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足早に、陽が沈んでいく。宵の明星の導きを受け、歩いて行く二つの影の、その両手にはビニール袋。
「この時間に開いているのかと思うたが…忙しない世になったものじゃ」
何処か呆れた声音で、白蛇(
jb0889)が息を吐くと。
「便利だよねぇ――あ、懐中電灯も買っておいたよ」
念の為ね、と御伽 炯々(
ja1693)が片手の袋を揺する。その行く道の少し先の角から、ふらりと現れる人影一つ。
「土壌はわかった」
簡潔な一言は、誰かに向けたものではないのだろう。
疑問顔に構う事無く、〆垣 侘助(
ja4323)は迷いのない足取りで、集合場所へ歩いて行く。
「条件が揃わないと咲かない花か。何だか素敵だね」
依頼人の逗留する宿の先、買い出し組に手を振りながら、桜木 真里(
ja5827)が柔らかく微笑む隣で。
「うに!絶対にお花取って帰るんだよ!」
拳を振り上げ、真野 縁(
ja3294)が、決意に緑を瞬かせる。
――憂いに閉じる月下美人に、笑顔の花を咲かせられるよう。
和気藹々とした情景から少し距離を取り、独り佇むイシュタル(
jb2619)。
冷めた眼差しは、興味無げに月を仰いで――その色に、ふと。
『お花を撮って欲しいんだよ…お願い』
真摯に下げられた頭、流れる金糸の滝を思い返して。桃の瞳が刹那、戸惑いに揺れる。
「…全く…私も丸くなったものね…」
白い指が、知らず、カメラを握り締めた。
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月明りも届かぬ、鬱蒼と茂る山道を駆け上る。
ナイトビジョン越しの視界、先頭を走る炯々にとっては、昼間と同じことで。
「あそこ、頭上に注意だからね」
行く先のポイントを、後ろのメンバーに告げていく。数メートル先、道に迫り出した大きな枝が懐中電灯に照らしだされた。
「あ、じゃあ散らしておこうか」
復路を考え、提案する真里。そのまま手に魔法書を具現化させ、枝に視線を向けた――その眼前に、突き付けられるバトルシザーズ。
「何を…!」
「植物を傷付けるな。関係無いからと、手折られる謂れはないだろう」
向けた抗議の眼差しは、引かぬ声音に断固とはね返される。侘助の静謐な瞳の奥、揺れる狂気じみた焔に気付きながらも。
「…僕等が逃げ遅れるだけ、もっと多くの植物が傷付いても?」
真里は声を荒げるで無く、理性的に現実を返す。自分達が素早く引ければ、山鯨もむやみに荒らすことはないだろう、と。
交差する黒と緑が、互いの想いを何よりも雄弁に語る。己の譲れない部分と相手の言の是を、刹那、探り合って。
「ん…一理ある、か。なら俺が剪定する、邪魔にならなければいいんだろう」
「その方がいいかな、お願いするね」
手早く処置をする侘助に、柔らかく頭を下げる真里。想いは同じ、守りたいのは、この場所ごと。
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行く手から、月光が差し込む。鬱蒼とした木々の切れ目、その先が可視域に入る前に。
カラリ、から、ドシン、まで。――間断無く耳に届く轟音が、落石地帯を告げる。
「結構埋まってるかも…足元、気を付けてね」
油断ならない状況に、鋭い目付きをさらに細めて。はっきりと見えているのは己だけ――炯々は気を引き締める。
「かつては舗装されてなどなかった故、これが普通であったがの」
「先、行くわよ」
懐かしげに、足裏の感触を確かめる白蛇。その横をするりと――文字通り、すり抜けていくイシュタル。降り注ぐ礫も、足元に転がる岩も物ともせず、蒼銀の残像だけを残し遠ざかっていく。
「邪魔なんだよ!」
縁の霊符が岩を砕き、炯々の矢が礫を弾く。足元を注視しようとして、上から落ちる礫も気にしなくてはならない。
自然、進むスピードは遅くなり――それは、遭遇率の上昇を意味していた。
「――右じゃ!」
鋭い呼気が、清らかな白い靄を纏い吐き出される。ほぼ同時にブレる、白蛇の――千里眼の視界。仲間にぶつかる前に、と滑り込ませた小さな体躯は、間一髪で間に合ったようで。
すり抜けて来た崖の向こう、行く手を阻まれるなど、思いもしなかったのだろう。共有した視覚越し、戸惑った様に蹈鞴を踏む山鯨の姿が見える。
「お出でなすったね…!」
矢をつがえ、援護体勢を取る炯々。駆け寄ろうとする仲間達を、しかし挙げた片手で制すと。
「時が惜しい――わし独りで、充分じゃ」
傍らに顕現する千里翔翼。僅か振り返った蛇の目が、尊大なる自信を以って嗤った。
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月下の静寂を、夜風が渡っていく。
「綺麗ね」
飾り気の無い賛辞は、何よりも率直に感動を綴って。イシュタルは、カメラを草原に向ける。
これは、頼まれていないけれど。――切り取られた情景を、あの人間は、どう思うだろうか。
「…本当に、丸く…」
僅か、きつく瞳を閉じて。再び開いた時にはもう、変わらぬ静謐さが冷徹に周囲を見分する。時間が無い、花は何処。
急くように彷徨う途中、地響きが、イシュタルの足を止める。鼻息荒く敵意を向ける山鯨、その後方、踏み散らされた花に眉を顰める。
「これだから天魔は嫌いなのよ」
侵略し殺戮し蹂躙を繰り返す――それしか、存在価値が無いかのように。嫌悪も顕に睨みつけながらも、本来の目的が脳裏を掠める。
相手取る時間は無い、だが無視するには、余りにも敵意が鋭い。覚悟を決め、二振りの燃え盛る炎を喚ぼうとした瞬間。
空間を切り裂くように迸る電撃が、山鯨の四肢を絡めとり縛り付ける。
はっと振り返るイシュタルに、柔らかな一瞥を寄越すと。真里は己に、一巡りだけ周囲を見回すことを許した。
鬱蒼とした山道、砂埃立つ落石地帯を経て辿り着いた、月光色に染まる風景。
例えもう誰も此処に辿り着けないとしても。これからもきっと、変わることは無いだろうから。
「――それ以上、荒らすのは止めてくれるかな」
掲げる魔法書越し、強い意思を秘めた眼差しが、電撃以上の鋭さで山鯨に突き刺さる。
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「うに!こっちなんだよ!」
わざと声を上げ、縁はその存在を誇示する。花の無い場所へと、誘いながら。
そのまま草蔓を淡く揺らめかせ――胸に抱くのは、出掛けに訪ねた依頼人の、想い。
『幼い時分は、身体が弱くて』
草原の端、森との境目でくるりと振り返る。己が定めし領分を侵され、怒り心頭に唸る、二頭の山鯨。
互いの瞳の奥、譲れないモノを賭けて、しばし睨み合う。
『毎晩の様に、発作で苦しみました』
地と戯れる金の毛先を、夜がふいに、吹き散らす。張り詰めた均衡さえも、一息に霧散させて。
鼻息も荒く走り来る一頭へ、細い腕を掲げると。舞い踊る金糸に紛れ、聖なる鎖が疾走る。
『皆、嫌な顔一つせず優しくて――だからこそ、申し訳無く』
悲鳴を上げる猶予も無く、四肢を震わせ倒れ込む山鯨。
その傍らを、頓着もせず避け来るもう一頭。上がるもう片方の腕、掌から翻る鈍い灰色。
『シーツを被り、息を殺し、早く、疾く、ただ朝が来るように、と』
捉えた体躯は、その鋭さを以ってしても、容易く切り裂けはせず。――だが、それでいい。
藻掻く程に食い込む絡め糸、抜け出すことは最早、出来はしないのだから。
『大嫌いだった独り寝の夜に、終わりの無い昏闇に――彩りを、くれたのです』
行動不能に陥った目前の敵。油断はせぬまま、ひとつ息を吐き、満ちた月を仰ぐ。
微笑みを形作りながらも、寂しさを拭えない表情が。此処に無い今も、縁をちくりと刺して苛む。
「おばーちゃん……」
重なるのは、懐かしき愛しき過去の。だからお願い、どうぞ笑って――
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枝を接ぎ、華を慈しみ、葉を整えて――庭を、守り継ぐ。侘助の身の内に、連綿と流れる血脈。
由緒正しき庭師の眼が、執着と言える程の情が、狂しき冷静さを以って草原を見分する。
強い香り、白い花びら、上を向く蕾。持てる知識を総動員する視界に、敵影の入り込む余地は無く。
「ん…見つけた、これに間違いないだろう」
草花を傷付けない無造作で、草原を彷徨い歩き。慕わしげに月を望む香り高い一輪へ、恭しい丁寧さで手を伸ばすと。
「この大きさなら運べるか」
ガラス細工を扱うような――否、それ以上の繊細さで以って。根を周囲の土壌ごと、掘り起こす。
「そうやって掘るんだねぇ…なるほど、ためになった」
感心した声音で、屈みこむ侘助の手元を覗き込む炯々。
流れる作業を眺めながらも、意識は広く周囲に拡散させ、警戒を怠らない。
「綺麗なものは嫌いじゃないからねぇ…っと、出番かな」
些事を片付ける気安さで数歩、花から距離を取る。向けた視線、つがえた矢の先、吠え猛る山鯨。
突進する体躯目掛け、限界まで引き絞られた弓から、矢が鋭く飛んだ。
派手に引き付ける炯々に紛れるように。曇り無き鏡の水面の如く、イシュタルが侘助の傍らに立つ。
「問題ないなら、貰うわよ」
冷淡な物言いとは裏腹、受け取り抱える手付きは、まるで赤子を抱くよう。
一目だけ振り返り、情景を眼裏に灼き付けると。イシュタルは今度こそ、脇目も振らずに走り去る。世界との境界を、曖昧にして。
中天に座す月が、追い掛けるようにじわりと、降っていく。
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「それが想い出の花かの」
落石地帯の入口、己が翼たる司の影から、視線を向ける白蛇。翼の素早さに翻弄され、荒い息に疲労の色を混ぜる山鯨から、意識を離すことは無く。
「…通れるかしら?」
「無論じゃ」
交わす言葉は最低限度、余分な装飾は必要無い。高く嘶くように大きく仰け反った翼が、振り下ろす前脚の勢いのままに周囲を薙ぎ払う。過たず吹き飛ばされ、叩き付けられる敵。通るスペースは充分に。
「行くわ」
躊躇いもせず、降り頻る礫に身を投じるイシュタル。礫はこの身をすり抜け、敵の追撃は阻まれると、わかっているから。
蒼銀揺らめく背を見送った数瞬後、駆け来たる複数の気配に再び振り返る。
「おぬしらも来たか」
「花は?」
簡潔な、急いた問いに苦笑を零し。慈しむべき人の子へ、眼差しで答えを示す。落石の、その先に、と。
流石に頷く勢いのまま、花を追い飛び込む訳にはいかず。タイミングを見極める一同、その背に、追い縋る幾つかの気配。
「ちぎぎ、しつこい敵なんだよ!」
「落石と重なるとやっかいだね」
若干の焦りを滲ませ、各々の得物を掲げる。阻霊符が使えない今、落石地帯で側面から奇襲される危険性は、往路で嫌という程に。そしてそれは、単身先を行く、イシュタルにも同じ事。
仲間の身と花の無事、迫る刻限――焦燥は、余裕を奪い、判断を鈍らせる。逡巡漂う空間に、楔を打ち込んだのは。
「冥魔の手先に邪魔立てはさせぬ…行くが良い」
黒き穢れを纏いし体躯が、幼き見目に不釣り合いな傲岸不遜さで扇を翻す。千里翔ける翼の代わり、喚び出したのは堅牢強固なる白き壁。あちらとこちらを閉ざす、不可侵の盾。
駆け去る仲間の背、己を越えられずば、追わせはしないと。蛇の目が不敵に睨み据えた。
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花を散らさぬ全速で、イシュタルは落石地帯を駆け抜ける。
降り注ぐ礫も、石の転がる足場の悪さも関わりの無いこと。ただひとつ、気にするべきは。
「邪魔ね…」
行く先に屯する、一頭の山鯨。未だ、こちらに気付いてはいないようだが、それも時間の問題であろう。
花が無ければ押し通るのに。守るべきモノは、往々にして枷となる、けれど。
それが無ければ私は、殺戮の天使のままだったのだろうか。――懐のカメラが、ふいに重みを増した気がした。
その物思いの刹那に、俄に興奮する山鯨。フゴフゴと蠢く鼻は、此処に在る筈の無い香りを訝しく探しているようで。
或る場所にしか咲かない花の、強く甘い香りは、つまり異質。ましてや嗅覚の強い相手には――気付かれるのも、道理。
「…ッ!」
紙一重で、躱す。大切なモノを預かる身、戦闘だけは、避けなければならない。
駆けて来た距離をじりじりと後退させられる。崖に沈みかけた一瞬の惑いを、詰められそうになる刹那。
「間に合った…!」
異界から伸びる無数の腕が、山鯨を拘束する。
既視感のままに振り返った先、魔法書を掲げる真里。その無防備な姿を、炯々の矢が礫から防いで。
礫の洗礼も後少し、張り詰めた糸がほんの少し緩んだ。
「…危ない!」
叫んだ声は、誰のモノ。一際大きな礫が、花目掛け落ちたとわかったのは、侘助の額から流れる血の故に。
「ん…花を失わせる訳にはいかないだろう」
問題無い、と無造作に拭い身を起こす。我が身の痛みなんて瑣末なことより。
「鉢が割れた、処置が要るな」
落石地帯を抜けるやいなや、応急手当を施す。天魔の透過は、己の所持品まで。当たっていれば、鉢ではすまなかっただろう。
東に煌くは明けの明星。麓はもう、すぐ其処に――
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祈るような諦観を、閉じた瞳に仕舞いこんで。部屋に独り、静寂に揺蕩う。
こほり、治ったはずの咳が、伸びた背を丸く縮こまらせた。――依頼の所為だろうか、こんなにも、過去を踏襲するのは。
止まらない咳の僅かな切れ間、こつこつ、と窓が鳴る。滲む視界のその向こう、揺れるカーテンの狭間に。
「ただいま、なんだよー!」
金糸を揺らめかせる月の化身。差し出す花に、驚いたはずみか咳は止んで。眦から頬を伝う雫――込み上げるままに、笑顔が咲いた。
「俺の私情だが」
簡潔な前置きと共に、差し出されるメモの束。世話の仕方について、アドバイスがびっしりと。
咲かずとも育つなら、いつかまた道が繋がった時、植え直すことも出来る。
「次も咲かせるために、元気でいてね!なんだよー!」
いつまでも長生きして欲しい、全身で表す縁に譲り、口を閉ざす。伝えたいことは全て、メモの中に。
何よりも優先すべきは花、ただ、それだけ。――己の抱く想いは、一種の不義であると、理解しているから。
「夜のお散歩もいいものだね」
独り残った白蛇を、迎えに行った帰り道。
「御伽にも白蛇さんにも助けられたね」
「俺も色々、ためになったよ」
記憶の褪せぬ内にと、繰り広げられる反省会が一段落した山の出口で。数歩先を行く白蛇が、ふいにくるりと振り返る。
「どうじゃ、呼び方をかえる気にはなったかの?…いや、今聞くのも無粋じゃ」
虚を突かれた顔の二人に向け、静かに笑って首を振ると。
「また見える時を楽しみにしていよう」
――廻る人生は、合縁奇縁。
暁闇が、東の空を染める。隠れ行く月を嘆くように、地を向き萎れる花。アドバイス通りに植え替えたものの、次に咲くかはわからない。
折り合いを付けるのには、慣れていますから――淡く微笑む依頼人の、その笑顔に何故か苛立って。
「手、出して。…いいから」
おずおずと差し出された掌に、押し付けるようにカメラを落とすと。興味を失った風情で、背を向け歩き出す。
数歩離れた辺りで、有難うございます、と礼の言葉が追い掛ける。万感の想いが込められた泣きそうな声――振り返らずともわかる、簪の瑪瑙が、深く揺れたままであろうこと。
「…私じゃないわ」
零れ落ちた呟きを、風が蒼銀ごと浚っていった。
希望の朝は、すぐそこに。