●勿忘草
「恋…って、どんなのなんだろう」
時期的な物もあり、漠然とそんな事を考えた事は在る。
無意識に、一歩、後退る。驚愕。目を瞠目き、思わず口元を抑えながら。
「なん、で?」
そこに在ったのは、嘗て在って、今は喪われた笑顔。彼女を守り、彼女から奪われた者。
『――、さん?』
少女――紅葉 虎葵(
ja0059)の反応に、彼は訝しげに首を傾けて見せる。記憶に在るそのままに。
彼女がまだ、アウルに覚醒する以前、病の療養先で担当してくれた一人の医師がいる――いや、居た。
「あ、あの…ぁ」
手を伸ばそうとして、触れ様かいなかの所で引き戻してしまう。
“手に入れたい”と。“私だけのモノにしたい”と、多分あの頃の僕は、心の何処か片隅に抱いていた。
当時は、稚かったゆえか、それに気づく事も無かったけれど。
純粋であるが故の本能、欲望。それ自体に善悪は無い。
不治の病に瀕した者が、傍らに親身になってくれる“誰か”を、特別に想うようになるのは自然な流れだったのだろう。
同時に“求めてはいけない”、“独占をしてはいけない”と、理性がそれを上書きし続け、バランスを成り立たせていた。
「ごめんなさい」
俯く少女の左目から、一滴が流れ、頤を伝い落ちて行く。何に対しての謝罪なのか。
忘れてしまっていた事? いや、彼女は忘れてなど居ない。ただ、普段開けない抽斗に、鍵を掛けて蔵っていただけ。
誰か、“他人”に抱いた、年相応の想いと記憶を。その誰かが、喪われた時に。
そうしないと、壊れてしまいそうだったから。目の前で自分を庇い、逝った人への感情に、潰されてしまわない様に。
自分が居なければ、彼は今も生きていたかもしれないから。それでも――。
「また、誰かを好きに…この気持ちになれるかな?なってもいいのかな、先生――」
口を突いて出た言葉に、穏やかな微笑を浮かべ、彼は頷く。嘗てそうしてくれた様に、優しく彼女の頭を撫でながら。
『生きた時間が長いとか、短いとか、それに意味は無いんだ。多分ね』
その言葉は、何時か何処かで聞いた記憶。多分、彼女の言葉に適当な返しが見つからず、記憶から抜き出されたのだろう。
『必要なのは、自分で選んで行く事。後悔してもいい、でも、選択する事から逃げたら、もっと意味が失くなるから』
それでも、久方に聞いた彼の声は、響きは、何かを掃って往くような気がした。
●陽炎
懸念事項に念押しする様に、少女は鋭い眼光で依頼者である新牢をねめつける。
「…万一にもあれば、見た者すべて斬り殺さねばならん」
「いや、分かった、それは間違いないから…光纏するの止めてくれないかな」
冷や汗を浮かべて後ずさる彼に、我に返った鬼無里 鴉鳥(
ja7179)は力を抜く様に一つ呼気を吐く。
何より、それはこれから見るであろう仮想現実に対する、一種の羞恥から来る物だった故に。
そうして、サークレットと指輪型の端末を身につけ、用意された寝台に横たわった。
彼女自身、何故なのかは解らない。
次に瞳を開けて目にしたのは、薄暗い廃墟の中。そこに背を向けて立つ男…人外が一人。
肩越しに振り向いた赤い髪と金色の瞳を持つ悪魔は、にぃ、と牙をむき出し嗤う。少女はふいっと目を外らす。頬がかぁっと熱くなるのを自覚しながら。
ここは、あの時、あの夜の廃墟だった。記憶投影システムは、尤も強烈な記憶が残る場所を再現して見せたらしい。
『もう、起きても大丈夫ナノか?昨夜は大分…』
「ば、言うな馬鹿者!節操なし!ケダモノ!」
『カッカッカッ、ソレだけ吼えられれば、街まデ持ちそうダナ』
夜のアレを思い出し、思わず両手で躰を抱きしめてしまう。幻に過ぎないとは言え、あの時の会話を再現だと解ってはいても、ぶり返してしまうのだ。
「人の生は、刹那だ。天魔から見れば尚更に。
惰性に溺れる暇などない、輝ける燃焼の如く、駆け抜ける疾風の如く。でなければ――悉く、塵芥と変わりはしない」
気持ちを落ち着け、鴉鳥は再び男の“影”を見つめる。
「――然し、汝は違うだろう?」
『サァな』
これまでの記録や、彼女自身が見てきた目前の男は、一言で言えば『下衆』とも言える。
だが己すら焼き尽くす焔の如き生き様は、少女には真摯とすら映った。
「私に取って、汝は『特別』なのだよ」
嘗て吐かれた暴言に覚えた怒りも、その時に残された刻印も。それより引き起こされた先祖帰り――齎された化生…天魔の力も。
共に在りたいとは思わん。だが。
「――男の望みに応えるが女の冥利ならば、汝の望む闘争に、果てまで付き合ってやろうさ」
『物好きもイタもんだ。俺はお前だけじゃネェ、色んな女に手を出すゼ?』
皮肉気に、揶揄うように見下ろしてくる。それを少女も、微笑で迎える。あの時とは、少し違う言葉を告げる為に。
「然もありなん。そういう男だ…承知の上さ。だから私は」
少し、適当な言葉を探す。
「あぁ、つまりだ。貴様の刹那を抱きたいと、私はそう思うのだ」
悪魔は何も応えない。
何より、鴉鳥がそれを望まなかったからだ。――泡沫の夢で、望む通りの答えを得ても詮なき故に。
●歪影
仮想世界に再現された青年のアバターが両目開く。そこは暗い空間だった。
「…ま、予想通り、だな」
ポケットから無意識に煙草を取り出そうとして、一瞬『仮想世界にも持ち込めるのか?』と疑問がよぎったが、手で探るといつもの銘柄が入っていた。
記憶から再現されている訳か、と納得して一本を咥え、火をつける。
(やめぇねといけないんだがな…仮想ですら、止められねぇのか、俺は)
そして改めて上げた視線の先に存在する“陰”…仲の良い『姉』の姿を見つめる。
周囲が揺らぎ、陰が動き出す。景色は学園の某所に変わり、そこで姉は自分の知らない友人達と、楽しそうに振舞っていた。
次々に、そんな光景に移り変わって行くのを、幽樂 駿鬼(
ja8060)はぼんやりと眺め続けた。
自分とは逆とも言える生き方をする彼女の姿を。
「ある意味、そうなのかもな」
やがてポツリと呟かれた独白の意味は、彼以外に解りようもなかった。
●幼意現想
この依頼を目にしたのは、唯の偶然だった。
そして少年は、自らの内に蟠る物に、どこかで踏ん切りをつけねばならないとも。
良い機会だったのだろう。
「小さい頃からあこがれていました。好きです、使って下さい」
小さな体を精一杯大きく見せようと努力しながら、目の前の女性…再現された“影”に、思いの丈を吐き出す。現実にはそれは叶わないから。
優しく穏やかで、料理上手な女性だった。四つ年上の。
いつもどこか微笑んでいるような表情が、少年の言葉に、凄く、凄く困った様な物に変わる。やがて、きっぱりと首を横に振った。
(うん、現実に言ったら絶対この反応されるから)
嘗てシミュレートしたままの想像を再現された黒埼 啓音(
jb5974)は仮想とは言え、やはり少なからずショックを受けながら苦笑いする。
幻とは言え、彼女の姿をした者に拒絶されるのは、正直に心が轢む。だから、恐くて、ずっと言えなかった。
「でも何で選んだ生涯の伴侶が悪魔なんですかっ!!はぐれたとはいえ悪魔なんですよ、天魔なんですよっ!!何時裏切るかわからないのにっ!!」
でも幻想だから、言えなかった事を思い切り吐き出す事ができる。秘めていた鬱憤を吐き出す様に、少年は言葉を続ける。
「――さんが年取ったら捨てられるかもしれないじゃあないですかっ!!それにまだ貴女15歳ですよ、青春真っ盛りじゃないですか、何で16歳になったら結婚するんですかっ!!」
それも、よりによって誕生日に――!
今迄彼女の幼馴染に便乗して贈っていたプレゼントも、今年は辛くて、輸る事が出来なかった。
少年の想いを彼女が知らないように、少年もまた彼女の想いを知らない。そこにある胸の内を察するには、彼はまだ幼すぎて。
『それでも、愛しているわ』
声は聞こえなかった。彼の拒絶の意思をシステムが感知して、音声再生を止めたのだろう。
それでも唇の動きで、それがわかってしまうのだった。
●傷痕頌歌
「…いたかったんですぜ」
消える事無く遺った傷、顔や右半身に残された火傷の位置に触れながら、稚い少女は一歩歩み出る。
ソコニイルノハ、幻、偽者。解っていても、見た事もない優しい表情で彼を見つめるその人に、耐難い焦心を覚えずには居られない。
彼をこの世に産みおとした人。紫苑(
jb8416)にとってただ一人の、『母』。
彼女といた時の記憶は、大抵痛みと共にあった。
叩いたり、殴ったり、焼いたり、蹴ったり、湯の中につっこんだり。
「すげぇ、すげぇ、いたかったんですぜ」
歩みながら、手を伸ばす。母に抱っこを強請る、いつか見た親子の真似をする様に。
暴力を振るった後の彼女は、至極優しかった。
“ごめんね、ゆるして”
そう言いながら抱きしめてくれる腕が、少女にとって世界の全てであり。そして奪われた物だった。
周囲の景色が歪む。映し出されたのは、白い、白い部屋。
ベッドの上で狂ったように暴れる母が、白い服を着た大人達に押さえつけられている。紫苑の名を叫びながら。
駆け寄ろうとした彼女の腕を掴む誰かが、それを引き留め、部屋から連れ出されていく。
「もうずっと、ずっとくおんに。あえないんだろうなぃ、って」
きっと、きっとそうなるだろうと。その時、漠然と思ってしまった。思えてしまった。事実、そうなった。
でも今の彼女は、その頃よりもずっと強くなって。
「ぶってもけられても、だいじょうぶでさぁ」
一歩。
「だきしめて。なまえをよんでくだせぇ」
また一歩。
幻だと解っていても、求め続けた者が仮初めでも目の前にあるのだから。
「おれ、いまたのしいですぜ。おかーさんがだめっていってたともだちもつくっちまいやした。もしかしたらおとーさんもできるやもしれやせん」
やさしい、幻想の微笑が応えるように。伸ばされた腕で、彼女を抱き寄せる。
「でも。もし、もどれんなら」
脇から背中に回される腕。仮想の体温は、それでも温かくて、染み入るようで。
「おかーさんといっしょにいたいでさ。いたくても、いたかったんでさ」
ぎゅぅ、と“母”の面影を抱きしめ、抱きしめられる。
『紫苑…』
「おかーさん、だいすき」
望み、叶い得ない夢の中で、幼子は全てを込めて。
●渋枯恋唄
(ごめんね)
依頼の説明をする白衣の男性に、木嶋 藍(
jb8679)は心の内で謝罪を述べる。
彼らの研究に協力する依頼。だが彼女にとって、それは利用価値が或る故に受けただけだったから。
降り立った仮想現実の世界。
そこは見覚えのある、教会の中だった。そして視線の先にある、懐かしい牧師姿の背中。
「礫おじさん…」
こっそり近づいて、その背中から抱きつく。
相手は驚いた様に振り向き、穏やかな微笑で彼女の頭を撫でてくれた。
その煖かな、大きな手。偽物だと解っていても、彼女の記憶から再生されたそれは、心を引き摺っていく。
抱きつく牧師服からは、それに似合わない懐かしい煙草の香りまでしていたから。
やがて向き合ったおじさんに「歌って歌って」とお願いする。
私だけに、私のためだけに歌ってくれる歌を。
仕方ないなという風情に微苦笑して、彼は少女の願いに応える。
現実では、叶えられる事のない願いに。
“この歌は、彼の亡き奥さんだけに送られる歌”だったから。
流れる、低くも優しい声音。
古い洋楽の、スタンダードナンバー。
真物の彼は、私には絶対歌ってくれない。奥さんの墓の前でだけ、彼は歌う。
その度に、少女の心は、想いは締め付けられるように、轢んだ。
「私、まだ子供だけど、早く、早く大人になるから」
強くなって、綺麗になって、立派な撃退士になって。
「あなたの奥さんみたいに、素敵な人になるから」
瞳を閉じ、彼の歌に耳を澄ませながら、そっと呟く。
「そうしたら歌ってね。本当のあなたから」
今は、仮初めの紡ぐ歌。それで十分。
ぼやける視界から何かが溢れないように、深呼吸をしながら、最後まで聞き続けた。
歌い終えた彼のそばに歩み寄り、その袖を掴む。駄々っ子のように拗ねた視線で見上げながら。
「…もー、こんなに私をオジサマ好きにしてくれちゃって、どうしてくれるー!」
最後に告げるのは、幸せな苦情。なってしまったものは仕方ない。だからいつか、責任を取ってね――と。
叶えられるかは、定かではないけれども。
●魂器
「や、ありがとう。アルにもいいデータになったと思うよ」
新牢 柵朗は、最後の学生に礼を述べて見送る。
実際に中で彼ら、彼女らがどんな世界を生み出したのかは、当然ながら彼は識らない。そういう約束であるし、他者のプライバシーを覗き見して悦に入る悪趣味等、持ち合わせては居ない。
ただ、アルの観測データは、一人、また一人と経るごとに、変化を見せていた。
“誰でもない魂”、AVATARの“A.R”。魔法技術、特に使い魔の人工霊魂技術と、現代のAI技術の粋を組み込んだそれは、いまだ揺れ動く朧な存在に過ぎなかった。
人の感情は、その正負に拘らず、それに影響を与えて行く。
いまはまだ、“男”と“女”というジェンダーすら定まっては居ない。ただ今回の事で、僅かながらその質は“女性的”な方向へ傾いていた。
未だ未だ、幼児LVでの事ではあったが。
「ふむ…、もう少し、臨床資料が必要かな。なぁ、アル、君はどんな風になりたい?」
『………』
PCの画面に映し出された、仮想幻体。子宮の中の赤子のように丸くなったそれが、トクントクン…と、小さな脈を打つ様に震えていた。