●
気球をご存知だろうか。
アレが宙を飛ぶメカニズムは、空気を熱し、それを囲い込むことで上昇するというシンプルなものだ。熱せられた空気は上空へと向かうことは周知の通りだが、複数人の人間を同時に持ち上げる力があるのだから、空気の上昇力というものは恐ろしく強いことが、この例で分かっていただけるだろう。
今回火災では、空気の上昇が目視出来た。それが黒煙である。
ビルから空へと伸びる黒い線。これが、火災に於ける、炎よりも恐ろしいものだ。
火災での死亡原因で、焼死というものは驚くほど少ない。では死亡原因の第一位は何か。それは酸素不足や黒煙に含まれる有毒ガスによる窒息・中毒死であり、死亡原因全体の約八割にも上る。
本報告書に於いてこの事実を理解している必要はないが、覚えていて損はないので冒頭に記述するものである。
加えて、本報告書には、火災に於ける対処方法を記述する場合がある。これに反した行動については、「本当はこうするとより良かった」といった指摘であるの、一つの知識として蓄えておいていただきたい。
●
現場に到着した撃退士の一人、エマ・シェフィールド(
jb6754)は、のっけから困っていた。
火災の発生したビルの隣――これもまたビルなのだが、ここに逃げ遅れた人が大勢いるとの報告を受け、救助すべく彼女は飛び込んだのだ。
「ボクは撃退士です〜! 皆さん、まずは落ち着い――」
「撃退士だってよ」
「助かった、逃げられるぞ!」
「急げ、早くしないと死んじまう」
一階に一時避難していた民衆は、エマの久遠ヶ原学生手帳を確認するや否や、すっかりディアボロの討伐が完了したものと思い込み、一斉に正面出入り口に殺到した。
もちろん、外ではまだ戦闘が開始されたばかり。今、正面出入り口からこれだけの民衆が外に出れば、どれほど人的被害が拡大するか分かったものではない。
だから、今はまだ外に出ず、例えば裏口を探すなどして安全に避難しなければならないのだ。
もちろん、そんなものが容易に見つかったのならば、とっくに彼ら自身で避難しているのだろうが。
「ま、まだダメです〜! ボクが合図するまで待ってくださ――」
「まだ待てってのか、ディアボロは倒したんだろ」
避難誘導は、リーダーとなる人物が、落ち着いて、ゆっくりと、まず身分を明かし、状況を伝え、命令口調で指示を二度繰り返すことが望ましい。
民衆は、状況が分からないから混乱する。早く恐怖から逃れたいと焦る。
だから的確に、手短に、指示を出さねばならない。人間の心理をよく理解し、対応する必要がある。
エマは、極限状態でパニックに陥った民衆が勝手に外に出ないよう食いとめるので手いっぱいだった。
これだけの混乱を落ち着ける術を、エマは持たなかった。
早く戦闘が終わってくれることを祈るしかないのか。エマの表情に陰りが見えたその時、一筋の光明が差し込んだ。
「全員落ち着け!」
一階のホールに、耳をつんざくような大音量で男の声がこだました。
瞬間、民衆は水を打ったように静まり返る。
「撃退士が助けに来てくれたんだ、まずは指示を聞くのが助かる道だ。で、撃退士さん、我々は何をすれば?」
「え? あ、はい、え〜と、え〜と〜……、まずは、裏口とか、安全な出口を探して――」
「聞いたか皆の衆! お前、お前、そしてお前ェ! 俺と一緒に出口を探せ。全員で動くとむしろ手間が増える、今指名したヤツ以外はここに待機して脱出の機会を計れ。いいな!」
エマの指示を受け、積極的に行動計画を脳内に起こしたその男は、見る間に実行に移した。
これに、民衆がざわめく。
しかし男は大きく息を吸い込んで一喝した。
「いいな!!」
「い、イエッサー!」
こうして、名もなき男の協力により、出口捜索が始まった。上手く見つかれば良いのだが……。
●
エマが向かったソレとは反対隣のビルへ向かった華愛(
jb6708)も、民衆の混乱に苛まれていた。ただ、エマと違う点があるとすれば、それは人手だろう。いや、正確には「人」手ではないのだろうが。
華愛はバハムートテイマーである。要するに、召喚獣を用いて活動することが可能だ。
「ヒーさん、まずは退路確保、なのですよ」
相棒のヒリュウ、通称ヒーさん。
退路確保とは、炎や瓦礫によって逃げ道を失わないよう対処すること。
もちろん、その間、華愛はパニック状態の民衆を抑えるために動くこともままならない。
その間、ヒーさんはただ一匹、避難口を見張っていた。
外での戦闘が長引いている。すぐに避難は叶わないだろう。かといって、火の手は待ってくれない。
ビルの最上階に、炎が燃え移った。
これを視覚共有で認知した華愛は、ヒーさんへ初期消火を即座に命じた。
恐らくヒリュウには消火器や消火栓は扱えないだろうと踏んだ華愛が、とっさに指示した消火方法は、「羽ばたいて吹き消して」というものだった。
命令とあらば、と最上階へ上ったヒーさんは、炎を確認すると指示されたことを実行した。
「きゅぃ〜っ」
この炎を吹き消すならば相当な風圧が必要だろうと判断したヒーさんは、気合一発、死力を尽くして翼を動かした。
結果として初期消火に成功したかといえば、否だ。風に煽られた炎は拡散し、消火どころか火の手が広がってしまった。
「だだだっ、駄目なのですよ! ヒーさんストップです! 戻って、戻って!」
慌てて華愛がヒーさんを呼び戻す。
こちらにも、エマの向かったビルのように、脅威的カリスマ性を発揮する者が民衆にいれば良かったのかもしれないが、アレは稀な事例だったのか、華愛は民衆のパニックへの対応に終始しなければならなかった。
●
外の戦闘はどうだろうか。
「早めに倒さないとだし、初手は確実にやらせてもらおうかな」
エマと華愛を送りだした後、ソフィア・ヴァレッティ(
ja1133)は物陰からこっそり飛翔した。
敵であるサキュバスには翼が見られる。要するに、敵もまた飛翔する可能性が高い。そうとなれば、まず敵を空へ上げないよう牽制し、常に広い視野で臨機応変に対応するには、先に自らが空に上がっておくのが得策と踏んだのだ。
「お願いします。……上手くいくといいんだけどなぁ。それにしても放火が好きなんて迷惑な話だよね〜」
滅炎 雷(
ja4615)は呟き、サキュバスの様子を伺う。なるべくなら敵の虚を突き、一気に仕留めたいところだ。上手くいく保証はどこにもないが、それでも試せることは試したい。
そんな中、中津 謳華(
ja4212)は冷静に敵を分析していた。
「魅了の術は厄介だろうが……人型である以上、俺には殺りやすい」
「それだけじゃないよ。この状況からすると、敵は火を使うかもしれない。情熱的な炎はノーサンキューだね」
ただ魅了するだけではない、と砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)は判断した。
この火災を引き起こしたのは間違いなくあのサキュバス。ということは、火を放つ力を持っている、と見るのが妥当だろう。
そうとなれば、不用意に接近するのは危険なのかもしれない。
作戦を確認しよう。
まず、ソフィアが上空から奇襲をしかける。
敵が空に気をとられたところへ、地上の三人が一気に攻めに出て、それぞれが敵の注意を引き、かく乱する。
そして隙を見せたところへ攻撃を集中させ、撃破する。
この際、魅了されないよう気をつけ、不用意な接近は控える。
恐らくこれで上手くいく。と、誰もが考えていた。
誤算……というより、実行に移して初めて気付いたことは、火災現場の上空に熱気が集中し、黒煙が渦巻いていたことだ。
奇襲を目論むソフィアは、まず初動を敵に気付かれてはならないと建物の屋上に身を潜めていた。
ところが、炎による熱気が上空に漂い、むせ返るようなソレに呼吸が乱れる。
黒煙も広がり、上手く敵を奇襲するための位置取りは、嫌でも煙を吸わずにいられなかった。
(ぶへっ、クラクラする……)
脳が揺れる感覚、そして目に沁みた煙が大量の涙を誘い、視界を奪った。上手く声を発することも出来ない。
通常ならば、この時点で死に瀕するところなのだが、なんとか意識を保てていたのは、アウルの加護によるものだろう。火災に遭遇したら、間違っても煙を吸ってはならない。要するに、良い子はマネしないでね、ということだ。
煙が広がったせいで、敵の位置もハッキリとは分からない。しかし、だからといって何も行動しないわけにもいかない。
仕方なく、ソフィアはアタリをつけ、煙を振り切るようにして急降下した。
(お願い、そこにいて――!)
祈りも虚しく、ソフィアの攻撃はサキュバスの位置から大きく外れていた。
当然、サキュバスは撃退士の登場に気付いたはずなのだが、敵は嫌味なほどに落ち着き払っていた。慌てて身構える様子もない。
「チッ、行くぞ」
謳華の合図で、地上の三人が飛び出した。
「お姉さん、悪いけどちょっと僕に付き合ってもらうよ」
「お嬢さん、僕と遊ばない♪ こっちの方が楽しいよ」
口々に誘いをかけつつ、雷はマジックスクリューを、竜胆はコメットを放った。
どちらも、遠距離から仕掛ける攻撃。
しかし奇襲に気付いていたサキュバスは、言葉もなく攻撃をかわしてしまった。来ると分かっているものを回避することは、さほど難しくはない。
まして距離がある。
身を翻したサキュバスが反撃に出る――かと思いきや。
「ねぇ……邪魔しないでくれる?」
などとのたまって、燃え盛るビルへと視線を移した。
撃退士に興味はない、恐怖もない。ただこの巨大な炎を見ていたいだけ。そんな様子だった。
近寄れば魅了、遠距離からでは攻撃のタイミングを掴みにくい。
そこで謳華が取った行動は、魅了されないように接近する、というものだった。
相手がどんな手段で魅了してくるかは分からない。分からないが、少なくとも、まともに相手を見てはいけないのではないか、という推測に頼らざるを得なかった。
せめて誰かが魅了される現場を見ることが出来れば、何か対策は出来たのだろう。
しかしそんな悠長なことは言っていられない。目を合わさず、敵の心臓の位置にだけ視線を置いて、謳華は地を蹴る。
肉迫し、強烈な一撃を叩き込まんとする。しかし、自ら視界を制限していた謳華は、サキュバスの動きに気付けずにいた。
「バァ♪」
ほんの少し膝を曲げ、視線を落としていた謳華の顔を覗きこんだサキュバス。
目と目が合う刹那、謳華の中に何かが弾ける感覚が迸った。
これは魅了なのだ、と自覚出来た。だというのに、抗いきれない衝動の波が押し寄せる。
「ほら、さっさと仲間連れて帰りなよ」
「ち、違う、俺には添い遂げると誓った女が……」
必死に抗おうとする謳華だが、これは誘惑ではない、魅了だ。いかに精神を強く保っても、いくら魅了されまいと言い聞かせようと、実際にはあまり関係がない。いくら身構えても、強烈な衝撃を受ければ失神を免れることが出来ないのと同様なのだ。
サキュバスの手が伸び、頬を挟まれ、強引に顔の距離を近づけられる。
この時点で、謳華の意識はトんだ。
魅了にかかった彼は、ふらふらとサキュバスを離れた。
そして主の言いつけた通り、仲間に切りだす。
「帰るぞ」
「馬鹿言わないでよ。なんのために来たんだ」
呆れた様子で竜胆が肩を竦めるが、術にかかった謳華に、言葉は通じない。全てはサキュバス様のために、といった思考だけが脳を支配しているのだから。
しかし謳華は繰り返し撤退を要求する。
その間、サキュバスはまた愉しげに炎を見つめていた。
むせ返るのを通り越し、吐気すら催させる熱気に、全身から汗が噴き出る。
火災は両隣のビルへと燃え移り、上半分に広がっている。火点となったビルは今にも崩れてしまいそうだ。
一刻も早くサキュバスを倒し、逃げ遅れた人々を避難させ、消防隊に引き継がねばならない。
撃退士達は、魅了を恐れて近づけない。いざという時のために飛翔を再開したソフィアも、次の一手を打てずにいた。
恐らく、サキュバスを討伐するだけの火力はあるはずだ。だが、隙がない。隙を作るための手が足りない。
「遠慮せずにさ、僕と踊ろうよ」
竜胆が審判の鎖を放つが、小出しにならざるを得なくなった彼の行動は、またも軽いステップで回避された。
ジロ、と竜胆を睨んだサキュバスは、帰れ、とでも言うかのように炎の矢を放つ。
咄嗟に、彼はマジックシールドを展開。直撃は避けたが、衝撃によるダメージは身体に残った。
しかし好機。サキュバスが矢を放ったことで、多少の隙が出来た。
「お姉さんには燃やされる側の気持ちを教えてあげるよ!」
そこで雷が撃ったフレイムシュートが、サキュバスを捉える。
炎に包まれるディアボロ。反撃のチャンスかと思われた時だった。
「アッハハハハ! タイムアップでした〜♪」
嬌声。
身を焼かれながら、サキュバスは声を上げて嗤った。
見れば、Sのビルが崩壊を始めたのだ。三階部分が大きくひしゃげ、窓ガラスが飛び散り、ポッキリと折れるようにして土煙りと共に倒れてくる。
時間をかけすぎた。
ソフィアは急ぎ謳華を抱えて飛び去り、竜胆と雷は倒壊に巻き込まれないよう逃げる。
「エマさんと華愛さんは!?」
「分からない、電話だ、俺はエマにかける!」
この場に留まることは危険が大き過ぎる。雷と竜胆の二人は、避難誘導に向かったエマと華愛に急ぎ連絡を入れた。
●
エマのいたビルでは、偶然居合わせた男性が強いリーダーシップを発揮したことで民衆が一応の結束を見せていた。脱出に使えそうな裏口などは見つからなかったものの、最終的にエマが壁を破壊して強引に穴を空け、民衆はそこから避難することが出来ていた。
一方で、華愛の方は……。
「く、崩れる!」
隣のビルが崩壊した煽りを受け、上から徐々に炎が迫る中、民衆の混乱と緊張は限界に達していた。
天井がメキメキと音を立て、外から見ればドミノ倒しのような形で、このビルも崩れようとしている。
遂に緊張の糸が切れた民衆は、華愛を押しのけ、我先にと脱出を計った。
しかし、手遅れだった。
「! た、助け……」
掻き消えそうな華愛の声は、瓦礫の落ちる音に掻き消された。
●
崩壊を見届けたサキュバスは、いずこへと消えた。
そしてようやく到着した消防隊が必死に消火・救助活動を行い、瓦礫の下敷きとなった人々を回収していく。
このビルに於ける生存者は一名。久遠ヶ原学園高等部二年、華愛。骨折箇所三。その他火傷、裂傷あり。
搬送先の病院で目を覚ました彼女は、自分が赴いたビルの人的被害規模を耳にして、夜通し泣き続けたという。