●到着〜バーベキュー
大型バスは広い駐車場の隅に停車した。目の前には立派な旅館が佇んでいる。被った赤い屋根が雲一つない青空に眩しいほど映えている。周囲に連なる山々は一様に青々とした服を着込んでいた。
面々が次々に降車していく。降りた瞬間に温泉の香りが鼻をくすぐった。旅館の裏手からは控えめな川のせせらぎが聞こえてくる。日頃の疲れは早くもほぐされつつあった。
小日向千陰はバスの中に忘れ物がないことを確認し、運転手に会釈をした。駐車場に降り立てば、小さなツインテールと、フードを被った女生徒がぼんやりと待っていた。
「じゃ、チェックインしてくるからお昼の準備お願いね」
「あーい」
適当な相槌を背に受け、千陰は小走りで旅館に向かう。大きな自動ドアを潜り、赤いじゅうたんが敷かれたフロントに差し掛かると、特徴的なシルエットが見えた。
狐珀(
jb3243)だ。彼女はカウンターを挟んで、恐縮しながらスタッフと言葉を交わしていた。
「じゃから、これは着ぐるみではなく……」
遅れた。千陰は頭を短く掻き、小走りで狐珀の傍らへ駆け込む。
「こんにちは。今回はお世話になります。
それで、彼女は申し込みの折に説明した……」
スタッフは、ああ、と大きく頷く。
承っております。ごゆっくりおくつろぎください。深々と下げられた頭を見て、ようやく狐珀は胸を撫で下ろした。
狐珀と千陰が談笑しながら川のほとりへ降りていくと、バーベキューの準備が始まっていた。
せせらぎからやや離れた屋根の下では軽快な包丁の音が鳴っている。
「これくらいの大きさでいいかな?」
「いいんじゃない。ちょっと大きい方が食べごたえあるし」
野菜を手際良く刻んでいるのはソフィア・ヴァレッティ(
ja1133)と三ツ矢つづり。
「今更、なんだけど」
玉ねぎを切りながらつづりが口を動かす。
「ありがとね、いろいろ」
ソフィアは頭の上に浮かんだ疑問符を見上げ、やがてああ、と頷いた。
「それよりも、大雪が降った時は大変そうだったね」
「風邪ひく手前だったよ。絶対いつか仕返ししてやるんだー」
笑顔を並べる2人の前に、鳳 静矢(
ja3856)が巨大な肉を運んでくる。
「そろそろメインも切り分けなければな。火の周りが殺気立っている」
言って冗談っぽく微笑む。ソフィアは苦笑を浮かべ、つづりは指で包丁をくるりと回した。
ぱちぱち、と赤く点滅する炭の山に手を翳し、鳥海 月花 (
ja1538)はうっとりと目じりを下げていた。
「温かいですね……とっても癒され……すぅ……」
言いきらず、月花は、すぅ、と瞳を閉じ、かくん、と前に倒れかけた。が、寸でのところで十八 九十七(
ja4233)が彼女の両肩を捕まえ、事なきを得た。
「やれやれ……大丈夫ですかぃ?」
「ああ、ありがとうございます」
ぼんやりと告げる月花の頭を九十七がぽんぽんと叩いた。そこへ紙コップを持った千陰が訪れる。
「今日はなんにも壊さなくていいからね、鳥海さん」
悪戯っぽく言って紙コップを差し出す。月花と九十七は小さく頭を下げて受け取り、喉を潤した。
「肉は予め薄く切れ目を入れておくと、火が通りやすく、タレ等に絡みやすくなるぞ」
「おおっ、なんか本格的」
「ピーマンは串に刺しちゃっていいかな?」
「一度焦げ目がつくまで焼いて皮を取ろう。見た目も食感も良くなる」
和気藹々とした調理場に、ふわりと長い黒髪が揺れる。
九条 穂積(
ja0026)は串に刺さった食材を指さし、3人に、なぁ、と声を投げた。
「このへんのは、もう持ってってええんやろか?」
「うん、大丈夫だよ」
「まだまだ用意するから、どんどん持って行ってくれ」
おおきに。穂積は目を線にして、食材が山のように積まれたトレイを抱えていく。
向かった先、火の周りには多くの生徒らが膝を並べていた。歓迎の拍手に包まれながら、穂積は熱された網の上に手際よく食材を並べていく。向かいから鳥海も手伝い、あっという間に網の上はいっぱいになった。
一仕事を終えた穂積は短く息を吐き、腰を降ろした。隣からラズベリー・シャーウッド(
ja2022)が笑顔で労う。
「間もなくだと思います。もう少々お待ちくださいね、お嬢様」
「うん……」
生返事を残し、ラズベリーは網に視線を送る。芳ばしい香りを味わいながら、しかし彼女は気が抜けずにいた。穂積の料理の腕はよく知っている。まして今は複数人で食べるバーベキュー。展開次第では食事抜き、最悪の場合は脱落者が出てしまう。
「(……でも、焼くだけだし大丈夫――)」
ラズベリーがあごを引くと、穂積が突然立ち上がり、辺りをきょろきょろと見回した。
「にしてもこれ、火力ないなぁ。
……どっか灯油とかないやろか?」
ざ わ … … っ
「――じゃなかったーー!?」
ラズベリーが勢いよく立ち上がり、穂積の腕を掴む。
「ダメだ穂積君! 食材が灯油臭くなってしまう! ……じゃなくて、僕達がこんがり肉になってしまうー!」
「そう、ですか? では、旅館の方に掛け合ってガソリンをお借りしてきます」
「そういう問題じゃないんだ! とにかく燃料系はダメ! さあ、食材をひっくり返そう!!」
「? それだけでいいのですか?」
「最重要だよ!? 一心不乱に! さあ!!」
眉を下げて遣り取りを眺め、千陰はうちわで炭を扇いだ。その隣に狐珀が腰を降ろす。
「先程は助かったぞ。どうじゃ、一杯付き合わぬか?」
微笑み、狐珀は顔の横で一升瓶を揺すった。千陰は苦笑いを浮かべて頬を掻く。
「すみません、私下っ戸下戸の下戸なんです」
「む、そうか……」
しゅん、と耳を垂らす狐珀。その背中に九十七が声を掛ける。
「一杯だけなら付き合いますよぃ?」
「ソフトドリンクでなら、私も付き合いますから」
千陰が加え、月花も遠くから頷く。そこへ袋井 雅人(
jb1469)が合流した。
「賑やかですね。ご一緒してもいいですか?」
「おお……! もちろんだとも。ささ、楽しもうではないか!」
狐珀は目を線にして、九十七のコップ目掛けて一升瓶を傾けた。
もう片方の火は和やかな雰囲気に包まれていた。
ソフィアとつづりが食材を運ぶと、影野 恭弥(
ja0018)とエナ(
ja3058)、そして香月 沙紅良(
jb3092)が受け取り、トングでどんどん網の上に置いていく。慣れと集中の甲斐あって、どれも程よく焼けた。
「ほら」
よい色になったものをつづり、そして五所川原合歓の取り皿に乗せていく。
「おー、ありがとー!」
「――あ……あり、がと……」
取り分けた恭弥さえ無意識のうちに偏った。つづりには肉類が多くなり、その分合歓には野菜が多くなる。またか、と少しだけ肩を落として合歓は食べ始める。つづりはなんの不満もなく食べ進めていたが、半分ほど開いた器に再び肉を中心に乗せられたところで、あれ、と首を傾げた。
「参(サン)もいっぱい食べないと、伍(ウー)みたいに大きくならないぞ」
「……」
参『も』。
伍『みたいに』。
『大きく』なれない、ではなく、『ならない』。
「……そうスね。はい。ちゃんと、いっぱい、食べます」
恭弥とつづりの遣り取りは、まるで大食い大会決勝戦のように展開した。合歓はしばし逡巡する。自分で取ろうにも他のメンバーの勢いが激しく、なかなか入り込めない。散々迷った挙句、彼女は焼き手に徹していたエナに声を掛けることとした。
「――あ……あの……」
合歓が膝を折ると、エナは口からはみ出ていた玉ねぎを仕舞った。
もぐもぐと口を動かしながら網の上を指さす。合歓が頷くと、手前で焼けていた肉を彼女の皿に乗せた。合歓が頭を下げる。エナは会釈、その仕草のまま次の肉を自分の口に運んだ。
はす向かいでは沙紅良が手際よく仲間らに取り分けていた。受け取った誰もが笑顔を浮かべ、忙しそうな彼女に感謝して、邪魔をしないようにと距離を取る。
もちろん残る者もいた。緋野 慎(
ja8541)は夢中で肉や野菜を口へかき込み、リスのように頬を膨らませたまま沙紅良に開いた器を差し出す。沙紅良は慎の食べっぷりに目を見張りながら、肉汁が滴る鉄串をそのまま渡した。慎は満面の笑みで噛り付く。
彼の傍らで、黄昏ひりょ(
jb3452)はその食べっぷりに圧倒されていた。苦笑いを浮かべてハンカチを取り出し、
「動かないでくださいね」
慎の頬についたソースを拭う。
「ん、ありあおー!」
にっこりとほほ笑んでまた食べる。するとまた同じ場所にソースがついた。ひりょは苦笑いを深める。
「……ご気分が優れませんか?」
下がった表情を沙紅良が覗き込んでくる。ひりょは慌てて顔を上げ、話題を探した。
「交代しましょうか? 香月さん、さっきからあまり食べていないでしょう?」
食べて、の辺りで、沙紅良は炭に翳していた鉄串を顔の前に運んだ。先端では、マシュマロが程よくとろけている。
「お気遣いありがとう御座います。私はこれで充分ですので。
まだ旅行は始まったばかりです。たんとお食べくださいませ」
「……では、いただきます」
ひりょは真新しい器を彼女に差し出した。
●フリータイム
恵夢・S・インファネス(
ja8446)とカレン・ラグネリア(
jb3482)の両名は、食事を早々に切り上げて温泉街を訪れていた。風情ある街並みを目的もなくぶらぶらと歩いていく。目が覚めるほど刺激的ではなかったが、頬が緩むような情景で満ちていた。
「そうだ、友達にお土産買わなくちゃ」
胸の前でポン、と手を叩き、道沿いに並ぶ土産物屋へ入っていく恵夢。頭の後ろで手を組んだカレンが彼女をてくてくと追いかける。
「なんだ、他の奴も誘うつもりだったのかー?」
「うん。旅券瞬殺だったし」
「あー」
争奪戦を思い返し、カレンは口角を釣り上げた。じゃあボクも、とついていく。
「で、何買ってくんだー?」
「んー……」
腕を組んで店内を歩く恵夢。足を止めたのは壁際だった。高い位置にはごてごてした三角形のペナントが埃を被っている。その下には色褪せたよぼよぼのちょうちん。短くため息を落とし、お、と呟いた。
「木刀だー。……でも短い。2メートルのとかないかなー」
「木彫りのコレなんかどうだ? ……なんだコレ、ネコ?」
「わー、このキーホルダー辞書がついてるよ。なんに使うんだろ?」
「やっぱ食いモンのほうがいいんじゃねーかなー? ……んー、普通なのばっかで芸がねーナー」
「そういえば食べ物頼まれてたんだった。
確か温泉だから、やっぱり温泉――……卵とお饅頭がある。どっちだったっけ?」
入浴は夕方から、ということで、昼食を終えた面々は思い思いの旅を楽しんでいた。
神月 熾弦(
ja0358)、天風 静流(
ja0373)、ファティナ・V・アイゼンブルク(
ja0454)の3人は、街の中ほどにある足湯を味わっていた。目の前に広がる景観を楽しみながら、道中で購入した団子を頬張る。
「静流さんのは何味でしたっけ?」
「胡麻を練り込んだものだよ。風味があって美味しい。食べてみるかい?」
「ええ、よろしければ」
静流が熾弦に差し出した団子は、しかし間にいたファティナに横取りされてしまう。
「ほむ、確かに美味しいですね。妹たちへのお土産はこれにしましょうか」
「ファティナさん、それは私が静流さんに貰ったんですよ?」
頬を膨らませた熾弦が抗議するが、ファティナは
「ふふっ、油断大敵ですっ」
と言ってもう一つ食べてしまう。
じゃれ合う2人に相好を崩すと、静流はカメラを取り出し、のんびりとした風景をシャッターで切り取った。
液晶の中に収まった景色はなかなか壮観で、天ヶ瀬 焔(
ja0449)は思わず優しく微笑んだ。その表情のまま短い文章を打ち込む。写真を添付して、送信。都合が合わず参加できなかった相手へ羽を生やした便箋が飛んで行く。
驚かさないように留意して、雅人は少しだけ声を潜める。
「楽しんでますか?」
「それなりにな」
焔は視線を落としたまま携帯電話を仕舞った。雅人は斜め上を見て暫し思案、やがて口を開いた。
「こういう言い方が適切かは判りませんが……。せっかくですし、思いっきり満喫して、『次回』に活かしたり、伝えてあげるのがいいと思います。彼女もきっと、そう望んでいるはずですから」
「……。そうだな」
たまには、骨休めといきますか。芝居がかった様子で言うと、雅人の顔にも笑顔が戻った。
「行きましょう。狐珀さんたちがキーホルダーで盛り上がってるんですよ」
「ほう。いつでもどこでも、昔話や怪談が楽しめるように作られておるのか……」
「小さな子にはウケがいいですよ。でもお土産を買うのでしたら、名産品か地名の入ったものが無難だと思います」
「成る程、奥が深いのう……」
しげしげと土産を眺めて進む狐珀。
揺れる尻尾にうずうずしながら付き添っていた千陰がふと目を向けると、蒸姫 ギア(
jb4049)と視線が合った。しかし彼はすぐに、開いた観光地マップに隠れてしまう。
顔にニヤニヤを張り付けた千陰が近づく。ギアはまるで今初めて目があったかのように小さく頭を下げた。
「楽しんでる?」
フン、と鼻が鳴る。
「ギアは遊びに来たわけじゃない。人間界の見聞を広めようと思って……」
「ほうほう。それでパンフレットを食い入るように見ていた、と」
「そうだ」
「隣にある地形図や歴史書でなく、レジャーマップを?」
「そ、そうだ」
「――逆さまに?」
言われて慌てて確認する。が、文字はきちんと整列していた。しまった、と目が丸くなる。さらにしまった、と口が開いてしまう。見れば、千陰が、生暖かい、とても生暖かい笑みを向けていた。
「ち、違――」
うんうんと頷き、千陰はギアの手を取る。
「お団子食べない? おごっちゃうからさ」
「いや、だから……」
「みんなー! 蒸姫君がお団子食べようだってー!」
「ぎ、ギアは……」
ほんのりとした抵抗も空しく、ギアはずるずると引きずられていった。
●入浴
嵯峨野 楓(
ja8257)がロビーに降りると、浴衣に着替えたソフィアとつづりが同じテーブルを囲んで座っていた。どちらも椅子に甘えたような体勢で黙々とページをめくっている。
「温泉入らないの? ってか、何読んでるの?」
地元の昔話。ソフィアは本を小さく揺らす。
「時間つぶしで読んでたんだけど、あと少しだから読み切っちゃおうと思って」
「ふーん。
つづりちゃんも?」
漫画から目を離さずにつづりは答える。
「今、空手の達人と合気の達人が戦ってるから、この試合終わったら行こうかなって」
「へぇー」
気の抜けた返事を返し、楓も流れで近くに腰かけた。2人は読書の真っ最中、入浴の準備を整えてきたので手持無沙汰になり、テーブルの上に置いてあった旅館のパンフレットを開いた。
楓は何気なくページをめくっていた。が、ふと『温泉の効能』というトピックが目に飛び込むと、腰の位置を直し、指で字をなぞりながら注意深く『ある文字』を探した。
橙色の球が高らかと放り投げられた。それは鋭い弧を描き、回転せず素直に落ちてくる。
その横っ腹を沙紅良が払う。強すぎず、弱すぎず。球は盤上に短い音を残して弾み、ネットを飛び越えて同じ音を鳴らした。
左側に滑り込んでくるボールに、ひりょはなんとか喰らい付く。ラケットを振り抜いてなんとか打ち返すが、軌道は沙紅良に読まれていた。回り込まれ、ネット際すれすれに打ち返されてしまう。ひりょは顔を歪めながら身を伸ばして返す。
だがこれで詰み。必勝の自信に満ちた沙紅良が、割れそうなほどの強さでボールをひりょのコートへ叩き込んだ。がっくりと肩を落とした彼の足元でボールが軽快に弾む。
「またやられた……なかなか敵わないな……」
大げさに悔しがりながらひりょが弾むボールを拾いに行く。丸まった背中に、沙紅良の短い笑い声が当たる。
「インフィルトレイターは狙いを外しませんの。……ふふ、つい熱中してしまいましたわ」
実際、彼女のショットは正確で、どれだけ警戒、意識しても崩されてしまう。どうすれば勝ち星を上げられるか。ラケットでボールを弾ませていると、
「おー!」
と、元気のいい声が飛び込んできた。
「卓球だー! 俺もやっていいかー?」
ひりょは笑顔で快諾する。そして持っていた道具を差し出し、しかし慎は首を振る。
「あのラケット使うから、ダブルスしよー!」
思わぬ増援を受け、ひりょは沙紅良を見遣る。彼女は表情を強張らせていた。
「2対1、ですか……」
ふと、廊下に人影が窺えた。抱えた箱から饅頭を頬張るその顔に、沙紅良は見覚えがあった。
「五所川原様、こちらへ」
呼ばれて肩をびくつかせ、やがておずおずと合歓がゆっくり寄ってくる。いまいち状況が掴めない彼女に、沙紅良は半ば強引にラケットを握らせた。
「これで2対2、ですね」
「そうだね」
「――え……え……?」
「じゃーいくぞー!」
慎のサービスで試合が始まる。元気よく跳ねてくる橙色を沙紅良が打ち返す。狙いは角、しかし先読みしていたひりょが難なく返してくる。横目でパートナーを見遣るが、未だに事態を把握していない合歓は遠くでもだもだしていた。止む無く打ち返す。
今までのショットに比べればそれは甘かった。したり顔の慎が思いっきり打ち返す。強かに叩き付けられたボールは高い音を立てて沙紅良の肩近くを走り去る。
だが。
「――う、っと……」
カンッ。
合歓が滑り込み、辛うじてボールを返した。オレンジ色は天井すれすれまで上がってからひりょらのテーブルに落ちていく。
「それ取るんですか!?」
「お見事ですわ」
「なんのー、まだまだー!!」
小気味よいラリーの音に相好を崩しながら、楓は廊下を進んでいた。
やがてのれんが見えてくる。奥に深い藍色、手前は優しい紅色。
その少し手前には「ドリンクコーナー」と書かれた看板が下がっていた。何の気なしに覗くと、ラグナ・グラウシード(
ja3538)と若杉 英斗(
ja4230)が黙々と飲み物を口に運んでいた。目つきは険しい。まるで決戦に赴く前の戦士のようだった。
軽く首を傾げてから紅色ののれんをくぐる。浴室からは元気な声が2つ聞こえてきていた。
「あはは、広い広ーい」
ばしゃばしゃ。
「だからって背泳ぎすんなヨー、ガキじゃねーんだからヨー」
カレンに言われ、恵夢はすみません、と呟いて大人しくなった。景色を楽しむでもなく、黙って温泉を堪能していると、沈黙に耐え切れなくなったカレンが恵夢の脇をつついた。
「よーし、ボクが背中を流してやろーぅ」
「あ、ほんと? でも、その手つきは? 手で洗うの?」
「いやいや、ただの準備運動だゼー」
頭の上に疑問符を浮かべたまま恵夢は湯船を上がる。簡素な木の椅子に腰を降ろすと、すぐに背中を擦られた。石鹸を含んだタオルが何度も往復する。優しいようなくすぐったいような感触に、恵夢は仄かな郷愁を覚える。
が。
「おーっと手が滑ったナー!!」
言いながらカレンは意図的にタオルから手を放し、恵夢の胸をむんずと掴んだ。
「ちょ……!」
「いやー、石鹸付け過ぎて滑っちまってヨー?」
「なら手を離して!」
「んー、もうちっとだけ」
「もー!」
楓が大きな鏡をぼんやりと眺めていると、がらがらと引き戸が動き、2人が出てきた。
「牛乳飲もうぜ牛乳!」
「私、フルーツ牛乳がいいなー」
飲んだらまた育つのだろうか。誰にも聞こえないように溜息を落とし、楓は準備を整え、浴場に向かった。
軽く体を流してから、やや温度が高い湯船にゆっくりと脚を入れる。そのまま移動、奥の岩近くに陣取った。ふう、と長く息を吐き、背中を預ける。長期戦の構えだ。
すぐに脱衣場がにぎやかになった。観光していたメンバーや卓球を終えた面々が一斉にやってきたのだ。
先ず入ってきたのは千陰。眼帯の外れた右目は目蓋がぱったりと閉じている。
「お。早いわね、嵯峨野さん」
「ドーモー」
応える楓の目は据わっていた。千陰は体の前に真白いタオルを垂らしているが、その脇からは形の良い胸が窺えた。その癖、腰回りはタオルに隠れ、その下から伸びた太腿には無駄がなかった。
やや遅れて、上半身と頭にタオルを巻いた合歓が入ってくる。入浴前だというのに頬は真っ赤に染まっていた。楓はまじまじと観察する。どんなに隠そうとしても隠れていない胸部、そして触り心地のよさそうな大腿部の主張を受け、彼女は鼻まで湯船に沈んだ。
だが、つづりが入ってくると楓の表情は一変した。体型の小ささ、そして肉の少なさのせいでかなり余ったタオルを大事そうに抱えるつづりに、楓は優しい表情を浮かべる。千陰や合歓を親の仇のように睨んでいたつづりも、その視線に気付いて笑みを取り戻す。そして何も言わず、楓のすぐ隣に腰を降ろした。
「ゆっくりしましょうね、嵯峨野先輩」
「ね。のんびりしょうね。効能とか関係なしに」
「ですね。効能とか関係なしに」
「……強く、生きようね」
「――……ウス」
降ろした髪が浸かるほど、二人は湯の中に沈んだ。
髪を洗い終えた沙紅良が顔を拭うと、隣で体を洗っているエナの姿が鏡に映っていた。一生懸命さに目を細めていると、エナの背に泡がついていないことに気が付く。
「お背中、御流ししましょうか?」
申し出ると、エナはやや戸惑ってから背中を向けた。失礼します。沙紅良は優しく、疲れさえ取れるように、丹念に洗っていく。
二人の遣り取りに気付いたソフィアが椅子ごと寄ってくる。そして許可を取り付けてから、沙紅良の背中にタオルを動かしていく。
「ありがとうございます」
「ううん、せっかくだし。いっぱいのんびりしていこうね」
「そうですわね」
エナが振り向き、タオルを構える。沙紅良は頬を緩め、ソフィアに背中を向けるよう伝えた。
「……っ」
「? どうしたの?」
「……まさか、お嬢様に背中を流していただける日が来るとは……感無量です!」
「そんな大袈裟な」
ラズベリーは苦笑いを浮かべ、目の前で小さく揺れる穂積のうなじを見つめる。
「……お嬢様? どうなさいましたか?」
「大人の色香に当てられて、ね。とっても綺麗だよ。憧れる」
「ななななな何をおっしゃいますか!? お嬢様のほうが何万倍もお美しいです!!」
「お二人とも相変わらずスタイルいいですよねー」
「そんなことは……」
「何かこう、負けた気分になります」
楓やつづりが聞いたら暴動を起こしそうなファティナの発言を、しかし熾弦は苦笑いで誤魔化した。お返し、とばかりにタオルを握る力を少しだけ強くする。ファティナはくすぐったそうな声を上げた。微笑む熾弦の背中は静流が流している。
談笑を弾ませるうちに、そういえば、と熾弦が思い出す。
「?」
突然止まった背中にファティナが小首を傾げる――暇も与えず、熾弦の手がファティナの胸を鷲掴みにした。
「へ?」
もにもに。
「……ふぁ!? あ、え!? ちょ!? な、何して……!」
「いつかのお返しです」
「や、そ……確かに、あの……って、長くありません!?」
「ちょっとしたじゃれ合いじゃないですか」
「ふむ……」
では、と呟き、熾弦の豊満な胸を静流が掴む。
「きゃっ……もう、静流さん……」
「私だけ仲間外れ、というのもね」
目の前の光景と上がる彩色の悲鳴を眺めながら、千陰は首まで温泉に浸った。
そこへ神妙な面持ちの狐珀が寄ってくる。
「千陰殿。彼女らは何をしておるのじゃ?」
「親睦を深めてるんだと思いますよ。狐珀さんも試してみますか? 私のツレに揉み応えあるのが――」
千陰は合歓を探し、辺りを見渡した。しかし合歓は恥ずかしさから隅に隠れており、おいそれと見つからない。それどころかつづりと目が合ってしまい、慌てて目を逸らした。
「表出ろババアッッ!!」
勢いよくつづりが立ち上がる。
「つづりちゃん浸かって! 効能が! せっかくの効能が!!」
水しぶきを上げて暴れる二人に、狐珀はさらに首を傾げる。
「彼女らは何を猛っておるのじゃ?」
「さぁー? いろいろあるんじゃないですかね」
そう。
いろいろあるのだ。
九十七の足は絶えずぱたぱたと湯を蹴っていた。
彼女も例に漏れず、月花の背中を流していた。他の流しっこと違うところはただ一点。九十七の顔が能面のように凍て付いていた、ただ一点だけ。
背中を擦る。振動で、背中から覗く月花の胸が揺れる。擦る。揺れる。擦る。揺れる。揺れるたびに九十七の眉がぴくぴくと震えた。徐々に振れ幅が大きくなり、それに合わせて擦る手にも力が籠る。
「はぅ……。ゆっくりするのは久々ですね」
「……そうですねぃ」
「温泉もいいですが、この山なみもまた癒されますね」
「……山……」
「そういえば、先程宴会の準備が見えたんですけど、大きなメロンがありましたよ。とても美味しそうでした」
「……メロン……」
九十七の鼻が鳴った。温かな湯気に包まれていたはずなのに、月花は不意に寒気を感じる。
「メロンも山脈も、ここにじゅーぶんゴロゴロしてますねぃ――!」
本能の警鐘に従い、月花は席を立ち、距離を取って振り向く。九十七は幽鬼のように佇んでいた。
「……どうしたんですかぃ? まだ途中ですよぃ?
さあ、次は前を流しましょうかねぃ。具体的には……そ の 立 派 な 双 山 を で す の!!」
「(狩られる!!)」
月花は逃げ出し、その一歩目をお湯にとられてしまった。成す術無く前に飛び、体の前面から湯船に激突する。威勢のいい音とド派手な水しぶきが上がり、その中央にぷかり、と力なく浮かんだ。
笑い声。悲鳴。水の音。
脱衣所に入ってくる様々な音に期待を膨らませたまま、ギアは浴場に踏み入れた。
「わぁ……!」
湯気の向こうに広がる山々は、夕日に照らされながらのんびりと風に凪がれていた。息を呑むような景観に見惚れ――そのまま眉をひそめた。
男湯はほぼ無音だった。誰も居ないわけではない。焔、静矢、英斗、慎、雅人、ひりょ、と殆どの旅仲間が湯船に肩まで浸かっている。だが誰も一様に口を閉ざしていた。
戸惑っていた彼に、静矢が言葉を投げる。
「良い景色に良い温泉。風情があるよねぇ。私も見惚れてしまったよ」
「ふ、フンっ。ギア、見惚れてなんかないんだからなっ……」
そっぽを向いてつま先を潜らせる。が、温泉の温度はとても高く、思わず声が漏れてしまう。雅人が短く笑った。
「次第に慣れますよ」
ギアはやはり顔を逸らして湯船に入った。肩まで浸かり、湯で顔を流す。
「合歓ちゃんはっけーん! 揉ませろおりゃー!」
バシャバシャバシャバシャ。
「ふああああああっ!?」
「嵯峨野先輩! 右のはあたしのっ!」
ダッパーンッ。
ここに至ってギアはようやく、賑やかな音が壁の向こう側から届いているのだと気が付いた。同時に、壁にでかでかと書かれた『浪漫』の二文字にも。そして、壁を背にして足を湯に任せたラグナの姿にも。鬼気迫る表情のラグナも気になったが、それよりも『浪漫』が気になったギアは、湯船から上がり、文字の前に進んだ。
「(夢や冒険を意味する言葉が、どうして壁に?)」
ギアが純粋な好奇心から壁に耳を当てると、ラグナが素早く立ち上がり、腕を組んだまま肩に壁を預けた。
「貴様ッ! よもや女湯を覗こうとしているのではあるまいな!?
男子たるもの、やっていいことと悪いことがあるぞッ!!」
「のぞ……?」
きょとん、と目を開くギアに、尚もラグナは熱弁を振るう。重心は壁に預けたままで。
「の……覗こうとする不埒者は、この私が滅ぼそう!
そう、ディバインナイトの名に賭けてッ!!」
力が入り過ぎ、壁がギシ、と鳴いた。慌ててラグナは体勢を正す。彼が何故慌てているのか判らず、ギアは湯船側に顔を向ける。
「この壁の向こうには何があるんだ?」
暫しの間が流れた後、周囲の反応を確かめながらひりょが口を開いた。
「……桃源郷、とか?」
「? 桃がなってるのか?」
短く笑い、雅人が続く。
「そうですね、さぞや豊穣の地でしょうね」
「? ? ?」
ギアの抱えた不安は膨らみ続けた。
誰も答えぬまま、緩やかな時が大人しく過ぎ去ろうとしていた。
その只中で、今、勇者が口を開く。
「みんな、ちょっと聞いてくれ」
凛とした声は波紋のように広がる。誰もが視線を向けた先で、英斗が音も無く立ち上がった。
「今まで黙っていたけど……実は俺、エスパーなんだ」
「なんだと……? それは本当か!?」
目を剥くラグナ。
眉間に深いしわを刻むギア。
両名の間に英斗は進む。
双眸が見つめるのは、
『浪漫』。
「――俺なら、見える……」
「どうしたんだ、のぼせたのか?」
「俺なら見える……見える……見える……ッ」
固唾を呑んで見守るラグナを、小さく湯を投げて焔が呼んだ。
「これは覗きにならないのか?」
「ふ、不可抗力なら仕方あるまい……」
「不可抗力、ね」
腰の横で握られた英斗の拳には血が滲んでいた。
「見える……見える、俺なら……俺なら、見える……!」
見えるはずがない。エスパーなわけがない。自分たちが見えるわけじゃない。
全て理解していても、目を離せない迫力があった。
「――見えるッ!!」
言い切り、見上げる。
壁の天辺に、紺色の空を背にして、女性の姿が見えた。
まさか見えるとは思っていなかった英斗は、喜びと驚きが複雑に混ざった興奮に当てられ、致死量を思わせる鼻血を噴き出してぶっ倒れた。
「まさか……こんなことが……!」
「何を考えているんだ――!?」
「というか本当に何をしてるんだ?」
騒然とする男湯を、
「絶景かなー、絶景かなー」
壁の上から楓が顔だけ出して覗いていた。
「ねえ、なんかこう、ロマンスゥ……とかないのー?」
「「「「戻れえええええええええっ!!」」」」
一斉にお湯を投げかけられ、楓は押し戻し、いや、押し流される。水柱を上げて着水した彼女をつづりが受け止めた。
「大丈夫ですか先輩!? 効能逃げてません!?」
「うん。大丈夫、大丈夫」
「なんか顔赤いよ!? もう上がりましょう、で牛乳でブースト掛けましょう!!」
「やーっぱりそういうことだったのねー」
千陰が生暖かい瞳でつづりを見遣る。
「長湯は逆効果よー? あと、適度な運動も忘れないようにね。やり過ぎると逆に『減る』わよ」
「ババア……!!」
つづりの眼光を千陰は黙殺。女生徒らが次々と浴場を後にする中、未だに肩まで浸かっている。
「ふむ。のぼせ、とは違うようじゃが、大事を取って一度上がるか?」
「うへへ……」
幸せそうに項垂れる楓の背を抑え、狐珀とつづりが湯船から上がる。
その直後だった。
「……いかん。早く離れるのじゃ!」
「え?」
「くっ……うおおっ!!」
ブルブルブルブルブルブルブルブルッ!!
まるで洗車機のブラシのように身体を震わせ、狐珀が全身の水気を飛ばす。傍らにいた楓、つづりは直撃を受け転倒する。
「……すまぬ。大丈夫か、二人とも?」
「あはは……新鮮な体験でしたー……」
楓はころころと笑う。対してつづりは、突っ伏したまま、こちらを指さして笑っている千陰を強く睨んでいた。
恭弥が廊下を歩いていると、ビンの牛乳を嗜みながらニヤついているつづりの姿が見えた。
「ウス」
「おう」
「これから?」
「ああ」
「ふーーん」
ごゆっくり。笑みの質を変えず、つづりは去っていく。短く見送ってから、恭弥は歩みを進めた。
やがてのれんが見えてくる。奥に優しい紅色、手前は深い藍色。やけに届くドライヤーの音に僅かな疑念を抱きつつ藍色ののれん――手前側の脱衣場に踏み入る。それは同時に、つづりの策略が成功したことを意味した。
脱衣場には、鏡の前で全身の毛を乾かす狐珀と、
「……」
「……」
今まさに、黒い下着のホックを止めようとしている千陰の姿があった。
「……」
「……」
「……ぁぇ?」
「悪い」
恭弥がのれんの向こうに消える。
「? どうしたのじゃ?」
狐珀がどれだけ名前を呼んでも、千陰は暫く、顔を真っ赤にしたまま指一つ動かさず硬直していた。
●宴
「いやーいいことした後は気分がイイネッ!!
ってことで、最後まで楽しんでいこうぜー!! かんぱーい!!」
かんぱーい!
つづりの音頭で宴会が始まる。グラスがぶつかる音は暫く続いた。それぞれの前、長いテーブルには、ぐつぐつと煮立ったすき焼き、舟の形をした器に盛られた刺身、山盛りの唐揚げ、枝豆、そしてメロンが所狭しと並んでいた。
手当たり次第に箸を伸ばしていく。味の染みた牛肉も、色とりどりの刺身も分厚い。唐揚げを齧ると肉汁がこれでもかと溢れ出た。
「う……」
賑やかさに英斗が目を覚ます。顔にはのんびりと風が当たっていた。
「……小日向さん?」
まだ頬を赤らめていた千陰が目を向ける。そのアングルで、英斗はようやく、自分が彼女の腿を枕にしていることに気が付いた。
「温泉で倒れてたんですって。気分はどう?」
「この世の春が来ました」
「錯乱してる? お薬貰ってきましょうか?」
「あ、だ、大丈夫です! ありがとうございました!!」
起き上がり、これでもかと頭を下げ、英斗は立ち去る。血眼になってラグナを探し出し、背中を叩きながら隣に腰を降ろした。
彼と入れ違い、千陰の隣に静流がやってくる。勧められたオレンジジュースを受け、二人は小さくグラスを重ねた。
「こうして顔を合わせるのは何ヶ月ぶりだろう」
「8月末の、国道の作戦以来かな」
「かなり間が開いてしまったね」
「仕方ないわよ。各地でいろいろ頑張ってるみたいだし。いつもお疲れ様」
「小日向君の方も、いろいろあったみたいだけど」
「私のは一応片付いたから。ほら」
千陰の視線の先では、エナと合歓が手当たり次第に夕食を口に運んでいた。少し離れたところではつづりが他の生徒に紛れてしきりに手を叩いている。
「よーし! 一番、緋野慎! どじょうすくいやりまーす!!」
聞き覚えのある声に目を向け、静流が穏やかに微笑む。
「手ぬぐいまで準備しているとは、本格的だね。あのザルは……私物かな」
「あ、割り箸までやるのね」
「せっかくだし、記録しておこうか。それでは失礼するよ」
カメラを握り、静流は席を立つ。大いに沸いている即席のステージに、一度短くフラッシュが焚かれた。
「それじゃあ九十七ちゃんも何かやりますかねぃ。そこなお二人、こちらへですの」
呼ばれ、頭に疑問符を浮かべたまま、楓とつづりが彼女の隣に並ぶ。そして短く打ち合わせを済ませると、また脇の二人の腹が決まらぬうちに、九十七が号令をかけた。
「え、ちょっ!」
「やだよ、あたしやらないからね!?」
「二番、十八九十七以下二名! 反りますの!!」
「そおいっ!」
「もおおおおおおおっ!!」
ぐいぐいぐいっっっ。
ウオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
「何してるのかしら」
千陰が刺身を口に運んだところで、メフィス・ロットハール(
ja7041)とアスハ・ロットハール(
ja8432)がやって来る。手に瓶ビールを持っていた。
「お疲れ様。どう、一杯?」
「ごめんなさい、私酒乱なの」
「では、烏龍茶で、いい、か?」
微笑んでアスハの酌を受ける。自身のコップに同じものを、妻のグラスにビールを注ぎ、三つのガラスを鳴らした。
「二人とも、昼間はどこにいたの?」
「ちょっと足を伸ばして展望台まで。ね、アスハ?」
「ああ。海が、綺麗だった、な」
「なるほど。温泉はこれから?」
「ええ」
「いいお湯だったわよ。ゆっくり楽しんできてね」
「ああ、そう、いえば」
アスハが浴衣の袖から取り出したのは、今年の一月、大勢で訪れた初詣の写真。受け取り、千陰は目を細める。
「三番! この私、ラグナ・グラウシードが、騎士道とはなんたるかを小一時間ほど――」
いやいやいやいやいやいやいやいやいや。
「よく撮れてるわね。……ふふっ。二人して同じマフラーしちゃって。羨ましいったら……」
悪戯っぽく千陰が目を向けると、メフィスはグラスを持ったまま目を閉じ、舟を漕いでいた。すかさずアスハは彼女の肩を持ち、座布団を枕に見立てて横にさせる。
「楽しさで、酒がすすんだ、ようだ」
「大丈夫?」
「なに、すぐ、起きる」
空いたグラスに烏龍茶を注ぐ。千陰は微笑んで小さく頭を下げた。
「相思相愛、ってやつね。ホント、羨ましいわ」
「まあ、確かに……む、これは、惚気になってしまう、な」
「聴いてあげてもいいけど? なんて。大切な奥さん、あんまり心配させちゃダメよ?」
「よく、言われる、な。だが、なかなか、変われる、ものでも、なくて、な」
「変わる必要はないと思うわよ。意識すればそれでいいと思うの」
ぐい、と煽る千陰。
「四番! 若杉英斗! 司書さんのふとももの感触を400字以内で的確に述べます!!」
ドオオオオオオオオオオオオオオオッ!!
そして顔を真っ赤にすると、嬉々として語る英斗目掛けてコップをぶん投げた。
●
宴が終わるころには、すっかり夜も深まっていた。
騒がしかった旅館にも、次第に静けさが広がっていく。
満天の星空に見下ろされながら、焔は指を動かしていた。綴るのは思い出。少しでも旅の様子が伝われば、と心を砕いて文字にする。
次は二人で、のんびりと。
そう認め、送信。携帯を仕舞い、特別な者への特別な土産を買う為、腰を上げた。
日が暮れると、山々はまた別の表情を見せていた。
静矢はのんびりと散策を楽しんでいた。手に下げた袋には木彫りのペンギンが入っている。たくさん並ぶ中から最も表情が愛らしいものを探し出したのだ。共に来ることができなかった者の為に。
辺りを見渡す。どこからも襲われる心配がなく、誰も守らなくてよい夜。風に鳴る葉の音も、今日だけは優しい。
「いつか、こういう平穏な日々が日常になるといいな……」
決して長くないその散歩道を、静矢は一歩ずつ、確かめるようにして進んでいく。
「あれ? アスハー?」
『浪漫』と書かれた壁の向こうから呼ばれ、アスハは声を投げ返す。
「私の愛用の石鹸、そっちに紛れてなかった?」
言われて見れば、桶の中には確かに彼女の石鹸が仕舞われていた。
「スマン、渡すつもり、だったのだが。今、投げる」
「よろしくー」
声から凡その位置を割り出し、大きく山なりに投げる。それが壁の向こうに消えてから、ナイスパス、とメフィスの声が聞こえた。
「もしかして、使ったりした?」
「いや、自分用、の、ものを、使った、な」
「あっそ。ねえ、使ってみる?」
「いや、僕、は……」
「いいからいいから。ほら、投げるわよ」
言うが早いか、掛け声を上げてメフィスが投げる。アスハはなんとか受け取り――眉を寄せた。
手には桃色の包装が施された縦長のケース。今しがた自分が投げたものではなかった。開けてみてよ、という妻の声に従うと、中にはシルバーの細工が施されたチェーンネックレスが入っていた。
「? ……これ、は?」
「もうすぐ誕生日でしょう?」
「……!」
「使ってみてよ。ね?」
「……アリ、ガトウ」
やがて入浴を終え、脱衣所を出たところで合流する。湯に浸かり、全身をほんのりと赤らめた愛妻の姿に、アスハは頬を染めた。
「なによ、見惚れちゃった?」
「……ああ。湯上りのキミは危険、だな」
メフィスは、まるで子供のような笑みを浮かべてアスハの腕に抱き付いた。
彼の首元に輝くシルバーが繊細な音を立てて揺れる。
旅館から少し離れた休憩所のベンチに穂積は掛けていた。膝の上には銀色の髪が横たわっている。手はその者の手を確かに握っていた。
「夜風が気持ちいいですね」
「うん、そうだね」
ラズベリーは目を細め、小さく体を動かす。
「楽しかったですね」
「うん……」
でも、と続け、手に少しだけ力を込める。
「僕は、君との時間が一番楽しいな」
呟き、笑った。
「一緒が、いいな……ずっと……」
言い、瞳を閉じる。聞こえてきた寝息に目じりを下げ、穂積は銀髪を撫でた。
「私もですよ、お嬢様」
「やっぱりここか」
声に振り向くと、浴衣に身を包んだ恭弥が佇んでいた。千陰は喫煙所の灰皿に煙草を押し込み、意味ありげな笑みを向ける。
「アー、覗キ魔ダー」
「事故だ」
「うん、参が白状したわ。さっきまで関節技かけてた」
「俺も呼べよ、当事者だ」
「でも容赦しないでしょ?」
「当然だな」
短く笑い合う。
「ちょっと散歩でも行かね?」
恭弥の提案を千陰は快諾。二人は微妙な距離感のまま並んで夜道を歩いていく。
「なんだかんだで、長い付き合いよね」
「初めは、あれだ。朝一でヴァニタスと戦った時だな」
「帰りの牛丼が胃に沁みたわー。でも一番思い出深いのは、やっぱりお見合いの時かな」
「ああ、あったな」
「夜のノリで白状すると、めちゃめちゃドキドキしてたのよ。意外でしょ」
「いや、顔に出てたぞ」
「……あっそ」
林を抜けると、開けた場所に出た。旅館を一望できるような、小高い丘の上。空には星が瞬き、光の届かぬ場所が見当たらない。
暫し肩を並べ、言葉も忘れて見入っていた。ついでに時間も忘れてしまう。それほどの星空だった。
やがて千陰が息を吸い込んだ。小さな悲鳴と同時に鼻を鳴らす。
「冷えたか」
「少しね」
そろそろ戻りましょうか。
口から出かかった言葉は、しかし喉に戻っていく。背後から優しく抱き締められてしまったからだ。
「これで温かい」
「……熱いくらい、なんだけど……てか、何よ、突然……」
「わかんね。間違えて酒飲んだかも」
「いけないんだー。あとで説教ね」
未成年者には一滴もアルコールが振る舞われなかったことをここに追記しておく。
どちらも動かないし、拒まないので、そのままで。
「……ありがとね」
「何が?」
「いろいろ、たくさん。ありがとう」
流れ星も無く、有名な星座も見つけられない星空を、二人は暫く、ぼんやりと眺めていた。
●解散
大型バスは久遠ヶ原学園の正門前に停車した。それぞれが荷物や土産を手に降りていく。最後につづりを背負った合歓が降り、その後ろで千陰が運転手に頭を下げた。
「湯冶に行って体を痛めて帰ってくるツインテールがいるらしい」
「誰の所為だよゴリラババアッ!!」
「――あ……暴れ、ないで……」
小さな頭を撫でて抜き去り、談笑するあなたたちに向けてパンパン、と手を叩く。
「おかえりなさい。みんな、日ごろの疲れは取れた?
また忙しい日が始まるけど、怪我のないように励んでね!
それじゃ、お疲れ様でした!!」
お疲れ様でしたー!
朗らかな声が青空に吸い込まれていく。
方々に散らばっていく生徒らを見送って、千陰は傍らの二人を見遣る。
「あんたたちは、楽しかった?」
「――……うん!」
「楽しかったよ! 身体が痛むけどね!!」
「それは何より。
さ、帰るわよ。あとは家でゴロゴロしましょ」
こうして、突然の温泉旅行はその幕を閉じた。
疲れを癒した皆々は、広大な学園でのドタバタとした日常に、嬉々として戻っていく。