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「ふうううー! あうー……んふー!」
少女は一向に泣き止む気配を見せない。ぼろぼろと大粒の涙を零し続けていた。
彼女の前で牧野穂鳥(
ja2029)が膝を折る。優しく頭を撫で、水浸しの顔にハンカチをそっとあてた。
「泣かないで。でぃらんもまーちゃんも、すぐに戻ってきますから」
少女は何度も頷くと、ハンカチを両手で持って洟をかんだ。
固まる穂鳥に神棟星嵐(
ja1019)が中腰で並ぶ。
「でぃらんについて、詳しく教えてもらえませんか?」
「ふぐっ……うっ……ずびっ……かっこいい」
「恣意的だなー……」
後方で携帯を操作する三崎悠(
ja1878)が苦笑して呟く。
「……では、まーちゃんは、どういう子ですか?」
星嵐が問うと、少女は顔を上げた。
「えっとねこのくらいのクマさんのぬいぐるみで、おめめがおっきくて、あおいブレザーをママがきせてくれて、おっきなリボンはわたしがつけたんだよ。すっごくかわいいの!」
「嫉妬に因る犯行、と」
ぱたん、と携帯を閉じて幽樂來鬼(
ja7445)が言った。
肩を落とした星嵐と穂鳥が皆と合流する。
「情報は以上のようです」
銘々が見守る中、鳳優希(
ja3762)がスマートフォンを高々と掲げた。
「よーっし! みんなの番号登録できたぁー!!」
「これで情報網は万全、ですかね」
「んじゃ、さっそく出発だゆー!」
「うちらは食堂のほう見回ってくるおー!」
言うが早いか、來鬼と優希はぶんぶんと手を振りながら駆けて行った。
「牧野先輩、僕たちも」
「はい。校舎裏を回ってみましょう」
悠と穂鳥も星嵐に会釈してから出発した。
「では雫(
ja1894)殿、自分たちも……?」
星嵐が振り返った先、つい先ほどまで雫がいた位置には青々しい芝生が広がっていた。
「こっちです」
言われて振り向いた先で、雫は少女の頭をぽむぽむと撫でていた。少女は尚も花柄のハンカチで顔を覆って嗚咽を漏らしている。
「先生。この子、一緒に連れて行ってもいい?」
「いいわよー」
職員は校門に寄りかかって腰を芝生に降ろしていた。
「絶対に目を離さないでね。ここは私が見張っておいてあげるわ」
「ありがとう。
だって。行きましょ? ママには黙っていてあげる」
「ばぁい……」
星嵐の口元が綻ぶ。
「ようこそ、久遠ヶ原学園へ。
少し急ぎますよ。ある意味、自分たちの役割が最重要ですからね」
●悠・穂鳥サイド
「どの辺りを探します?」
「しらみつぶし、と行きたいところですが、広いですからね……」
言いながら二人は猫の気配を懸命に探る。穏やかな風に揺れただけの茂みもかき分けて目視で確認し、白いものを見かければ凝視した。行き交う生徒らには話を聞いて回った。
だが有力な情報は手に入らないまま、時間ばかりが過ぎて行く。
穂鳥が空を仰いだ。
「……暑いですね」
ポケットを探る彼女に、
「暦の上では直に夏ですからね」
悠がきちんと折り畳まれたハンカチを差し出す。
「……すいません、洗濯してお返しします」
「気にしないでください。困ったときはお互い様ですから」
訪れそうになった沈黙を、さて、と悠が追い払った。
「駐車場の方も回ってみましょうか。車の下で涼んでいるかも知れません」
「はい、判りま……」
穂鳥の携帯が震える。
発信者の欄には『幽樂 來鬼』の文字が踊っていた。
●時間はやや遡り、星嵐・雫サイド
雫と少女を連れた星嵐は、職員に連れられて放送室を訪れていた。広大な学び舎だ、探す目は多い方がいい。
職員から説明を受け終えると、星嵐は咳を払ってチャイムを押した。
ぴーんぽーんぱーんぽーーーーん
「久遠ヶ原学園の皆さん、こんにちは。大学部1年の神棟星嵐と申します。この度、皆さんに折り入ってお願いしたいことがあり、放送室をお借りしています」
テーブルについた手のひらには汗が滲んだ。
「今、学園内に猫が迷い込んでいます。名前はでぃらん。毛並みは白く、眼は青色です。もしでぃらんを見かけたら、私の携帯に連絡をください。番号は――」
窓の外や壁の向こうがざわついているのが伝わる。
「また、飼い主の女の子が大切にしているクマのぬいぐるみ、まーちゃんを探しています。でぃらんとまーちゃん、いずれかでも結構ですので、情報を頂けたら幸いです」
懸命に学園へ訴える彼の後方で、雫は少女の背中を撫で続けていた。少女は泣き止んでいたが、場所と雰囲気に緊張し、もじもじと指をいじっていた。
彼女たちの後ろ、放送室の扉がノックされる。
雫が扉を開けると、中等部の男子が怪訝そうな表情をして立っていた。
「それっぽいのなら、食堂の窓から見えたよ」
「そう。ありがとう」
言いながら携帯を操作する雫。
いえいえどういたしましてと言って、男子は腕を組んで首を捻った。
「……あれ、猫だったよな……?」
●優希・來鬼サイド
携帯を閉じ、來鬼はため息をついた。
「こっちで見たって情報が入ったお」
「じゃあ、やっぱアレがでぃらん……なんゆか?」
二人は茂みからこっそり顔を出した。
数メートル前方、木陰の下で白いものが丸まっていた。
尾と耳は確かに猫っぽい。お尻の下から覗いている茶色い毛玉はまーちゃんだろう。
にも関わらず、猫、と断定するに至らなかったのは――
「12ロール入りのトイレットペーパーくらいあゆ」
「いやいや、14インチのブラウン管くらいあるお」
猫、と形容するには余りに過ぎた巨躯故だった。市販のケージなど一瞬で底が抜ける、以前に、まず頭が入るまい。たぷん、と垂れた腹の肉を鑑みるに、一人で持ち運ぶことはまず不可能だろう。
「だからって、指咥えて見てられないよねぃ」
「お、策があるのね?」
「もち。猫には……ねこじゃらし!!」
ねこじゃらし。学名エノコログサ。
イネ科エノコログサ属の植物で、一年生草木である。花穂が犬の尾のように見えることから名前がついた。漢字では狗尾草。猫の視界で振ると猫がじゃれてくることからねこじゃらしと呼ばれる。
花穂をつける時期は、夏から秋にかけて。
「生えてないお」
「がっでむ!」
優希は芝生に拳を叩き付け、だがすぐに不敵な笑みを浮かべた。
「でぃらん、中々の手練れと見たゆ。希をここまで追い詰めるとは!」
「窮地に立つのが早いとは思ったけど、その様子だと奥の手があるお?」
「もちろんだゆ!」
言って雪が取り出したのは、丸まったティッシュに糸がついた物体。
「おー。いいね、投擲武器」
「てるてる坊主だゆ! こんなことと来たるべき梅雨に備えて携帯してるんだゆ!」
「なんと数奇な運命。同情するお、坊主」
「今こそ輝け坊主! ていっ!」
掛け声と同時、優希がてるてる坊主を放り投げる。坊主はでぃらんの手前の芝生に、そすっ、と落ちた。
でぃらんが振り向く。顔の中央で蒼い双眸がぎろりと動いた。
「うりゃうりゃ、どうじゃー」
芝生の上でもそもそと服を振るてるてる坊主を、でぃらんは太い尾で叩き潰した。
「坊主……!」
息を呑んた優希が急いで糸を手繰り寄せる。
「よかった、命に別状はないゆ」
「これで梅雨も安心だけど2連敗だお。どうする?」
「まだ希には奥義が残っているんだゆ!」
「奥の手以外に奥義を持っているとは……」
「じゃーん!」
優希はラップで包まれた茶色い丸を取り出した。
「その、中央にまぶされた白ごまは、まさか!」
「やっぱりこういうときはアンパンだよねー」
「その発想は本当になかったお。でもいいや、GO!」
「おう!」
優希がラップを剥く。
でぃらんの耳が動き、短い脚が伸びる。
來鬼は腰を浮かせた。
「てぇいっ!」
放物線を描き、アンパンが青空の中を飛んでいく。
でぃらんは踵を返し、全身を揺らして疾走してくる。
「優希ちゃんはあっち!」
叫んで來鬼が飛び出す。その下を優希が駆け抜ける。
地を鳴らしてでぃらんが跳躍、猫らしく体をしならせ、ぜい肉をなびかせてアンパンを口で捕らえた。
そこへ、
「はあああああああああああっ!」
來鬼が両腕を広げて飛び掛かる。タイミング、角度、距離、すべて完璧な会心の一手だった。
でぃらんは彼女を見下ろして睨み――そのまま落下した。
「んふっ!」
着弾点は來鬼の顔面。そしてあろうことか、彼女を連れて着地した。
ふにふにしたぽんぽんに圧されて、來鬼は芝生に後頭部を強かに打ち付ける。
目から星を出してのたうつ彼女を一瞥し、でぃらんは元いた木陰を振り返った。
そこでは、
「んっふっふ……」
まーちゃんを抱えた優希が不敵に笑っていた。
「お前の敗因はただ一つ、腹を空かしていたことゆ!」
頭をさすりながら來鬼が起き上がる。
「いったたた……。ほら、それあげるから、うちらと一緒においで」
そっと手を伸ばす。
「あの子も待ってるお?」
その一言にでぃらんが反応した。彼は目を見開くと、おあー、と鳴いて短い手を振り抜いた。
熱を感じ、手を引っ込める來鬼に後ろ足で砂をかけ、でぃらんは猛スピードで走り去った。
「だ、大丈夫ですゆー?」
「ん、ちょっと引っかかれただけだお」
指を舐めながら來鬼が携帯を取り出す。
「とにかく、報告するお」
「あー! 希も報告すゆー!」
「あはは、じゃ一緒に報告しようね。あ、出た。行くよ? せーのっ!」
●再び悠・穂鳥サイド
「「まーちゃん、とったどー!」」
穂鳥は反射的に、携帯を持つ手を目いっぱい突っ張った。
「……ハンズフリー設定でしたか?」
「いいえ。ちなみに受信音量も最小です」
にも関わらず、携帯からはキャッキャとはしゃぐ声が鮮明に聞こえてくる。それが落ち着く頃合いを見計らって、穂鳥は恐る恐る顔を寄せた。
「それで、でぃらんは?」
「校舎の裏側に走って行ったおー」
「判りました。新しく判明した特徴などはありますか?」
「でっかいゆ!」
「……抽象的な情報、感謝します」
肩を落とす穂鳥の視界で、いや、と悠が表情を曇らせた。
「充分な情報かも知れません」
彼が指さした先に、地を鳴らし、土煙と芝生を巻き上げて駆けてくる白い物体がいた。
「確認しました。切りますね」
「あれが、猫? 業務用の掃除機くらいありませんか?」
「小型の天魔があのくらいのサイズですが」
おあー、とでぃらんの喉が鳴る。
「あの間抜けな鳴き声は、猫で間違いありませんね」
「思ってたのとだいぶ違うなあ……」
ぼやいて悠が前に出た。腰を落とし、両腕を広げて捕獲に備える。
彼の瞳が茶色い円を捕らえた。
「(あれは……)」
でぃらんは首を振ってアンパンを前に投げると、次の挙動でアンパンを丸呑みにした。
「喉に詰まっちゃう、よ!」
機を見て悠が走る。とても抱えられるサイズではない、が、なんとかしがみつこうと腕を振った。
が、でぃらんはそれをぶるんと回避し、彼の股を潜って逃げ果せた。
「くっ……」
距離があり、穂鳥は手が出せない。
体勢を立て直し、即座に駆け出す悠。猛追するが、伸ばした手は空を掠めた。
でぃらんは振り向きもせず走る。その先は雑木林だ。
「させません」
穂鳥はでぃらんに背を向け、両手を地面に翳した。
「何を……まさか!」
「フォロー、お願いしますね」
言葉尻は、放たれた炎の爆音に掻き消えた。
地面とほぼ平行に穂鳥が吹き飛ぶ。彼女は暫く滑空し、着地に合わせて受け身を取り、二度後転して立ち上がった。
その眼前では、急ブレーキをかけたでぃらんが目を見開いていた。
「うん、いい子。さ、おいで?」
髪を乱し、上目使いで近寄る穂鳥。
でぃらんは威嚇して踵を返した。進行方向には職員用の裏口が門を開いている。
「でぃらん!」
名前を叫び、悠がアンパンを放り投げた。
でぃらんは短く鳴き、進路を直角に変え、アンパンに飛びついた。距離があり、スピードも出ていたので地面に落としてしまったが、彼はそれを前足と口で捕まえ、丸呑みにした。
顔を上げる。
物言わぬ校舎が影を落としていた。
振り返る。
悠と、携帯を取り出した穂鳥が彼を取り囲んでいた。
「お腹空いてるんでしょ? 帰ろう?」
それでもでぃらんは牙を見せつけ、校舎の中へ駆け込んだ。
薄暗い廊下に爪を滑らせながら進む。途中で何度も転びそうになった。だが彼は止まることなく懸命に駆けた。
やがて、開けた場所に出た。
四方を学び舎に囲まれ、中央に小さな噴水を湛えた、中庭だった。
「袋の猫、かな」
来た道から悠と穂鳥が姿を現し、通路を封鎖した。
あらゆる窓は有志によって閉められ、施錠されている。放送を聞いた生徒らが、少しでもできることをと探し、実行した結果だった。
だが、でぃらんは諦めなかった。悠らが立ちはだかるのは南側の通路のみ。彼は勢い良く、その時はまだ無人だった東の通路を目指した。
が。
「やっ。久しぶり」
到着した來鬼がそこを封鎖した。巨体が災いし、すり抜けるのはまず不可能だ。
彼は振り返り西の通路を目指す。しかし、
「こっちも通行止めだゆー」
そこには既に優希が立ち塞がっていた。
忌々しそうにでぃらんが北の通路に目を向ける。
星嵐が暗がりから音もなく現れた。
「情報網が活きましたね」
穂鳥がほっと息を打つ。
「ぎりぎりでしたけどね。お二人も、よく間に合ってくれました」
優希と來鬼は同時に親指を立てて見せた。
星嵐の陰から、雫に付き添われた少女が現れ、中庭に踏み込んだ。少女は胸の前で手を組み、俯いてしまっている。
彼女の両肩を、雫が後ろからそっと支えた。
「……か」
呼吸に混じる程度だった声を、思いを、少女は懸命に絞り出した。
「でぃらんのばか……! しんぱいしたんだから! すっごくすっごくしんぱいしたんだから!」
それだけ叫ぶと、少女は座り込み、声を張り上げて泣き出した。
でぃらんはバツが悪そうに周囲を見渡した。道を塞ぐ面々は誰も柔らかく微笑み、校舎の窓から様子を窺う生徒らは固唾を呑んで見守っている。
彼が少女に顔を向ける。
視線が背後の雫と合うと、ぉぁっ、と短く鳴いて、少女の胸に飛び込んだ。
「(また怖がられた……)」
人知れず落ち込む雫の上で、でぃらんが少女の涙を舐め取る。
「ばかー……! でぃらんのばかー!!」
少女の叫びは、校舎から轟く喝采の陰に隠れた。
涙は暫く止まることはなかった。
●エピローグ
見送りの為、皆は正門に集っていた。
「はい」
穂鳥がまーちゃんを差し出す。所々ほつれていたが、彼女の修繕で元通りになっていた。
「あ、ありがと……」
少女は頬を真っ赤に染めていた。
「あ、あのね? またきてもいーい?」
雫が彼女の前にしゃがみ込む。
「もちろん。また三人で、いつでも遊びに来てね」
少女は驚いた表情を浮かべ、すぐに、
「……うん!」
満面の笑みを浮かべた。
名残惜しそうにはしなかった。また会ってくれると言ってもらえたから。
少女はでぃらんにまたがると、元気よく帰路についた。
姿が見えなくなるまで見送る面々に、少女は何度も振り返り、取れそうなくらい元気に手を振った。