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偶然にも、授業に参加した生徒達が見学を希望した患者はただ一人、中村モモカであった。
示し合わせたわけでもなく、誰かが誘導したわけでもない。偶発的な一致だ。
見学候補患者の中でも最年少のモモカ。十歳という幼さで人生を絶たれた哀れな存在であったことが、生徒の心に何かを訴えかけたのかもしれない。
あるいは、候補の中で唯一、生徒の言葉が届く存在だったからだろうか。
その奇跡的な確率を論じるのはナンセンスというものだろう。重要なのは、生徒達が選んだ中村モモカという元撃退士から、何を感じ、何を学ぶかという一点に尽きる。
看護師によって病室へ移動する最中、只野黒子(
ja0049)は手元の資料に目を落としていた。
「そうやってるとぶつかりますよ?」
隣を歩くエイルズレトラ マステリオ(
ja2224)が声をかける。
これには答えず、黒子はただ資料をはらりとめくった。
覗いてみると、そこにはずらりと活字が刻まれている。読んで楽しいものではない、というのはすぐ分かった。
資料というのは、撃退士向けのとある依頼の報告書だ。
「患者の参加した依頼、ですか」
「……ええ、概ね、状況は把握しました」
高野 晃司(
ja2733)の言葉に資料を閉じた黒子は、すと息を吐いて小さく首を振った。
これから見学するという中村モモカは、手足を切り落とされ、声帯を焼かれているという。そこまで痛めつけられたということは、ひょっとすると特異な仕事だったのかもしれない、と黒子は考えたのだ。が、資料を読む限り、何のことはない、よくある仕事だ。
モモカが受けた依頼というのは、ディアボロ退治。敵は腕が鎌になった鼬型のディアボロが六匹。さしずめ鎌鼬とでも言うべきか。
実際に任地へ赴いてみると、鎌鼬は民間人を袋小路に追い詰め、今にも彼らの命を刈り取ろうとしていたそうである。
そこで鬼道忍軍であったモモカが咄嗟に取った行動が、ニンジャヒーローであった。堂々と名乗りを上げ、鎌鼬の注目を一斉に集めるその行為は、民間人を救うという一点に於いては非常に有効なものであったのかもしれない。
しかしその後がいけなかった。
振り向いた六匹の鎌鼬は、腕の鎌を振り上げ、一度にモモカを襲ったのである。
他にも数名の撃退士が同行していたが、フォローが間に合わない。
四匹の鎌鼬がモモカの四肢を切り落とし、残る二匹は火を吹いた。
あまりの激痛にモモカは絶叫。この時吸いこんだ鎌鼬の炎が声帯を直撃し、二度と声を発することが出来なくなったそうである。
窮地に立たされた民間人を救うため、挑発して敵の注目を集める手法は常套手段として用いられる。だが、それが裏目に出た結果であった。
「少々の力を得たとしても、人の子は脆弱な身。五体無事に生き延びることができるなぞ確かに保障はないであろうな……」
ケイオス・フィーニクス(
jb2664)は嘆息。
明確な殺意を以て迫りくる天魔の群と戦い続ける限り、平穏な未来は約束されない。落ちた腕は再生せず、焼けた喉は決して潤うことはなく、その後何十年と生きるかもしれない幼い命には、あまりにも残酷な運命といえよう。
ならば、ケイオスを救ったあの日の少女は、幸せだったのだろうか。彼はそう考えずにはいられなかった。
「そんなになってまで……生かす、人間って……悪魔より残酷」
モモカの経緯を耳に、黒鴟(
jb9409)はバッサリと言い捨てた。
もしもこの患者が、こんな体になってまで生きたくない、早く死にたいと思っているのだとしたら、とても情のある治療とは考えられない。
まして、それを古き時代の見世物のように扱うのだから、なおさら。
それでも、目撃せねばならない。糧にしなくてはならない。
何故ならば、これは決して遠い国のおとぎ話などではなく、今目の前に起こり得る、そして我が身に降りかかるかもしれない、一つの可能性なのだから。
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病室は、当然というべきか個室であった。
とはいえ、五人もの来客が一堂に会せばいやに窮屈に思える。
モモカは眠っていた。飾りっけのない部屋の中、出来ることは限られる。足がなければ歩くことも出来ず、手がなければ自力で本も読めない。仮にテレビがあったとしてもチャンネルや電源の操作も出来ないだろう。
だから眠るのだ。他に出来ることはないのだから。
ただ眠っている様子を観察しても仕方がない。
案内役の看護師が、そっとモモカの掛け布団を降ろした。
着せられたパジャマから伸びるはずの手足は確かになく、喉には酷い火傷の痕があった。
「これ、は……?」
黒鴟が指差したのは、モモカの腰から股にかけての膨らみである。
ただパジャマを着ているだけにしては妙な形だ。
「恐らく、オムツだよ」
看護士が答えるより早く、黒子が言い当てた。
形から推測するに、大型の下着。そして身動きの取れぬ患者が使用するもの、と推察してゆけばすぐに思い当たる。
自力で用をたすことも出来ないのだ。こんなに切ないことがあろうか。
形の良い便がつるりと出るのならばまだ良い。しかし、ここまで衰弱した少女に、それは無理というものだろう。コールタールのように固まった、色も形も臭いも、およそ生物の体内から覗くそれとは思えぬようなものになっているに違いなかった。
すると。
うっすらとだが、モモカが目を開けた。
恐らく視界に移っているだろう久遠ヶ原学園の生徒達。これを前に、モモカは驚きも何も、感情というものを表情に出さなかった。
「やぁ、お邪魔してるよ。起こして悪かったね」
晃司が声をかけてみたものの、モモカはちらりと視線をよこしただけで、それ以上の反応は示さなかった。
その様は決して「助けて」と訴えるようなものではない。「帰れ」と言いたげでもなかった。
全てを諦めてしまったかのような、そんなやりきれなさが、中村モモカという一人の少女の肉体を通して滲み出ていた。
エイルズは無言を貫く。いや、言葉が出てこないのだ。
それは、見るに堪えない少女の姿に衝撃を覚えたからではない。これを目にしても、全く動じない自分に驚いたのだ。
目の前の少女は、既に当たり前のものとして実感しているのだろうか。……いや、そうではない。
そうではないはずなのに……。
「……きみ、生きたい?」
生徒らの中で、恐らく最も純粋に言葉を口にする存在であろう黒鴟が、そう問い掛けた。
またちらりと、モモカの目が動く。
答えない。頷きもしなければ、否定もしない。モモカはただ、黒鴟に視線を送るだけだ。
まるで、「生きていても、死んでしまっても、何も変わらない、同じだ」と言っているかのようだった。
ベッドの脇に膝を着いた黒鴟は、モモカの顔を覗きこむ。
瞼の間に、ゼリーのような涙が溜まっていた。
何故涙するのか、それは分からない。分からないが、何かが伝わってきた気がした。
それは、モモカが初めて見せた感情、初めて現れた心であったことは間違いない。
「昔々……1匹の悪魔が、いた……」
黒鴟は語り出す。
生きていたいと望むのは、どういうことか。
決して叶わぬことでもいい。心があるならば、それに従いたい。
心のままに、心のままに。
例えこの少女が、籠に囚われた小鳥なのだとしても。
その悪魔は、とても気紛れ。
元いた場所に飽き飽きして、敵対する世界にやってきた。
そこには、悪魔たちのご飯がいた。
……だけど、どうしてだろう。
悪魔は、そのご飯たちを食べたいと思わなかった。
必死に抵抗するご飯たちを見てると、哀れだな、って思った。
だから悪魔は、哀れなご飯を気に入って、この世界に留まってる。
「……ねえ。きみ……哀れだね?」
全ての言葉を吐き出した後、黒鴟はそう問い掛けた。
言葉の代わりに、あのゼリーのような涙がポタリと落ちる。
哀れと言われて悲しかったのではないだろう。
ただ。ただひたすら。ひたすら。
モモカの口が動いた。しかし言葉にならず、ほんの小さな動きでは、何を言わんとしていたのか、誰にも分からない。
しかし間違いなく、モモカの心は動いた。
これまで沈黙を守っていたのはケイオス。悪魔としての特徴を隠し、一見すると人間と見分けのつかない出で立ちは、もちろん、精神的に不安定であろう重症患者に精神的不安を与えぬためだ。
違うのだ、とケイオスは感じた。
中村モモカなる少女は、己の生死を越えた先にあるところに立っている。一つの生命としての自覚を持ちつつ、死ぬことすら許されぬ身であろうと、何か、感情を見せようと懸命に、懸命に涙を流す姿に、ケイオスは覚悟にも似たものを感じていた。
「汝を少々、見くびっていたようだ。偽りの姿を持って汝に接するのは礼を失すると判断する。どうか、恐怖せず見ていただきたい」
この少女には、ありのままの姿で、本当の自分で、ぶつからねばならない。
自らに課した枷を外し、角を露出させてゆく。その身に纏う禍々しき妖気。彼が彼である証、悪魔であることの証明だ。
「年若き幼い身でありながら己が身と命と誇りを賭けて戦った結末。汝に運は無かったかも知れぬ……」
ケイオスの言葉に、晃司は思考する。
そう、この少女は運がなかったのだ。
対して自分はというと、運があったからこそ、ここまで生き伸びることが出来た。
この差は些細にして遠く、埋めがたいもの。
自分がモモカのようになるというのは、想像したくない。
そんな人を少しでも生み出さないよう、ひたすら努力するしかない。そうしてきたつもりだ。
では、今の自分に出来ることはいったい何だろうか。
「汝の失意、悲しみ、怒り、嘆き、我はしかと受け止めた。その想いを糧に我は汝の代わりに我が同胞を……天の者も打ち払う撃退士として戦うことを約束する……」
子どもに聞かせるには、難しい言葉遣いだったのかもしれない。
それをモモカが望むことなのかどうかも分からない。
だが、ケイオスに出来ることは、思い付く限りこれだけだ。これだけなのだ。
撃退士である以上、戦うしかない。それ以外に、この少女のような存在を生みださないようにする手段がない。
戦うということは、誰かが傷つくということ。矛盾している。
だが戦わなければ?
無尽蔵に、生命を弄ばれる存在を増やすだけだ。
「俺には、君の苦しみは正直わからんよ」
ぽつり。晃司はそう漏らした。
撃退士として戦うことは、出来る。
では今目の前にあるこの子を少しでも救うとしたら、何が出来るのだろうか。
彼女の気持ちは理解出来ない。出来るはずがない。
だからこそ、理解しようとする努力を怠ってはならないし、まして見捨てるようなことはしたくない。
ならばせめて。
「毎日は無理だし、やることも何も決めてないが、たまに話をしに来てあげよっか。俺の話でよければ、きっと少しは刺激になるはずだ」
思い付く限りでは、それしか出来ないから。
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課外授業を終えて、病院を出た生徒達は久遠ヶ原学園へと向かう。
エイルズは他の患者も見学したいと申し出たが、授業という体裁を取る以上はどうしても時間の制約に縛られる。これ以上の見学は学園の方が許可しなかった。
(思ったほどショックは受けませんでしたね)
道中、彼は胸の内に呟いた。
あれほど無残にやられた患者を目にしたのだから、何かしら心に動じるものがあるはずだと思っていたのに、それはなかった。
むしろ、まるで他人事のように見つめている自分がいた。そういうこともあるとか、自分には関係ないとか、そういった気持ちがあったのかもしれない。
ああはなりたくないと思いつつ、自分はどうせあれほど悲惨な状態にはならないだろうという、楽観的ともいえる感覚があった。
「あんな人を少しでもなくせるよう、日々努力しないとな」
晃司はそんなことを呟く。
そうだ、それでいい。それ以外に出来ることもなければ、それが間違っているとも思えない。
モモカのような犠牲者をなるべく出さないようにする。自らの覚悟をそう再確認出来ただけでも良かったのではないか。と、エイルズは思っていた。
「随分と上からの物言いですね」
バサリと切り捨てたのは黒子であった。彼女は、モモカに対して何かしたわけでも、声をかけたわけでもなかった。ただ、モモカの体をしげしげと眺めていただけである。
もちろん、ただの興味本位ではない。
どのような状況下で、あのような事態に陥ったのか。それを回避するためにはどのような戦術が適切であったか、とずっと考えていたのだ。
「上から? どこがさ。撃退士なんだから、犠牲者を出さないようにするのは当然だろう」
「それはそうです。それ以外に何も感じなかったのですか?」
「感じたさ。可哀そうとか、自分がああいったことになりたくないとか」
「自分がならないようにはどうするべきですか?」
「それは……、他の手を考える」
「不正解かつ不明瞭です。正解の一つは、誰かを犠牲にすることです」
「そんなバカな話がっ」
「そうです、あってはならないのです」
黒子の問いかけに晃司は憤慨気味だが、黒子は淡々と語る。
「もう一つの正解は、味方の誰かにフォローを依頼しておく、です。戦闘の優先順位は、まず自分の命の確保、次に敵を叩くこと、その上で余力があれば他人のフォローです。あの時点で誰かに補佐してもらうことを依頼していれば、打開は出来たはずです。何故なら、挑発した時点で、他の撃退士の命はある程度確保され、敵を叩くことが可能となり、かつ自分に攻撃がふりかかる可能性が減少したことで他者のフォローが可能となるわけですから」
がむしゃらに突っ走り、ただ命を投げ出すだけのやり方は、いずれ破滅に繋がる。
理屈から考えれば、黒子の言うことは正しいのかもしれない。
彼女に関して言えば、この授業で人生の糧を得たというより、戦争に対する自身の考え方を補強する材料が得られたといったところだろうか。
そのやりとりを耳にしていたエイルズは、胸中毒づいた。
自分の思った通りにやればいい。その結果誰かを救うことが出来れば、それでいいじゃないか、と。
「厳しいようですが、今回、モモカ様は自分の信じたことを、自分で勝手に行ったために身の破滅を招きました。そして戦力の低下は仲間を窮地に立たせ、民間人の救助を諦めねばならない状況に陥った可能性があります。独りよがりではいけません」
黒子の言葉は、まるでエイルズの胸の内を見透かしたかのようだった。
しかし次に言葉を紡いだのは、エイルズでなくケイオスだ。
「我は、我が命を投げ打つ覚悟があるが」
「でも、死んだら……その後、何も、守れない」
「左様。汝は賢いな」
黒鴟もまた、何か糧を得たようだった。
納得した者、しない者。
命の在り方、使い方にそれぞれがそれぞれの思いを胸に抱いたところで、彼らは校門をくぐった。