●
小日向千陰(jz0100)がバケツに水を汲んで戻ってくると、図書館の前には人垣ができていた。その中には、呼び出した三ツ矢つづり(jz0156)と五所川原合歓(jz0157)の姿もあった。
まさか。いや、しかし。
「……何してるの?」
千陰が投げた声を拾い、数名が振り返る。
「ちーかさーん! お疲れ様ですー!」
手を振りながら亀山淳紅(
ja2261)が駆け寄ってくる。傍らにはRehni Nam(
ja5283)。
「こんにちは、チカゲさん。まさか図書館掃除の依頼が出るとは思わなかったのです……」
バケツがごとん、と芝生に落ち、冷水が千陰の脚を濡らした。
だが彼女は全く動じることなく――否、動じてはいたが、冷たさの所為ではなかった。
「……『依頼』……?」
Rehniはニコリと頷く。
「斡旋所に行ったら貼り出されていたですよ」
「いやー、報酬まで出してくれるなんて、おおきにー、ちか――」
「参(さあああああああん)ッッッ!!」
「そんな大声出さなくても聞こえてるよ」
参――つづりは千陰の腰を軽く叩いた。
「どうよ。1時間足らずでこんだけ人が集まったよ」
千陰は振り返り、つづりのツインテールをむんずと掴んで顔を寄せた。
「依頼にしたのは千歩譲って許す。人手が多いのはいいことだわ。
……『報酬』って何? 報酬ありで申請したの!?」
「痛い痛い! ちょっとだけだってば!!」
「亀山君?」
「並でしたよー」
ぎりぎりぎりぎり。
「と、取れる、ホントに取れるって!」
「あんた……自分が何したか判ってるの!?」
「だって伍(ウー)が! ボーナス出るから大丈夫って!」
「あンの……くっ、気配がない!」
●
入り口を開け放つと埃が舞い上がり、差し込む日差しに煌めいて揺れた。
「小日向さん……掃除苦手なんですね」
惨状を目の当たりにし、呆然と呟くマキナ(
ja7016)。彼の横で神喰茜(
ja0200)が苦笑して髪を纏めた。
「いろいろあったからね。片付ける暇なんてなかったんじゃないかなー」
「にしたって……なあ?」
げんなりと肩を落とす赤坂白秋(
ja7030)。
彼の陰から覗いた雫(
ja1894)が口元を抑えて眉を寄せる。
「酷い汚れと言うよりは、荒廃に近い様な気がします」
次々に図書館へ足を踏み入れ、そのいずれの表情も曇った。
元の姿が想像できぬほどに荒れ、汚れた現状に、誰も戸惑いを隠せない。
中2階からこっそり合歓が見渡す。
「――……終わる、かな……」
呟く彼女の耳に物音が入ってきた。小さいが、絶え間なく続いている。
なんだろう、と合歓が覗くと、最上憐(
jb1522)が残像を生む速さで本棚最下段の整頓をしていた。
合歓に気付き、憐は一瞬視線を飛ばし、すぐ作業に戻る。
「――……掃除、手伝って、くれる……の……?」
短く頷く。
「……ん。全力で。本気で。頑張る」
「――……あり、がと……」
「……ん。だって。だって。聞いた」
膝を抱えて屈む合歓と、彼女に熱弁を振るう憐。
2人の遣り取りは、中2階に上った影野恭弥(
ja0018)にも届いていた。
一方、下のフロア。
両腕を高らかと掲げ、夏木夕乃(
ja9092)がはつらつとした声を上げる。
「千陰姐さんの血と汗と涙のボーナスを頂くんす、全力でやらねば!!」
「「その通り!」」
彼女の両サイドにそれぞれが立つ。
右にはアーレイ・バーグ(
ja0276)。彼女はメイド服をきっちりと着こなし、殺人的な胸の下で腕を組んでいた。
左にはジャージにフリルエプロン、そしてウサミミカチューシャを乗せた、宛ら天女のような阿東照子(
jb1121)。御年80。
櫟諏訪(
ja1215)が図書館の外で息を呑む。
「凄まじいコントラストですよー?」
「そう? 心強い戦力じゃない」
並んだ千陰がタオルで汗を拭く。遥か後方で、頭を抱えたつづりが芝生に転がって震えていた。諏訪はそっと館内に視線を戻す。
「主に男性陣のテンションが迷子になってますよー?」
「なによ、だらしないわね」
「男子のせいですかねー?」
千陰はニヤリと笑う。
彼女には秘策があった。彼らがここに来た動機と財布の中身、預金残高を鑑み、会心の一手を閃いていた。
「頑張った人の報酬には、ちょっとイロを――」
言いながら足を出し――
「司書」
中2階の手すりに上体を乗せ、恭弥が声を落とす。
「終わったら鍋振る舞ってくれるのか?」
――入り口の段差に躓いて前に倒れ、鼻を強打した。
「鍋……?」
夕乃が耳を疑い、
「鍋……!」
白秋が目を見開き、
「終わったらお鍋なんですか?」
雪成藤花(
ja0292)が念を押し、声を揃えた。
「「「報酬の他に!?」」」
千陰は立ち上がれない。
意識はあった。体力も残っていた。だが気力が根こそぎ削げ落ちていた。
「――鍋、って……ほんと……?」
「……ん。間違いなく。絶対に。言ってた」
「あの様子じゃ本当だろ。とっとと片付けるぞ」
震えてすすり泣く千陰。その肩に、ナナシ(
jb3008)がぽん、と手を置いた。
「うん、せめて報酬以上に働かせてもらうわ」
「……ありがと……」
千陰は顔をタオルで覆ったまま振り向いた。
●
「っと……よし、置くぞ」
言ってレガロ・アルモニア(
jb1616)は、運び出した大机を芝生の上、ナナシの近くに降ろした。彼女は短く礼を告げると、カウンターの奥で丸められていた模造紙を広げ、簡単な間取り図をマジックで描いていく。
「本棚は……こんな配置だったかしら?」
「ここにもう一つ島があったな」
レガロの指摘を受けて四角を増やす。
「本を虫干ししている間に、天井・本棚・窓・床の順で掃除すれば無駄がないわ」
「島ごとにアルファベットを、本棚に番号を振ろう。そうすれば知識がなくても管理できる」
御影蓮也(
ja0709)の提案に頷き、ナナシは島ごとにAから順に振り、更に数字を振り分ける。
「これでいいかしら」
「完璧だ。マジック借りるぞ」
言って蓮也は大きな台車を引いて図書館の前へ移動する。レガロも続き、大声で本の搬出を呼びかけた。面々はそれぞれに、埃だらけの本を両腕に抱えて運び出してゆく。
その3秒後。
「飽きたアアアアッ!」
台車の上に数冊を降ろし、白秋は腹の底から叫んだ。
「終わんねえんだけどー!? 何、この無間地獄!? この間の天使より強くね!?」
どさり、と芝生に腰を降ろす。
ひらり、とフリフリエプロンが舞い、竹刀が現れた。
猛然と駆けるその姿はまるで80という年月を感じさせない。飢えた獅子のように奔り、爬虫類が獲物を捕獲する時のそれのように、竹刀を袈裟懸けに振り降ろした。
乾いた音が余韻を引き連れて鳴り渡る。
「何サボってんだこのやろー!」
照子が言い放つ。白秋は背中を抑えたまま芝生に寝転がり、ぷるぷると震えた。
「おま……それ、魔具……」
「未強化だよ!」
蓮也が眺めている間に桐原雅(
ja1822)が精力的に働き、台車は満杯になった。
「これでA−1は全部だよ」
「ん、了解」
軽く手を挙げ、蓮也は台車を引く。
向かった先は図書館の裏手。風通しが良く、木陰が日光を濾している。虫干しには絶好の空間だ。
ブルーシートの上に、書物を痛めぬよう丁寧に積み上げていく。空になった台車を引いて蓮也が去ると、夕乃がぐっと胸の前で拳を握った。
「やるっすよー! 目指せ、500冊!!」
本を手に取り、丹念に掃除していく夕乃。
「500冊、ね」
アニエス・ブランネージュ(
ja8264)も本を取り、向かいに座る千陰に手渡す。
「実際、図書館にはどのくらい書物があるのかな?」
「その100倍」
「4人で割って、1人あたり12500冊ですね」
雫は小さな溜息をついた。千陰は苦笑。
「さ、じゃんじゃんやるわよ」
こちらは図書館、正面から見て左側。
「おっそうじおっそうじー楽しいなー♪」
アーレイが鼻歌を歌いながら窓をせっせと拭いていた。手際が良く、無駄がない。
専用の洗剤でてきぱきと綺麗にしてゆく彼女に、乾いた雑巾を手にしたつづりが続く。脚立と連れ立ち、跡一つ残さず丹念に仕上げていた。
たまたま移動のタイミングが合った。同時に脚立を降り、同時に運び、同時に登る。
なのに同時に揺れない部位がある。
「(同い年……)」
これからだ。これからなんだ。
言い聞かせ、つづりはせっせと窓を拭く。込めた力は、心なしか体幹に寄った。
窓の内側、館内での清掃は続いていた。書物を運び終えた中2階の天井近くをウィズレー・ブルー(
jb2685)とカルマ・V・ハインリッヒ(
jb3046)が舞い、埃を落としてゆく。
「凄い埃ですね……掃除のし甲斐があります」
「えぇ、綺麗になっていくのは気持ちがいいものです。でも、少し水が冷たいですね」
「片付けばご馳走があるとのお話。もし終わらなくても、温かいお茶をご用意しますよ」
2人に続くのは犬乃さんぽ(
ja1272)。壁を走って梁を掴み、照明具の傘をてきぱきと綺麗にしてゆく。
「働かざる者、食わ猿、岩猿、着飾るっていうもんね」
「言わねーと思うぞ」
呟くようなツッコミは、彼らが掃除を終えた下、本棚の上を丹念に仕上げてゆく黒夜(
jb0668)から。
事実、清掃はつつがなく進んでいた。分担された仕事に各々が精いっぱい取り組んでいた。
なのに、と雅は眉間を狭める。綺麗になっている様子がない。むしろ汚れが酷くなっている気さえする。
何故か賑やかな中2階を見上げ、なるほど、と眉尻を下げた。
マキナが掃除に精を出していたのだ。しかも激しく。手当たり次第に手を伸ばし、綺麗にしつつ汚している。
注意するべきか。暫し思案を巡らせ、雅は出入口に向けて声を投げることにした。
「阿東先輩」
刹那。
竹刀を携えた傘寿のウサミミが図書館を爆走、一気に中2階まで駆け上がり、清々しげに額の汗をぬぐったマキナの背を竹刀でぶっ叩いた。
「ぐおあああっ!」
「ちゃんと上から順番にやれ二度手間になるだろこのやろー!」
咆える照子と、激痛に歯を食い縛り、本棚の間をジョグで流して気を紛らわすマキナ。
「賑やかだね〜」
両者を眺めつつ星杜焔(
ja5378)が手を動かす。彼の隣では淳紅とRehniがせっせと棚を拭いていた。
「……ジュンちゃん、私が踏み台になるのです」
「お……ふ、だ、大丈夫、届く、きっと届く。伸びろ腕ぇぇぇ」
必死に背伸びをする淳紅。が、ふらつきRehniにぶつかってしまう。
トンッ
「あ……」
「おおう!? ご、ごめんな? 痛ない? 怪我せえへんかった?」
「……うん、大丈夫なのです」
「……」
「わ、私、踏み台取ってくるのです!」
真っ赤にした顔を伏せて駆けて行くRehni。
平和だね〜、と彼女を尻目に、焔はもう少し視線を伸ばす。
「……あ〜、彼女と一緒かあ」
朗らかな笑みを残し、焔は移動する。
「――……かの、じょ……?」
合歓は首を傾げた。確か独りしかいなかったはずなのに。
そして彼女は好奇心に負け、覗いた。若杉英斗(
ja4230)が担当していたエリアを。
彼は虚空を見上げ、目を閉じて笑っていた。
●CV:全部英斗
「う〜ん、う〜ん!」
「どうしたんだい?」
「あっ、ちょっと届かなくって……」
「どれ、貸してごらん」
「あ……ありがとうございます! すっごく助かりました!!」
「いやいや、お安い御用さ」
「あの……もしよかったら、この後……」
「ん? この後、何?」
「えっと……私と、お食事でもいかがですか!? あと、あと……好きです! 付き合ってください!!」
●
「せんせー、この本は?」
「えーっとね……Eの6。これで全部?」
テーブルに置かれていた所在不明の書物を振り分ける茜と千陰。
2人の顔が目に入ると、合歓は加速、千陰に抱き付いた。
「っとと。なに、どうしたの?」
合歓の顔が上がる。顔はぐっしょりと濡れていた。
「――……あんな、の……あんまり、だよ……!」
「?」
「――……反対、は……あんなに、なのに……酷過ぎる、よ……!」
優しく微笑み、合歓の頭を撫でる千陰。
「よくわからないけど、とりあえず可哀想に。よっぽど恐ろしいものを見たのね。
そしたら、ここで虫干し手伝って頂戴」
言われて合歓は袖で涙を拭い、雫に教えを受ける。
腰を叩いて首を回す千陰に茜が少しだけ顔を近づけた。
「……五所川原さんて、何て言うか、小動物系?」
「牙と爪は鋭いんだけどね。
掃除の進捗ってどのくらい?」
「ナナシさんが管理してたよ」
話しながら2人は入り口側へ進む。
横目で見送り、雫は僅かに相好を崩した。
「――……?」
「いえ、すみません。仲の良い親子に見えてしまって」
「姉妹でも通じると思うよ。すっかり打ち解けたようだね」
アニエスが振り向く。青色の髪が木漏れ日に輝いた。
それが眩しくて目を細める。合歓は口を動かしたが、科白は、夕乃が20000冊を片付けた勝鬨に紛れた。
「……ふむ、順調じゃない。この表も名案だわ」
それぞれの名札が表に置かれ、現在行っている作業が一目で判るようになっている。ありがとう、とナナシが言うので、千陰は思わず頭を撫でた。
日はやや傾いていた。冬特有のやや尖った風が吹き抜ける。空の端は早くもくすみ出していた。
「じゃ、私は買い出しに行こうかな」
「あ、私も行く」
いいわよ。茜に千陰が微笑みを返したところへ、恭弥と黒夜がやってくる。
「どっか行くのか? ウチもついてくぞ」
「荷物持ちくらいしてやるよ」
「ん、よろしく」
3名を引き連れ、彼女は図書館の入り口に移動する。お疲れ様、と大きな声を出した。
「あと一息ってとこまで来たから、鍋の買い出しに行ってくるわ。
何か食べたいものがある人ー?」
快活な声と手を挙げたのはさんぽ。
「国産の松茸!」
「オッケィ、表出なさい犬乃君」
「小日向、光纏漏れてる」
そっと手を挙げたのはレガロ。
「じゃあ、100%のフルーツジュースを」
鍋とは一見関係ないものがリクエストされた。これを皮切りに、じゃあこれが食べたい、あれが欲しいと欲望が交錯する。折っていった指が足りなくなったところで、千陰は苦笑、音を上げた。
「料理得意な人、いる?」
「あ、じゃあ俺が〜」
てくてくと降りてくる焔。道中、藤花とすれ違い、短く笑みを交わした。
「助かるわ。鍋をひとつ、担当してもらってもいい?」
「いいですよ〜。
そうだなあ〜……カレー鍋とかしたい人いる〜?」
ガタッ!
中2階の階段、その上がり端で憐が短い腕をぐいと伸ばして主張した。
探していたカレー図鑑は見つからなかったが、望んでいたものが目の前にある。
「……ん。絶対。必ず。完全に。食べる」
「了解〜。楽しみにしててよ〜」
「んじゃ、行きましょうか。あとよろしくね!」
はーい
応答を背に受け、買い出し班は出発する。
肉多めにな。あんまり辛いのはやめてね。雑談を交わしつつ、千陰は携帯を操作した。
●
前掛けで手の水を拭き取り、テーブルの上で震える携帯電話を取った。
――こんにちは。今、大丈夫?
はい、と返す。丁度、翌日の仕込みに片が付いたところだ。
――急で悪いんだけど、これから鍋パーティをやろうと思うの。30人近くで
僅かに息を呑み、
――腕、振るってくれない?
思いっきり微笑んだ。自分の料理を食べたい、と言ってくれる人がいる。この上ない喜びだ。
――それじゃ、看板が派手なスーパーで。気を付けてね
「はい、すぐに参ります」
水無月沙羅(
ja0670)は静かに頭を下げた。
●
12月の短い夕闇が図書館を包み込む。
表紙が冷え始めた本は次々と、まるで新品のように綺麗になった本棚に収められてゆく。これも鍛錬、と呟く雅の抱える書物が崩れそうになり、咄嗟にレガロが手で押さえた。
裏手から本を運び続けていた蓮也は一度道を外れ、熱中する余り目を回してしまった夕乃を台車に乗せ、テーブルの上に寝かせた。
だりぃ、たりぃと言いながら白秋も本を運び、収めてゆく。背後にはぴったり照子がついてくる。
カウンターはRehniと淳紅が仕上げた。ふと手と手が触れ合い、互いに頬を赤らめる。その様子を諏訪が優しく見守り、マキナがガン見していた。
せっかくだから、とナナシが弱っていた電球を取り換える。ウィズレーとカルマも手を貸し、図書館に昼白色が降り注いだ。
アーレイとアニエス、雫はテーブルと椅子の清掃に着手、集中する。が、時折目を瞑って物思いに耽る英斗にどうしても視線が動いてしまう。
さんぽが持ち上げた玄関のマットを憐が箒で払う。時たま咳き込む2人に微笑みつつ、藤花はサッシのゴミを一つも残さず取り払ってゆく。
かくして。
「「「「「「終わったあああ!!」」」」」」
ピカピカになった図書館の前で、生徒らは手を取り合い、声を上げ、互いの労働を湛え合った。
「ずおああでも寒ぃー! 冬将軍落馬しろー!!」
「落馬はともかく、確かに冷え込んできたな」
短く鼻を啜る蓮也。その隣で、合わせた手に息を吹きかけるつづり。
「とっとと鍋奉行のところに行こうよ」
「ああ。でも俺は、一度着替えてきたいな」
「んじゃ、30分後に正門前に集合で」
そういえば、と目頭を押さえる夕乃。
「千陰姐さんの自宅、ご存知なんすか?」
「知ってるってか、住んでるから。伍と一緒に。ね?」
遠く離れた樹の陰から、顔を出した合歓がこくん、と頷いた。
●
「――……ここ」
案内された平屋は、『まあ独身の20代が住むならこんなもんかな』と思わせる、中の下ほどの借家だった。
荒い砂利道を進みチャイムを鳴らす。暫くしてからドアが開いた。
「いらっしゃい」
紺色のエプロンを掛けた千陰が出迎える。
ただいま、と言い、つづりが靴を脱ぎ散らかして家に上がる。
「掃除、ちゃんと終わった?」
「見てくれば? 鍋が残ってると思わないでよ」
苦笑する千陰の脇を、お邪魔します、と生徒らが通り過ぎてゆく。
半日間、碌な休みも無く働き続けた彼らの表情には、差こそあれ疲弊の色が浮かんでいる。
リビングに足を踏み入れた瞬間、それが根こそぎ吹き飛んだ。
濃厚な素材の香りがすぐさま鼻に飛び込んできた。それだけで口の中に味が広がるような、芳醇な香りだ。
鍋は3つ並んでいた。中央の丸い大きなテーブルに一際大きなもの。手前のこたつの天板には上品で彩りが美しいもの。奥のヒーターに囲まれたちゃぶ台では、黄色いつゆを湛えた鍋がぐつぐつと煮立っている。
「お疲れさん」
ヒーターの前、本から顔を上げた黒夜が労った時には、既に隣に憐が座っていた。彼女は割り箸を両の親指で挟み、早くも頭を下げようとしている。
「……全然気づかなかったぞ」
「……ん。技。擬態。使った」
「……本気ってことか……」
「でもちょい待ち。乾杯してからにしましょ。
ほら、水無月さんと星杜君も」
キッチンに声を投げると、やや置いて沙羅と焔がてくてくと駆けてきた。
それぞれが思い思いに席を取る。3つの卓があっという間に囲まれ、千陰が座る場所はなくなってしまった。見上げる恭弥に、いいからいいから、と手で合図を送る。
全員に万遍なく飲み物が渡ったのを確認して、彼女はこほん、と咳を払った。
「大掃除お疲れ様でした! そしてありがとう! お腹いっぱい飲んで食べて頂戴! 乾杯!!」
かんぱーーーーい
幾つものグラスがかち合う。よく冷えた飲み物は、暖房と疲れで火照った身体をのんびりと流れた。
置かれ、割り箸が次々に構えられてゆく。
藤花がおたまを鍋に進ませた。掬えば、よく味の染みた鶏肉と白菜、そしてくずきりが持ち上がった。お椀に移し、一口。よく火の通ったそれは、たっぷり纏った濃厚なつゆを口の中に広げ、つるん、と喉を下っていった。
「美味しい……」
ありがとうございます、と沙羅。
「存分に腕を振るわせていただきました。まだまだありますので、どんどん召し上がってください」
「じゃ、遠慮なく」
おたまを持った蓮也の向かいで、さんぽがキノコを発見し、目を輝かせた。満面の笑みで頬張る彼を見て、キノコもあるんだ、と雅が箸を伸ばす。肉と野菜をバランスよく摂り、良く噛んで頂く。
「――……あ……え、と……」
鍋、という食事が初めての合歓がもだもだしていた。それに気付いた恭弥が彼女のお椀を奪い、手当たり次第に具を集めてゆく。白菜、葱、しいたけ、えりんぎ。
「ほら」
「――あ……あり、がと……」
応えず、恭弥は自分の分を確保する。肉、つくね、肉、蟹。
どれも自分のお椀にはない。合歓はちょっとだけ口を尖らせ、一口食べて旨さに笑った。
2人の遣り取りを眺めつつ、マイペースに食べ進めるウィズレー。乾杯以降、彼女には笑顔が絶えなかった。
「大人数での食事というのも、いいものですね」
いや全く、とカルマが頷く。
「労働の後、というのがまたいい。染み入るようです」
「ええ、本当に」
「故郷の者達にも、この光景を伝えてあげたいです」
「ふふ。今はお食事を楽しみましょう。折角の機会ですもの」
「これは、失礼しました。次は、何を飲みますか?」
良かったら、とレガロが果汁100パーセントのジュースをテーブルに置いた。
「アルコールを飲むなら、合間に飲んでおくといい。翌日かなり楽になるはずだ」
「お気遣いありがとうございます。では、いただきます」
「はい。レガロさんもいかがですか」
朗らかな雰囲気に包まれる沙羅の鍋と対照的に、焔のカレー鍋は戦場宛らの様相を呈していた。
「……ん。おかわり。おかわり。どんどん。おかわり」
「はいよ。たんと召し上がれ」
ニコニコと笑い、突き出されたお椀に山盛りの具をよそう照子。憐がそれを受け取り、丸呑みに近い速さで平らげる。そしてまた突き出す。よそう。丸呑み。これが幾度となく繰り返された。必然、鍋の消化は他とは比較にならない。
「うおお! 負けれられないっす!!」
夕乃が負けじと具を取りに行く。黄金色に輝くつゆの中から手当たり次第に拾う。では、と呟き、何かと張り合うように口へ掻き込む。口の奥に茹ったもやしが直撃し、むせた。そんなに熱いの、とナナシが眉を寄せる。箸でつまんだもやしと豚肉によく息を吹きかけ、頬張る。カレーの風味が鼻を抜け、頬が緩んだ。
「美味しい〜?」
「ええ。初めて食べたけれど、いいものだと良く判るわ」
「……ん。とても。とても。とても。いい。カレー」
「よかったあ〜」
予想外の大盛況に朗らかな顔で頷く焔。彼の横で鍋を覗き込み、Rehniはあごに指を当てる。
「ジュンちゃんは何が食べたいのです?」
それじゃあ、と思案する淳紅。彼がリクエストした具材を、Rehniは激戦区から何とか救い出し、手渡す。
「はい、たんと召し上がれですよ」
「ぅあーい、おおきにー!」
ひとつのお椀から交互につまみ、笑顔を咲かせる淳紅とRehni。
2人の隣でやはり満面の笑顔を浮かべ、食事の合間に何やら呟いている英斗。何だ、と黒夜が聞き耳を立て、激しく後悔した。
なかなか割って入れず右往左往していた雫の肩をアニエスが叩く。
「真ん中の鍋に行こうか。ここよりは落ち着いているみたいだよ」
盛り付けを兼ねたそれではなく、炊き出しなどで良く見かける鍋には、ぶつ切りにされた魚や大きな野菜がごろごろと転がり、灰汁もそのままにぐつぐつと煮立っていた。必然集客力は弱い。が、味は間違いないことを知っているつづりは躊躇なく手を伸ばし、白菜を頬張る。
「さーん……じゃなかった、えーと……三ツ矢さん?」
「参れいいお」
ちゅるん、と白滝が口に飛び込む。
「じゃ、参で。一緒に食べよ」
つづりが腰をずらす。空いたスペースに、お椀とグラス、箸を持った茜が座った。
「まさか一緒に鍋をつつく事になるとはねえ……」
言いながら茜はおたまを動かす。
「あの時は想像もしてなかったけど」
「そんなの、あたしだってそうだよ。あ、つみれあたしにも」
「ん。ゲートの中で、やれることはやっておいたよ」
つづりは一瞬だけ腕の中に視線を落とし、
「……ありがと。これあげる」
と、鱈の切り身を茜のお椀に移した。
「お、食ってるか、参?」
言いながらつづりの頭を撫で、白秋がその場に膝を折る。
「紹介するぜ。信頼する、俺のダチだ」
手で示され、マキナが軽く頭を下げる。つづりはこくこくと頷いた。
「天使と戦った時いたよね。凧みたいなのに乗ってた」
「表面は結構ざらざらなんですよ」
「うわー……」
「で、こっちが――」
と、白秋が諏訪を指し示したところで、彼の頭の上にアーレイの立派な胸が乗っかった。
「お待たせしましたー! 豆腐先輩にはこれしかないですよねっ!」
「豆腐?」
首を傾げるつづりと鼻の下を伸ばす白秋の前に、どん、と湯豆腐が置かれた。
「豆腐だ」
「赤坂先輩って知り合いからは豆腐(自称イケメン)って呼ばれてるんですよー?」
「……なんで豆腐?」
「これが元ネタなんですけどねー?」
赤坂の影から諏訪が携帯の画面を突出し、つづりに見せる。
「この赤坂さんのアイコン、豆腐に見えませんかー?」
ぶっ
「あはははははははははははは!! 豆腐、豆腐だ!! やばい、もうアンタ豆腐にしか見えないよ!!」
千陰は柱に背を預け、腹を抱えて笑うつづりを眺めながらウーロン茶を舐めていた。
足元にいた合歓をつま先で小突く。見上げられ、混ざってくれば、とあごを出す。合歓は暫し考え、首を振って鍋に向かった。
苦笑を浮かべ、グラスを空にした千陰に、白秋が輪郭のはっきりした声を投げる。
「今回のクライアントは参だ! だよな、千陰先生!」
「パトロンは私だけどね」
千陰は遠くを見た。構わず白秋は続ける。
「クライアントが何も報酬を出さないのはおかしい。だよな、千陰先生!」
ぴくり、と眉が動いた。これを機と見て畳みかける。
「だから参はこの猫ちゃんコスを着て俺達を幸せな気持ちにするべきだ! だよな、千陰先生!?」
「何を馬鹿なことを言っ――」
「カチューシャまでなら許可するわ」
「はあ!?」
「大 義 を 得 た り!!」
「いーやーだーよー! 何考えてんのバカじゃないの!!」
「そうです、悪ふざけが過ぎますよ赤坂さん」
「やりすぎは禁物ですよー?」
「とか言って腕押さえんなー!! あ……茜っ」
「ん、この鱈美味しい」
「もおおおおおおおおおおっ!!」
どたばたと暴れ回るメンバーを笑って見守る千陰。彼女の隣にアニエスが並ぶ。
「順風満帆、かな?」
「航路を逸れたら叩くだけよ」
「なるほどね。まあいろいろ片付いてよかったじゃないか。一息つこうよ」
アニエスが一升瓶を翳すと、千陰は眉を下げた。
「あー、ごめんなさい、私――」
「飲むな」
低い位置から、黒夜が強い言葉を投げた。
「業務に支障出るだろ。飲んだら駄目だ」
ゆらり、と焔が立ち上がる。
そういうことだから。千陰が無言で伝えると、アニエスは肩を竦めて見せた。
「うん、ありがとね黒夜さん」
床に腰を降ろし、あぐらをかく。手で呼び、黒夜を足の上に座らせた。
「んー、あったかい」
開いたグラス四半分まで焼酎を注ぎ、フルーツジュースで隠す。
「……あの、さ」
「ん?」
千陰が業務の合間に訪れる、寂れた場所。ふらりと足を運んだ黒夜を、千陰は当たり前のように迎えた。
それまで居場所のなかった黒夜に、千陰は席を用意した。
「ここに来る前は、ウチの居場所なんてなかったから。だから――」
「小日向先生〜、おかわりどうぞ〜」
「お、悪いわねー」
くいっ
「ありが……どっ」
後頭部に突然の衝撃を受け、黒夜は言葉尻を噛んでしまう。
何事か、と振り返ろうとする。が、両腕をしっかりと抱かれて動けない。脚をばたつかせようとしたが、千陰の脚に抑え込まれてしまう。
「ちょ、おび……」
「んー……こくにゃーん……」
「は?」
「こーくにゃーん……」
黒夜の髪に額を押し付け、こすりつけまくる千陰。普段の面影は微塵も見当たらない。そこにあったのは、一回り以上年下の女子に対して猫のように甘え続ける、26歳独身の姿だった。
最も早く反応したのは恭弥。まるで使い慣れた銃を抜くように携帯を取り出し、すぐさま動画撮影モードに入る。
続いて白秋、ネコミミを付けたつづりが撮影を始め、彼らを中心に悪ノリの輪が広まってゆく。
「ちょ、撮ってないで助けろ」
「んー……」
すりすり。
ぴろーん ぴろーん パシャッ ぴろーん
「いや、折れる、折れるから、小日向」
「んー……?」
すりすりすり。
独り慌てふためく合歓。彼女の上着を誰かが引いた。振り向く。雫が白醤油の効いたつゆを飲んでいた。
「つづりさんとこう言ってみてください。
『お母さん、やめて』」
「――え……違う、よ……?」
「あたしは絶対に言わないからね!」
断言しながら撮影を続けるつづり。彼女の頭を、白秋がぽんぽんと叩いた。
「悪く、ねぇだろ」
振り向き、つづりは露骨にげんなりとした顔を見せた。
「……Kカップが?」
「せっかく決めようとしてたのに台無しじゃねえかよおおっ!!」
「はい、お豆腐どぞー♪」
「あっちいいいいいいいいいいっ!!」
「あ、あたしもやるー!」
●
「それでは、これで失礼しますね」
玄関先で沙羅は優しく微笑む。合歓は体の右半分を扉に隠したまま、小さく頷いた。
「――……おいし、かった、よ」
沙羅は笑みを深める。
「激戦、そして大掃除お疲れ様でした。いつかまた、今日のような楽しいパーティができますように」
頭を下げ、沙羅は帰路に着いた。彼女の姿が見えなくなるまで眺め、合歓はドアを閉じる。
すっかり片付いたリビングでは、千陰が座布団を抱いて幸せそうに眠り、つづりがこたつに半身を突っ込んで寝転がっている。
「――……シャワー、行ってくる、ね?」
「んー」
つづりは携帯の画面を眺めていた。千陰が酔っぱらったシーンだ。彼女の周りには大勢の生徒の笑顔が、そしておろおろする合歓の姿が映っている。
再生が終わる。つづりはごろん、と寝返りを打ち、もう一度頭から再生した。
「……悪くは、ないね」
台詞と展開をすっかり覚えたその動画は、何度見ても、何度思い出しても、変わらず笑顔になれた。