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その高校は桜の花が満開だった。春風がふわりと桜の花びらを落とす。
桜の下を走る撃退士は7人。そのうち5人は手などに発信機や肉に隠した発信機を仕込んでいた。一方的に攻めこまれている状況を打破する好機だ。利用しない手はない。
ディアボロが出たというのは屋上。階段を駆け上がる。その途中、上のほうでドアの開く音がした。おそらくは今回の救助対象である高校生が屋上に出たのだろう。
最後の距離を撃退士の脚力で登り切る。最初に扉に着いたのは森田良助(
ja9460)。ドアを開け放つと同時に屋上へと身を躍らせた。
ドアのすぐ近くに怯えたような高校生が4人。それを舌なめずりして狙う赤い瞳の漆黒の狼。入り口より少し離れた屋上の真ん中に有愛(ありあ)と思われる女子高生が佇んでおり、その近くの手すりにセーレが腰掛けている。
(セーレ……貴女はまたこの様なことを……)
少しだけ憂いて目を伏せたウィズレー・ブルー(
jb2685)はすぐに思いを振り払うように影狼と高校生の間に身を割りこませた。
分担は明確だった。戦う者と保護する者。鳳静矢(
ja3856)が影狼一体に向き直り、雁鉄 静寂(
jb3365)とカルマ・V・ハインリッヒ(
jb3046)がもう一体へと武器を向ける。今回、怪我をおしての参加となった詠代 涼介(
jb5343)は驚いて動けずにいる4人の高校生に向けて声を上げた。
「何をしている、逃げるぞ!」
すかさず阻霊符を展開させながら涼介は1人の生徒の手を引いた。
志峰院凍矢(jz0259)は良助と共に有愛の元へと走る。彼女が一番危うい位置にいると言っても過言ではない。
にんまりとセーレが笑ったのが良助には確かに見えた。同時に影狼が生徒たちに向かい走る。想像以上に速い。すかさずウィズレーがシールドを展開した。1匹の影狼はウィズレーの構えたシールドに阻まれるもすぐに距離を置いた。
「なるほど、確かにヒット・アンド・アウェイか」
静矢が目を眇める。もう1匹の影狼の攻撃もウィズレーがやり過ごすも、無限にこれができるわけではない。
涼介はパニックに陥った学生たちをてきぱきと室内へ誘導する。
その隙に静矢は1匹の影狼へと距離を詰めた。攻撃は届かない。けれど挑発ならば届く。セーレがこの影狼へと執拗に生徒を狙うように指示していれば別だが、注目が効けば状況はだいぶ変わってくる。
もう一匹へと距離を詰めるのは静寂とカルマ。同じくヒット・アンド・アウェイ戦法を取るカルマは苦戦を強いられた。攻撃可能範囲に入れない。静寂は目算で距離を測ると武器を持ち替え遠距離からダメージを与える。今回、勝負の鍵を握るナイトアンセムはまだ使うに早い。可能ならば条件が整ったところで使用したい。
良助は凍矢が有愛とセーレの間に入り有愛をかばっているのがわかると、有愛へと声をかけた。
「あの悪魔に何か言われた?」
セーレを指さして尋ねると、有愛はびくりと身を震わせた。良助とセーレを見比べ、まだ入り口付近にいる生徒たちを気にする。
セーレはにやにやと笑いながら状況を見ている。未だ、彼女の「楽しみ」の範囲なのだろう。
(罪を犯した者を罰する……それを罰する権利は、今の貴女にはありませんよ、セーレ )
カルマはセーレへと視線を滑らせ、八岐大蛇の柄を握りしめた。
涼介は痛む体を気付かれぬように生徒たちを屋内へ避難させる。さすがに1人でパニックになった4人の誘導をするのは厳しいが、味方も多いわけではない。
静寂たちが相手をしている影狼が跳ねた。避難している生徒へと向かう。反射的にウィズレーがシールドでそれを庇う。生徒たちの悲鳴。
「早くこっちに来い!」
涼介が1人の生徒の手を引いている間に影狼はまた距離を取る。
もう1匹の影狼は少し迷った末、狙いを静也へと定めた。飛びかかる影狼の攻撃を敢えて受ける。漆黒の風のような爪が静也を切り裂くも、覚悟していたほどのダメージはない。
(なるほど、速度と命中にものを言わせるタイプか)
風のように退く影狼を素早く分析すると静也はどう切り崩していこうか迷う。
カルマは作戦を変えた。静也や静寂たちと立ち位置を別に取る。狙いは撃退士たちから距離を取った瞬間。つまりは挟み撃ちだ。カルマも機動力には自信がある。敵の動きさえ把握できれば冷静な彼ならば次の動きが読み取れる。
静寂は避難完了まで時間を稼ぐ。まだ、発信機を仕込むには早い。
(まずは任務の遂行です)
凛とした横顔は揺らがない。ちらりと4人の学生たちを振り返り、遠距離から攻撃を行う。影狼は早い。トン、と軽い動きで回避する。
良助はじっと有愛の言葉を待っていた。彼女はまだ4人の生徒を気にするように、俯いたままだ。
「大丈夫、僕はキミの味方。だからお話を聞かせてほしい」
良助は有愛を見つめる。有愛はゆっくりと良助を見た。
「……味方?」
「うん。僕たちはキミを守るために来たんだ」
有愛の視線が揺れる。
セーレが少しだけ苦々しい顔をしたのが、凍矢には見えた。
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ようやく4人を屋上から階段内へと避難させた涼介は屋上のドアを閉めて、小さく息をついた。
あれはなんだとか、殺されるとか喚いている4人を一瞥して涼介は階段を降り始めた。
「もう少し逃げるぞ。ここは危険すぎる」
「あの悪魔、有愛のヤツが呼んだんですか」
1人の生徒が口を開いた。涼介は振り返る。
「あいつ、友だちを殺して、のうのうと生きてるなんて……」
涼介は小さく息を吐いた。
「お前たちは確かに被害者だ。だが、かと言って彼女を責める資格もないんじゃないか?」
その言葉に彼らは思うところがあったのだろう、口を噤んだ。
涼介は4人の顔を見ながら、はっきりと言った。
「お前たちがこの先どうするか、決めるのはお前たちだ。それについてとやかく言うつもりはない。だが……俺たちに『助けなければ良かった』と思わせないでくれよ」
4人は言葉を失ったようだ。涼介は階段を再び降りる。
4人は何も言わず、素直に涼介の後に従った。
「さあて」
4人の生徒がいなくなった屋上で、セーレが口を開いた。
「ねえ。あいつらを殺したかったでしょ?」
セーレは有愛に声をかける。有愛は口を結んだ。良助が有愛の手を掴む。
「あんな悪魔の言うこと、聞いたら駄目だ」
「つれないなあ、良助。ボク、彼女にとっていいこと言おうとしてるのに」
セーレは口を尖らせた。
「自分が死ぬのと、あいつらを殺すだけの力を得るのと、どっちがいい?」
その選択肢はその場にいた6人の予想の範囲外だった。
有愛が自殺するかも、という懸念はあった。セーレが有愛を狙うだろうというのも予想としてあった。けれども、セーレが力を分け与えるというのはよほどこの状況をセーレが気に入ったということか。
有愛は小さく手を握りしめる。良助は有愛へと声をかけた。
「あのさ、スマホの番号を交換しないかな」
「……え?」
突然の言葉に有愛は良助を見る。
「キミは僕が守る。いじめっ子からも天魔からも。キミを救わせてくれないかな?」
有愛は瞬きをした。その目から涙がこぼれ落ちる。慌てる良助に、ウィズレーが微かに笑った。
「貴女は一人ではありませんよ。死ぬとか殺すとか、すべて一人で背負い込むことはないんです。私たちがいます。他の人たちも」
「……本当に?」
有愛の心が揺らぐ。瞬間、セーレが癇癪を起こしたように叫んだ。
「つまんない!」
1匹の影狼が有愛へと牙を向けた。跳ねた影狼の前に割り込んだのは闇で身を覆った静寂だった。
「私が相手です。お覚悟を」
影狼が距離を置く。そこへカルマが走りこむ。結晶の翼が光の粒を反射する。舞い踊る銀の鱗粉。「銀」。それは彼の誇り。彼の偽りない姿。
「参ります」
狙うは影狼の脚。その機動力を奪う一撃。銀の一閃は回避しようとした影狼をぎりぎりで捕らえた。
もう一匹は未だ静矢を狙う。静也はわざと攻撃を受け、雪村に持ち替えた。影狼との距離はだいぶ詰まってきている。アウルの力を足と腕に集中させると、その距離を詰めた。魔法刀の雪村で繰り出すのは物理攻撃。刀の軌跡が一瞬の半円を描く、瞬翔閃。
影狼はどこか余裕でその攻撃を回避した。
「早い相手にはなかなか戦いづらいな」
その言葉はわざと口に出した言葉。セーレがそれを聞いて嬉々として叫ぶ。
「お前ら、先にそいつら噛んじゃえ! 動けなくなったらこの子食べたらちょうどいいよ!」
この子、と有愛を指さすセーレに、有愛は怯えるように身を抱いた。
それはセーレが「遊び」に飽きてきた好機。
ウィズレーと良助は3人がセーレの視界に入らぬよう、立ち位置を調整する。凍矢が有愛は任せろとばかりに頷いた。
「セーレ」
良助がセーレの興味をひくように声をかけた。
「大福を沢山あげるから、今回は引いてくれない?」
セーレはぷっくりと頬をふくらませる。
「沢山ってどのくらい?」
「キミが欲しいだけあげるよ」
良助はそう言いながら、ポケットのスマホで空メールを全員に送信した。それはセーレが会話に応じた合図。そして発信機を仕込む合図。
「セーレ、未だ人は複雑さを捨てたと思っていますか?」
問いかけるのはウィズレー。
「違うの? 人が人同士で憎しみ合うからこういうことが起こるんでしょ?」
「前にも言いましたね。悲しまない者はいても、悲しむ者も沢山います」
セーレは口を噤んだ。
「だから私は彼女が一時の衝動で悲しむ事のないようするのみです」
セーレはウィズレーと良助をじっと見た。
「ボクはさ、キミたちはそう言うだろうって信じてた」
セーレは手すりに座って足を揺らす。
「でも、まだわからない。ここに住む人たちは多種多様だから、ボクもまだ遊び足りない」
「でも今回はわかってくれたんだろ?」
良助はトートバッグから大福を一つ取り出し、セーレへと投げた。セーレはそれを受け取る。
「今回はキミの負けだよ、セーレ。人間はそんなに弱い者じゃない」
セーレはじっと大福を見つめる。
良助とウィズレーが対話をしている少しの間。
カルマが1匹の影狼の脚を狙い、動きを止める。そこへ走りこんだ静寂が周囲を深い闇に包み込んだ。視界を奪われたのは1匹の影狼。
カルマがわざと義手である左腕を狙わせるように抜刀したまま、影狼を挑発する。
影狼は案の定カルマの左腕を狙う。カルマの左腕には発信機付きの肉が仕込んである。左腕を噛み砕かれてもいい覚悟でカルマは左腕を差し出すも、認識障害の影響で影狼が齧りついたのはカルマの肩のあたりだった。
飛び退く影狼。すかさず走りこむ静寂。
影狼の隙をついて静寂は利き手ではない右手で影狼の上顎を掴み、左手で下顎を押さえると喉の奥へと肉にくるまれた発信機を放り込んだ。
それは犬に薬を与えるやり方と同じもの。健康に日頃から関心をもつ彼女だから知っていたことだろう。
飲み込むように影狼の喉をさすると、肉の味もあり、影狼の喉が動いたのがわかった。静寂とカルマは頷くと影狼から距離を置く。
一方の静矢はどこか勝ち誇ったような影狼に対峙していた。
刀を静矢が持っている限り負けない、と単純にも思い込んでいるのだろう。素早い動きで静矢へと飛びかかる。だが、その瞬間、静矢は静かに笑った。
「……刀の様な長い得物では当てにくいな 。ならばこの拳で……! 」
すべてはこのための前振り。右手にモルゲンレーテを装備し、影狼の攻撃を受けたと同時に渾身のカウンター攻撃をボディへと繰り出す。拳は肉を突き破った。ヒット・アンド・アウェイの影狼にはクロスカウンター技はかなり効いたようだ。足元がふらつく。だらりと舌が落ち、距離が取れない。
そこへ静矢は手加減しながら左手に握っていたスポンジにくるんだ発信機を傷口へと押し込んだ。スポンジは血がにじみ、体内に収まったように見えた。
これで発信機のほうは仕込みが終わった。あとはこのまま退却してくれるかどうかだけだ。
セーレはふと屋上の下を見る。
そこでは涼介が万一のことがあったときのように召喚したパサランがクッションのように広がっていた。セーレはそれを見て苦笑する。
「良助、大福5つで手を打ってあげる」
それは撤退宣言。良助はトートバッグから7つの大福を取り出し、渡した。
「そこの狼たちにも食べさせてあげるといいよ」
「こんなボロボロになったの連れて帰ってもなあ。でも3人は食べたし……」
セーレは少し考えてから静寂が発信機を飲ませた影狼に跨った。怪我の程度はこちらのほうが軽いし、まだ走れそうだ。
「そっちはあげる。じゃあね」
静矢が発信機を仕込んだ影狼を置いて、セーレは姿を消した。
静矢はそんなセーレをじっと見つめた。
「……どんな絶望を用意しても、私達はそれを振り払って見せる……お前が飽きて止めるまで、な」
5対1はあっという間に決着がついた。
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有愛はパサランが広がった下を見た。これでは自殺は無理だと考えたのか、手すりの脇に座り込む。マインドケアをかけるウィズレー。
ウィズレーを守るように傍に近づいたカルマがたった一言呟いた。
「むしろ俺は、憎しみを忘れた人間の方が恐ろしいと思います」
まだ貴女は人間だと、そう告げるように。静矢も静かに言葉をかける。
「君にどういう事があったかは解らない。けれど、少なくとも私達は君を護りたいと思ったから戦った…それは忘れないでほしい」
「私を……?」
驚く有愛に静矢は頷いた。
「君みたいな優しそうな子には、生きて居てほしい…そう思っただけだよ」
有愛は黙ってうつむく。静寂はそんな有愛に近づいた。
「自殺を考えたり、悪魔に復讐させるのは間違っていませんか? 有愛さんを大事に思う人もいるはずです」
穏やかな口調の彼女に有愛は顔を上げる。
「有愛さん、人として、いじめっ子と向き合いましょう。黙っていても問題は解決しません。わたしも手伝いますよ」
スマホで4人の傍に寄り添っている涼介に連絡を取ると、涼介はすぐに4人を連れて屋上まで登ってきた。
「2度と彼女を虐めるな! もしやったら、すぐ駆けつけて僕がキミ達を虐めるぞ!」
息巻く良助の横で冷静に静寂は両者の間を取り持つ。相互理解はすぐには難しいかもしれない。けれども互いが互いを思いやる気持ちがあれば、いつかは分かり合える。
「大丈夫です。久遠ヶ原では天使や悪魔でもお互いの気持ちを話してみれば分かり合えるものですから」
有愛は天使のウィズレーと悪魔のカルマが仲良さそうにしているのを見た。
「……素敵なところですね」
有愛はそうして、晴れ晴れとした笑顔を見せた。
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静寂の仕込んだ発信機の反応は静岡県の鳥森山付近で消えた。
それは他隊の撃退士がヴァニタス・鹿砦夏樹に書類に仕込み渡した発信機の反応が消失した地点とは大きく違ったが『狼の如き(ウルヴァリン)』レイガーに渡された携帯の反応が消滅した地点とまったく同じだった。
ゲートの結界は電波を断つ。
二つの反応がまったく同じ地点で消えたという事実が意味する所。
撃退士達が掴んだ情報は、今後の山梨県における攻防において、命運を分ける大きな成果になったといえよう。