●
突如揺れる船体、木材の折れる音、悲鳴、怒号、甲板に設けられたいくつものテーブルがひっくり返り、料理、食器、飾り花が飛び交う。傾き、倒れる船から幾人もの人々が海へと投げ出された。
真の闇だった。客船の照明はバチバチと音を立てたかと思えば消えてしまう。
全ての人々が海へと退避、あるいは落とされてからおよそ三分後、客船はまるで引きずり込まれるかのように海中へと消えた。
後に残されたのは、ぷかりと浮かぶ二隻の救命ボートと、十数名の漂流者だけ。船がなくなってしまえば、ただ海面が波打つ音が響くのみだ。
六人乗りの救命ボートには一般人が優先的に乗せられ、客船の乗組員やボートに乗れなかった数人の乗客、それから撃退士は海面に自力で浮いているしかなかった。ボートの端や、船からもがれたものと思しき浮遊物、そういったものに掴まってようやく体勢を維持する。
助けを呼ぼうにも携帯電話やスマートフォンの類は海水に濡れて壊れているか、よ電波が届かず使い物にならなかった。船が沈没したことで方向感覚は狂い、勘に頼って十海里――約二十キロメートル――を泳ぐのはとても現実的ではない。
「何が起こったんだ……?」
船が沈んだ辺りの海面に視線をやりつつ、森田良助(
ja9460)は誰にともなく呟いた。
客船が何の前触れもなく転覆するはずがなく、通常ではありえないような出来事が起こったとしか考えられない。
原因はいったい何か。その問いに答える声はない。
代わりに聞こえてきた声といえば、
「崖ヶ岳君、どこだい? 返事して、そっちいくから」
友人を呼ぶ常盤 芽衣(
jc1304)のそれだった。海に投げ出され、そのまま海面に浮かぶ彼女は、あの混乱とこの暗闇の中、知り合いを探すこともままならず、不安や孤独と戦っていた。
せめて見知った人が側にいれば、少なくとも孤独ではない。共にこの意味不明な現状をやり過ごす者がいれば、それだけで元気が湧いてきそうな、そんな気がしたのだ。
だが光源なき海原では、例え声の届く距離に互いがいようと、目で確認することができず発見にはいたらない。
加えて、芽衣の呼ぶ崖ヶ岳 無縁(
ja7732)という少年は、返事などしなかった。
名が呼ばれたのは聞こえる。だが、大声で言葉を返そうという発想はない。胸の内で「ここにいるよ」と呟くに留めるのが彼だ。どちらかといえば、掴まえた救命ボートに乗る人々が小さな声で暗い話題で話す様子に冷ややかな感情を抱く方が大きかった。
●
客船の沈没からどれくらいの時間が経ったか。ある者が午後八時十二分を腕時計のバックライトで確認してから間もなく、午後八時十五分前後に、それは始まったという。
甲板の床板が外れたものと思われる、両腕を広げた程度の木材に掴まり漂っていた客船の乗務員がいた。この男は調理場を担当しており、ちょうどビーフシチューを煮込む鍋を見ていたところで船体が揺れた。当然のように鍋はひっくり返り、慌てて避けたものの左腕に火傷を負ってしまった人物である。
その水面下に忍び寄る不審な影に、気づけたはずもない。
「ぬぉぁっ!?」
素っ頓狂な声が響いた。
掴まっていた木材がひっくり返り、バシャリと海面に叩き付けられる。
不審に思った救命ボート上の人間が、かろうじて生きていたスマートフォンのライトで、声のした辺りを照らす。すると、水面に顔をつけたままぷかりと浮かぶ男の姿があった。
「しっかりしてください!」
ライトを頼りに男へと近寄った良助が泳いで近寄る。
肩を貸し、手を手近な浮遊物に掴まらせてやった。……が、どうも様子がおかしい。大人の男性にしては軽すぎる。顔を海面から引き揚げてやったのにせき込む様子すらない。
どういうことか?
「な――ッ」
男の体に目を移した良助は絶句。
腰から下が、ごっそりなくなっているのだ。断面からは紐のような何かが少しだけ伸びていて、海面に浮いているのが分かる。
下半身を食われたのだ。
さらに水面を見れば、男を運んで泳いだルートにはまるで蛇が這った後のように赤い血液が広がっている。
当然のように、男はこと切れていた。
驚いた拍子に良助は手を放してしまい、男の体はぷかぷかと水面を漂った。
「死んでても回収してあげた方がいいと思うよ」
「あぁ、崖ヶ岳! ここにいたんだ」
良助の近くにいた無縁が指摘すると、その声でようやく芽衣が彼を発見した。
救命ボート上から発せられるライトを頼りに泳いで近寄っていた芽衣は、これでようやく安堵する。
一方で良助は、我に返って男を回収すべく浮遊物から手を離した。
その時である。
巨大な黒い影が海面から姿を現した。それは上半身だけとなった男を飲み込み、剣のように鋭い背びれをギラつかせて海中へ潜った。
誰もが唖然。
止まる時間。
今の出来事を理解するのには、時間がかかった。
数秒。ほんの一瞬。
長い長い一瞬。
永遠のような刹那。
そして……。
「うわぁぁああああああッ!!」
●
四之宮 ひかり(
jc1359)は、流れてきたウキに掴まり、ただ海面の揺れるまま身を任せていた。
そもそも彼女は、このクルージングを非常に楽しみにしていた。
脚を持たず、車椅子生活を送るひかりにとって、旅行や催し物というものは非常に貴重な経験で、ましてパーティーがあるとなれば自然と気分も高揚する。
着る機会のなかったドレスに袖を通し、精いっぱいおめかしして、一生の思い出を作る意気込みで船に乗り込んだのだ。
美味しい料理に、愉快な同行者、波に揺れる感覚はまるで別世界に来たかのようで、何もかもが新鮮で、ほんの小さな出来事すらもが深く心に刻まれていく。充実感と言っても良い。
船が転覆し、海に投げ出され、車椅子も沈んでしまった今、彼女は絶望して――いなかった。
「大きなプール……。泳ぎ切れる、かな?」
過去の恐怖体験を機に、ひかりの五感から「都合の悪いもの」は消え失せた。脳科学的、精神学的な見地からの見解は割愛するにして、全てのことを都合の良いように解釈してしまうのである。
だから、彼女にとってこの海は、クルージング客のために用意された巨大プールでしかない。好きなだけ、気の済むまで泳いで構わない、限りのない自由なのだ。
●
「そ、んな……たべら……食べられ、た」
知り合いと合流してしまったがために、衝撃的な現実を目の当たりにしてしまった芽衣の瞳は揺れた。
無力で、抗いようのない、ひ弱な人間。その命が、自然のごくごく一部によって、引きちぎられたのだ。
撃退士と言えども、為す術なし。死を認識する暇すらなく、ただ無情なまでの現実がそこにはあった。
「あんなヒレ、見たことないな。天魔かな?」
「天魔……! たおさな、きゃ。やっつけなきゃ……。あ、嫌、嫌嫌嫌嫌ァ! たべ、食べられたくない!」
妙に冷静な無縁。
彼の呟きに、芽衣は錯乱しながら、使命と本音とがごちゃ混ぜになって、半狂乱になりながら濡れて重たくなった髪を振り乱す。
そこにあるのは、純粋な、死への恐怖だ。
「煽るようで悪いけど、お友達も集まってきたみたいだよ」
良助の言葉を、芽衣は一瞬理解できなかった。
落ち着いて周囲を見回した無縁の方は、意味をすぐさま理解した。
暗くてよく分からないが、鋭い背びれのようなものがいくつか、海面を裂くかのように走っている。
サメだ。
恐らく、先ほど食われた人間の血に誘われて、付近のサメが寄ってきたのだろう。あるいは、誰かが小便でも漏らしたか。陽が沈む頃から活発になるサメは、この日の晩餐を楽しむべく、労せずして大量の食材が並ぶ大テーブルへとやってきたのだ。
事態を理解した人々が悲痛な叫びをあげる。
「助けて、誰か!」
不運にも、慌てふためいた女性が、しがみついていた浮遊物から手を放してしまった。混乱し、狂乱し、恐怖し、女性は手足をやたらに振り回した。
これが、サメを刺激したのだろう。
海面に覗く背びれが徐々に女性へと迫っていき、やがて……。
「イヤァァアアァァアアァッ! ギャ、ンギィィイアァイィイッ!?」
およそ人間が発するものとは思えぬ奇声。
救命ボートの上からある人物がスマホのライトで女性の方を照らすと、醜く、痛々しく歪んだ表情の女性と、その脇で波に揺れる人間の足があった。
脚を食いちぎられたのだろう。
それから数秒と経たぬ内に、女性は海中へと引きずり込まれていった。
「見たくない見たくない見たくない……! 夢、そう、こんなの、ただの夢なの!」
涙すらも海水に洗われ、芽衣はいよいよ理性を失い始めた。
そんな折、怒りの感情を以てその様子を見ていたのが良助だ。
「こうやって……何もせず襲われるのを見ていろだなんて冗談じゃない! この体が朽ち果てようと最後まで抗って見せる。それが僕の意地、矜持だ!」
罪なき人々が命の危機に瀕している。そして撃退士である自分がいる。良助にとって、理由はそれだけで十分だった。
ヒヒイロカネからワイヤーを取り出した彼は、あろうことか、自分の腕にそれを深く食い込ませ、皮膚を、肉を切った。
流れ出す血液を見せびらかすように振り回すと、今度は光纏。その重みに任せ、彼は潜行していった。
「ねぇ、芽衣ちゃん。さっきの天魔、倒すんでしょ?」
その様子を見ながら、すぐ隣で発狂する芽衣に無縁は声をかける。
ぶんぶんと頷く彼女を確認すると、無縁は芽衣を抱えて陰影の翼を展開。飛び上がった。
芽衣の力を借りれば、この暗闇でも昼間と同じ視界を確保できるからに相違ない。
●
海中に潜った良助は、まずアウルの力で視界を確保。そこで目にしたのは、両手では数えきれないほどのサメだった。
映画で見たようなホホジロザメ……とよく似た、背の青いアオザメ。
頭部の形から別名ハンマーヘッドシャークとも呼ばれるシュモクザメ。
アオザメよりややズングリとしたイタチザメ。
ただ一口にサメと言っても、種類は多岐に渡るのである。
血の臭いに誘われた数匹のサメが、ゆっくりと良助へと近寄りだした。
目論見が上手くいったことを確認した良助は、隙を見せるため光纏を解除。サメが噛みついてくる瞬間を待った。
果たしてその瞬間は訪れた。一匹のアオザメが、良助の正面から迫ってきたのである。
ここぞとばかりに再度光纏。ワイヤーを用いた必殺の一撃、窮鼠・虎千噛を放った。
それが必殺の一撃であることは、陸上に限った場合である。水中ではどうしても水の抵抗に遭い、動作も遅くなれば力も入らない。ワイヤーはアオザメに掠りもしなかった。
体勢が崩れたところへ、三匹のサメが牙を剥く。
反撃の隙はなく、腕を、肩を、脚を噛まれ、抵抗することもままならず、ずるずると海底へと沈められていったのだ。
●
「……見えるかい?」
「全然分からないね」
絶望の園である海面から引き離されたことにより、芽衣はいくらか落ち着きを取り戻していた。
彼女を抱えながら飛行する無縁は、最初に男を捕食した個体こそが船をも転覆させたサメ型天魔であると当たりをつけて、上空からその姿を探す。
しかし、いくら探しても無駄だった。いくら視界が確保されても、海面はともかくある程度潜航されるとその姿を捉えることができない。加えて、相手の方が泳ぎが早い。既にどこかへと姿を消してしまったのかもしれなかった。
そんな時だ。
ひかりが、救命ボートに手を伸ばしたのは。
●
「車椅子のお嬢ちゃんじゃないか! さぁ、早く上がるんだ!」
「何言ってんのよ、その子まで乗せたらボートが沈むわよ!」
「脚のない子にそこにいろって言うのか!?」
そんなひかりの様子を見たボート上の男は、彼女へ手を差し伸べた。
しかしボートは既に定員。これ以上人が乗り込めことは不可能だ。この心ある男は、隣の女性に罵声を浴びせられながらもひかりへ手を伸ばし続けた。
一方で、ひかりにはそんな声など聞こえていない。
差し出された男の手は、プールサイドへ上がるための梯子か何かに見えてすらいた。
そう、彼女にとって、生きた人間すらも都合の悪いものだったのだ。
自己防衛のための幻影は、皮肉にも、自ら作り出した壁を破壊するものへと転じた。
梯子だと思って掴んだそれは、生者の動く手だったのだから。
「よし、今引っ張り上げて……」
「ァ……あ、アァァアアアッ!?」
触れることは確かめること、確認すること、認識すること。
ひかりの胸に、生物への恐怖が広がる。それも爆発的に。
一瞬呆けたような声が漏れたかと思うと、途端に絶叫。
生への恐れによって防衛本能を刺激され、力に任せたひかりはこの男を海へ引きずり落とした。
自分に危害を加えるかもしれない存在からは、逃げねばならない。さもなくば滅ぼさねばならない。それは本能によって行動する野生生物が行うソレと同義。
ヒヒイロカネから取り出したのは、ダガー。この男を亡き者にすることで、恐怖からの解放を図った。
「どうしたんだお嬢ちゃん!」
頭から水を被った男性がギョッと眼を見開く。
「大丈夫だ、何も怖くないんだ、だから落ち着いて――」
だが、自然は無情。
ひかりを落ち着かせようとしたこの男、真下から飛び出してきたイタチザメによって丸のみにされてしまった。
正面の男が突如消えたことでひかりは困惑。
そして緊張の糸がぷつりと切れた彼女は、そのまま白目を剥いて気を失ってしまった。
●
それから。
救命ボートの一隻は、シュモクザメの執拗な攻撃によって転覆。撃退士含め二十五名だった漂流者は、明け方には半数程度にまでなっていた。
あの後、サメに食いつかれて海へ沈んでいった良助は、十数分経って海面へ浮いてきた。光纏すらも維持できぬほどに衰弱し、意識も不明。体のいたるところに、噛みつかれた痕が痛々しく残っている。
ひかりは無縁らの手によって気道を確保され、ひっくり返った救命ボートをベッド代わりに寝かされた。大量に水を飲んだようだが、姿勢を固定できない状況によって海水を吐かせることは困難。人間の体では処理しきれないほどの塩分を摂取してしまったがために、後に彼女は緊急手術を受けることとなった。
捜索隊が到着した午前八時十一分。幸いにして難を逃れた芽衣は、眼前で幾度も人の死を確認したことから、口を開くどころか捜索隊員の問いかけに頷きすらもしない衰弱っぷりだった。
対照的に、無縁は普段と変わらぬ様子で、島へ戻るその時まで何事もなかったかのように捜索隊員と会話していたという。
この事件に原因も責任も存在しない。
撃退士には久遠ヶ原学園から、寸志とはいえ保障がなされた。
いわば金を握らせて糾弾されることを避けたのだ。
当事者がこの対応に納得したかどうかは、定かではない。