●
余裕に歪んでいた小虎(シャオフー)の表情が変化する。
「よう、また会ったな」
「……またテメェか……!」
忌々しげに奥歯を噛み締めた。
「大口叩くなって言ったろ。もう忘れたのか」
影野 恭弥(
ja0018)がゆっくりと歩みを進める。まるで散歩に赴くように、のんびりと。
小虎は堪えた。一歩でも前に出てしまえば、そこは『姉』の間合いの外。負けるつもりはさらさら無いが、姉との約束を反故にするのは胸が軋む。
小虎の思惑と裏腹に、恭弥は距離を詰めていく。
それでも動かない。
鈴代 征治(
ja1305)が小柄なヴァニタスを観察し、やがてその葛藤を読み取った。彼は白と黒が混じった光を身に纏うと、その奥でニコリと微笑んで頭を傾けた。
「おいで、猫ちゃん。撫でてあげるよ」
「……ァあ?」
「ここで倒させてもらうってことだ。悪く思うなよ」
「――ハッ」
征治と恭弥の言葉を受け、小虎は鼻を鳴らした。
鳴り終わると同時に両腕を引き、重心が傾くほど勢いよく突き出す。
両の手のひらから放たれた衝撃波が地面を削りながら迫り来る。
「おっと……!」
征治は斧槍を身体の前に出し、辛うじて衝撃を和らげる。
傍ら、恭弥は半身に直撃を受け、大きく姿勢を崩してしまう。しかし彼は顔色ひとつ変えず、どころか、踏ん張った足の上に腰を落とし、銃を構えて引き金を絞った。
銃口から飛び出した白銀の弾丸は低い位置を直進、射手の意図通り小虎の大腿部に突き刺さる。
「ッ……ァァあああッッ!!」
憤怒の咆哮。
その陰からイシュタル(
jb2619)が斬り掛かる。
突き出した白銀の槍が小虎の肩の裏に突き刺さる。仰け反り、しかし小虎は悲鳴を呑み込むと、槍を掴んで身をよじってから踏み込み、イシュタルの腹目掛けて足刀を放った。
「……っ」
辛うじて受けが間に合った。身を引いたものの威力は凄まじく、イシュタルは大きく後方へ跳ばされてしまう。ダメージに数度咽る。
その頭上で再び我武者羅な咆哮が鳴り響いた。
「畳み掛けましょう。速攻です。援護お願いします」
恭弥に残し、ハルバードを構える征治。彼の隣で黒百合(
ja0422)が三枚刃の鎌を担ぐ。
「気を付けてくださいね!」
注意を促すレグルス・グラウシード(
ja8064)の傍らで、不動神 武尊(
jb2605)が赤黒い装甲を纏った。胸の位置で口が開き、鋭い歯を剥き出して唸る。
小虎が大地を踏み鳴らす。
「あァ!? とッとと来やがれクソどもがああああああああああああッッッ!!」
「言われなくても行ってやるよ」
征治を先頭に、黒百合、レグルス、武尊が駆ける。迎え撃つべく小虎も前へ。
「やれやれですねえ……」
遠くで溜息。
音までは聞こえずとも、レグルスの感覚がけたたましい警鐘を鳴らした。
「危ない!!」
彼が叫ぶより僅かに早く、彼らの足元、地面のあらゆる位置から丸太の様な漆黒の杭が発生した。それは滅多矢鱈に空を目指して伸び、その道程に存在していた撃退士らを容赦なく弾き飛ばす。
胸元を抑えながら、征治が小虎と恭弥の中点ほどに着地する。両サイドに押し飛ばされたレグルスと武尊がよろめきながらも立ち上がると、あれだけあった杭の群れが風に吹かれて掻き消えた。
その奥。
長い金髪を風に遊ばれる人の形が見えた。
「困りましたねえ」
ヴァニタス――大虎(タイフー)は頬に指を当てて息を落とす。
姉妹の策は崩れた。人間の狙いは半球型のディアボロ。そこへ至る前に妹が削り、姉が一網打尽にする、という目算は呆気なく崩れた。ヴァニタスである自分たちに真正面から挑まれたことは、それなりに不愉快だった。
だが、
それ以上に、
杭の林をすり抜け、
妹さえ突破した黒髪の笑顔に、
大虎は強い不快感を抱いていた。
「……今日はお友達の背中じゃないんですねえ?」
「弱い猫ほどよく吠える、ってねェ……♪」
呼吸を整えてから、レグルスが手を伸ばす。腕に蓄えられたアウルは一気に膨張し、黒百合を優しく包み込んだ。
淡い光を纏いながら、黒百合が剣を抜く。古び、刃のこぼれたその刀身は、彼女の頭上で怪しく輝いた。
「虎の皮は高く売れるのよねぇ……あはァ、その可愛い面をひっぺがしてあげるわァ……♪」
言い放ち、顔の隣に剣を構える。
大虎は頬に手を当てて目じりを下げる。手の甲で髪を払えば、笑みは全く消えていた。
「姉ちゃんッ!!」
気遣う声を鼻で笑い飛ばし、武尊が進む。身に纏った相棒の頭を撫で、口の中の血を吐き捨てて。
目を剥いて小虎が腕を振ろうとする。が、挙動を途中で止め、威勢良く屈んだ。
彼女の頭があった位置をハルバードが通過する。征治は残念そうに眉尻を下げてから、引き戻した斧槍を腰に添えて回した。
「大人しくしていれば、少しは優しくしてあげるよ」
目蓋が裂けそうなほど見開かれた瞳が彼を貫いた。
●
得物を構える征治、そして恭弥。
彼らより更に後方で、久遠 冴弥(
jb0754)は喉元に拳を添えていた。
視線は奥、仲間と対峙する長髪の影。
「(あれが、兄さんと戦闘したヴァニタス……)」
無意識に、肩に力が入った。拳が震えた。
彼女の背にアイリス・L・橋場(
ja1078)が手を添える。
「……そろそろです。征きましょう」
静かに頷き、冴弥はそっと目を閉じる。
●
小虎が大股で踏み込み、前のめりになりながら征治に拳を振り降ろす。彼は最低限だけ下がってこれを回避、顔の前を通過する剛拳に眉間を狭めながらハルバートで刺突する。
小虎は避けない。甘んじて肩の肉を裂かせながら踏み込み、勢いを存分に乗せた回し蹴りを放つ。
受けが間に合わないと征治は判断、小さく飛び、衝撃に備える。
直後、頬に猛烈な鈍痛。彼は抵抗するでなく、敢えて大袈裟に転ぶことでダメージを和らげる。咄嗟の判断が功を奏し、なんとか立ち止まることができた。
しかして無傷ではない。微かに笑った膝を小虎は見逃さなかった。
追撃すべく踏み出す。
その出鼻を恭弥が狙う。両手でしっかりと銃を固定し、引き金を握れば、眩く輝く白銀の弾丸が小虎の脚の付け根に突き刺さった。
「――ッ!!」
一発で、一瞬で小虎の意識が恭弥へ向く。あの野郎、また。
愚直な思考が巡った。力を込めた腕を振り被る。
弓のようにしなった背。
そこに走る悪寒。
顔を上げる。
暗くなり始めた空から、槍を構えたイシュタルが迫ってきていた。
間に合わない。
小虎が判断する前に、イシュタルが振り回した白銀の槍が小虎の背を切り裂いた。
「ガァァァァッ!!」
着地したイシュタルに、小虎が力任せに腕を振る。地面と水平に走るそれをイシュタルは仰け反ってやり過ごし、そのまま後転、距離を取る。構えた槍が小さく鳴った。
「ウロチョロしやがッてェ……!」
「おお、凄い気迫ですね」
「……こんな時、何と言ったかしらね。手負いの獣ほど恐ろしいものは無い、だったかしら」
「獣? 猫が精々だろ」
「まあ、弛緩せず行きましょう。このままならなんとかなりそうです」
「――ッッッッッッッッ!!!!!!」
突かれ、斬られ、撃たれ、挙句舐められ。
小虎は激昂、激怒する。
――遠く、空を行く別働隊に気付けるはずもなかった。
●
「さァてェ……」
黒百合がステップを踏む。
彼女の足取りに不吉なものを感じ取り、大虎は突き出した手で宙を掬い上げた。
直後、対峙していた3人の足元から音も無く杭の群れが伸びる。
「くっ……!」
なんとか身をよじり、被害を最小限に抑えるレグルス。
だが、彼の耳は、ドンッ、という不気味な音を拾う。
顔を向ければ、
「チッ……」
「武尊さん!」
そこには、高々と杭に打ち上げられる仲間の姿があった。
「まだですよお」
間延びした声と同時、虚空に無数の点が浮き出る。それらは瞬く間に膨張し、彼ら目掛けて降り注いできた。
肩や足を強かに叩かれるレグルス。彼の視界の中で、背に杭の直撃を受けた武尊が地面に叩き付けられる。
「ふむう……」
手応えを確かめながら、しかし大虎は首を捻る。
足りなかった。
何処だ。
周囲を見回そうとする彼女の双眸がか細い光を捉える。
咄嗟に頭を動かすが、完全には避けきれず、頬に一筋の傷が走った。
見る。
満身創痍の武尊が、地に這いつくばるような姿勢で巨大な弓を手にしていた。
「……はあ。しぶといですねえ?」
ヴァニタスの口から大業な溜息。
「(ですが、あの様子なら次は避けられませんよねえ?)」
起死回生の一矢だった。
この瞬間、大虎の意識は、確かに武尊だけに向けられていたのだから。
大虎が手を動かした瞬間、
ダンッ
まず近い位置で音が生まれ、直ぐに背中が爆発したように痛んだ。
「あはァ、ちょろいわねェ♪」
背後から声。
大虎は目を見開き、背面に向けて杭を撃ち出す。
手応え、無し。
否、有るには有ったが余りにもか弱い。杭は、黒百合が身代わりに残した上着を打ち破っただけだった。
大虎が舌を打つ。その音さえ、移動した黒百合の靴底が地面を擦る音に隠れた。
背中の傷は深い。顔を動かすだけで痛みが走る。対して、視線の先、無傷の黒百合は片手で剣を弄んでいる。
「(……かなあり、気分悪いですねえ?)」
平静を装う大虎。
レグルスは確信したように頷き、ヴァニタス目掛けて小さなカードを投擲した。
大虎は目を動かしただけでそれを発見、顔に当たる前に指で挟む。
攻撃としては粗末。或いは罠か。
思案を巡らせながらカードに目線を落とせば、そこには、笑顔が眩しい美形の青年が映っていた。
「(……どうだ!?)」
レグルスが見守る中、大虎が目を線にして微笑んだ。
「もうちょっと筋肉質な方が好みですねえ」
言うなりブロマイドを放り投げ、杭を突き出して潰した。
「くっ、駄目か……!」
本気で悔しがるレグルスを余所に、大虎は息を呑んでいた。
彼女の顎は上がっていた。放り投げたカードを潰す為に。
その視界の端に蒼い光が見えた。星とも街灯りとも異なる、夕闇を疾走する蒼い光が。
「……そういうことですかあ……!!」
大虎が両腕を振り被る。狙いは空の別働隊。整っていた顔立ちは獣の様に醜く歪んでいた。圧倒的な敵意。
させない。それだけは。
「僕の力よ……暗黒の冥魔を縛る、鋼鉄の鎖になれッ!」
レグルスが杖を振る。
先端から金色の鎖が伸びた。それは宛ら蛇の様に宙を走り、大虎の四肢に絡み付く。
だが。
「こんなもんで止まってらんねえんですよおっ!!」
両腕を軋ませながら、それでも大虎は杭を放った。
「来ます……!」
アイリスの言葉に頷くまでもなく、冴弥らの周囲には数多の黒点が浮かび上がっていた。
疑うまでもない、杭の蕾。
「お願い、布都御魂<フツミタマ>――!」
冴弥が呟くと同時、漆黒の蕾が次々と綻んだ。
その有り様は宛ら突風。
上から、
下から、
右から、
左から、
前から、
後ろから、
彼女らの胴よりも太い杭が執拗に襲い来る。
杭の嵐の中を、しかし召喚獣――布都御魂は、主らを乗せて懸命に掻い潜った。
大虎の動きがレグルスに妨害されたことが大きい。密度はともかく、狙いはそれなりに逸れてしまっていた。
眼前から真っ直ぐ杭が伸びてくる。冴弥は身を低くしてそれを潜り抜けた。
「……ありがとう」
言って優しく背を撫でる。
「……お見事……です……」
言い残し、アイリスが飛び降りる。
狙いは眼下、黒の半球。
大虎が奥歯を噛み締める。このままでは。
飛び降りた、赤を纏った人間を目標に定める。
が、定めるに終わる。
全身に絡み付く鎖の所為――だけではない。
頭と肩に置かれた手の、腕力にも因って。
杭を出す。
声を上げる。
身を振って払う。
その何れを行う暇も与えず、黒百合が大虎の喉元に『喰らい付いた』。
夜風を全身に浴びながら、アイリスが神経を研ぎ澄ます。闘気はやがて収束、黒いバイザーとなって目元を覆った。浮かぶ血に似た赤は必倒の決意。
携えるのは大振りの剣。深紅の刃は、暮れだした夜空に良く映えた。
横目で一瞥。追撃の気配は無い。仲間の奮闘が窺えた。
応えなければならない。
半球の位置まで数瞬。
身を捻り、力を籠める。彼女の両腕と得物に、黒と赤の光が猛々しく蠢いた。
落ちていく。
迫る。
「……月光に……消えろ……!」
ありったけの力を込めて振り降ろす。
半球は、抗うでもなく、ただ攻撃を受けた。
中央で両断された半球は、暫しそれぞれぶるぶると震え、やがて高い音を立てて砕け散った。
●
その音にはっとして、小虎が振り返る。
遠く、建物の屋上にディアボロの姿は無く、代わりに赤を纏った人間の姿が在った。
だが彼女の両目は、守れと言われたディアボロよりも、その手前で傷を負っている姉に向けられる。
視認した時には、既に踵を返して走り出していた。
恭弥は冷静に銃を構え、狙撃。白の弾丸は小虎の背中へ直撃、穿った。
衝撃に前につんのめりながら、しかし小虎は止まらない。
踏み切り、低く跳ぶ。狙いは一点、蹲る姉に得物を振り降ろそうとしている黒百合。
「ガアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!」
駄々の様な叫びを上げ、体当たりにも似た蹴りを放つ。
黒百合はつまらなそうな溜息を残し、大きく後ろに下がった。
小虎は指で地面を削りながら急停止。大慌てで姉に駆け寄り、寄り添い、抱える。
「姉ちゃん……ッ」
「……ごめんなさいねえ、シャオ……」
姉の呟きに答える代わりに、妹は優しく背を撫でる。止め処なく零れる体液をなんとか戻そうとするように。
2体のヴァニタスはすぐに取り囲まれた。
左手には黒百合。
右手にはレグルスと武尊。
正面には征治、イシュタル、恭弥。
そして――
小虎が肩越しに屋上を睨む。
「……なんですか、その目は?」
冷めきったアイリスの声が降り注ぐ。傍らで、冴弥がゆっくりと息を吐いていた。
「真っ当な一騎打ちでもあるまいに。正面からぶつかるとでも思いましたか?
舐めた真似してるからこうなります。悔しければ、次は本気でかかってきなさい」
「ゥるッせェンだよ……!」
言葉で抵抗しながら、小虎の視線は目まぐるしく走っていた。その意図を汲みとった征治が苦笑を浮かべる。
「目的は果たせたし、見逃してやってもいいよ」
「影野恭弥って名前、覚えとけ。お前の敵の名前だ」
「お肌のお手入れ忘れずにねェ、お姉ちゃんゥ♪」
赦され、侮られ、蔑まれ。
それはどれほどの屈辱だっただろうか。
小虎は短く吠え、自らの足元に衝撃波を放った。
間欠泉のように噴き上がる土煙。飛来する大小疎らな石の飛礫。
それらから顔を背け、戻した先。煙が晴れると、そこに姉妹の姿は影も形も無かった。