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ディメンションサークルを抜けた先。穏やかな昼下がりの日差しが、風そよぐ緑の波間に煌めく。
「ディアボロさえ出なければ、のんびりと心地よく過ごせそうな良い場所ですね」
眼前の情景を映し込んだかの様な瞳を眩しげに細め、鑑夜 翠月(
jb0681)は小さく伸びをする。
何処と無く眠たげな、穏やかな雰囲気。その傍ら。
「お日様と青い空があるっていいね」
一歩一歩、お気に入りのブーツで確かめるように歩みながら、ソーニャ(
jb2649)は呟く。
長く寝起きしていた場所は、光の届かぬ無機質な箱庭。初めて見た空は、これと同じ、抜けるような蒼で。
もう幾度も目にしている光景、それでも、胸を震わせた感動は色褪せないまま。
「若杉殿とは、長野以来かの?おぬしが前に出てくれるなら、安心じゃな」
「ゲホッ…そ、そうですね、今回もよろしくおねがいします」
呵々、と闊達に笑いながら、旧知の若杉 英斗(
ja4230)の背を、豪快に叩く鍔崎 美薙(
ja0028)。
共に、死線を潜り抜けた友もいる。この度の自己鍛錬、大いに実りのあるものとなるだろう。
これから始まる戦闘を前に、美薙が気分を高揚させる一方で。
(男子たるもの……!)
長身から繰り出される悪気の無い連撃に、英斗は吹っ飛びそうになる眼鏡をそっと抑え、耐え忍ぶ。
その愉しげなやりとりを耳聡く聞きつけた、緋野 慎(
ja8541)の赤い瞳が、爛漫と輝く。
「じいちゃんの様なしゃべり方の人がいる!」
「ほう、緋野の祖父殿もか。あたしのはお祖母様譲りなのじゃ」
野山を駆け巡った日々、お腹を空かせて戻ると、出迎えてくれたのはこの口調だった。
跳ねる黒い毛先と同じ元気の良さで、慎は楽しげに想い出を交わす。
戦闘前とは思えない程の、和気藹々と弛緩した空気――けれど、そこに油断は一欠片も無く。
不意に、翻るコンバットドレス。すっ、と唇に添えられた人差し指。
最前を歩いていた常木 黎(
ja0718)の無音の合図を、汲み取れない者は、此処にいない。
点在する、午睡を貪る牛。眼前に広がる長閑な雰囲気を壊さぬように。
誰もが各々の意図を胸に秘め、己が役割を果たすべく静かに動き出した――
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地面に触れる。聴覚に、全神経を集中させる。
それでも、不測の事態には瞬時に対応出来るよう、つくのは片膝まで。
彫像の様な黎の姿を対面に、ソーニャは光の翼を広げる。
(ダーウィンの研究論――ミミズにはなんらかの知性があるんだって)
窓の無い場所で蓄えた知識。脳裏に浮かべながら、あの頃に唯一、得られなかった空へと地を蹴る。
陽を知らぬ細く白い腕から零れ落ちるのは、無骨な石礫。
「ワームもいっしょなのかな」
軽い音を立てて、遥か下、緑に吸い込まれていく礫。
自由になった腕には、間髪を容れず、さらに無骨なライフルの姿が。
そのまま一呼吸、二呼吸。
微動だにしない黎。己の吐息すらも煩わしい、鋭く研ぎ澄まされた聴覚。
深く、もっと深く、可聴域を広げていくように。警戒を崩さぬまま探る黎の耳に、微かに届く振動。
「――OK、捉えた」
言うが早いか、マズルガードに鎧われた銃口が、ある一点を狙い示す。
ほぼ同時に地面から浮かび上がる巨体、冥魔の眷属たる証、透過能力。鋭い歯列が、顔を覗かせた瞬間に。
「待ちくたびれたぞ」
ふわり、風も無いのに揺れる髪。光纏う美薙が、懐から抜き放った阻霊符を展開する。
慌てたように潜るワーム、しかし、僅かとはいえ手間取るその隙を、見逃すはずもなく。
完全に姿を消す直前、上空から突き刺さる、導べの弾。
「つかまえました」
彷徨う視線は、地中を見晴かすように。ソーニャは確りと皆に指し示す。地中に潜む狩人、その行く先を。
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「あれと戦うんだ…!」
山育ちの視力、遠目からでもわかる巨体。指示通りの地点に向かいながら、慎は目を輝かせた。
相手は、仲間は、どんな動きをするのだろう。どんな戦いになるのだろう。
知らず高鳴る鼓動は、駆け跳ねる足以上の速さで、慎の心を浮き立たせる。
その対面から、同地点を目指し、一括りの髪がしなやかに揺れる。緩く、激しく、猫が遊び跳ねるように。
「牛さんは起こさないように、ですね」
見つめる眼差しは穏やかながらも。計算された気紛れさで以って、翠月は狩人を誘き出す。
果たして。
――狙われたのは、緑色の蝶の戯れる、黒猫の尾。
「速い……っ!」
食らいつかれるのこそ、避けたものの。弾き飛ばされた衝撃は、けして軽くは無い。
地に叩き付けられる身体、跳ね起きかけて――脇腹に走る、痛み。
「動くでないぞ」
蹲る翠月を、美薙の赤みを帯びた紫の瞳が見分する。
ついで、武を振るい慣れた掌から降り注ぐ、ライトヒールの煌き。
「ありがとうございます」
「なんの、これがあたしの役割じゃ」
武働きだけが戦では無い、癒すこともまた、力であると。
美薙は己の立ち位置、出来る事を再確認しながら、軽やかに駆け戻っていく翠月の後を追った。
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「こっちだ、ミミズ野郎!」
霊符を掲げ、英斗は叫ぶ。くるりと見渡した戦場、己の一番役立てる事は、何だ。
傷付いた者、癒す者、支援する者――ならば、自分は。
(俺は盾だ、耐えて守る者!)
不可視のオーラを纏う。純然たる闘志を視線に込め、睨みつける。
余所見などさせない、貴様の最優先すべき障害は、此処にいるぞ、と。全身全霊を以って、主張する。
熱烈なアピールが通じたのか、苛立ったように蠢く巨体。歯列が、英斗へ向き直る。その大きな背を目掛けて。
「ふ…外す方が難しいわね」
微笑って、黎は銃口を向ける。リアとフロントを繋ぐまでも無い、と。
オートマチックから無造作に放たれた一撃。着弾点より、じわり、腐敗が始まる。
大したダメージでは無い、だが、旗色悪しとでもいうように、ずぶりと再び沈んでいこうとするワーム。
反射でも試行錯誤でも説明出来無い、確かな思考の片鱗。見た目にそぐわぬ知性。
「人間も脳がちょっとばかり大きいからって、いい気になっちゃいけないのかもね。――だから」
侮らないよ、と呟くソーニャのライフルが時を稼ぐ。
たとえ人間に匹敵する知性があったとしても。このディアボロには、けして持ち得ないものがある。
未だ躊躇いは完全に拭えないけれど。人間には、この学園には、仲間がいるから。
独りでは如何しようも無い状況でも、己の出来る事を最大限に。そうすれば、ほら。
「間に合った――皆さん、離れて下さい!」
前線に、響き渡る声。飛び退る仲間達と入れ替わるように、巨体の眼前に滑り込む翠月。
その影から伸びる昏い腕。纏いし暗緑色の静かな焔から、造り上げたかのような。
ゆらり、意思を持つかのように揺らめくと、ワームに襲いかかり絡みつく。
抵抗虚しく、縫い留められる巨体。逃れられないと悟ると、ワームは狂ったように暴れだす。
ぐるりと無造作に薙ぎ払われる頭が、避け切れない幾人かを吹き飛ばした。
「いかん、傷付いた者は下がるのじゃ!若杉殿――は、問題無さそうじゃな」
「そうですね、いや、ちょっと眼鏡がひび割れたかも?」
「……それはあたしではどうにもならんのう」
薙刀を構え負傷者に駆け寄る美薙。交わす軽口は、最前で耐える英斗への信頼感から。
この程度でどうにかなるほど、柔な盾では無いと知っている。
負傷者にライトヒールを施しながら、大規模戦を共に潜り抜けた、確かな絆を思う。
得た経験は間違い無く、この身の糧と成っている、と。
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右回り、左回り。また回ると見せかけて、叩き付け。移動を封じられたからこそ、自在に動き回るワームの頭。
予測不可能な動きを、しかし山育ちの動体視力で、慎は華麗に避けていた。
「へへっ、当たらないよーだ!」
素早く屈む、軽やかに飛び上がる――靭やかな動きは、駆け巡った野山で培ったもの。
そうして避ける度に、返す刀で斬り付けた。
疾走る宵闇の刃は、野生動物の鋭さを以って、獲物に躍りかかる。百発百中、確かに刻まれていく裂傷。
だけど、と慎は首を傾げる。感じる、手応えの無さ――間違い無く当たっているのに、何故?
喉元に引っ掛かる小骨のような、もどかしさ。何かが閃きそうで、けれど敵は、考える暇を与えてはくれない。
幾度目かの跳躍、空高く舞い上がる身体。
俯瞰する己の視界の端――巨体に突き刺さる、一発の銃弾。
一見、頼りなげな小さな塊。しかし着弾した途端、ワームは苦しげに、巨体を大きくのたうち回らせる。
(何で?どうして?)
驚いて思わず振り返った先。ハンマーシュラウドの合間に覗く、黎の静謐な眼差しに射抜かれる。
「ほら来るよ、気ぃ付けな」
冷徹な忠告に、反射で飛び退く。慌てて体勢を立て直す幼き背に、ぽつり、寄越される掻き消されそうな声。
「――重なる傷は、治りにくいのよ」
届かずとも構わない、とばかりに被せられる銃声。慎の刻んだ切り傷を、過たず抉っていく。
確りと拾った助言、視覚からの情報。全て丸ごと取り込み、咀嚼するように瞬く、赤い瞳。
やがて、得心がいったとばかりに大きく頷くと。
「そっかー!痛いところに当たったら――もっと痛いよね?」
乾いた砂が水を吸い込むように。
貪欲な探究心、浮かぶ無邪気な笑みは、子供の残酷さで獲物を追い詰めていく。
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時を経る毎に、じわりじわりと、弱っていくワーム。
対して、こちらは浅い傷が幾人か。深刻なダメージを受けている者はいない。
だが、それはつまり、纏めて薙ぎ払われたら厳しい、ということで。
「……そろそろ、回復が切れそうじゃ」
悔しげに眉根を寄せ、美薙は絞り出すように告げる。癒し手として、鍛錬の足りぬ己が身が口惜しいのだろう。
「あまり時間をかけすぎると、牛さん達が起きるかもしれません」
翠月の、名と同色の双眸が、何も知らず惰眠を貪る牛を映し心配そうに揺れる。
早い段階で拘束出来たおかげで、戦場は守るべき牛を遠く彼方に望む位置。
しかし翠月の影から伸びる腕も、いつ力尽きるか、定かでは無い。
――決め手が欲しい、膠着しかけた戦況を打開するだけの、何かが。
やんわりとした焦燥が、皆の胸を焼き始めた時。
「今こそ……アレを解き放つ時が来たのかもしれない」
く、と眼鏡を押し上げながら英斗が呟く。
ゆっくりと水平に伸ばした利き腕、霊符の代わりに顕現させるは、名を与えし相棒『竜牙』。
陽を反射し、白銀色に輝く二本の牙が、真っ直ぐにワームの喉元を向き。
「ちょっと反動がでかいので、援護をお願いします」
アウルの光が、利き手に、竜牙に集束する。英斗は構えたまま、一気に間合いを詰めるべく走り出す。
「まぁ、やれる事をやるまで、か」
依頼が成功するのなら、どんな事でも。必要なのは、撃破数ではなく戦歴。
全ては、己が目指す未来の為に。迷いの無い思考と同様の直線を描いて、黎の援護射撃がワームの頭を弾き上げ。
「この場所は、貴方には似合わないと思います」
穏やかな時の流れに、ぼんやりと揺蕩う心地良さを知っている。諍う事は得意では無い、けれど。
取り戻すために、必要だというのならば。翠月の影から伸びる、縛めの腕が藻掻く巨体をさらに縛り付け。
「ほら、こっちだよ!」
山から降りて広がった世界は、見るもの全て珍しい事だらけで。皆の一挙手一投足が、わくわくしてたまらない。
今度は、何が見られるのだろう。弾む足取りのままくるくると、慎は目まぐるしく位置を変え、ワームの気を散らし。
「観察は面白い――でも、キミはもういいかな」
蓄えた知識と現実と。陽の光の下で一つ一つ擦り合わせていく作業は、経験によって形作られていく設計図に似て。
全ての知識を、触れるカタチに。遥か上空から突き刺さるソーニャの銃弾が、揺らぐワームを射程圏内へと押し遣り。
「止まるでないぞ若杉殿――道行き、このあたしが邪魔はさせん」
今も、走り続ける遠い故郷への道。その遠さを知って尚、止まる気など毛頭無いから。
同じように走る、誰の行く手も遮らせない。凛と立つ目標さながらに、掲げられた美薙の薙刀が、迫る歯列を押し留め。
天駆ける竜の牙が、標的の喉元目掛け、曲がる事無く喰らいつけるのは。
整えられた雲路、噛み合う連携。何も言わずとも、それぞれが、己に出来る事を最大限にした結果。
「これで終わりだ――必殺!シャイニングフィンガァァアアーーー!!」
輝く拳が、神の無慈悲さで以って冥魔の眷属に裁きを下す。轟く断末魔の咆哮。
崩れ落ちるワームの姿が、撃ち抜いた姿勢のまま佇む英斗の眼鏡に、くっきりと映り込んでいた――
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さわり、と日差しに暖められた風が吹き通る。
折角の機会だから、と、帰還前に一休み、思い思いに寛ぐ撃退士達。
「はふー、疲れた」
長閑な空気が戻ると同時。糸が切れたように地面に倒れ込む慎。
大の字に寝転ぶ耳元、擽る牧草がこそばゆいと。高揚した気分のままに、声を立てて笑う。
(どきどきした――でも、すっごく楽しかった!)
見上げるスカイブルーのスクリーンには、終わったばかりの戦闘が、何度も繰り返し上映されて。
その近く、眠る牛を背凭れに。差し込む陽気と体温に囲まれ、幸せそうに翠月は微睡む。
「思った通り心地良いですね」
眼前に広がる景色は、戦闘前のまま、一匹として欠ける事無く。
(守りきれて、良かった)
風に舞い踊る緑の蝶が、気紛れに揺れる牛の尾と戯れ遊ぶ。
「ちょっと角度が甘かったかな……」
いまだ利き腕に竜牙を装着したままの英斗が、虚空へ向け拳を振るっている。
「熱心ねえ……」
施されたストライクガンカスタムを外しながら、呆れとも感心ともつかない声を上げる黎。
簡易的なものとはいえ、流れるような分解・清掃・組立の一連の所作は、演舞を見ているよう。
「どうもです。必殺技は、完璧にしておかないと」
掛けられた声に動きを止め、礼を言って頷く。額に流れる汗を、Gジャンの袖で無造作に拭うと。
(男子たるもの……!)
内に秘めた熱い闘志を上乗せして。英斗の鍛錬は、終わる気配を見せない。
「結局、ミミズとワームは同じだったのでしょうか」
ワームの開けた穴の縁、遥か深淵を興味深げに覗き込みながら。
ソーニャは礫を一つ、試しに落としてみる。闇に吸い込まれていく礫――底についた音は、聴こえない。
「さぁてのう……しかしてミミズだとするならば、随分大きく育ったものじゃ」
傍らに立ち、同じく深淵に耳を澄ませながら。ワームの巨体を思い返し、苦笑を漏らす美薙。
だが、どちらにせよ、と思いふける。あれを造るのに、いったいどれだけの、と。
(偶には、巫女らしい事でもしておこうかのう)
纏う気配の色を変え、背筋を伸ばし、居住まいを正す。
打ち鳴らされる柏手は、全ての終わりを告げるように。
美薙の社に伝わる祝詞が、雲一つ無い晴天に吸い込まれていった――