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1日目、昼。自家用機からヘリポートへと降り立ったモチを迎えたのは、薔薇の花束を携えたカミーユ・バルト(
jb9931)だった。
「モチくん、いや、姫……まずは歓迎しよう。ようこそ、久遠ヶ原学園へ」
貴族服をしっくりと着こなした艶やかな立ち姿にモチは目を奪われる。そっと取られた手の甲に、優雅な笑みをたたえた唇が近づく。
モチは自分の内なる激情を感じ、瞑目した。ふと空を仰ぎ、次の瞬間、滝のような鼻血を噴く。
水芸にも似たそれは『ノーブルバイオレット万歳』という文字列を成していたが、鳥の目にしかわからないことだっただろう。
返り血は女中頭のヨネが背面高跳びの要領で全身できりもみして回収した。周囲を汚さないように横転したヨネはカミーユの足を掴んで叫んだ。
「姫、逃げてくだされ! このままでは失血死も免れませぬ!」
「なぜだ、姫……。この高貴さ。この気高さ。この隠せない気品のオーラ。だというのに、姫の心を掴むことは叶わないというのか……」
「コポォ」
ヴィオラの旋律のように甘やかな声音だ。血がいくらあっても足りない。モチは後ろ髪を引かれる思いで、ヘリポートを脱出した。
通路をひた走り、だが、手で鼻を押さえていたせいで、前が見えていなかった。曲がり角で砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)にぶつかってしまう。
「おっと」
だが、尻もちをつくようなことはなかった。絶妙な力加減で抱き支えられ、モチは心臓がとまるかと思った。
「ぼんやりしてたよ。ごめんね、可愛いお嬢さん。大丈夫?」
あまりの衝撃に鼻血もひっこむ。顎をクイッと持ち上げられ、見上げた瞳は緑と青紫のオッドアイ。
くしくもマンガで見たことのある構図だった。幻惑されるようにふわふわとうなずいたモチに、砂原は微笑する。まるっきりの、不意打ち。
ときめきの導火線に至近距離で爆薬を投げつけられて、モチ's heartはデッドなビートを刻んだ。あまりの尊さにモチの頬に流れ星のような涙が伝う。
(嗚呼……神が創造したもうたのは素数と伊達眼鏡だけじゃった……!)
モチは意識を失った。
(なんじゃ……また、夢か……)
いつにもまして非現実的な夢だった、と寝返りを打った彼女は、次の瞬間、自分の思い違いに気がついた。枕元に須藤 緋音(
jc0576)が腰かけていた。
「お目覚めになられましたか?」
「じ、事後か……?」
「あ、大丈夫そうですね。そのままで構わないので聞いてください」
膝に置いた本をいかにも丁寧に閉じ、モチに向き直るその姿は波打つ髪も相まって、本のページに棲む妖精のようだった。
「今回の訪問の目的についてすり合わせをしておきたいのです。ご承知のこととは思いますが、アウルが覚醒していないと学園に入学することはできません。ですから、お忙しいお父様の代わりに学園の視察にいらした、と。そういう建前を作っておきましょう。モチさん、ヨネさん、お二人の為に。後々にお父様に知られてただ叱られるよりはましでしょう」
「うむ、それはそうじゃな」
「ですから、2泊していただいて、3日目の午前中には視察を終了してお帰り頂くことを、学園に申し入れておきました」
「う、うむっ?」
「モチさんも、それで納得してくださいね?」
モチは言葉に詰まる。視察という名目ならば期間が設定されているのは当然だ。一本取られたような気持ちで緋音を見返すと、ヘーゼルアイは思慮深げに細まった。本の妖精という認識が正しかったことを、モチは悟った。
「相分かった。よしなに頼む」
「ありがとうございます」
「……ふっ。情けないのう。マンガの世界に憧れ、息まいて屋敷を出たくせに、ナマの男に動揺してしもうたのじゃ」
シーツに映る影は、輪郭そのままに丸い。ぐったりうなだれるモチに緋音は首をかしげた。
「……なんでも経験ですよ。私も「世間」と言うものについては、まだまだ未熟で」
「なんと。そなたがか」
「はい。私たち、似通ったところがありますね。私は病がちで、モチさんは家庭の事情で、本が『世界』との窓口で――」
運命的な出会いに、モチの口元は緩んだ。自分がこんな風になれるかもしれない未来を思い描けることが、今は嬉しかった。緋音は立ち上がってモチを見た。
「……まだ、夕方です。良ければ顔合わせも兼ねてみなさんで家庭科実習をするというのはいかがでしょう」
「家庭科実習!? まことか!」
「ええ。男子たちも心配しているでしょうし……」
苦笑した緋音の視線の先には薔薇の花束があった。モチが手に取ると、中からコロンとバレッタが転がる。カミーユがプレゼントに用意した品だろう。モチは胸が痛んだ。砂原も気絶したモチをどう思っただろう。親切にしてくれた彼らのことを考えると、彼女は体から力が湧くのを感じた。
「よろしく頼む! わらわは『くっきい』なるものを作ってみたいのじゃ!」
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2日目、朝。モチは教室の壇上で教師から学園視察の使者として紹介されていた。夢にまで見た謎の転校生状態にモチは胸をときめかせた。
(あっ、あやつは……)
自席で目を閉じ腕と足を組んで座る薄氷 帝(
jc1947)の姿に、モチは目を丸くする。昨晩目にした顔だった。マフラーで口元を隠しているせいか、どこか感情が読めず、モチは冷たい印象を受けていた。
(もしかすると、わらわのことをよく思っていないのかもしれぬ。いや、薄氷に限ったことではない。皆、わらわによくしてくれるのは、父上の威光があるからじゃ)
そう思うとモチは昨夜の思い出が濁っていくのを感じた。
(父上に雇われた者どもと変わらぬ)
「モチ」
モチを暗い思考から救ったのは、薄氷の通る声だった。空席を示し「隣りだ」と言う。自分が壇上にいることに気づいて、モチは慌てて彼の隣りに座った。教師が咳払いをする。
「えー。では、今日は皆にいいところを見せてもらわないとな。抜き打ちテストだ!」
教卓にドンと置かれたプリントの束に、教室中からうめき声が上がった。
(『ぬきうちてすと』じゃと……!)
モチは戦慄した。周囲の慌てふためきように、ではない。隣席の銀髪の青年の冷めきった態度にだ。
(こやつ、表情ひとつ変えず……!? やはり只者ではない……!)
前から送られてきたプリントを、モチはひったくるように取った。科目は国語。教室中に満ちる筆記具の音、前に立つ教師のカンニングを警戒する視線。大パニックに陥ったモチは机上から消しゴムを落とす。
(あばばば)
教師は腕時計を確認しており、気が付かない。雑煮に浮いた餅のように脂汗を垂らすモチに、薄氷は無言だった。片手で消しゴムを拾い、机に置いてくれる。
(……えっ)
何事もなかったかのように答案を埋める薄氷の横顔に、モチは見惚れた。テストが終わったあと、モチは薄氷に話しかけた。
「でかしたぞ、薄氷。先の一件、父上に伝えればそちの覚えもめでたかろう」
普通にお礼が言いたかったのに、そんな上から目線な言葉しか出てこない。薄氷は沈黙したままモチを見ている。読めない表情にモチは途端に気圧された。
「モチ」
「は、はい」
「俺も、他の連中も全員、お前の親御さんに雇われているわけじゃない。お前とは対等な存在だ。どちらかが上、などということはない。それだけは忘れるな」
言葉の意味を理解して、モチの顔はさっと赤らんだ。思えば、薄氷の態度は一貫して変わっていない。
へりくだるでも、恩に着せるでもなく、まるでただの友達であるかのように接してきたのだ。それが、あたりまえみたいに。
うつむいたモチに薄氷は「言い方がよくないな、すまない」と言った。モチは首を振る。薄氷の優しさは痛いほど伝わっていた。
「わらわこそ、すまぬ。明日、帰らねばならぬのかと思うと、急に恐ろしくなってな……疑心暗鬼に駆られておったのじゃ」
「…………」
「わかっておる。父上に逆らうことなどできはせぬ……」
「……思い出だけ作って満足か?」
「えっ……」
「ここから先は、お前次第だぞ。一度帰ったらしっかり親御さんと話をしてみろ。……友として、応援している」
友。その甘美な言葉に、モチは薄氷を見る。怖いようだった蘇芳色の瞳が、今はなぜかひどく暖かいもののように思えた。
(あんなに冷たいのに、あんなに甘くて……まるで、この『あいすくりいむ』のごとき男であったのう)
放課後、クレープにトッピングされたアイスクリームを一口かじり、モチは嘆息する。
「モチ、口の端に生クリームが付いておるのじゃ」
物思いに耽るモチの顔に、幼い手が伸びる。指で生クリームを取り、自身の口へ運んだアヴニール(
jb8821)は満面の笑みを浮かべた。
「うむ。これで良し。じゃ」
あまりのことに、モチはクレープを片手に電柱にガンガンと頭突きをかます。
(いかん、気を抜くと何かに目覚めてしまいそうじゃ……!)
そっと横目でうかがうと、アヴニールはいかにも幸せそうにクレープを頬張っている。
柔らかな皮を食む唇。上下する白い喉。モチの視線に気がつくと、大きな瞳を煌めかせて笑う。
「美味しいの。モチは如何じゃ?美味しいかの?」
「おいしいです!!」
モチは鼻からストロベリーソースを垂らしながら力強くうなずいた。ややキャラが変わっていたが、アヴニールは動じなかった。ますます嬉しそうにする。
「モチは『運命のヒト』を探しておるのじゃな」
「はい!!」
「……こうして、縁あって出会えた我らが『運命のヒト』かも知れんの。」
「はうあうあ!」
もはやモチはこの小さな可愛らしい悪魔の虜だった。興奮のあまり人語を忘れ、モチは電柱をかじった。気付け薬代わりにクレープを貪り、飲み下す。
(まさに魔性……! 全射角対応済最終兵器少女とはこのことか!)
情熱と冷静のあいだで揺れるモチの顔を、アヴニールはじっと覗き込んだ。長い睫毛が、どこか物憂げに伏せられる。
「然し、お父上はさぞ心配なのじゃろう。勿論今も、心配していることであろうな…」
モチははっとする。アヴニールの過去については軽くだが説明を受けていた。戦火に巻き込まれ、死に別れたのだと。
「我の両親は…今はもう亡き者じゃが…家族は大切じゃ。我も執事とは…家族とは会えたがの。御父上に心配をかけるのはきっと駄目な事じゃと思うのじゃ」
古傷を自ら開いて見せるようにして語るアヴニールの言葉は、血が滴るような実感が伴っていた。
(父上……)
海外出張中の父・大福をモチは想った。アヴニールくらいの年の頃は、父に家にいてほしがったことをよく覚えている。悲しい過去を受け止めて凛と前を向く彼女を、モチは眩しく思った。
「また機会が有れば、一緒に過ごしたいのじゃ。我も未だに日本の事、文化、余り知らぬのでな」
風に長い金髪をなびかせ、少女は笑う。
「モチと一緒に色々な事を体験できるのが、楽しみなのじゃ」
その姿は、以後、モチの脳裏に永く留まることになった。
最後の夜、モチは葛城 巴(
jc1251)の部屋で過ごした。
なるほど夜伽役かと勇んでドアをノックし、招かれたモチは認識を改めた。
BL本!ハーレクイン!歴史もの!
部屋に燦然と輝くマンガの山に、モチは廊下まで吹っ飛ぶ。
「1冊あげるよ。でも読むのは帰ってからね。今は、今しかできない事をしようよ。」
改めて話を聞いてみれば、葛城はすでに運命のヒトをゲット済らしい。夜伽役などとんでもない。モチが足元にも及ばないレベルの恋愛道黒帯ネキであった。
「彼と居ると、嬉しくて、楽しくて、悔しくて、もどかしくて、時々泣いちゃうよ」
恋とは甘くて幸せなもの、という認識を持っていたモチには、経験者の談は衝撃だった。ベッドの上でごろごろと恋愛マンガを広げながら、コイバナを繰り広げる。
彼のメールを心待ちにしていること、メールするネタを見つけるのが楽しみなこと、よく励ましメールを貰って嬉し泣きしていること。
モチは熱心に葛城の話を聞いた。
具体的には彼女が「恥ずかしいからその辺で勘弁して!」と言うまでだ。
火照った頬をこすり、モチは「そんなに好きなのに、一緒にはいられないのじゃな」と呟いた。
「……好きなだけじゃ、一緒には居られないの」
切なげに呟く彼女の瞳の奥は、だが、情熱的に燃えている。その身の裡から立ち上る熱さに、モチは魅せられた。
(わらわは……)
深夜、巴の横で、モチはぼんやりと天井を仰ぐ。
(わらわの『運命のヒト』は……)
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最終日、朝。モチはヘリポートへと向かっていた。エレベーターのボタンを押す手に、ふと、男の手が重なる。
「カミーユ……!」
「姫……似合っている」
バレッタでまとめた髪を梳く手からは、香水の香りが漂っている。モチは胸がしめつけられるのを感じた。
「姫は、暖かいな」
カミーユはモチの体を強引に引き寄せた。ピッタリと寄り添いモチの両手を自身の手で包む。
「こうして居れば、尚、暖かい。」
口元から覗く白い歯に、モチはめまいを覚えた。もはや鼻血も枯れ果てた。大人しく抱かれてしまえば、エレベーターの到着音さえ惜しいもののように感じる。だが――。
「……乗らないの? プリンセス」
エレベーターに乗っていたのは、砂原だった。モチの顎を持ち上げる。
「さあ、どうする? ……モチちゃん行動力あるんだから、それ埋もれさせてたら損だよ?」
一歩踏み出せば、砂原が。その場に留まれば、カミーユがいる。
(わらわは……)
そして、モチは――。
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みるみるうちに久遠ヶ原学園は遠く、小さくなった。自家用機でヨネに足を揉まれながら、それでもモチはじっと食い入るように窓の外を見ていた。
ヨネは口を慎んでいる。長い人生で許されたたった三日間だったのだ。悔いが残らないわけがない。
できなかったことはきっと山のようにあるだろう。親の都合に縛られるモチを、ヨネはつくづく哀れに思った。
「のう、ヨネ」
「……なんでございましょう、姫」
「わらわはまた、必ず、ここへ戻ってくるぞ」
叱責を覚悟していたヨネは、モチの静かな声に意表を突かれた。ちらりと表情をうかがえば、窓ガラスに映るモチの顔面は涙と鼻水でグチャグチャだ。
「姫……」
「友がおる。会わねばならぬ者たちが……また会いたいヒトがおるのじゃ」
カミーユの優雅な所作。
砂原の自由な眼差し。
緋音の聡明な微笑。
薄氷の誠実な横顔。
アヴニールの清廉な立ち姿。
巴の凛然とした覚悟。
あの日あの時、隣にいたいと思った、そのすべてが、いまのモチを形づくっている。
「本当じゃぞ! 本当に帰ってくるんじゃからな!」
「もちろんでございますとも。姫、泣かないでくださいませ」
この数年後――今はまだびいびい泣いているこのモチが、箱入家当主である父の跡を継ぎ、久遠ヶ原の良きスポンサーとして再び学園へ視察に訪れることとなるのだったが、それはまた別の物語。
モチの『メチャLOVE★すくうるらいふ』は、こうしてひとまずの幕を下ろしたのだった。