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「キャロライン先輩……、良かった。急に呼び出して、申し訳ないです」
ここは久遠ヶ原学園。今はちょうど二限目の時間だ。
大学部ともなれば、朝から晩まで授業漬けというわけではない。自分で選んだ講座から単位を取っていく関係上、時間がすっぽりと空くこともあるのだ。
凪澤 小紅(
ja0266)もまた、そうだった。ちょうどこの時間に講座を取っていなかったのだ。
しかしただ時間を無駄にするつもりはない。彼女は、キャロライン・ベルナール(
jb3415)を待っていた。
何度も行動を共にした二人。連絡先の交換くらい、とうに済ませていた。だから小紅はキャロラインを空き教室に呼び出したのだ。
「どうした? わざわざ呼び出すということは、また例の店の近くで事件でもあったか」
「それどころではないです。これを」
二人が連絡を取り合う時は、大抵ある人物――最近は店――に関する情報があった時だ。
ポケットから、折りたたんだチラシを取り出す小紅。何も言わずにまずは読んでくれと言わんばかりに、キャロラインへと突きつけた。
「これが何か? ふむ。プチ、ブラ……出張店舗だと?」
プチ・ブランジェ出張店舗がやってくる。
チラシの内容は概ねそういった内容だった。
この店こそ、このところ二人が特に気に掛けているパン屋の名前なのだ。
「中庭の方で何かやっているな、とは思っていました。それで、図書館の前にこのチラシが……」
「い、いつの間に! もっと早く知りたかったぞ。登校していなかったら、アウトだったな」
これによれば、出張店舗は昼休みの時間限定で開店しているらしい。
そしてきっと、あの人も来ているはずだ。
と、なれば。
「行くぞ、こうしてはいられん」
「待ってください、今はまだ、準備中のはずです。少し時間を置いてから覗きましょう」
気持ちが逸る。
あの事件以来、学園へ足を踏み入れなかったあの人が、来ている。当時を振り返れば、非常に驚くべきことだ。
だからこそ、会いにいきたい。だが、その気持ちは小紅に制された。
邪魔をするわけにはいかない。昼休みを待ってから向かうべきだろう、と。
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チラシは学園内の各所に用意されており、掲示板の隅にも貼り出されていた。
購買で、食堂で……あるいは持参の弁当で昼食を済ます者も多い中、これはちょっとした行事のようなものでもあったのだ。いつもと同じ場所、いつもと同じ味、それも良いが、たまには……。そう考える者もあった。
「そうだ、昼はパンにしよう。たまにはいいだろう」
朝食はパン派のジョン・ドゥ(
jb9083)。だからこそ昼は米なり麺なり、違うものを選ぶことが多かった。
しかしせっかくパン屋が来ているのだから、こういう時くらいは利用してみるのも良いかもしれない。
チラシを目に、場所を確認したジョンは中庭へと向かった。
ここは校舎に囲まれた小さなスペースで、元々利用者も多くはない場所だ。稀に人を見かけても、静かに読書をしていたり、授業をサボった学生がベンチに寝転んでいたり……。いずれにしても静かな場所だった。
だから、ジョンの目に入ってきた光景は、まるで別の場所のようだった。
超マンモス学園である、この久遠ヶ原学園。ほんの一握りの学生が集っているだけで、中庭に収まり切らない長蛇の列ができていた。
「わ、結構並んでます……」
「売り切れたりしない、ですよね。大丈夫かな」
彼の後ろに並んだ八種 萌(
ja8157)と雫(
ja1894)が心配そうに漏らす。
まだ中庭の入り口にも立っていない。この様子では、かなりのペースでパンを焼かなくては追いつかないのではなかろうか。
「おいおい、冗談じゃねぇ。どうなってんだ、この学園はよ」
廊下の向かいから、いくつかのトレイを抱えた男が近づいてきた。
白衣に、黒いエプロン。バンダナを巻いた姿は、誰の目にもパン屋の主人であることは明らかだった。
「ちょっと通してくれ」
男は列を掻き分けるようにして中庭へと入っていった。あのトレイには、恐らく補充のパンが乗っているのだろう。
「あ、店長さん! 待って、店長さーん!」
列の、少し先。中庭に一歩踏み込んだ辺りに並んでいた青年が、先ほどの男性に手を振っていた。
彼は、九鬼 龍磨(
jb8028)。あの口ぶりからするに、男性は店長ということで間違いなさそうだ。
「へぇ、このお店のこと、知ってる人がいるんだな」
チラシによれば、プチ・ブランジェは東北地方にあるパン屋とのことだ。
わざわざそこまで足を運んでいる者がいる。とすれば、ここのパンは相当美味に違いない。
ジョンはそんな風に思っていた。
「あ、ここから中庭が見えそう……うわ、やっぱり並んでますね」
雫が窓を覗く。ここからだと中庭の様子がよく見えた。
あとどれくらい待つのだろうか。気になって、萌もまた窓に視線を向けた。
出張店舗そのものはテントを張って展開しており、先ほどの男性――店長がどんどんパンを補充していた。
そしてこれだけの客を捌いている店員は、たったの一人。歳の頃は萌と同じくらいだが……。
「あれ、確か、あの店員さん、どこかで」
見覚えがあった。特徴ある背格好顔かたちをしているわけではなく、どこにでもいそうな少女。名前を知っていたような、そんな気がするが。
「私も、何処かで見た様な、会った様な気がするのですが……。クラスメイトでは無いでしょうし」
「待って、本当に見覚えがあるのね?」
「え、えぇ、そうですが」
「ということは、この学園で……間違いないわ、あの店員さんは、舞さんよ!」
今から二年前。
この学園で学生同士による刀傷事件があった。幸い被害者の命に別状はなかったものの、加害者は長期休学及び謹慎を言い渡され、結局自主的に退学したのだった。
あの事件のこと、萌は忘れかけていた。だが、キッカケさえ掴めば思い出すことは容易かった。何しろその事件は、自分と同じ学年で起きたことなのだから。
加害者の名は、小倉舞。事件のあった当時、彼女は被害者からヒドいいじめを受けていた。しかしクラスメイトや担任はいじめを認めず、ごく一部の友人だけが舞を理解し、助けていたらしい。
だが舞はいじめに屈し、心を閉ざし、狂い、そして加害者への報復を……。
「舞……?」
「小倉舞さん。二年前、ちょっとした事件があって退学しちゃったけれど」
「あの時の、事件の当事者、ですか」
同じ学年にいるからには、友達になれたかもしれない彼女に、何もしてあげられなかった。いや、いじめがあることを察していながら、傍観していた。それは、いじめていたことと同じではないかと、萌は後悔していた。
一方で雫の方は、そういうことがあった、という情報しか知らない。
(へぇ、ワケありの店員……か。俺には、関係ねーけど)
すぐ後ろで交わされた会話は、ジョンの耳にも届いていた。が、今、特に興味があるわけでもない。
気が付けば、ようやく中庭に踏み入れていた。
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「舞ちゃん、端から端まで、全種類だ!」
「ふん、やはりそう来たか。ならば私も、全種類だ!」
「あの、えっと……」
ようやく順番が訪れた龍磨は、嬉々として全てのパンを一個ずつトレイに乗せて会計を担う舞のところへ持っていく。
この時、一緒に並んでいたキャロラインもまた、負けじとパンを全種、トレイに乗せた。
その様子に、舞は困惑。慌てて電卓を叩いていく。
並んでいた客はパンを買っても二つか三つ。全種類買うとなると、八つになる。
「どれだけ食べる気ですか。舞が困ってますよ」
二人に嘆息しつつ、小紅のトレイには二つのパンが乗せられていた。
小倉サバラン。そして、ねじりドーナツだ。
「それって……」
「少しは、腕を上げたのだろう? だからここに並んでいる。違うか?」
小紅が選んだ二つのパン。それはかつて、舞が作って振る舞ったことのあるものだった。
特に当時のサバランは、店に並べられるような代物ではなかった。だが今は違う。
一目見れば分かる。あの時に比べ、確実に腕を上げている。
だから小紅は、ほんの少し、イタズラっぽく笑んでみせた。
「ふふふ、前回は食べられなかった店長さんのパン〜♪」
ゴスッ!
ニヤついた龍磨の鳩尾に、キャロラインの肘が食い込む。
これに堪らず、龍磨は膝から沈んだ。その手のトレイだけは死守するように。
「舞の前で、それはないだろう、龍磨」
「は、はは……。うん、舞ちゃんのパンも、きっと、もっと、美味しくなって、ゴフッ」
しかし、龍磨の言うことは事実だ。今まで彼らは何度かプチ・ブランジェへ足を運んだが、店長のパンを口にしたことはなかった。いや、その機会に恵まれなかったというべきか。
だからこそ、龍磨は店長の焼いたパンを食べられると期待していたのだ。
「け、喧嘩はよくない……よ?」
「喧嘩ではない。制裁だ」
「だから、舞が困ってますよ。ほら、次がつかえてるので」
会計を済ませたキャロラインと小紅は、蹲る龍磨を引きずって、列から離れていった。
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「少し甘いのがいいな。この後も授業だし」
パンを選びながら、迷うジョン。
脳の栄養といえば、糖分だ。とはいえ、炭水化物であるパンはもちろん糖質。どれを選んでもいいはずだが、これは感覚の問題なのである。
パン ド ミは……どう考えても持ち帰り用。バゲットもそうだ。
あのサバランという食パンに生クリームの敷かれたものやねじりドーナツは、直前で売り切れてしまった。レーズンタルトもいいのだろうが、どちらかというとデザート。
迷う……。
「それなら、ノアレザンがいいですよ。クルミとレーズンを使ってるので、おやつ感覚で食べれて……でもちゃんとおなかもふくれる――」
「よし分かった、これにする! あとクロワッサンもな」
ジョンが会計へ回ると、次は雫、萌に順番が回ってきた。
「この出張店舗って、次はいつ来るのでしょう……」
「さぁな。一年先か、二年先か。来月また来たりしてな。いつになるかは分からん」
呟いた雫に答える声があった。
またもパンを補充に来た店主の姿が、そこにあった。
「……そう、ですか。じゃあ、制覇しないと」
うなずいた雫は、迷うことなく全種類(サバランとドーナツは売り切れているが)を選び、会計へ向かう。
「小倉さん、お勧めは?」
「えっ、私の名前……あ、えっと、今食べるならオニオンベーグル、おやつならタルト、持ち帰るならバゲットかパン ド ミ、かな」
萌に名を呼ばれ、驚いた様子の舞。だが、そういえば自分はこの学園に在籍していたし事件も起こしてしまったから、名を知っている人がいてもおかしくはない。そう思い直し、説明する。
とりあえず名の上がったパンを選び、舞の元へ持っていく。
「居場所、見つけられたんですね。良かった。お仕事、頑張ってくださいね」
「えっと、どこかで会ったこと……」
「直接お話したことはないけど、クラスメイトになったかもしれない、とだけ言っておきます」
今、萌に伝えられることはこれだけ。いや、もう一つ伝えたい。
あの時、もしも彼女に気づくことが、そして直視する勇気を持つことが、できていたら……。
「おぉ、結構ウメェ」
「立ち食いですか? せめて座って食べましょうよ。あぁ、後でお勧めの食べ方も聞いておかないと」
その言葉は、ジョンの歓声と、呆れたような雫の声にかき消された。
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「やれやれ、もう材料がねぇや」
「……手伝わないんだな」
補充を終えた店主は、ベンチに腰を下ろした。
中庭に留まり、店の様子を眺めていた小紅らは、彼の傍へ寄った。先ほど龍磨が呼び止めようとしたが、店主も忙しそうで話すこともできなかったのだ。
最初に声をかけたのは、キャロラインだ。
「舞なら大丈夫だろうさ。ここまで一人でよく回したもんだ」
ケタケタと笑う店主。飽く迄手伝うつもりはないらしい。
だが。その目はしっかりと、舞を見守っている。
「学園に舞を来させるって、思い切りましたね。何故舞が学園をやめたかを知っていながら――」
「知らんな」
舞の過去を知っていれば、今回の出張店舗は彼女に心労をかける要因になりかねない。何か狙いがあるに違いないのだ。だから小紅は切り出したのだ。
店主は、舞が退学した理由を知らないという。
「何か理由があることくらいは分かる。でもな、何か良くないことがあったんだろう? だからこそ、そこから逃げちゃいけねぇ。向かい合わせてやりたいんだよ」
「やっぱりだ。舞ちゃんの人生に、撃退士がそんなに重要なんですか?」
ずっと疑問に思っていたこと。龍磨はその核心に触れられるのではないかと、詰め寄る。
撃退士である必要性、久遠ヶ原と舞を切り離したくない理由。
何故なのか。
「別にここじゃなくたっていいんだよ。舞が自分を乗り越えられりゃあな」
「やはりあなたが舞へ向けている気持ちは、面倒見の良い店長というのを上回ってしまっているように感じる」
キャロラインの言葉に、店主は静かに笑んだ。
何がそうさせるのか、何故そうするのか。
「店長さんが舞さんを見る眼って、バイトを応援する店長じゃなくて、娘の成長を喜ぶ父親みたいですね」
その話が聞こえて、近づいてきたのは萌だ。
過去の事件を知っているからこそ、当事者の舞が今、そしてこれから、どう生きていくのか。覗いてみたいと感じたのだろう。
父親、という言葉。
「確かに、僕もそう感じるんだよね。親心、っていうのかな。あ、僕には子供なんていないけど」
龍磨が同調する。
他の面子も、そうだ。何か違和感がある。それこそ、舞と店主は親子だと考えれば納得なのだが。
「違う、そんなんじゃねぇんだ。そんなんじゃ……」
「では何なのだ? 何か特別な関係があるのではないか」
否定する店主に、キャロラインがさらに詰め寄った。
何か、とても大事なことがある。この店主と舞との繋がりは、きっと彼女を見守る上で欠かせないものになるはずだ。
「今日の仕事が終わったら、本人に打ち明けるつもりなんだがな。……他人にゃ俺の口からは言えねぇ。明日にでも舞に聞いてくれ」
そう言葉を紡ぐ店長の表情は、哀愁に満ちていた。
苦しそうで、悩んでいるかのようで。口ぶりは豪胆なソレだが、しかし言葉の端から強い不安を感じさせる何かがあった。
「どんなことを、舞に告げるつもりですか」
胸がざわつく感覚を覚えながら、小紅はおずおずと尋ねた。
いつの間にかプチ・ブランジェのパンは売り切れて、客も全員帰っている。
舞はジョンや雫と何やら楽し気に会話しているようだ。手には自販機のココアが握られていて――どうやら差し入れしてもらったらしい。
店長はベンチから腰を上げ、ゆっくりとテントの方へと歩を進めながら、呟いた。
「罪の告白だ」