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久遠ヶ原学園の昼は早い。
正確に言うと、彼の腹の虫が雄叫びを上げだすのが早い。
「あー、腹減ったな……弁当はもう食っちまったし、菓子パンも買った分は食っちまった」
そう言う彼の手元には既に空になったパンの袋が五つほど無造作に置かれていた。
「仕方ねえ、今日は学食行くか。カレーにうどん、そばと……あとおばちゃんのナポリパンでも食べるか」
ゴミをがさがさと片付けると、彼は次の授業の準備を始めるのだった。
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「ナポリパン、どうしテ食いたイですカ? 家でパンにピザはさんジャいけなイのカ?」
昼休み前の授業と授業の間の休み時間、リシオ・J・イヴォール(
jb7327)は廊下ですれ違う人すれ違う人に声をかけていく。
大抵の人はきょとんとしてそのまま去っていくだけだが、一部の人は親切にも答えてくれていた。
「ナポリパンって、あの学食の裏メニューのこと? あれはねー、なんかファンにとってはたまらない代物らしいけど、私にはよくわかんないな。前学食で買ってる人を見かけたことはあったけど、あんまし買われてるの見かけないよ。っていうのも、私が見てないだけかもしれないけれど。ああ、どこかのクラスの大食らい君はあれの大ファンって噂、聞いたことあるかも……リシオちゃん、買うの?」
「大食らいはナポリパンの大ファン……ありがとでス! ボク、頑張りまス!」
リシオはぐっと拳を握り意気込むと、「ナポリパン♪ ナポリパン♪ ナポリ、ナポリ、ナポリパン♪」と鼻歌混じりにスキップをした。
トントンと小気味よく包丁の音が鳴り響いているのは、調理実習室だ。
「コッペパンにナポリタン? なんだ、簡単じゃないか」
鈴代 征治(
ja1305)は喫茶店を開くのを目標にしているだけあって、手慣れた手つきでナポリタンを作ると、ほかほかと湯気を立てるそれを予め用意してあった切り目を入れたコッペパンに挟み込む。
「……ナポリパンって、こんなんじゃないのかなあ」
征治は出来上がったそれを眺めて呟く。ざっと八つほど作り上げたところで、それをバスケットにそっと詰め込んだ。
「まあ万が一手に入れられなかった時の為にも、やれることはやっておいた方がいいよね」
余った時はアリスにも食べさせてやろう、などと思う征治だった。
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午前の授業の終わり、昼休みの始まりを告げるチャイムが学園内に響き渡る、と同時に駆け出したのは六人だけではなかった。
東上 要とあらかじめ予定しておいた待ち合わせ場所に一番に辿り着いたのは征治だ。
少し遅れてリシオ、名無 宗(
jb8892)もやってくる。
「ごめんネ、先生の挨拶終わるの待ってたら少し遅れちゃったヨ……!」
既に息が上がっているようだったが、今はそんなことをかまっている場合ではない。
「要さん、今日は俺がちゃんと守るっスからね! 大丈夫っスよ、ナポリパンは手に入るっス!」
やけに自信のある口ぶりは要含む皆の士気を上げる。なんだかどうにも失敗するような気がしないと要は頼りがいのある仲間たちを誇りに思った。
「それじゃ行くっスよ!」
宗はニッと歯を見せて笑うと、ナポリパン手に入れ隊の先陣を切ったのだった。
ドスドスと巨漢の男が食堂へ向かう波の先頭を走っていた。
「うどん、そば、カレー……あと、ナポリパン。毎日食べなきゃ気がすまねぇよなぁ」
その巨体にしては素早い動きは毎日この食堂メニュー争奪戦に参加しているからだろうか。彼が波の先頭を譲ることはなく、大きな腹の虫のうめき声を鳴り響かせていた。
そんな彼を挟むようにしてレグルス・グラウシード(
ja8064)と緋流 美咲(
jb8394)は走っていた。
事前に聞いていたその容姿や行動の特徴からして、彼が噂の大食らいであると確信したレグルスは彼に体当たりをし、共に倒れる。
「痛ってぇなあ……ったく、なんだあ?」
「ああっ! ごめんなさい、急いでたんです……」
尻もちをつき腰をさする彼に、レグルスはすかさず謝罪の言葉を述べると同時に、友達になれますようにと祈りを込め、あらかじめ持っていた袋に入れていた焼きそばパンをずいと彼に差し出した。
「よ、よかったら、これ……お詫びです!」
勢いで負けたのか、彼はそれをうろたえながらも受け取る。
それを隣で見ていた美咲も、すかさず用意していたお手製ナポリパンを彼に差し出した。
「貴方の為に頑張って、三日三晩寝ずに作ったんです……。貴方ならこれくらい昼飯前ですよね♪?」
むんぐと彼の口に押しこむ。
「もちろん、全部食べてくれますよね♪」
次々と口にそれらが押し込まれていく様はまさに圧巻。彼の食べるペースも徐々に落ちていっているのが美咲にはわかった。
「あ、僕の買ってきた焼きそばパンもおいしいと思うんです! 食べてください!」
レグルスも負けじと彼の口に自分の買ってきた焼きそばパンを詰め込んでいく。最早わんこそばならぬ、わんこパンである。
さすがの彼もこれには参ったのか、もう食堂に向かう様子は見られなかった。邪魔してしまったことにすまなく思うレグルスだったが、パンを口に押し込まれ続けてもなお幸せそうな表情を浮かべている彼を見て、まあいいかと思うことにした。
一方、ふらりと人の波を避け壁伝いに走って行く男がいた。
山木 初尾(
ja8337)は「ナポリパン1個下さい」と書かれたスケッチブックを手に、学食へと向かう人の波を誰にも気づかれることなく過ぎていく。
学食に足を下ろした時、まだ自分以外に人はいなかった。
「一着……」
ぼそりと呟いた途端、どっと後ろから人の波が押し寄せてきた。それに背中を押され勢い良く学食のカウンター前に出る。
はっと気づいたように初尾はスケッチブックを掲げ、声は小さいが自分なりに声を張って食堂のカウンターの向こうにいるおばちゃんに告げる。
「ナポリパン一個下さい……」
その声は無事届いたらしくおばちゃんはにっこりと笑うと、初尾が手に握っていた代金分の小銭と引き換えにナポリパンを彼に手渡した。
無事ナポリタンの入手に成功したことに少し呆けていると、後ろの人混みの方で「ギョワーーーー」という声や、「無理はだめっス、要さん!」などという声が聞こえた。阻霊符を発動したりする反応も見られ、その度に人々がざわついていたのだから、征治の作戦は効果があったのだなと実感する。
宗に護られながらも人に揉まれる要の姿を確認すると、手に入れたナポリパンを潰さないよう慎重に人並みの外へと運び出す。
ほぅと一息ついて、初尾は皆にナポリパンを入手したことを連絡した。
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「要、なんだか随分と疲れきった顔をしてるじゃない?」
屋上でいちごオレを片手に美しく光る金の髪を風になびかせ、レイア・クローディアは心配そうに要の顔をのぞき込んだ。
「ああ、まあ……大丈夫ですよ、ちょっと慣れないことをしたものですから」
彼女の為に人混みが嫌いなのを我慢して行ったものの、やはり人に揉まれると疲れるものだと思いつつ、要はから笑いで返した。
彼女はそれに心配というよりは不服そうに口をへの字に曲げていたが、やがて「まあいいわ」といちごオレを飲むのに戻った。
「ところで、今日はナポリパンを持ってきてくれるって言ったから、私いちごオレしか持ってきていないんですけれど。手に入れられたの?」
呑気にストローを咥えながら尋ねる彼女に、彼はぱあと顔をほころばせると「もちろん!」と一つのパンを取り出す。
おばちゃん特製ナポリタンの挟まれた「ナポリパン」はラップに包まれただけの状態で、なんとも学食らしいというか裏メニューらしいというか、味がある見た目をしていた。
「へえ、これが噂の……本当、よく手に入れられたわね」
嬉しそうに微笑む彼女の姿に、思わずこっちも微笑んでしまう。そんな彼女の笑顔がふと陰る。
「でも要、貴方の食事は?」
その言葉に、あ、と声が漏れた。
「すっかり忘れてました……ちょっと何か買ってきます。先輩は先食べてて下さい」
購買にでも行って何か買ってこようと、彼女に背を向けた時だった。
「要」
名前を呼ぶ声と同時に手が引かれる。振り返ると、彼女に手を握られていた。
もう一度繰り返すが、あのレイア先輩に俺こと東上要が手を握られていた。
自然と足は止まった。というか俺が固まった。
「いいわ、これを半分こしましょ。せっかく要が買ってきてくれたんだもの。要も食べないと」
彼女はラップを剥がしナポリパンを半分に割ると、半分を俺に手渡した。
「今回のご褒美、それでいい?」
小首を傾げる彼女に、俺は問答無用で首を縦にぶんぶん振った。
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「なんとかなったみたいですね……よかった」
美咲はそんな二人の様子を見て、ほっと胸をなでおろした。
「要さん青春してるっスね……!」
力を使い切ったのか、宗は呆けた表情で二人を眺めていた。
「でも僕もナポリパン、食べてみたかったよ……」
焼きそばパン好きとあって、レグルスも焼きそばパンに似たナポリパンが気になっていたが、美咲と共にわんこパンをした結果、美咲自作のナポリパンはすっかりなくなっていた。
「美味かった。もしよかったらまた食べさせてはくれないか」
と大食らいに言われたのを思い出して、美咲は苦笑した。
「ボクもナポリパン気になってたヨ。でもアレ、どの辺がナポリ?」
リシオは要に見せてもらったナポリパンを思い出し、あれのどこがナポリっぽいのかと思案に暮れていた。
「せめて写真撮っておきたかったケド、カメラ忘れちゃったノ……」
落胆する二人に、「そういえば」と征治はバスケットを取り出した。
「僕、万が一ナポリパンが手に入れられなかった時のことも考えて、それっぽく作ってみたんですよ。もしよければ」
バスケットの中には「ナポリパン」そっくりのパンが並んでおり、征治はそれを一人一つずつ配った。
「俺は、いい……見るだけで胸焼けが……うっぷ」
初尾は征治が差し出すそれを手で制し、素早くトローチを取り出して齧りつつ水を飲んだ。
「炭水化物に炭水化物を挟むのは……」
げっそりとした顔で拒絶する姿に、征治は心配そうに手を引く。
「これ、美味しいです、とっても! 僕これ好きだよ!!」
そんな初尾の隣では、レグルスが目を輝かせて征治特製ナポリパンを頬張っていた。その見事な食べっぷりに征治も微笑む。
「…………よかったら、俺の分もやるよ……」
「……! 初尾、いい人……!!」
レグルスは征治から初尾の分も受け取ると嬉しそうにそれを頬張るのだった。