それでもいいと思っていた。
何も持っていなくても、たった一人が自分を選んでくれるならそれで十分だったのに。
どうしてこうなってしまったのだろう。
――どうして。
●嘆けとて
紅く染め上げられた空間は、どこか心をかき乱す。
「最初の部屋は謎解きか……参ったな」
書かれたメモを読みながら頭を掻くのは、法水 写楽(
ja0581)。
「探偵小説を読むのは好きなンだがな。実際に謎解きをするのは別物ってェ奴だ」
そう言いつつも、書かれていたキーワードには反応するものがあり。
「藤原定家、っつうとあれだな」
「百人一首の選者や」
後を引き継ぐように浅茅 いばら(
jb8764)が頷く。金色の瞳を細めついでに、とメモを指さし。
「31って数字は短歌の合計数で、三十一文字(みそひともじ)て言うんやで」
「ってェと、この後のは歌に関するものと考えた方が良さそうだぜィ」
和文化好きの写楽といばらは、次々に暗号を解いていく。その様を見ながら綾羅・T・エルゼリオ(
jb7475)とアンジェラ・アップルトン(
ja9940)が感心したように。
「なるほど。地球にはそんな文化があるのか…面白いものだ」
「ああ、私もジャパンアニメは好きなんだがな。このようなものは疎い、助かった」
日本の風習をあまり二人にとっては、単純に興味深いようだ。
何度も楓と接してきたケイ・フレイザー(
jb6707)はちょっとおかしそうに。
「随分典雅な謎だな。楓ちゃんの趣味か教養かねえ」
「流石は能楽の家元というか…なんか意外っす」
平賀 クロム(
jb6178)も自分の知っている楓像とは違う一面に、思わず感心。ケイはくすくすと笑いながら。
「どっちにしてもお育ちのいいことで」
仲間に謎解きを任せている間、周囲を警戒していたアマリリス(
jb8169)は素直な感想を漏らした。
「随分と面白い結界に閉じ込められましたね〜」
攻撃的なまでに赤いのに、気味が悪いほどに静寂に満ちている。他の部屋の状況もまるでわからない。次の部屋に、何があるのかも。
「しかもヴァニタスが居るといいますし〜厳しい戦いになりそうです〜」
一方のヘルマン・S・ウォルター(
jb5517)はこの状況に違和感を覚えていて。
「どうにもおかしいですな……」
わずかに眉をひそめながら。
「この結界を楓殿が作ったと言うのでしょうか」
否。ありえないと思った。
「なぜ、そう思うのです〜?」
アマリリスの問いかけに、ヘルマンは頷きながら。
「楓殿の外道ぶりは凝り固まった狭窄で一方的な側面しか見られてない幼い概念から生まれるものでありましょうに」
この結界に満ちたそれは。
「広く深く腐り爛れた大人の外道さです」
聞いたエルゼリオやクロムもなるほどと言った様子で。
「……言われてみれば確かにな」
「そもそも、楓はこんな回りくどいことはやりそうに無いっすからね」
ならば誰かの指示でやったと考えるべきか。
ケイは一旦沈黙してから、にやりと視線を上げ。
「――あんた、よくそんなことに気づけたな。何者だ?」
「私ですか?」
ヘルマンは皆を見渡すと、目尻の皺をさらに濃くした。
「腐れ爛れた爺やですとも」
●月やはものを
「しっかしけったいな罠やな」
いばらはパネルとメモを見比べながら、携帯を手に取る。
電話を掛けた先は緑の部屋に入ったメンバー。出た相手に部屋にあるボールの数を段取りよく確認。
「了解、ありがとな。そっちも注意するんやで」
通話を終えると同時、携帯が震える。見ると黄の部屋の連絡担当者からだ。
「……そっちは人形の数か。ちょっと待ってな」
いばらが部屋にある人形を数える間、写楽が全員に説明を始める。
「どうやら全部解けたみたいだぜィ」
二人の説明によれば、暗号は予想通り百人一首の読み手と短歌の内容に関することだったらしい。
「1の問題は歌番号と読み手に関係しとるな。8番は『喜』撰法師やから87番は『寂』蓮法師ってわけや」
続いて写楽が解説。
「2については有名な小野小町と紫式部の歌を見れば易いぜ。うつる(色あせる)のは花だからなァ。めぐりあうのは『月』ってことだ」
そこで導き出された答えは『緑』の部屋にある『ボール』の数を知ること。
「3は自分たちだけではわからない…つまり誰かに聞く必要があるって判断やな。確認したら『2』個ってことやった」
「ではその順番でパネルを押せばよさそうですね〜」
アマリリスが感心する横で、青部屋からかかってきた電話を受けていたヘルマンが言う。
「どうやらどの部屋も、どこかの部屋の『情報』が鍵となっているようですな」
「なるほど……それにしてもやっかいな仕掛けだな」
聞いたアンジェラがため息をつく。
入ってきた扉は、一度入ってしまえばもう開かない仕組みになっていた。つまり、どこかの部屋のメンバーが気づかず先に行ってしまっていたら。
ケイは速攻携帯を手に他班へと伝える。
「全員同時に移動した方がよさそうだぜ。終わったら連絡するからちょっと待っててくれよな!」
エルゼリオも予め登録しておいた他班メンバー相手に、一生懸命慣れないメッセージを投稿。
ぜんいん どうじに いどう する
「地球の技術は摩訶不思議だな……」
クロムが微笑んだ。
「エルゼリオさん…後で漢字の打ち方教えるっすね……?」
「さて……ここからが本番、だぜィ」
写楽の言葉で、全員の視線がパネルとその横にある真っ白な扉へと注がれる。
未だ沈黙を守る先で、待ち受けるもの。
携帯を手にしたいばらが言う。
「他班も準備完了みたいや。いつでも行けるで」
ケイがパネルの前に立ち、軽く深呼吸をする。見守るメンバーも、誰もが沈黙を守っている。
仲間が出した答えは信じている。
けれど失敗したら何が起こるかわからない状況。例え正解したとしても無事で済むのかさえわからない。
赤い部屋。
それはまるで、血のようで。
覚悟を決めたケイの声が響く。
「――じゃ、押すぜ」
『緑』、『ボール』、『2』の順番にパネルを押し込んでいく。
最後のパネルを押したと同時、扉が赤黒く発光し解錠のサインが現れる。一瞬身構えるが、何かが起こる気配は無い。
互いに顔を見合わせ、うなずく。
「やりましたよ〜!」
歓声をあげたアマリリスがケイとハイタッチ。安堵の息をつく写楽といばらの隣で、エルゼリオの声に熱が帯びる。
「では、行くとしようか……!」
きっとこの先に、「待って」いるから。
ドアノブに手を掛け、ゆっくりと動かす。開ききった扉の向こう。
「あれが……」
アンジェラが警戒態勢に入る中、クロムが即座に磁場形成を発動させる。
「さーて前バッサリやられたお返し、させて貰うっすかね…!」
同じように全てが赤く染められた部屋の中央。
入口からでも分かる程の暗い殺気を纏い、”彼”はいた。
ようやく辿り着いたと言わんばかりに、ヘルマンが微笑する。
向ける先は、心火の『赤』。
「――お久しぶりでございますな、楓殿」
●思はする
部屋の中央に佇むヴァニタス・八塚 楓(jz0229)は、何の表情も浮かべていなかった。
手に長刀を携え、こちらをただ見据えている。
「人質を取ってると聞いたンでどんなに陰険な面をしてるか気になってたンだが……」
初めて楓の姿を見た写楽が肩をすくめる。
「これは予想が外れたな。直情径行そうだぜ」
ヘルマンが注意深く周囲へ視線を走らせながら。
「ええ。恐らく『本当の首謀者』は法水様の仰る通りの容貌をしているのでありましょう」
全員が室内に入った途端、扉が閉まる。試しに開けようとしてみるがやはり不可能で、閉じこめられたことを理解する。
不気味なほどに、静かだった。
楓の後ろに見える檻を見て、アンジェラが眉をひそめる。
「なるほど、人質はあそこか……」
檻の中には学園の生徒らしき姿が見える。薄暗いため顔ははっきりとわからないが、遠目に見てもかなりの傷を負っているようだ。その他に人影は見あたらない。
そこで突然、楓が口を開いた。
「この部屋の出口はあそこだ」
示した先は人質が入れられた檻の更に向こう。壁の中央に見える白い扉がくっきりを際だって見える。
「あの扉に鍵はかかっていない。出ていくなら勝手にしろ」
聞いたクロムは怪訝そうに。
「……どういうことっすかね」
「言葉通りだ」
楓はちらりと檻を見やる。
「ただ、こいつらと他の部屋の奴らは死ぬが」
「なんだと……? それは他の部屋も同じなのか、楓」
エルゼリオの問いに無言で肯定する。
「あかん、他班にも知らせな」
いばらが速攻で他班へ連絡を取り始めると、後方から声が上がる。
「気を付けろ! 奴は…」
直後、檻を凄まじい勢いで蹴りつける。
「黙ってろクソが。今すぐ殺すぞ」
「――っ」
口を閉ざす少女を苛立ちを隠さない表情で睨みすえ。
「せいぜいそこで、仲間が死ぬのを見てろ」
冷えた声音。
――そして運命を呪いながら、絶望の淵に沈め。
楓から放たれる重圧が増していく。
「……見たか? 今の」
いばらの言葉に、エルゼリオがうなずく。
「あの檻は楓がかなりの強さで蹴飛ばしたのにも関わらず、びくともしていない」
「そう言うことや。恐らくアレを物理的に壊すのは不可能やろな」
とは言え。全てを把握したアマリリスが呟く。
「格子の隙間から攻撃は通るとみていいでしょうね〜…」
閉鎖空間の中、ヴァニタスの攻撃に巻き込まれれば、人質はまず助からない。
つまり。
室内に満ちゆく得体の知れない悪意を感じつつ、ケイが笑む。
「――あんたを倒すしか無いってことだな。楓ちゃん」
全てを救うために唯一残された道。
ヴァニタスの燃えるような瞳が、更に赤く苛烈さを増していく。
開戦を告げる一言が、室内に響いた。
「そう言うことだ」
●かこち顔なる
闘争の赤が迸る。
ひたすら向けられる害意を砕くのは、互いを信じ抜かんと戦う気概。
「今度はそう簡単に倒れやしないっすよ!」
最初に動いたのは、移動力を上げたクロム。一気に人質側へ回り込もうと地を蹴る。その動きに反応して楓が身を翻した所へ飛び込む影。
「させません!」
盾を手にしたアマリリスだった。射線妨害せんと立ちはだかる彼女に襲いかかる刃。
「くぅ……っ!」
金属が触れあう激しい衝突音が突き抜ける。
全身に走る痛みと衝撃に一瞬意識が遠のくが、必死に耐えきり。
「大丈夫です! 騎士百合はそう簡単に手折れませんよ!」
「アマリリスさんナイスっす!」
彼女が楓を引きつけた隙にクロムは後方へ回り込む。
「じゃあこっちも受けてもらうっすよ!」
「っ…!」
放つエアロバーストが楓の身体を吹き飛ばす。そこを狙うのは写楽の一撃。
「もうちっと移動してもらうぜィ!」
手のひらに込めたアウルを勢いよく撃ち込む。あまりの衝撃に楓は再び入口側へとはじき飛ばされる。
「待ってたぜ、楓ちゃん。俺と遊んでくれよな!」
待ち構えていたケイが懐へ飛び込み、双剣を振るう。続いてエルゼリオのガトリング砲が弾丸の嵐を放つ!
「受けてもらうぞ、楓…ッ!」
凄まじい爆音が響く中、アンジェラとヘルマンはその隙を縫って檻前へと一気に移動を進める。
最後方で状況観察に徹していたいばらがにやりと笑む。
「――これで、体制は整ったな」
檻側と入口側からの挟撃陣形。肩口を切り裂かれた楓は、流れる血もそのままに。
「……忌々しい奴らめ」
自分と人質を放すために採られた連携が見事であったがゆえに。
――そこまでして。
突き上げる激情と共に、業火が瞬間的に体躯を覆う。アンジェラがはっとした様子で叫ぶ。
「いかん、離れろ!」
刹那、巨大な火柱が楓の周囲で次々に上がる。
ケイは何とか回避したものの、巻き込まれたクロム、写楽、アマリリスの身を炎が飲み込む。
「ぐああっ……!」
激しく、焼き尽くさんばかりに燃え上がる業炎。その身が爛れ凄まじい痛みに襲われながら、感じるもの。
(なんて……哀しい炎なんでしょうか……)
何の躊躇も無く向けられる情火に、アマリリスは胸が締め付けられる。
叫び。
怒り。
哀しみ。
まるで子供が泣き叫ぶかのようにぶつけられたそれを、受け止めながら。
「苦しい…ですが、私は負けません…!」
同じ「赤」を背負う者。
けれどその意味合いは大きく異なる。これは怒りと哀しみの色だから。
「私は、あなたの炎を受け止めます。どれほど灼かれても、あなたの哀しみを受け止めてみせます!」
一方、檻前に立ちはだかったヘルマンが、中に居る撃退士にそっと声を掛けていた。
「もうしばらく耐えていただけますかな」
一人は完全に意識を失っているようだった。もう一人の少女は意識は保っているとは言え、それでも受けている傷の深さはかなりのもので。
「すまない、私たちが不甲斐ないばかりに…」
「謝罪など必要ございません。癒してさしあげられないのが心苦しゅうございますが…」
目を伏せる少女に、微笑みかけ。楓が意識を前に向けているのを確認しつつ、問いかける。
「なんとしても皆様を連れて脱出する為、何か気づいた点などございましたらお教えいただきたく」
少女は頷く。
「あの男は、受けた攻撃を相手に肩代わりさせる能力がある。私の仲間もそれでやられた」
自分が放った渾身の一打を、既に満身創痍だった仲間が受けてしまったのだと言う。
「なるほど。やっかいな能力でございますな…」
近くのアンジェラに話し、対策を練る。
「とにかく人質に向かわぬよう、万が一は我々が受けよう」
「ええ。味方と楓殿の動きに最大限注意を」
「なあ、ところでさ。あんた一体何がしたいんだ?」
ケイの言葉に、楓は何も返さない。エルゼリオもじっと楓を見つめながら、問う。
「此処迄の“お遊び”はお前の主の趣味じゃないのか?――楓」
「そうだとしてお前らに何の関係がある?」
再び容赦無く振るわれる長刀。
ひたすら続く激しい打ち合いに、次第に両者消耗していく。
「俺はただ、言われたことやるまでだ」
長刀を構え直した楓を見て、アマリリスが走る。
閃く赤の刃と、迎え防ぐ赤の盾。
前方向を大きく薙ぎ払う凄まじい一閃は、ケイを庇ったアマリリスごと後方へ吹き飛ばさんとする。しかしそこは彼女の不動力が勝った。
「……っ…」
ぽたり、ぽたりと血が流れ落ちる。緋色の床をさらに赤く染める鮮血は、アマリリスの髪や瞳よりなお色濃く。いばらが叫ぶ。
「あかん、これ以上の無理は!」
既にヴァニタスの強攻撃を何度も受けている。いつ気絶してもおかしくない。
それでも、彼女は立っていた。
「私は……騎士の名を継ぐ者…」
だから、倒れるわけにはいかない。
彼女の纏う光が更に赤く、強くなってゆく。
「人質も助けて私たちも誰一人倒れる事の無い様、守り切るのが役目です! 絶対に引くわけにはいきません!」
一気に楓の懐へと回り込んだ写楽が、大剣を振りかぶって叫ぶ。
「あんたの心意気には感服したぜェ! 俺も負けちゃいられねぇなァ!」
渾身の一撃。
受けた衝撃は防御に徹しざるを得ない程に強く。そこをエルゼリオとケイの連撃が襲う!
「くっ…鬱陶しい奴らめ!」
攻撃を受ける直前、わずかな挙動にヘルマンとアンジェラが反応。
「いかん、構えろ!」
閃光が走る。
楓の身代わりにダメージを受けたクロムが、血を吐き出しながら嗤う。
「はっ…やるっすね」
仲間の声で瞬間的に受け身を取ったため、直撃には至らなかったものの。肩代わりしたダメージは決して小さくはない。
前衛フォローにいばらやアンジェラが牽制攻撃をする中、再び写楽が手のひらにアウルを込め再び掌底を撃ち込む。
「おっとお近づきは御免だぜィ!」
壁際近くまで吹き飛ばされた楓を、ケイやクロムが追う。対する楓も長刀で薙ぎ払い、はじき飛ばして応戦する。
既に数名が満身創痍。
しかし徹底的に楓を檻から離す作戦を採ったため、人質の二人は奇跡的に傷一つ負っていない。
ぴったりと張り付かれ、移動しては弾かれる状況に苦戦を強いられた楓は、次第に苛立ちを見せ始める。
「くそっ……何故だ……!」
あの時、シマイは言った。
気に入らないものを、全て壊して来いと。そしてどれほど人間が簡単に裏切る存在なのかを、思い知らせてやればいいと。
それなのに、撃退士達は命懸けで仲間を救おうとしている。人質さえ見捨てれば、自分たちは無傷で帰れると言うのに。
ぎりっと歯がみする。
痛めつけた。
何度も傷つけた。
それでもまるでひるむ様子のない彼らに、たまらず叫ぶ。
「何故、逃げない?」
アマリリスが問い返す。
「何故、逃げると思うのです?」
刃が空を切り、彼女の喉元に長刀が突き付けられる。
「アマリリスさん!」
しかし彼女は、微動だにせず楓を見据えている。
「死にたいのか!」
「仲間を見捨てて逃げるくらいなら、死んだ方がましです!」
揺るがない瞳。
向き合う鮮烈な赤に、楓は吐き捨てるように言い放つ。
「平気で裏切るのがお前ら人間だろうが! さっさと――」
「いい加減にしろこの馬鹿野郎!」
楓を殴り飛ばしたクロムが、息を切らせながら言う。
「あんた……随分、裏切りにこだわるんすね」
クロムの言葉で動きの止まった楓に、写楽も苦笑しながら。
「ああ。これじゃあむしろ『裏切ってくれ』と頼まれてる気になるぜィ」
「っ……」
明らかな動揺を見せる様子に、写楽はたたみかける。
「そこまでして、人間は裏切りが十八番だと言いてェのか?」
「黙れ! 違うとでも…」
「人は裏切る、ね。まぁ正直そこは俺もそう思うっすけど」
返したのはクロムだった。
かつて肉親から裏切られた経験を持つ自分にとって、人を信じ切れないのは同じであり。一時は身を焦がすほどに父親を憎んだ故に、楓の言う事も理解できなくもない。
「ただね…俺思うんすよ。裏切られたって感じるのはその相手を強く信じてたからで」
それほどに、それほどに。
誰かを。
慕って。
「信じてたんすね、あんたも昔は」
だから奈落に墜ちた。
●わが涙かな
一度墜ちれば、深みにはまる。
次第に上すら、見上げなくなる。
立ちすくむ楓に向けて、エルゼリオが気にかかっていた事を切り出す。
「――“梓”とは、お前の姉妹か何かか…?」
聞いた瞳がわずかに見開かれる。
前回邂逅時の別れ際、楓が呟いた言葉。ずっと気になって仕方なかったその名前。
「あの後、俺は調べてみた。楓、檀、――そして、梓。どれも地球の植物の名前だ。親が子に関連性のある名を与えるのは、天界も地球も変わらないとみえるが…」
楓は舌打ちをしたまま、何も言わない。無意識に口走ったことを悔いているのだろう。
「その名を呟いた時のお前の瞳は、俺自身もよく知っている――」
「やめろ!」
激高した楓は激しくかぶりを振る。
「なぜお前らは俺を追い詰める。気に入らないならさっさと殺せばいいだろうが!」
投げつけられた言葉に、エルゼリオは一旦沈黙し。
「――違う」
楓の瞳をまっすぐに見つめる。
「俺はお前が気に入らないから、話をしているわけじゃない」
「なら何故……!」
「難しいな。俺にもよくわからない。ただ……」
そこにあるのは、純粋で偽りの無い感情。
「お前が何を考え、何を望んでいるのか。知って、受け止めたいと思う」
例え手に掛けることになろうとも、この意思に嘘はつけないから。
やり取りを聞いていたアンジェラが問いかける。
「……楓と言ったか。今その手にあるモノは貴殿が真に望み求めた未来なのか? 世界を壊した先にあるものは何だ?」
楓は一旦沈黙したが、やがて諦めたように口を開く。
「……前にも言ったが、俺には望みなどない」
望みや願いを持ち得るのは、叶う可能性を持っている者だけで。
地位も名誉も、向けられる愛情でさえ。
全てを持っていた兄が羨ましかった。
どうして同じ顔をしているのにと、何度問うたかわからない。
「俺は、お前達のように願う未来などない。ただ――」
「ただ?」
虚ろな瞳に潜む、ただ一つの感情。
悪魔に魂を売って逃げた先まで、追いかけてきた。
呆れるほどに馬鹿で、憎くて。
かつて愛したその兄を。
「この手で殺せればそれでいい」
告白を聞いたアンジェラは、ひどく哀しそうに瞳を細める。
「……私にも双子の姉がいる」
それはとても、大切で。
「お前もわかっているのだろう。双子とは離れていても心が通じ合える唯一の己であり、己ではない存在」
愛しさも哀しみも歓びも憎しみも全て分かち合ってきた。
「何故捨ててしまったのだ」
それほどまでに、愛していたのなら。かろうじて意識を保っていたアマリリスが、途切れがちに声を漏らす。
「……あなたとお兄さんの間に何があったのです…?」
何度も気を失いそうになりながらも、問わずにはいられなかった。
ただ家を出るだけでなく、人としての生まで捨てた。自身が受けた業火に宿る情念。その根底にある深い哀しみが、痛いほどに分かったから。
「私は知りたいです……」
「……今さら過去の事を話すつもりはない。知りたければあいつに聞けばいい」
話したくない。言ったところでどうしようもない、とでも言いたげで。明らかな拒絶に、アンジェラはわずかに俯き。
「……悪魔に魂など売らずに、我々を頼ればよかったのだ」
その時、自分達が側にさえいられたならと。
「天魔が関わっておらずともそこにどうしようもない苦悩があるならばいつだって駆けつけた。絶望を希望に変えるのが私たちの役目なのだ」
「……ああ。そうかもしれないな」
静かな声音。視線を落とす表情は、微かな憂いと諦観に満ち。それは人であった頃の名残なのかもしれず。
「だが俺には誰かに救いを求める術など無かった。求めることすら諦めていた」
自分には、どうすることもできなくて。
あの時最初に手を差しのべたのが――悪魔だったから。
「――なあ、救いって何だろうな」
切り出したのはケイだった。楓の抱えるものが何なのかは、わからない。けれど。
「今日食べるものがあって雨露しのげる寝床がある。それすら満足になかった身としちゃ、あんたの叫びは贅沢過ぎて羨ましいぜ」
どこか哀しそうに、笑い。
「俺には泣き叫ぶ暇も無かったからな」
かつて、何もかも容赦なく奪われた。その時自分の出来たことと言えば、逃げることすら出来ずに。
「事実を受け入れて生きて行く。それしか無かった」
弱さ故の卑怯であるのかもしれない。立ち向かうだけの強さも矜持も、その時の自分は持ち合わせてなどいなかった、それだけに。
「今が楽しめるだけで、救いなんだよ。オレは今日と言う一日を生き抜いて、自分の命の限り前に進み続ける。それだけでいい」
黙り込んだ楓を見据え、告げる。
「……あんたの兄貴は、あんたを救いたいんだとよ」
「そんなはずはない。あいつは悪魔に魂を売った俺を始末したいだけだろうが」
「ああ、そうさ。人でなくなったあんたを救うには、もう殺すしかない。ならば自分の手でって言ってたぜ」
「――っ」
その為になら、どれほど身を灼かれようと構わないと。
「あんたを救うためなら、人間と手を組んで蔑まれようが構わないんだとよ。……楓」
紅の瞳に訊く。
「あんただって、本当はわかってんだろ?」
炎が揺れる。
切っても切り離せない己ではない己。わかっていても目を背け続けたのは、認めてしまえばそこに待つのは自身が招いた悲劇でしかないから。
「俺は……」
逡巡するようにかぶりを振る楓に向けられる、穏やかな声音。
「――誰かに何かを言われましたかな?」
静かな微笑を浮かべた、ヘルマンだった。
それはまるで、子供をあやす親のようなまなざしで。
「お兄様をさぞ慕っていらっしゃったのでしょうな。心を縛られ、執着してしまう程に」
そしてそれは兄の方も同じで、だから運命は捻れてしまった。
「楓殿とお会いするたびに、私常日頃から感じていることがございます」
この結界に満ちた”誰か”の悪意に、人知れず怒りを抱きつつ。
「人と人の縁を砕くは己のみならず他者。あなたの憎しみは兄君でなく他者によって作られたものではないかと」
楓の瞳が、僅かに見開かれる。
「あなたが本当に憎んだのは――」
深く、ゆるぎない黄昏色の響き。
「運命でしょう」
――俺は。
●箱の中の悪意
「おやおや参ったねえ」
突然聞こえた声に、撃退士達は身構える。いばらが注意深く辺りを見渡しながら。
「この声…どこからや…?」
今度は上から届く。
「あんまりうちの楓をたぶらかさないで欲しいんだよなあ」
赤の天井から降りてきた姿に、彼らは目を見張る。表情を険しくしたいばらは呟いた。
「悪魔……!」
現れた壮年の男は、身につけたダッフルコートの背に漆黒の翼を広げていた。マフラーからのぞく曖昧な微笑に映るのは、底知れぬ闇。
「……何しに来た、シマイ」
楓の問いに、悪魔シマイ・マナフは肩をすくめ。
「自分でわかってるんだろ? 楓」
黙り込む僕をよそに、撃退士の方へ視線を戻す。
「ってことでさ。このゲームは君たちの勝ちってことでいいよ。俺も楽しませてもらったことだし、お引き取り願おうか」
「おいおい、こんな茶番をやらせておいてそれは無いんじゃないかィ?」
張り付いたような笑みへ向けて、写楽は言い放つ。
「申し開きくらいはしてもらわねとなァ」
聞いたシマイはくすりと笑み。
「申し開き、ねえ……あ、そうだ」
どこか焦点の合わない瞳が細められる。
「君たちが接触しようとしているお嬢さんだけどねえ。騙されないよう気を付けた方がいいよ」
「……どういう意味なんだかね」
警戒心をあらわにするケイに向けて、シマイはのんびりと。
「まあ、せっかくだから教えておいてあげるけど。俺たちやあのお嬢さんが狙ってんのは、この島そのものなわけ」
かける言葉の反応を楽しむかのように。
「なぜそんな簡単に話すのかって思ってるんだろうねえ。俺はあのお嬢さんほど必死じゃないからだよ」
シマイがお嬢さんと呼ぶのは、あの天使のことだろう。そして同時に思う。この悪魔はこれが言いたかったのだ。その為にこんな醜悪な罠まで準備して。
まるで俺たちも天使も大差ないよ、とでも言いたげに悪魔は告げた。
「ま、寝首を掻かれないといいね」
「……その台詞、そっくりそのままお返し致しましょう」
低い声音。怒りを押し殺したヘルマンの言葉だった。
「此度の貴方様が行ったお遊び。なかなか良い趣味でいらっしゃいますな」
「お褒めにあずかり、光栄だねえ」
互いに微笑み合いながら。
「いずれ、この始末はつけていだきますので」
「……俺、面倒なことはやらない主義だけどね。さ、楓。帰ろうか」
シマイと共に去ろうとする楓に、いばらが呼びかける。
「楓、覚えとき! 怒りに任せて振るう力は悲しみしか生まへんよ」
そしてそのままシマイへと視線を移し。
「それと、あんたにも言うておくわ」
曖昧な微笑を浮かべたままの悪魔へ向けて、いばらはきっぱりと。
「人間見くびったらあかん。ヒトの絆いうんは世界を動かすで。……ハーフのうちが言えた義理ちゃうけど。ただな」
向けられた黒いまなざしに敢えて挑発的にな笑みを見せ。
「裏切るなんて、それは寧ろ悪魔の十八番やろ…?」
シマイの目が細められたと同時、クロムの声が響く。
「八塚 楓!もし、俺達がいつか必ずお前を倒すと言ったなら、お前はそれを信じるか!?」
向けられた瞳に、必死に伝える。
「裏切られるのは辛い。だからこんな俺でも信じてくれる人がいたなら、俺はそれを裏切りたくない」
返って来る言葉はない。それでも、誓う。
「こればかりは絶対裏切ってなんかやらないっすよ!」
そこでアンジェラの長い髪が、後方へ流れた。
「なっ……!」
温かな感触。
突然抱き締められたことで絶句する楓に、彼女は告げる。
「楓、聞け。私が目指す騎士は決して命を見捨てない」
だから目の前で泣いているあなたも――
その言葉に、覆ることの無い決意を乗せて。
「私は見捨てない。それだけは忘れないでくれ」
「――やれやれ、みんな必死だねえ」
シマイのわざとらしい笑い声。口元に孤を刻んだまま、目だけは笑うことはなく。
「楓を口説くのは構わないけどさ。そう簡単には渡さないよ」
最初に手を差しのべたのは、自分だと言わんばかりに。
悪魔の響きが、紅い空間へと溶けた。
「楓は俺のモノだからね」
※※
悪魔達が去った後、救出した仲間と共に一同は脱出を果たした。
戦闘中も連絡役に従事していたいばらが報告する。
「どこも無事成功したようやな」
ちなみに彼は緑の部屋の人質が以前別の依頼で会った子供達であることを知り、サポートも行っており。
「あの状況でよくそんなことができたな」
感心するケイとクロムに向かって、にやっと笑んでみせる。
「ま、うちらが一番きつかったけど、何とかなってよかったわ」
脱出後、気が抜けたように倒れ込んだアマリリスを、写楽が抱え。
「全く…のほほんとしてるようで、漢前なお嬢さんだぜィ」
「ええ。おかげで私どもも助かりました」
最後まで立ち続けた姿をヘルマンとアンジェラも賞賛する。
悪魔が立ち去った方向を見つめ、エルゼリオはひとり呟いていた。
「楓……いつか必ず」
お前のことを知ってみせよう。
そしていつか――
救ってみせようと、心に誓う。
箱の中の悪意は、阻まれた。
しかしそれはまだ、序章の始まりに過ぎなかったのだと彼らは後に知ることとなる。
揺れる心火と忍び寄る醜念。
選び取る『運命』は――