逃げると言う行為は、悪いことだろうか。
例えば。
突然歩いている時に、暴風雨に襲われたとして。
その場で耐える人もいれば、その場から逃げ出す人もいるだろう。
どちらが正解かなんて、終わってみなければわからない。
例えば。
避けることが出来ない、どうしようもないことが起こったとして。
ひたすら耐える人もいれば、逃げ出す人もいるだろう。
どちらが正解かなんて――いや、そもそも。
正解なんて、誰が決める?
●秋立ちの潮騒
南国にも、秋はやってくる。
頬をかすめる風は、潮の香りと共に既に初秋の気配を感じさせるもので。
「綺麗なところだね……」
初めて見た種子島の景色に、春名 璃世(
ja8279)がぽつりと呟く。
穏やかな町並み、人の手が入っていない美しい自然。遠くに見える水平線は、陽光を浴びきらきらと輝いている。
こんな静かな場所で戦わなければならない現実に、彼女の胸が小さく痛む。
(できるだけ…傷つけないように…)
そう願う彼女の視界を、影がかすめる。上空を見上げると数百メートル先に、何か大きなものが飛んでいる。
「どこぞで坊やが見ているようでございますな」
影を見たヘルマン・S・ウォルター(
jb5517)が微笑する。綾羅・T・エルゼリオ(
jb7475)も頷き。
「ああ。こちらを見ても襲ってこないところを見る限り、報告通り偵察用と見て間違いなさそうだ」
顔はカラスで身体は人のそれ。背中に翼を生やした異形の魔は、ただ何をするでもなく上空を飛行し続けている。
「偵察用……ね。よっぽど探したいものでもあるんだか」
ケイ・フレイザー(
jb6707)が蒼天を見上げながら含み笑いを漏らす隣で、平賀 クロム(
jb6178)が呆れたようにひとり呟く。
「…兄弟喧嘩したいなら他人の迷惑にならないとこでやって欲しいっすね、全く」
この地で出逢った使徒とヴァニタス。同じ顔をした二人の関係は、既に報告を受けており。
――ま、真偽の程は、直接会って確かめてみるしか無いっすが。
その為にも、まずは目先の敵を何とかしなければならない。
「…来た、みたい……」
絹糸のような白銀の髪に、ビスクドールを思わせる肌。紅玉のような瞳を北方へ向けていた雪月 深白(
jb7181)が、小さく声をあげる。
「……お人形さん?」
目に入ってきたのは、四体の球体関節人形だった。
二体は金髪の女性を象ったもので、もう二体はややくたびれた男。
やや気怠げなドールアイから、無機質な視線がこちらへと向けられている。
「なんだか不気味、だね……」
深白はつい、漏らす。
人形達はどれもかなり精巧に作られているが、それ故にどこか情念のようなものさえ感じさせ。
それは単なる模写ではない、人形だけが見せることの出来る『フェイク』としての生々しさだ。
「あらあら、随分立派なお人形さんだこと」
人形達を見たマリア・フィオーレ(
jb0726)がくすりと微笑む。こういうのも嫌いじゃ無いんだけれど…と前置きすると同時、彼女の足下から紅霧が立ちのぼる。
「でも人の住まう地を荒らすのは良くないわね。大人しくおもちゃ箱に帰りなさいな」
緩やかに口元をほころばせたマリアの目に、臨戦態勢に入る人形達が映っていた。
●開戦
「さて、俺の相手をしてもらうぜ?」
最初に動いたのはケイだった。双剣を手にひらりと身を翻し、ビリーに向かって刃を振り下ろす。
頭部を狙ったそれはギィン、と言う音と共に見事命中。反動でよろめく人形を、今度はヘルマンが放つ黒の衝撃波が襲う。
「まずは、こちらを向いていただきましょうか」
直線の貫通攻撃は凄まじい威力を持って、二体を巻き込む。その様子をヘルマンは注意深く見守っていて。
(さて…どちらの耐性が上でございましょうか)
初手のケイが物理攻撃であったため、自身は魔法攻撃を試していた。見た所、封砲の威力を差し引いたとしても魔法に分がありそうな様子。
「皆さま、どうやらこちらのお二人は魔法が苦手なご様子。ご留意を」
その時、一体のビリーが動いた。無表情のまま、身体をがくがくと震わせる。そして小刻みに頭を振った直後、大量の煙を吐き出した。
「くっ……! 真っ白で何も見えないっすね」
クロムが顔をしかめながら、煙を払う。しかし周囲を多う量が多すぎて、とてもじゃないが払いきれない。
(ま…これも予測済みっすけどね)
クロムは視界にぼんやりと映る一体に、意識を集中させる。研ぎ澄まされた神経が、最高潮に登りつめた瞬間。
「行けっ!」
拳から繰り出すアウルを、弾丸の如く撃ち込む。命中精度を高めたそれは、煙の幕を越え敵へと届く。
「見事だ」
翼で上空へと飛行したエルゼリオが、感心したように呟く。直後、もう一体のビリーがヘルマンへと突撃する。魔具で受けきったヘルマンに、致命的なダメージは無い。
「なるほど…基本は接近戦特化のようだな」
最大射程から攻撃を放とうと距離を取っていた自身には、見向きもしない。
それはヘルマンが陽動を行ったせいもあるが、恐らくは攻撃が届かない位置に自分がいるからなのだろう。
「――ならばこのまま、射程外から狙い撃つ…!」
ビリー班が連携の取れた攻撃を続ける一方で、ルーシー班も攻防を開始していた。
先に動いたのはルーシー。
くるりと身体を一回転させると同時、褐色の光線が璃世へと向かう。
「――っ」
「璃世ちゃん!」
衝撃と同時に走る激痛。槍のように研磨な一撃が、彼女の肩を貫いたのだ。
「大丈夫?」
心配そうなマリアに璃世は肩を押さえ立ち上がる。纏うターコイズグリーンのオーラと共に、ふわりと純白の羽根が舞う。
「これくらい平気です」
彼女の瞳に揺らぎは無い。戦いはまだまだ慣れない。けれど自分も盾の一員としてこの場に立つことを決めたから。
そんな璃世の様子を見たマリアはくすりと微笑み。
「いい顔ね。私もその気にさせられるわ」
言うが早いか、音も無くルーシーの背後に回り込む。相手が気付くよりも早く繰り出されるのは、氷結の舞い。
「さあ、凍てつきながら眠りなさい」
全てが凍り付いてゆく中、最後に訪れるのは無音の闇。不意打ちを受けたルーシーは、その場で深い眠りに落ちてしまう。
直後、もう一体のルーシーが深白に向かって魔法攻撃を放つが、予測回避によって当たらない。
「うふふ、残念。当たらないよ」
開戦前ののんびりした様子はどこへやら、今の深白はまるで別人のように好戦的な目をしている。
「あはははは、ほら、行くよ!」
手にした刀を大きく振り上げ、人形の体躯へと打ち込む。受け止めようとしたルーシーの関節部に刃が辺り、削り取るような音が響き渡る。
「耳障りな音。でもそう簡単には壊れないよね」
そのまま一気に刀を振り抜く。球体部分がはじき飛ばされ、人形の手首から先がぽとりと落ちる。
「あれ? 壊れちゃった。うふふ、あそこが弱いなのかな」
どうやら関節が弱点のようだ。見ていたマリアも頷き、眠っていない方のルーシーの背後回り込む。
「こっちも眠ってもらおうかしら」
再び放たれる氷の夜想曲。璃世が施した防御陣による命中率上昇、それに加え潜行による不意打ちの効果は抜群で、こちらも睡眠に落とし込むことへ成功させる。
「マリア先輩、さすがです!」
「ふふ、璃世ちゃんと雪月ちゃんが引きつけてくれたおかげよ」
それはまるで花が乱れ咲くように。
女性陣による連携は、色鮮やかに決まってゆく。
「さて、こっちも負けてられないっすね」
ルーシー二体が睡眠状態に陥ったのを機に、メンバーの攻撃はビリーへと集中する。
クロムが放ったのは風を纏った素早い一撃。
避ける暇さえ与えない刃は、ビリーの首間接部へと深くめりこむ。
ビキィッと鈍い音が鳴り、一部が破損。そこに忍び寄る次なる脅威。
ゆらり、と影が動いただろうか。
サイドに回り込んだヘルマンが、大鎌を振り抜いた。
黄昏をも思わせる一閃は、ビリーの首を音も無く撥ね飛ばす。
「いらぬものを吐かれては困りますのでね」
微笑む姿は、まるで死神のごとく。
残ったビリーが、そこで急に行動を停止する。
「なんだ…?」
上空から魔法攻撃を放ったエルゼリオが眉をひそめる。
糸が切れた操り人形のように沈黙する姿は、不気味でさえあって。
――あれは。
「次の一手に気を付けろ。重いのが来るぞ!」
エルゼリオの呼びかけに、近くにいたケイが警戒態勢に入る。
「いいぜ、避けきってやるよ」
相手の動きに集中し、最小限の動きで攻撃をいなす。
「代わりにこれでもくれてやるぜ!」
轟音が明滅と共に大気を切り裂く。放たれた雷の刃は、ビリーの体躯を袈裟に断つ。
「これで残りはルーシーのみ…!」
全員での集中攻撃で一気に落とす。
七人の意識が眠る人型の傀儡へと向けられた時だった。
『起きろ、ルーシー』
低い響きが、大気を微かに震わせる。
それと同時、無機質だったドールアイに光が宿る。
禍々しさと、情念と。
彼女達を取りまくオーラが明らかに変わったことに、撃退士達は気付いていて。
ルーシーは妙な角度に首を傾げたまま、立ち上がり。上体をわずかに反らしたかに見えた後。
ぱかりと開いた口から、閃光を放った。
「させない…!」
璃世が真っ先にルーシーの前へと飛び出す。
どす黒く変化したそれは、彼女の身体を一瞬で覆い尽くし。
直後、全身を貫く刃の嵐。
「きゃああああっ!」
「春名さん!」
あまりの激痛に絶叫をあげる。
身体中に突き刺さる閃光の刃は、彼女の生命力を一気に削り取り。
喉に血が溢れてくる。呼吸が上手く出来ず、息苦しさに意識が遠のきそうになる。
(痛い…でも……)
そっと左胸を押さえる。感じる鼓動に、自分はまだ生きているのだと感じる。
「私は負けない……」
胸を押さえたまま、渾身の力で立ち上がる。何より砕けない、祈りの心盾がここにあるから。
「命と心…私の全てを懸けて守ってみせる!」
「璃世ちゃんを傷つけた罪は重いわよ」
いつの間にかルーシーの側面へと回り込んだマリアが、高速の一撃を繰り出す。
不可視の矢が左腕を間接ごと飛ばす。見つめる瞳に宿る、微かな怒りの色。そこを深白の雷を纏った刃が襲う。
「こっちの腕も、もらっちゃうよ」
残った方の腕を肩から切り落とす。威力と引き替えにその身を捨てたルーシーは、撃退士たちの猛攻を受け、瞬く間に壊れていく。
もう一体のルーシーが、再び閃光を放つ。
「若い子に現を抜かすのはご遠慮願いましょう」
真っ向から受け止めたのはヘルマンだった。全身に突き刺さる黒刃に、わずかに顔をしかめ。
「老いらくとは言え、まだまだこの身朽ちてはおりませぬゆえ」
鮮血と共に黄金色が舞う。
流れる血もそのままに、大鎌が鮮やかに翻る。そして冥閃に続くは天の刃。
「楓の操り人形め、早々に落ちるがいい…!」
エルゼリオが放つ白色の光球。光り輝く一撃が、傀儡の体躯を見事打ち砕く。
これで残り一体。
「――よし、ここらが頃合いっすかね」
璃世たちがルーシーの足止めをする中、クロムは戦場を離脱。銃を手に、上空に狙いを定める。
「さっきから鬱陶しいんすよ…!」
撃ち放たれた弾丸は、頭上を飛ぶ黒の影に直撃する。そこを同じく戦場離脱したケイの飛ばす竜巻が襲う。
「オレは見られるより見る方が好きなもんでな」
さあ、出てこいよとでも言わんばかりに。
攻撃を受けた鳥男は上空で苦しそうに悶えていたが、やがて急降下を始める。
「来るっすよ!」
身構えた彼らの前を横切る白い影。エルゼリオの翼だと認識すると同時、激しい衝突音が響いた。
「そう簡単に自爆はさせない」
鳥男からの攻撃タイミングを狙っていた。黒の翼が力なく墜ちる。
同じく滞空攻撃に切り替えたヘルマンが、次の目標へと飛行。深追いはしないが、目に見える範囲のバードマンは全て落としてしまうのが彼らの狙いだ。
その頃、ルーシーとの戦いは終幕を迎えようとしていた。
「さあ、そろそろ眠ってもらおうかしら」
至る所が欠け落ち、見るも無惨になったルーシーを見て、マリアは微かに瞳を細める。
「綺麗なお人形だったのに。残念ね」
ふわり、と跳躍し闇の攻撃が人形の足を飛ばす。バランスを崩し倒れ込むルーシーを、深白の疾風迅雷の一撃が襲う。
「――じゃあね、ばいばい」
立ちのぼる禍つ気は、死者の情念か怨念か。
(ぜんぶ、私が断ち切ってあげるから)
素早く振り下ろされた忍刀が、人形の頭部を落とす。ルーシーの身体は小刻みに震え――硝子の瞳から光が消えた。
「終わった……」
人形の残骸を見つめ、璃世が長い息を吐く。
ルーシーからの攻撃を命懸けで防ぎきった。その安堵に、力が抜けそうになる。
璃世の背にそっと手を添えながら、マリアは視線を馳せる。
「他の子たちは無事かしら」
目線の先には、遥か上空で飛行するバードマンの姿がある。合流へ向かいながら、彼女は思う。
(深追いは危険ね……)
近くに件のヴァニタスがいることは間違い無い。人形を殲滅した今、いつ現れてもおかしくはないのだから。
同じ頃、バードマンを相手取っていたエルゼリオも考えていた。
「侵攻目的でないなら、あの人形達は陽動だった…?」
クロムも頷きながら返す。
「人形達とは異質の攻撃能力が低いディアボロみたいっすからね。こっちが奴の行動の要なのかも知れないっす」
つまり本当の目的は、この鳥男。人形は単なる時間稼ぎのためだった可能性が高い。
「……そろそろかもな」
既に三体のバードマンを撃ち落としている。
駆けてくるルーシー班を横目に、ケイがそう呟いた時だった。
「全く…忌々しい奴らだ」
低い響きが撃退士達の耳に届く。聞き覚えのある声に、ヘルマンはゆっくりと口元をほころばせ。
「ようやくおいでになられましたな、楓殿」
その言葉が秋空に溶け込むと同時――心火のヴァニタスが現れた。
●理由
風が徐々に冷たさを増していく。
陽に陰りが見え始めたことを、視覚よりも先に肌が感じ取ってしまう。
静寂が辺りを包む中、七人の撃退士はヴァニタスと向かい合っていた。
「お前らの好き勝手を許すのは、ここまでだ」
声と共にひりつくような威圧が、撃退士に向けられる。隠そうともしない敵意が、有無を言わさぬ命令であることを、嫌でも知らされる。
「あの人が、八塚楓……」
こちらをにらみ据える姿を見て、璃世は微かに呟いた。
印象的なのは、その燃えるような紅い瞳。
瞳に宿る苛烈な炎には憎しみさえ映り込んでいて。
(でも…なぜだろう)
それとは相反する感情を感じてしまうのは。
「はじめまして…雪月深白、です……」
戦闘が終わり途端に大人しくなった深白が、おずおずと挨拶をする。
しかし楓からの返事は無い。見かねたケイが呆れたように肩をすくめ。
「全く相変わらずだな。こんな可憐なレディが自己紹介してくれてるってのに」
気にすんな、と言わんばかりに深白の背中をぽんとやる。
「お前らと話すことなどない。死にたくなければ、さっさとここから消え失せろ」
「まあそう言うなよ、俺はあんたと話したいことがあるんだから」
ケイの言葉に、楓は不機嫌そうに沈黙する。深白も頷きながら、ヴァニタスを見つめ。
「あの…あなたは、なぜ此処に来たの…?」
「……そう聞かれて答えるとでも?」
今度は微かに視線を動かす。その様子に、深白はほんの少しだけほっとする。
「よかった…あなたもお人形さんかと、思った…」
答えてくれなくても、反応があった。それだけで何故か安堵してしまう。
あの無機質な視線を、受け続けたが故なのかもしれない。
「――また逢ったな。今回の狙いは偵察か?」
エルゼリオの問いかけに、楓は再び口をつぐむ。クロムが苦笑しながら。
「都合が悪くなるとだんまりっすか。そう言うのを無言の肯定って言うんすよ」
そして相手を真っ向から見据え、躊躇無く問う。
「じゃ俺も単刀直入に訊くけど。あんたの狙いは、あの使徒っすよね?」
その言葉で、明らかに顔を強ばらせる。見ていたエルゼリオはやれやれと言った様子で。
「全く…お前は件の使徒のこととなると、本当にわかりやすい」
自分も人のことは言えないが…と内心で呟きながら。
「悪いがお前達の事は調べさせてもらった」
「――何?」
エルゼリオは怪訝そうな楓の様子に細心の注意を払いながら、知り得た結論を伝える。
京都にある有名な能楽の家元に『八塚』と言う姓があること。そしてその八塚家には、五年前に姿を消した双子の兄弟がいたこと。
「容姿を聞き及ぶ限り、お前とそっくりだ。これは偶然か?」
対する楓は、沈黙を守っている。
「それからその双子の名も資料に記されていた。その兄弟の名は…」
「もういい」
苛立った声が遮る。眉間に皺を寄せた表情は、怒りがありありと映し出されている。
「――つまりそれは肯定、と受け取っていいんすよね?」
切り出したのはクロムだった。相手の事情に土足で踏み込むのは本来は好きじゃ無い。けれど先日受けた刃に、とてつもない意志を感じ取ったがために。
「あんた達に何があったかは知らないっすけど。要するにあんたは使徒となった実の兄を狙ってる。まあ俺はあの使徒の狙いもあんたじゃないかって踏んでるんすけどね」
「それってつまり……兄弟同士で…?」
哀しそうに目を伏せる璃世に、クロムは淡々と。
「まあ、気持ちはわからなくは無いっすよ。…俺もね、殺してやりたい身内がいるもんで」
「それって…どういうこと……?」
深白の問いに、クロムは頭を掻きながらどこか他人事のように語る。
「俺の親父がね。昔使徒になると言って暴れた挙げ句、出ていったきりなんすよ」
彼の本名は『黒夢』。しかしこれは憎む父親がつけた名前であり、今はクロムと名乗ってさえいる。
「俺にとって親父は裏切り者っすから」
だから彼にとって使徒は憎むべき存在であり、同じ人類の裏切り者である楓にも、同様の感情はあるはずなのだが。
――おかしなもんっすね。
名前に過剰反応した楓を、ほんの少し理解できるかもしれないなどと。
自分の中に芽生えた感情に、戸惑いを覚えているのも事実で。
「俺は…ずっとお前の目が頭から離れなかった」
エルゼリオの言葉に、楓が怪訝な表情を浮かべる。
あの時見た、虚ろな瞳。
「……俺は妹を追う為に故郷を捨てた。そのことに後悔の気持ちは無い。お前も…同じか?」
全てを諦めたかのような虚無をそこに見てしまったが故に。もう一度、その問いを口にせざるを得なかった。
「楓、今一度問おう。お前は檀を追って…いや、違うな」
――むしろ。
エルゼリオは黙り込むその瞳に、問いかける。
「逃げる為に故郷を捨てたのか?」
しばらくの沈黙の後。
返ってきたのは、思いの外静かな声音。
「――そうだ、と言ったらお前は俺を責めるのか?」
「いや…俺はそんなつもりはない」
エルゼリオの返しに、楓は自嘲気味に嗤う。
「正直に言えばいい。そうだ、俺は逃げた。お前のように立派な理由も無ければ、矜持も無い。お前たちから見れば、負け犬そのものだ」
そう言い放つ楓を見て、璃世は思う。
(なんて…この人は哀しい目をするのだろう)
触れれば、今にも壊れてしまいそうで。
見ているだけで、心が詰まりそうになる。
「あなたのその燃えるような瞳には、激しい憎しみの色が見える。けれど…それだけじゃない」
同時に感じる相反するもの。きっとそれは。
「あなたはどうしてそんなにも憎んで……愛しているの?」
「……何?」
感じるのは深い愛憎。璃世は楓を見つめたまま、続ける。
「私はその人と私は会ったことが無いけれど…。あなたの心をずっと捉えて離さないんだよね」
「違う、俺は」
遮るように、ケイも口を開く。
「憎しみと愛は執着の裏表だ。無関心でいられないんなら、それが答えさ」
自分の心を乱し続けるが故に。
「……だから壊してしまいたいんでしょう?」
壊してしまえば解放されると信じて。自由になれると信じて。
そんなことをしても、本当は自分の心が壊れるだけなのに。
璃世は問う。
「私にはわからないよ。…あなたの果たしたい願いは、どこへ向かうの?」
問われた楓はしばらく沈黙していたが、やがて抑揚の無い声を出す。
「……違う」
「え?」
「俺に願いなど無い」
楓は半ば虚ろな表情で、璃世を見やる。
「願いを抱けるのは、それが叶う希望を持ち得る者だけだ。俺にそんなものはない」
「そんなこと……」
言いかけて、止める。彼の瞳に絶望の深淵を垣間見た気がしたから。璃世の様子に楓はちっと舌打ちをしたあと、諦めたように。
「俺が何も言わなければ、お前らは好き勝手に踏み込んでくるのはわかった。…ならこっちから聞いてやるよ、『撃退士』」
それは世界に選ばれた、特別な存在。
七人に向けられる声音は、恐ろしいほどに淡々として。
「お前らに”選ばれなかった者”の惨めさがわかるのか?」
どれほど努力をしても。
どれほど信じ続けても。
どうにもならなかった。
どうすることもできなかった。
別に珍しくも無い、よくある話。
「だから俺は逃げた。それがそんなに悪いことか?」
そう話す楓の顔は、どこか泣いているようにさえ見え。
「――ええ。悪くありませんとも」
答えたのはヘルマンだった。楓に向ける視線は、あくまで静かなままで。
「生きていればどうしようも無いことは、ございます。逃げるという選択肢を、私は否定はいたすつもりもありません。……ただし」
急にその視線を鋭くし。
「貴方が『かの方たち』の命を奪ったことは、許されざることでございましょう」
初めて出会ったときの記憶は、むせ返すような血のにおいと断末魔。あの時感じた怒りを忘れることは無く。
「……ああ、そうだな。それについては言い訳するつもりもない。後悔もしていないが」
そう返す楓に向かって、瞳を細め。
「ほほ…貴方のそういう所が、私を捉えて離さないのですよ」
「何?」
「貴方とお兄様の間で何があったかは存じ上げませんが、これだけはお伝えしておきます。そもそも私、楓殿のお兄様には全く興味がございませんので」
困惑めいた表情に向かって、ヘルマンは告げる。
「私にとって欲しいのは貴方のみ」
老いた死神が浮かべるのは、黄昏色の微笑。
絶句する楓に向けて、飄々と問う。
「他の誰でもない、貴方こそが特別なのです。それでもまだご不満ですかな?」
楓は唖然とした様子で立ちすくんでいた。その目には明らかに動揺の色が見え。
ここで成り行きを見守っていたマリアが、切り出す。
「ねえ。貴方はこのまま誰かのお人形、のままでいいの?」
「人形だと…?」
「だってそうでしょう。貴方はずっと何かに捕らわれている。それって人形と同じじゃない?」
深白も悲しそうに。
「お人形さんじゃない、と思ったのに…違った…の?」
マリアは気怠げに笑みつつ、内心で思う。
(呆れるほどのお馬鹿さん…それだけに、皆放っておかないのかしらね)
そして同時にこうも思う。
皆が彼に対して抱く関心を、人であった頃に誰かが向けていれば。
何かが変わっていたのだろうか。
――愛の反対は無関心、とはよく言ったものよねえ。
自身の目に映る楓は、明らかに興味を持たれることに困惑している。それはすなわち、彼が他者からそうされることに慣れていないことの現れで。
「私はね、憂鬱なのも深刻なのも嫌いなの。だからいつも自由気ままに生きているわ」
一期一会の出会いを愉しみ。興味も関心もお気に召すままに。
その方がきっと、人生は楽しいから。
マリアは口元をほころばせながら、問いかける。
「貴方の自由は…どこにあるのかしらね?」
「ああそうそう、前回言い忘れてたんだけどさ」
黙り込んでいる楓に、今度はケイが畳みかけるように声をかける。それはまるで世間話をするような気安さで。
「この間あんたに『自由』について話したよな。自由…freeの語源ってな。古英語のfreo『愛する』という意味を持ち、friendの語源でもあるんだぜ」
返事の無い楓に構わず、次々に言葉を紡ぐ。
「つまり一切のしがらみから解放するってことは、最大限の親愛と同じってわけだ」
「……何が言いたい」
ここでケイの瞳が、やや真剣さを帯びる。
「――あんたさ、もうちょっと自分のこと愛してやったらどうだ」
それを聞いた楓は、嘲笑うように。
「俺が俺の事をか? 馬鹿馬鹿しい。それが出来るのなら――」
出来るのなら。
一旦言葉に詰まり、声を押し殺す。
「――こんなことに、なってなどいない」
ケイは微かに頷くと、視線を伏せる。
「あんた…可哀想だな」
「お前に同情されるつもりはない。大体そんなことをして何の意味がある? 今さら何かも遅い。お前らだってそんなことはわかっているだろうが」
「ああ。だからこそ、愛してやれって言ってんだ。せめて…自由になりたいんならな」
わけがわからないと言った様子の楓に、ケイは続ける。
「まあそれでも無理ってんならさ。いつかオレがあんたのことを殺してやるよ。その執着から、あんたを解放してやる」
死んでなお逃れられない業を、この手で断ち切ってやろう。
熱を帯びた視線が、悪魔の従属を絡め取る。
「可愛くて可哀そうなあんたをな。」
楓はかつてない程に、戸惑いを感じていた。
――何なんだ? こいつらは。
どうしてそこまで自分に執着するのかが、まるで分からない。
分からないことは、不安で。
分からないことは、気持ちが悪くて。
耐えられなかった。
「――っ」
逃げるように背を向ける楓を、ヘルマンの声が呼び止める。
「お帰りですかな? それでは、次お会いする時はどうぞご用命を」
貴方が他を気にする余裕等無い程に、追い詰めてみせるから。ケイも愉快そうに。
「逃がさないぜ? 俺は結構しつこいからな」
去ろうとする楓の目に、自分を見つめる璃世や深白の泣き出しそうな瞳が映る。そのどこか懐かしいまなざし、つい口にしてしまう。
「――梓」
我に返り、再び歩みを進める。
去って行くその背に、エルゼリオが告げた。
「――また会おう、楓」
いつの間にか、空は斜陽を迎えていた。
●その時は、いつも突然で
ふと目に映った光景は、どこか懐かしさを感じさせた。
既に陽が沈みかけた空は、それでもまだ昼の名残をとどめ、迫り来る宵との境界を曖昧にさせる。
青とオレンジが淡く溶けあうわずかな一時を、楓はただぼんやりと見つめていた。
遠い昔、幾度となく目にした追憶は、偶然を必然に変える歯車だったのかもしれない。
どれくらい、時間が経っただろうか。
どこからか香る金木犀に、視線が移る。
橙の先に見える白い影に、思わず立ちすくむ。
五年前と何ら変わらないその姿。
「――ようやく」
かけた言葉に、影は振り向く。
憂いを帯びたその瞳も、自分と変わらない背丈も、別れたときそのままで。
驚いたような、しかしそれでも懐かしむような表情は、楓の内を狂おしいほどにかき乱す。
「漸く会えましたね…兄さん」
やっと出せた声は、震えてはいなかっただろうか。
目を見開いた兄を前に、いつの間にか微笑んでいた。
白昼の命が終わり、闇が生まれる。
既に人では無くなった自分たちには、こんな逢魔が時がふさわしいのかもしれなくて。
「楓……」
耳に入る、自分と同じ懐かしい響き。
続く言葉は、もう金木犀の香りの中に溶け込んでゆく。
その時は、いつも突然で。
だから、楓は笑うしか無かった。
何が始まり、何が終わるのか。
もう自分たちにすら、わからない。
けれど一つだけ、理解していることがある。
運命はいつだって、この身を捕らえて離してはくれない。