●水深20m
こぽり、こぽり……
自分の吐息が、細かい泡となって登ってゆく。
ゆっくり、ゆっくりと。
(落ち着かなくちゃ、落ち着かなくちゃ……)
女は何とか息を整え、タンクの残圧計を確認する。
(このままだと持って三十分……)
彼女は迫る死への恐怖でパニックを起こしそうになるのを、今必死に耐えている。
●海上
八人の撃退士たちは、船で現場に移動しながら準備を進めていた。
「15mか……パニック映画に出てくる巨大鮫の倍ぐらいあるな 」
険しい顔でつぶやくのは瞳と同じ銀のダイバースーツを着た谷屋逸治(
ja0330)。
ダイビング器材を装着しながら、煌めく水面に視線を馳せる。
(一撃も重たいだろうし、仲間への援護を徹底して戦わないとな……)
器材装着を終え、立ってみる。ずしり、とタンクの重みが身体中に伝わる。
逸治は清清 清(
ja3434)と共に船上で仲間を援護しながら戦う予定となっていた。自身の攻撃方法や回避能力を考えた結果だ。
しかも、今回は敵の能力が全く分からない。
万が一のことを考え、例え機動力が落ちるとしても器材を付けたまま戦うことを彼は選んでいた。
「水中での戦いは初めてねぇ……術が普通に使えればいいのだけれど」
黒のスーツに身を包んだ卜部紫亞(
ja0256)が、落ち着いた声音を発する。長い黒髪が、潮風を受けなびく。
おっとりとした雰囲気の彼女だが、天魔に対する内なる憎悪は深い。今回の依頼では救助班に加わっているものの、実際は救助者のことよりも敵を倒すことが第一の目的であったりもする。
しかしそこは、努めて胸の中に抑えてはいるわけで。
「とりあえず後顧の憂いから片付けようかしらね」
紫亞はそう言いながら、救助用に使う金属檻に縄をくくりつけた。
●到着
「こんな綺麗な海に現れるなんて、無粋なサメよねー。……フカヒレにしてやろうかしら」
現場に到着して第一声を発するのは、藍 星露(
ja5127)。
長い手足を橙色のスーツに包んだ姿は、彼女の容姿と相まって人目を引く。腰の位置よりも長い髪をさっそうとまとめながら、星露は内心でひとりごちる。
(サーバントさえいなければ、家族を連れてきたいところだわ)
実は人妻であり、双子の母でもある彼女。例え戦いの場であっても、家族への思いは消えることは無い。
そんな星露が全身のアウルを脚に集中させた、直後。
「敵が、来たみたいなの」
橋場アトリアーナ(
ja1403)の声に、皆一斉に船首へと視線を向ける。
前方に見える海面の一部が突如盛り上がり、大きな背ビレが現れる。それと同時、巨大な影が近づいてくるのが見えた。その大きさたるや、乗ってきた船よりも大きい。
「……思ってたより、ずっと大きい」
15mと聞いてはいたのだが、実際に見るのと聞くのとでは全く違う。一歩誤れば、自分たちなど簡単に食われてしまうだろう。
「でも、負けるわけにはいかないの」
絶望的とも言える大きさを前に、それでも彼女の意志は揺るがない。
必ず救う。
救えなかった後悔は、もうしないと決めた。
海中陽動班である彼女は、水中マスクとレギュレーター(空気を吸うための器具)を咥え、勢いよく船から飛び込む。いつもは戦闘時も身につけている赤いリボンの代わりに、真紅のスーツを身につけて。
陽動班のメンバーが次々と海中へ消える中、救助班のソフィア・ヴァレッティ(
ja1133)とRehni Nam(
ja5283)も海中に入る準備をしていた。
「鮫型……能力も、本物を模してるのでしょうか?」
予備ボンベを檻に装着させたレフニーが、船の周囲を徘徊する鮫を見ながらつぶやく。彼女のスーツはそのオーラによく似た白。今や立派な盾アスヴァンとして前線で戦う彼女は、白騎士のようでさえある。
レフニーの手にはあるものが握られていた。これが上手く、使えればいいのだが。
「陽動班の引きつけがはじまったみたいだね。こっちもそろそろ、入ろうか」
目の覚めるようなバイオレットスーツに身を包んだソフィアを、黄金色のオーラが纏い始める。
普段は元気いっぱいの彼女だが、既に意識は要救助者へと向けられている。依頼時における彼女の意識の切り替えは早い。
「助けを待ってる人のことを考えると、早めに救助しなくちゃだね」
ソフィアとレフニーはうなずき合うと、檻と共に静かに水中に沈む。
ここからは皆、会話が出来ない。そんな中互いの連携がどれだけ上手く行くかが、勝負だ。
●海中
海中は、陽の光が差し込み、きらきらとたゆたっていた。
色とりどりの珊瑚、数え切れないほどの魚たち。すぐ側で鮫が泳いでいるとは思えない、静かで美しい空間。
それを見たカーディス=キャットフィールド(
ja7927)は、ほうと感心する。
(こんな世界もあるのですね……)
普段は読書や料理が好きで、アウトドアとはめっきり縁がない彼にとって、海中で見る景色は新鮮そのものであった。カーディスは強く思う。
(ここを墓標にするわけにはいきません。絶対に助けます)
深緑のスーツに身を包んだ彼は、同じく緑色のオーラを纏い鮫がいる方向へと一気に加速する。
カーディスの動きに気付いた一体が、彼に向かって身体を繰り突っ込んでくる。
そのあまりの水圧に吹き飛ばされそうになるのを耐えながら、彼はぎりぎりの所で噛みつきをかわし、背後に回ることに成功する。
(サーバントの思うようにはさせません、動きを止めてみせます)
カーディスは即座に隠密を発動させると、用意した大型の網を手にし背後から隙をうかがう。
前方では、闘魂解放で集中力を上げたアトリアーナが、正面から鮫に向かってランスを構えていた。ジェット噴射による加速を利用し、突進する。胴に攻撃を受け鮫がひるんだところをカーディスの網が捕らえる。
(やりました)
網が絡み簀巻き状になった鮫は、格段に動きが鈍る。ヒレを上手く動かせないため泳ぎが鈍くなったのだ。
その直後、星露が放った蛇龍がもう一体の鮫の鼻先に叩き込まれた。後方にはじかれる鮫。しかし水中では物理攻撃の威力は半減してしまうため、大したダメージにはならない。
(今はとにかく……敵の目をこっちに引きつけられれば、十分)
目の端で沈む檻を捉えながら、星露は内心でつぶやく。
一方、要救助者の元へと移動していたソフィアとレフニーは、海底へと到着していた。
水中コンパスを使いながら、要救助者を捜索する二人。すると岩陰から、幾筋もの泡が登っているのを発見する。
ソフィアはレフニーに合図をすると、岩場の影へと慎重に移動する。
ここで目立って鮫に見つかってしまっては、元も子もない。
泡が出ていた場所をのぞき込むと、そこには水底でうずくまる女性の姿がある。彼女は二人を見ると、必死に助けてと訴え始める。
(落ち着いてなのです!)
ソフィアが檻を開ける準備をしている間、レフニーは女性の肩に優しく触れなだめる。言葉は交わせないが、助けてもらえると言うことは理解したのだろう。彼女は段々と落ち着き始めた。
(じゃあ、とにかく上へ上がろうか)
ソフィアの誘導で、女性は檻の中へと入る。レフニーが予備ボンベに繋いでいるレギュレーターを彼女に咥えさせた。
(もう安心なのですよ。これがあれば、引き上げが長引いても大丈夫)
●船上
「遅いな……まだ檻は上がってこないのか」
鮫が船に近づかないようけん制射撃を続けながら、逸治がつぶやく。
二体の鮫は海上に上がったり沈んだりをしながら、船の周囲を動き続けている。恐らくは陽動班の動きに合わせて、移動しているのだろう。
「急激な浮上は危険ですから。仕方ないのでしょう」
淡々とそう返すのは、海のように鮮やかな青色のスーツを着た清。髪も瞳の色も全てが青に包まれた彼は、どこか神秘的でさえある。
「随分と落ち着いているんだな」
逸治の言葉に清は微かに首を振る。
「いいえ。落ち着いてなど。ただ救えないなら、ボクに価値はありませんので」
そう返す清の表情からは、何の色も読み取れない。
ただ、人を、天魔を救いたい。
その為にできることは、天魔を滅ぼすこと。死こそが天魔への唯一の救いであると信じる彼の意志は、固い。
「……来たみたいよ」
紫亞が指す水面から、檻が上がってくるのが見える。それと同時に、影の様な槍が水上に発射される。引き上げの合図だ。
引き上げ役の紫亞によって檻は甲板へと上げられる。中の女性も、無事のようだ。
「お疲れ様です。もう大丈夫ですので、今はゆっくり休んでください」
清がそう、声をかけた時だった。
突如激しい水しぶきが上がり、船が大きく揺れる。
「いけない!」
一体の鮫が、大きく水面へとジャンプをし船へと体当たりをする。
その衝撃で、海中へと放り出される逸治。檻と共に船へと掴まっていた紫亞と清は何とか持ちこたえる。
鮫はそのまま身体を捻り、今度は水中へと猛烈な勢いでダイブする。
大きく渦を巻く水流。それを見た清が、眉をひそめる。
「まずいですね。今ので、誰か巻き込まれたかもしれません」
●海底
その頃、海底で意識を失いつつあったのは、星露。
急激なダイブをした鮫の巻き込みを受け、もろに海底へと叩きつけられたのだ。
(まずい……身動きが……取れ……)
一瞬の迷いが、いけなかったのかもしれない。物理攻撃が弱まる中、阿修羅としてのプライドを捨て魔法攻撃に走るかの葛藤が彼女の中に生まれていた。
急激な水圧の変化と、身体への強い衝撃。例え撃退士と言えども、身体は人間のそれである。元々回避力が高くない彼女にとって、敵の土俵である水中で鮫と戦うと言うことは、相応のリスクを負うのは避けられなかった。
息が、出来ない。
横たわる身体に、巻き上がった砂と粉々に砕けた珊瑚が降ってくる。
レギュレーターから吐き出される空気が、段々と細く弱まっていく。
(私、死ぬのかな……)
遠のく意識の中、彼女の瞳が閉じかけた時。
「死なないで、お母さん」
聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。
目を開けると、そこには真紅のスーツを来た少女の姿。
アトリアーナが星露の身体を抱きかかえると、追撃しようと突進してくる鮫に向かってランスを突き立てる。苦しむ、鮫。
(死なすわけには、いかないの)
彼女は星露を抱えたまま、移動する。その先に待つのは海中班に合流したレフニーの姿。
(回復は、任せてくださいなのです!)
彼女の回復により、事なきを得る星露。
しかし敵の体力はまだまだ、減ってはいない。
本当の勝負は、これからだ。
直後、水中に桃色の花びらが表れ螺旋軌道を描きだす。その姿はまるで水中花のごとく。
花びらはそのまま鮫の方向へと飛んでいき、その巨体を取り囲む。しばらくするとそれらは消え、鮫が沈み始めるのが見えた。
(うまくいったみたいだね)
ソフィアの攻撃で朦朧状態になった鮫は、うまく浮力が確保できないらしく海底に沈んでしまう。そこを狙ってアトリアーナと星露が攻撃を始める。
海底でもがく鮫。その衝撃で破壊され、散らばる珊瑚の群れ。余り長引いては、この場を荒らしてしまう。
レフニーの援護を受けながら、三人はまさに身を削る勢いで攻撃を続ける。
●再び、船上
「大丈夫ですか、谷屋さん」
鎖鎌を使って船へと上がってきた逸治に、稲妻のような光が注がれる。
「ああ。すまないな」
自身への回復を行う清に礼を言った後、逸治は再び銃へと持ち換える。
「敵の動きには注意していたんだがな……どうやら奴らの切り札は、あの巻き込みらしいな」
逸治は鮫がいた場所とはややずれて落ちたため、威力が弱まったのだろう。海底に叩きつけられるのはすんでの所で回避していた。
「ええ、あれを受けるのは危険です。出される前に終わらせなくては」
清の視線が水面へと注がれる。そこには網が絡んだまま、上手く泳げないでいる鮫の姿がある。カーディスが海底に沈んでしまわぬよう、網の一部を持って誘導しているようだった。
「そうだな。あんたの言うとおりだ」
逸治はそう言うが早いか、水面に見えている鮫の頭部に向けてストライクショットを打ち込む。
苦しそうに暴れる巨体。激しく立つ水しぶき。
「降り注げ、カプリコーン」
清がそう言った直後、上空から無数の彗星が現れ水面に降り注ぐ。激しい攻撃を受けた鮫の頭部には、山羊座の紋章が表れ、さらに動きが鈍くなる。そこをカーディスが放つ鋭い太刀状のオーラが切り裂いていく。
あと少しだ、と誰もが思ったとき。
海面が大きくうねり、鮫の尾びれが海上へと現れる。最後の力を振り絞った鮫が、網を引きちぎったのだ。
(逃がすわけにはいきません)
カーディスは素早く鮫の前方へ回ると、動きをけん制する。泳ぎ始めてしまえば、自分たちが追いつくのは不可能に等しい。進行方向を決めて泳ぎ出すまでの間を狙うしかない。
焦るカーディスの目に、意外なものが映る。
(あれは……)
彼のけん制を受けた鮫は大きく身体を繰り、全速力で泳ぎ始める。しかしその直後、激しい音とともに閃光が走る。
(ふう……あちらへ誘導した甲斐がありました)
カーディスの視線の先にあるのは、さっきまで要救助者が入っていたはずの檻。中に見えるのは、漆黒の影。
(あんな大きな口で噛み付かれる事を考えると少しばかりぞっとしないかしらね……)
魔法書を手にした紫亞が、内心でそうひとりごちる。彼女が放ったライトニングが、向かってきた鮫の頭部に直撃したのだ。
(まあ、檻なら物理的に強いのが助かるのだわ)
防御力の低い彼女は、檻に入った状態で戦闘を行っていた。機動力は敢えて捨てることで、カウンターを狙ったのである。
電撃をその身に受けた鮫は、その場で悶絶する。電気に弱い鮫は、方向感覚を失い動けないでいるようだ。そこをカーディスの影縛りが捉える。
勝負は、決した。
●
その後先に鮫を倒したカーディス達は水底へと移動し、残りの一体を倒すことに成功する。
息絶えた二体の鮫は海底に影響のない位置まで船で引っ張り、そのまま沈められることになった。
戦闘後、レフニーがもう一度海に潜りたいと言い出す。
「鮫の動きを鈍らせようとして乾電池を投げ込んだのですが……ロレンチーニ器官はかなり近づかないと反応しないみたいなのです」
そんなわけで、海中にばらまかれた電池を回収するために、メンバーは海中散策を行うことになる。
環境保全は、ダイバーの基本だものね。
とは言えあまりにも見事な珊瑚礁であったため、むしろ皆喜んでいたのは内緒である。
帰りの船から見える景色は、全てが青かった。
空の青と、海の碧。
その境界には、八人の撃退士がいて。
「……きれい、なの」
アトリアーナの言葉に、皆がうなずく。どうしてこんなにも、世界は美しいのだろう。
――空と海との間には。
私たちが、いる。
生きとし生けるものを愛する、私たち人間が。