仁刀が雅を抱え上げ、喫茶店に恋が飛び込む。
「立てるか?」
「……済みません」
「喋るな、掴まれ」
走り出した仁刀らと飛び出してきた恋らを確認すると、奏と真緋呂は視線を交わし、一目散に逃げ出した。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!」
怒鳴り、がなり、前進しながら水平に回転する。大蛇のような尾がアスファルトを抉る。生じた風圧と飛来した飛礫を背に受けながら4名は懸命に駆け抜けた。
見えてきた交差点に、右から猛スピードでクリーム色のマイクロバスが走り込んでくる。速度は落ちない。先行した仲間は、窓から伸びる仲間の手を掴む。バスはそれでも止まらなかった。一旦視界から消え、左側で耳鳴りがするほどタイヤを滑らせている。
「アクション映画みたいだなっ!」
「状況は大差ないわね」
生暖かい風が2人を触る。冗談のような足音はどんどん大きくなってきていた。
バスが舞い戻ってくる。まだ少し距離があった。恋が速さを増すと同時、バスが通りに『進路を変えずに』接近してくる。窓からは何人もの仲間が手を伸ばしていた。
「来い!!」
踏み切り、跳ぶ。
「ディアボロの様子は?」
上官の問いかけに、使い魔は視線を落とした。
「……川の巨大な個体は移動がやや困難な状況です。
4組の方は傷こそ残らなかったものの、成果は上がらなかったようで……」
なるほど、とトゥラハウスは鼻を鳴らす。
「今来た連中が『敵』のようだ。その気になれば四方に置いているディアボロの群れなど容易く突破してくるだろう。再編成が必要だな」
「……トゥラハウス様は、どちらへ……?」
「進言だ。敵だけならともかく、私の策を壊されてはたまらんからな」
29名を乗せたバスは懸命に逃げ続けた。アバドンとの距離は開きつつあったが、車内には緊張が満ち満ちていた。後部座席から見える巨体が大きく咆える度にビリビリと車体が揺れていた。
そして橋に差し掛かる。仲間が必死で守り抜いた橋へ。
ここさえ越えれば帰れる。だが、万が一、あの馬鹿力で橋ごと落とされるようなことがあれば――。
しかし、一同の心配を余所に、アバドンは減速、橋の袂で停止する。
「あれは……」
海が見守る先、アバドンの巨体の前に、県庁前で遭ったあの悪魔――トゥラハウスが浮いていた。
大業な身振り手振りで何かを伝えようとしている。流石に会話は聞き取れなかった。
県庁から出現した2体の悪魔は、やがて小さくなり、建物の陰に消えてしまった。
●
「有り難うございました、アバドン様。相変わらずの手腕、感服いたします。あやつらだけが、我らの手に余る存在でした。
連中は捨て置いておくとしましょう。どうか、後は我らに任せ、お戻りください」
アバドンは鼻息を荒げる。
まだ、まだだ。
もっと、もっとだ。
「では、まだ遠方に群がっている連中がいるようですので、そちらをお願いできますか。
実力では劣るようですが、何分必死なようでして。引導を渡してやりましょう、アバドン様」
アバドンは短く唸ると、その背に、巨体に相応しい巨大な翼を現した。
羽ばたくと、踏み散らかしてきた砕けた道が辺りにばらばらと舞い散る。
そして地の果てまで届きそうな声を上げながら、アバドンは彼方、戦地を目指して飛び立った。
青天を行く赤紫の巨体を眺め、トゥラハウスは鼻を鳴らす。
「……加減を知らぬ鈍牛め。相変わらず手間をかけさせる」
●
職員はハンドルを操りながら、懸命にマイクへ向かって叫んだ。
「緊急事態です! 各自今すぐ撤退してください! これ以上の作戦続行は不可能です!」
「りょ、了解!!」
ようやく呼吸を整えた調査隊長が助手席から笑う。
「今の隊で全て、だな。なに、逃げ足には自信のある者達ばかりだ。大丈夫に決まっている」
「聞きたいのはコメントではなく報告です」
「帰ってからでは駄目か。実はまだ動悸が治まらなくてな」
「簡潔で結構ですので」
溜息を落とし、隊長は深く座り直す。
「人がまだ暮らしているのでは、と思わせる程保持された街並み。
その裏通りを最小限の配置で塞ぐディアボロ。
それらを物ともせず暴れ尽くす巨大で強大な悪魔。
更に、それらを、恐らく一手に纏めている狡猾な悪魔」
「……前途多難、ですね」
「だな。だが、これで攻撃目標は定まった」
遠くから届く、怒気一色の咆哮。
様々な思いを内包したまま、車は前橋市を後にする。