――二月十四日、正午過ぎ。処は中等部の家庭科実習室。そこに数名の人影があった。
「当の当日の、急な依頼を受けて頂き、本当に感謝致します」
両手を前合わせに深々と頭を垂れる少女に、ある者は面喰らった様に、又ある者は微笑や苦笑を浮かべた。
「篠ちゃん久しぶり♪ この前のバイト以来だね」
依頼人である壬生谷 篠が下宿する喫茶店で、以前に臨時バイトとして面識をもった天宮 葉月(
jb7258)の言葉に、顔を上げた篠もまた控えめに頬笑み返す。
「はい、お久しぶりです天宮様。あの節は色々とご面倒をおかけして」
「そんな大した事してないって。あと様付けなんて柄じゃないし、普通でいいよ普通で!」
変わらない少女の様子に、葉月はほっとする気持ちだった。あれから偶に店を覗いた事もあったが顔を見る事が無く、常駐(?)ウェイトレスの眞宮さんに聞いても言葉を濁すばかりで、気になっていたのだ。
懸案も片付いた所で、葉月は隣に立っていた男子生徒の腕を抱き込む様に篠の前に引っ張る。
「今日はちゃんと毒味役も連れて来たし、一杯失敗してもいいからね!」
「おい、今不穏な言葉が聞こえたんだが。初めまして、黒羽拓海(
jb7256)だ。どうやら葉月が世話になったようで」
拓海と名乗った少年と葉月は、所謂恋仲という奴である。
やや吊り目で細面の少年の自己紹介に、頭一つ分は高い位置を見上げてから、篠は再び会釈する。
「ご丁寧にありがとう御座います、そしてとんでも御座いません。私の方がご迷惑をお掛けしてばかりで」
準備を始めた二人と入れ替わりに篠に声をかけたのは六道 鈴音(
ja4192)と姫路 ほむら(
ja5415)。共に喫茶店のマスターとは縁があり、その故から篠とも繋がりを持った者である。
「六道様、姫路様もこの度は。実の所、見知らぬ方ばかりだと緊張してしまいそうでしたので…」
少し気が楽になりました、と小さく呟く。人見知りとも取れる表現だが、彼女の場合は実家での立場によるところが大きい。
「あはは、それだけでも受けた甲斐があったかな!あ、私も様は要らないからっ」
「俺も同じく。それに俺は丁度藤花先輩とチョコ作りしようとしていた所なんで、一緒にどうかなと」
と、ほむらは傍らの少女に目を向ける。
「初めましてですね、姫路君の知人で星杜藤花(
ja0292)です。私だと緊張させてしまうでしょうか?」
「い、いえ、そう云う事では」
藤花の言葉に狼狽える篠。別に藤花は厭味でそう云った訳ではない、寧ろ自分のせいで篠に緊張を強いてしまっては申し訳ないと表情を曇らせていたからだ。
「あの、星杜様はなんと言うか、側にいらっしゃるとゆるっというか、いえその、と、とても穏やかになれそうな気が、します」
しどろになって応える篠。実際、藤花を見ていると周りに「ふわゆるん」とか「ぽわほわ」とか擬音が飛び交う幻影が見えそうだった。
「そうですか、なら良かったです」
ほっと胸を撫で下ろすように頬笑む藤花に、篠も漸く落ち着きを取り戻した所を見計らい、
「初めまして、篠。片瀬集(
jb3954)だよ」
それまで器財の準備をしながら、篠の様子を窺い見ていた集が歩み寄る。まるで何かを察ろうとする様な彼の視線に、無意識に居住まいを正した篠が応じる。
「こちからこそ初めまして。この度はよろしくお願いします」
その反応に、少女が置かれた精神的な立ち居地が透けて見えた気がして。
(面倒だよね…色々と)
「?」
無言で凝と見つめてくる集に、篠が首を傾げる。
「なんでもない。教えるといっても料理は人並みくらいだから、これでレシピを確認しながら教えるよ」
言ってポケットから取り出したスマホをひらひらさせる。
「自慢じゃないけど、私も料理はあんまりなのよね。でも、レシピはばっちり覚えてきたからっ」
集の言葉に反応した鈴音に、彼は懐疑的な視線を向けた。
「覚えてって、諳記?…ちょっと確認してもいい?」
「ふっ、私の記憶力を舐めて貰っては困るわ!どんと来なさい!」
それから暫く、鈴音が覚えてきたというレシピの内容について集がスマホで検索確認するという一幕もあったり。
「所で依頼文を見て少し気になったのですけれど…壬生谷さんはバレンタインについては知っていらっしゃるのですよね?」
ふと思い出したように、並んで準備をしていた藤花が篠に問いかける。
「はい、級友の方々から大まかに。後はネットの方で少々」
「なるほど〜。ではチョコレートを食べた事は?」
その質問に、今度は暫く無言だった。
「実はその…どのような物かは存知ているのですが、未だ口にしたことは」
旧家の壬生谷の家では、菓子といえば和菓子のみ。而もお茶会の時か、何かしら行事の時に口にする程度だった。
「そんな事もあろうかとっ!」
「ひゃわっ!?」
「っっ!!」
まるでタイミングを狙い済ましたような、背後からの元気のいい声に藤花と篠は同時にびくんと身を震わせる。
「あ、驚いた?ごめんごめん♪ 私もあの文面見た時、星杜さんと同じ事思ってね。念の為材料用とは別に準備してきましたっ」
「は、はぁ」
あっけに取られる篠の隣に来て、市販のチョコレートの包みを開けると、ぱきりと一欠けら割る。
「篠ちゃん、あーん」
「え、いえ、流石に自分で」
「だーめっ、あーん♪」
葉月の押しに、暫し視線でレジストする篠。それをにこにこ笑顔の装甲で蹂躙する葉月。
(何をやってるんだ)
そんな恋人を、呆れ顔で眺める拓海がいたり。
「……っ」
気恥ずかしさで微り頬を染めながら、僅かに開いた唇に葉月が破片を放り込む。口元を隠して、確かめる様に味わう篠。
「…甘くて、美味しい」
「でしょ♪ これを溶かしたり砕いたりして、ケーキとかクッキーとかのお菓子に入れるの。そのままでも美味しいけどね」
こくりと頷いてから、「でも」と篠は続ける。
「こんなに甘いと、カロリーも高そうですね」
「…あー、まぁ、ねぇ」
人によっては本番前の試作品、その味見のせいで色々と大変になる魔性の季節でもあるのだ。主に体重計の針的な意味で。
先ずは基本中の基本、溶かして型に流し込む尤もポピュラーな作り方を葉月が見せる事になった。
愛用の包丁でチョコを刻み(この後練習させてみたら包丁が拓海の方に飛んで行ったとか)、それを湯煎。この時の温度管理について、鈴音や集の解説を受け、篠は興味深げに逐一メモを取る。
「これ大変だよねー」
溶けきったチョコのボールを、温度に気をつけながら水に浸け、混ぜ続ける。こうする事で光沢も良く、口当たり滑らかに、むらの無いチョコとなる。
「それでも美味しいチョコの為…ひいては愛しい彼の為…」
「と言う割りには、なんか雑っぽいような…」
その手元を一緒に眺めていたほむらが、思った事を口にする。
「あー…友チョコだから気が抜けてるのはあるかも」
(本命は今朝渡したしねっ)
「……」
意味ありげな流し目を送られた拓海が、態とらしく視線を外らす。それだけで周囲の者は大体把握した。
「?」
篠以外は、だったが。
次の手本は藤花。
「作るのはトリュフチョコ、難しいと思われがちですけど、実際そうでもないんですよ」
先の様に湯煎で溶かしたチョコを、生クリームに加えて混ぜ、暫く冷やす。時折へらでゆっくりと混ぜながら。
「人に贈る物ですから、美味しさもですけれど、見栄えも良くないといけないと思うんです」
ある程度固まった所でスプーンで小分けし、手の温度でチョコが溶けないように氷水で冷やしながら丸めて行く。
それに別で湯煎しておいたチョコをコーティングし、仕上げにココアパウダーを塗していく。
「…さっきのより、難しいです」
「ふふ、でも手間を掛ける分、思いの丈も確り閉じ込めると思えば、直に覚えますよ」
「思いを、ですか」
藤花の言葉に、見ていたほむらも頷く。
「昨日でもない、明日でもない今日と言う日に贈られる物。贈られた人は、込められた意味や思いをきっと考える筈だから」
それから向かい側で様子を見守りつつ、拓海とほむらも自分のチョコ作りに取り掛かっていく。
(まあ、寄ってたかってあれこれ教えても混乱するだけだろう)
拓海が作るのはザッハトルテ、オーストリア発祥でチョコレートケーキの王様とも称される由緒正しいチョコ菓子である。そして本来、凶悪なほど甘い。だが甘すぎる物が苦手な拓海は、自身にも食べられる様に調整したレシピで作る算段だった。
(受けておいて何なんだが…どうして俺は今日という日にチョコ菓子を作ってるんだろうな)
実家の手伝いでも無し、本来貰う側である筈なのにと胸中で語散る。一方で楽しそうに手解している恋人を眺めていると、それもいいかと思う。
さておきザッハトルテ、発祥を遡ると所謂本家元祖争いの様な顛末に辿り着く。彼が作るのは俗にオリジナルと称される生地の間にジャムを挟む形の方だった。
「よし、できた」
やがて上がる声に拓海は隣を見る。そして暫く、その完成品を凝視する。
「…なぁ、材料って普通にチョコ作りの材料だったよな」
「? うん、そうだよ」
何を当たり前の事をと、ほむらが応じる。
「ずっとじゃないが見ていた限り、手順も普通だった」
「そうだね」
こくこくと頷く少年。
「…なんでチョコムースが出来てるんだ?」
「チョコムースを作ろうとしたから」
どや顔である。
「ああいや、その、だな」
何かがおかしい、だが何を指摘すればいいのか。と、頭を抱える拓海の肩を、誰かが後ろからぽんと叩く。
「大丈夫、撃退士に常識は通用しないのよ」
達観したような表情の、鈴音だった。
「その理屈はおかしい。料理は撃退士関係ないだろ」
答える拓海に、鈴音はやれやれと首を振る。
「ほむら君、まだ材料あるから、あと何品か作って見せてあげて」
「いいけど」
「あれ、どしたのっ?」
篠の練習が一息ついて、ふと葉月が目にしたのは、恋人が別の調理台に突っ伏している姿。
「…いや、料理って何処から来て、何処へ行くんだろうな…と」
「何それ、哲学?」
●
六人がそれぞれに見守る中、篠が漸くチョコを完成させた。
「うん、そこを折って留めてラッピング完成。今度は、こっちのリボンをこう――」
「え?あ、こう?…あれ?」
悪戦苦闘しながらも、ほむらの手ほどきで可愛らしい包装も整える。その頃には他の者も必要な分のチョコを作り終えていた。
「はい皆さん、お裾分けです」
一通り片付け、藤花が作り置いていたトリュフを皆に配り、実習室備え付けの紅茶で一息つく事にした。
「篠さんの苗字って、雨音の店主と同じですよね。ご親戚ですか?」
日も傾き始めた頃。藤花は依頼を受けた時から気になっていた事を聞く。
「はい、一応、そうなります…」
応える間際、一瞬曇る表情を目の端に捉える拓海。
(…箱入りのお嬢様っぽいが、家の事での苦労とかしていたりするんだろうか?)
彼自身も実家の跡目なのだが、幸いにそう云った揉め事には縁の無い家だった。
「そうですか。私も旦那様もマスターにはご縁があるので、マスター宛のチョコも作ったのですが」
ならば一緒に航して頂けませんか?という藤花に、応える事も、拒否する事も出来ず篠は視線を迷わせる。
「篠さん、マスターとはやっぱりまだ…」
幾許かの事情を知っている鈴音の言葉に、少女は頷く。それにほむらも表情を曇らせた。
当然ながらそこを知らない藤花、拓海、葉月から疑問の声が上がる。だが残る一人は、ただ黙と篠を見つめていた。
集は篠と同様に陰陽師としては古い一族に連なる。壬生谷の一族についても多少識らないではない。しかし自らの意思で決別した彼は、少女とは立場が大きく違っている。これから篠がどう道を往くのか、それに興味があったから依頼を受けたといっても過言ではなかった。
(押し潰されるのか、それとも――)
それに、彼の店主には個人的に恩義も感じて居た故もある。
「そうですか…色々と複雑なんですね」
流石に口外するに憚れる部分は語れず、大まかにぼかして説明したほむらに、藤花が顔を曇らせる。
「でしたら私達の誰かに言伝と一緒に渡して貰うとか、考えた方がいいのでしょうか。篠さんはどうするつもりだったんです?」
「ええと、感謝のメッセージを添えてこっそりリビングのテーブルに置いておこうかと」
「それが無難な所かもな」
「…そうね」
顎に手を宛てて拓海が呟き、葉月も同意する。
「確かに置手紙や、誰かに渡して貰う手もあるけど…。君は満足できる?」
●
冬場の日暮れは早い。すっかり暗くなった外を眺め、もうお客は来ないだろうと霧雨は考えていた。
カランカラン――♪
「いらっしゃいませ、御1人様ですね」
だが、予想に反しての来店者。見覚えのある長髪の青年に、店主はにこりと頬笑みかけた。
「此処には1人ですけど…貴方が“怖い”と思っている人が待っています」
謐かに、真っ直ぐ告げる集の視線に霧雨は首を傾げる。
「藪から棒ですね。私が何を恐れると?」
「少し付き合ってください。といっても厨房の勝手口の方です」
「良く分かりませんが…分かりました」
カウンターに集を迎え入れ、厨房に向かう後ろについていく。彼が勝手口を開けると、そこに少年と少女が立っていた。
「姫路君と、六道さん?」
「今晩は、マスター!まずは、はい、これっ」
と差し出されたのは鈴音とほむらの、そして藤花から預かった物。日付を察した店主は、ああと頷く。
「バレンタインでしたね、ありがとう御座います」
笑顔で受け取りながら、開いたままのドアに視線を奔らせる。そこに隠れる何者かの気配に。
「あと、匿名希望の美少女から!」
続いて差し出された箱に、しかし今度は受け取ろうとしなかった。気配に、憶えがあったから。
「あのねマスター、その子は頑張ったんだよ!一生懸命教わって、色々失敗したけどちゃんと!」
「全部、自分で作ってた。真剣に、気持ちを込めて」
その様子に詰め寄る二人を制し、霧雨は傍らの集に声をかける。
「私がこれを恐れていると?」
「妥当な表現じゃないかもしれない。でも半端にでも、受け入れたのは貴方だ」
「…全く、御節介な話です、それにお人好しが過ぎる」
やれやれと言う風に首を振り、霧雨は鈴音の手からそれを受け取る。
「! マスターっ」
「匿名希望と言うなら、誰かは訊いません。存在を歪められた聖ワレンティウスに免じて、今日は受け取っておきます。ちゃんと食べますよ」
「あの!」
霧雨が背を向けて戻ろうとした時、扉の影から声が掛かる。
「…匿名の意味が無いでしょう、それでは。…何ですか?」
立ち止まる霧雨と、隠れた少女のやり取りに固唾を咽んで見守る三人。
「わ、私は…貴方に、護られている事を知っています。だから…ありがとう、ございます」
「……」
何も応えず、店主は店内へと戻って行った。だがその背中に拒絶は無かったと、ほむらには見えたのだった。