●暗夜行軍
真っ暗なコンクリートの底は仄暗く仄黒く、街明かりからも見捨てられて居る。
真冬の寒さは無いとは言え、シンと冷え渡り背骨を振るわせる大気。慎重な足音と呼吸音だけが鼓膜を叩く。
「皮を剥ぐディアボロですか……自分の姿も皮みたいとの事ですし好きなんですかね、皮」
まぁ、どっちでも良い。楽しく踊れるならそれで十分。笑顔に狂気、右手に兇器、心に狂喜。鳳月 威織(
ja0339)はヘッドライトに照らされた彼方のコンクリートを見遣る。
闇の中の幾つもの光、撃退士達が進むは廃墟の地下。頼るべきは己と仲間とこの光。さて、と久遠 栄(
ja2400)は浅い息を吐く。スキルの特別授業も始まり、更に過酷な依頼が増えるという噂。
「俺の実力、試させてもらおうか」
力を見極めておきたい。大切なものを守る為。
(私は、何よりも役に立つ『武器』にならねばならない)
妄執じみた信念。舞草 鉞子(
ja3804)の凛とした眼差しが闇を裂く。初仕事、ヘマをしないよう頑張らねば。
「やっていることは分かりやすい『化けもの』だな」
天羽 流司(
ja0366)の脳裏に過ぎるのは先日の『雪女』――知恵を使う相手に比べれば、マシな筈だ。
(……マシに決まってる)
脳内再生は誰が為。己が為。撃退士をやると決めた以上は、悲惨な現場だって覚悟はしてきた。してきた、つもりだ。人知れず握り締めるペンライトの光が揺らめく。酷く息苦しい心地がする。
「真っ暗な地下室かぁ……何が出てきてもおかしくないね……」
瀧 あゆむ(
ja3551)お気に入りのうさみみパーカー。フードの兎耳が歩く度に揺れる。念の為と用心深く辺りを見渡して。
「散々食い荒らしてきちゃ居ますがねぃ、己が『喰われる』覚悟をお持ちで無い、と」
ブーツの底が捨てられたコンクリートを叩く。十八 九十七(
ja4233)の声が寂れた廃墟に響く。成すべきは己が正義、天魔抹殺。右手の拳銃は臨戦態勢。
一方、仲間に続く東城 夜刀彦(
ja6047)はただ口を噤んで居た。自らを戒める。
(大切なのは意思の力)
それは幼き頃に今は無き故郷にて教え込まれた戦の心得。
(揺るがぬこと迷わぬこと躊躇わぬこと惑わされぬこと)
一瞬の隙が自分だけでなく味方の危機をも招くのが戦場なれば、何があっても役割を完遂する事こそ重要。
慟哭も悲憤も全て力に、一片の刃と成ろう。
刃に表情は要らない――研ぎ澄ませた神経に響く不穏な気配に死の臭いに一つ動かさず、ただ激情を内側に秘して。
辿り着いた目的地の前、暗闇に向けて静かに言い放った。
「……さぁ、滅ぼそう」
これ以上の犠牲者を出さない為に。
●暗
漂ってくる腐敗臭。静まり返ったコンクリートの最下層。
「うぐっ、この匂い……想定以上だな。気合で慣れるか……慣れるのもちょっと嫌だな」
マスクをしているとは言え容赦無く鼻の粘膜に突き刺さる腐敗臭。栄だけでなく誰もが不快感を示していた。マスクと気合で我慢する他に無いのだろう、毒ガスじゃないだけマシと考えよう。
誰もが黙せば、蝿の羽音と蛆の音が微かに聞こえてくる――脳に届く。悉く嫌悪。
とは言えここで帰る訳にはいかない。作戦通り、栄が弓を引き絞る。ライターで点けた火が赤々と――放たれればそれは地下の壁に突き刺さる。燃えている。それだけ。どうやら懸念していた死体由来の可燃ガスは無いらしい。
「黒コゲアフロにならなくって良かった」
なんて一言を吐いた瞬間、その刹那。
低く不気味な声が地下室中に響き渡った。鼓膜を掻いた。
「…… !」
緊張が走る。
感知能力を持たぬ者でも分かる。
それは紛れもなく悪魔のもの。掠れ罅割れた不愉快な声。
今の火矢、気配、足音、照明、諸々の要素で察知された、完全に。這い回る音が聞こえる。気付かれている。こっちに来る。近付いて来る……!
「仕方ありませんね……!」
本来ならば二班に分かれ、片方が索敵中に片方が入口封鎖を行う予定だったが――祖霊陣を展開した三神 美佳(
ja1395)の言葉通りだ。
「発炎筒、行きますの!」
入口から地下フロアに入る前衛陣の視界を確保すべく、九十七の掛け声と共に発炎筒が次々と投げ込まれる。吹き上がる赤い色。ストロンチウムの光。或いは数名が腕に取り付けた蛍光バンドの光。ヘッドライト、ペンライト。ランタンも置かれ、悉くが照らし渡された。
あちらこちらへ転がり散らばった人の形。
赤く黒ずんだ床の真ん中。
腐敗臭。
蛆が蠢いている。
しゃわしゃわしゃわ。
尊厳も何も無く、皮が無い。
蝿の羽音。嘔吐感を催す臭い、光景。
ブゥゥーーーンと丸々肥えた蝿の翅が耳を掠めた。
斯くして、天井。
逆様の悪魔。カワクイ。皮の無い、目の無い、ひょろ長い異形。不気味に変じた牙を剥き。
「うぷっ、明るいところで見たくない相手だな……」
尖った牙からぶら下がるのは見間違いなく、床に散らばる人々だったモノの。
吐き捨てつつも栄は暗橙の神秘をその身に纏った。指先、それから瞳。研ぎ澄ませた集中、番えた矢を引き絞る。
放った。空を裂く矢が飛び出したカワクイの身体を掠める――長い腕が、皮を剥ぐ事に特化した恐るべき爪が鋭く振るわれる。奔る血潮がストロンチウムの赤に散った。
「っく、ふふ、……さて、どこまでやれるか楽しみです」
笑んだのは栄の前に立ち彼を庇った威織、皮を殺がれた腕で刀を正眼に構えた。
優先するは仲間の安全、自分はどうでも良い。転がっている死体を見ても何の感情も抱かない。邪魔だから蹴り飛ばした。生柔らかい感触、蛆がプチプチ潰れた感触。戦い大好き戦闘狂。とても純粋だが、歪んでいる。靴底の腐った汁に蛆の体液。でも、これでも、命を粗末にしているわけではないんだよ?仲間は守るし仲間の気持ちも大事にする。
「あはははははーーーおーおーきなのっぽのふるどけいーー♪」
また皮が殺げて頬が真っ赤で、それでも天井の悪魔へ一本の刀で応戦する。楽しそうに笑って血に濡れる。それを飲み込む様に悪魔が不気味な咆哮を上げた。錆びたワイヤーが軋る様な。
「派手な宣戦布告だな……逃がさねぇぞっ!」
声を上げ矢を放った栄を始め、後衛陣が立つのは唯一の出入り口の前。絶対に逃がさない、此処は通さない。身体を張ってでも止めてみせる。
前衛を信じる。直撃はやって来ないだろう。仮に来たとしても躱せないなら躱さない心積り――前衛陣と攻防繰り広げる天井の悪魔を見上げ、流司は魔導書を開いた。呪文を唱えて異国の文字をなぞればそれは光となって顕現し一直線に飛んで行く。精密に狙うより牽制。撃ち続ける、魔導の弾幕。
「もーすばしっこいなー。逃げちゃ駄目だってばー」
血腥い凄惨な場とは不釣り合いなあどけない声、ぴょんと跳ねて攻撃を躱した兎はあゆむ。幼い顔にあるは好戦、しかし血に戦いに酔っているのではない。彼女はただ力が欲しい。負けたくなんかない。
飛び上がって攻撃できるか――間合いを測るその最中、投げ付けられた死体で細い身体が薙ぎ倒された。力任せな一撃、響く痛み。わんわん頭に響くのは衝撃と蝿の音。薄暗いが故に生々しい想像。今床に触れた時にぬるりとした感触はきっと。否、この先は考えないでおこう。
「大丈夫ですか」
その手を取って夜刀彦があゆむを立ち上がらせた。大丈夫、と答える彼女に彼は表情を変えずに頷く。
既に夜刀彦が見遣るは後衛からの射撃を素早く跳び躱す悪魔の姿。その爪で、牙で、また一つ仲間の血が冷たい暗い床に浸みこんだ。それでも無表情、冷徹な駒。その裏に激しい怒りと敵意を抱いて――立ち上る蒼い光は凍て付いた激情、同色の瞳が闇に仄輝いた。
ふん、と鉞子は鼻を鳴らした。視線の先には爪で剥いだ鉞子の皮を口に運ぶカワクイ。袈裟掛けに剥がれた鉞子の傷口。
しかし『武器』たる彼女は後衛陣を護るべく立ちはだかり、悪魔の注意を引く為トンファーをクルクル回していた。間合いを測る。刹那、振り下ろされるのは悪魔の禍爪。
「はァッ!」
裂帛の意志、遠心力を活かしたしなやかな一撃が悪魔の腕を払い強かに打ち据えた。確かな手応え、悲鳴と共に引っ込められかけた手をすかさず夜刀彦が追撃し、続け様にあゆむが狙う。
「あゆむキーック!」
壁を蹴って飛び上がる、鋼鉄の蹴撃。ゴキンと砕ける衝撃、拉げた悪魔の腕。悲鳴。
「えへっ、これでちょっとは攻撃できなくなったねっ」
片腕が使えなくなったか――バランスを崩した天井の悪魔、その背中を照らしたのは九十七の拳銃に取り付けられたペンライト、正義に狂った鋭い眼球。
「ッくくく、」
引き金を引いて、
「ひひヒぃイヒヒヒヒぃャッハはははは踊れ歌え笑え■ねやビヂグソクソ天魔がァaァァAAッ!」
引いて引いて引いて。
「なァぁに天井でチキンっッってェ無様にィケツ振ってんだよゴラァ九十七ちゃんのマジ正義怖いですぅママたちゅけてーってかぁぁ■ソの詰まったゲロ臭ェ中身ドぶち撒いてぇ■ねぁああ!!」
引いて引いて引いて引いて引いて。
「■ね■ね■ねっつってんだrrrっろうggっがあああああああド正面かかって来いっつってんだよおおおオあ亞ぁえあァ聞いてんのか後ろから■■で×××して穴ァブチ増やすぞぉらァギャヒェハアアアヤアHa!!!」
引いて引いて引いて引いて引いて引いて引いて引いて引いて。
大絶叫、至極冷静、狂乱狂喜、恐怖ではなく興奮。
腐臭すら掻き消す硝煙の香り、赤い光に照らされて。直後に横合いから放たれた美佳と流司の魔導が悪魔の脚を射抜き、床に墜落させる事に成功した。
「今だ!」
流司の声、追撃で放たれた栄の矢がカワクイが身を起こす行動を僅かに遅れさせた――その隙、
「まさかそれで終わりですかー?」
揺らめいた禍々しい金色、威織がカワクイの皮の無い身体を切り裂いた。もう濃密な血の臭いに腐臭も蝿も蛆も死体も意識の外。美佳も祖霊陣を展開しつつ片手でスクロールを持ち、呪文によって仲間の支援を。
「往っくよー!」
「参ります」
威織が飛び下がった所で息を合わせ、二つの影が左右から飛び出した。鉞子とあゆむ。トンファーの豪打、鋼の蹴撃が悪魔の左右の脚を強烈に攻め立てる。圧し遣る。出入り口から遠ざける。逃がさぬ為。
直後にカワクイの長う腕が暴力の儘に振り回され、鉞子とあゆむを薙ぎ払う。九十七の弾丸を浴びながらも目の無い眼球が睨んだ。目が合う。橙の光を帯びた栄の視線。引き絞った矢。
「まだだ、もっとこっちへこい」
鋭い牙が迫りくる。素早い。それで良い。もっとだ。もっとこっちへ――今!
「食らえッ!!」
放たれた橙の矢が一条の軌跡を描き、ほぼ栄の目前に迫っていたカワクイの口に突き刺さる。大きく仰け反る悪魔の悲鳴。
「俺達を抜けれると思ったか? 残念だったな」
矢を番える栄の左右に展開するのはスクロールを構えた後衛陣、悪魔の背後には拳銃を構えた九十七。
強矢が、魔弾が、弾丸が、回避を許さず叩き込まれる。
「私の正義の為にィィィ、ナカミぶち撒けて■ねっつってんだらァあぁアッ!!」
乾いた銃声が響く。腐臭と蛆を撥ね飛ばして。
悪魔が蹌踉めく。前衛陣が足を集中的に狙う。
頬を伝う赤。それを流すままに無表情の蒼い目で夜刀彦は剣を握り締めた。
ランタンに、ヘッドライトに、発炎筒に照らされた死体の皮の無い顔がこっちを見ている。蛆の湧いた顔が。
(誰だって死にたくなかった……!)
嗚呼、どれほど悲しかっただろう。突然未来を奪われて。不条理に喰い殺されて。
(誰だって生きたかった……!)
どれほど辛かっただろう。苦しかっただろう。痛かっただろう。
(助けてと手を伸ばすことすらできず命を奪われて……!)
己の力増強のためだけに命を奪う天魔。故郷を滅ぼした連中と同様に。
(そこに生きる人々の喜びも悲しみも何もかもを貪って……!)
刃を握るべく込めた力で指が白むほどに。
「食らうのなら己の腐肉を貪れ天魔……!」
蒼い光が吹き上がる。暗い地下を煌と照らす。
双眸の蒼に隠した絶対零度にして灼熱の怒り。凄まじい威圧感にカワクイが半歩下がる、その刹那。
「ここで滅ぼす!」
既に夜刀彦は悪魔の背後、その咽元に刃を添わせて。振るう。掻っ切る。秘したる激情の刃。
悪魔の喉笛から吹き上がる赤。その生温かい色に白磁の肌を鈍色の刃を染め上げて、しかし夜刀彦の頬に伝うのは止め処無い涙であった。
その視線は彼の周囲に散らばる名も知らぬ被害者達へ。
緩やかに崩れる様に膝を突いて。
「……助けられなくて、ごめん」
悪魔が頽れた音を最後に、漸く静寂が訪れる。
程無くしてストロンチウムの赤が消えた。
コンクリートは冷たく暗い。
●灰色黒
「……ちゃんと、仇は取ったからね」
整然と一列に並べた蛆の湧いた腐乱死体。しかしそれらを見下ろすあゆむの目に嫌悪は無い、あるのは悲しさ、悲痛な色。
しゃがみ込んで手を合わせて黙祷を捧げる。彼女は痛感している――自分の力不足を。
(……もっと強くならなきゃ)
天魔のせいで不幸になる人をこれ以上増やしたくない。もうこんな事が起こらないよう、沢山の人を守れるよう、力が欲しい。ただ只管に力が欲しい。
蹲るあゆむの傍ら、ブーツの足音を鳴らし死体の傍にて立ち止ったのは九十七、その手には一輪のダリア。
何も言わず、何も語らず、少女はただ一輪の花を彼等に立向けた――それは『お礼』。『感謝』の花言葉。
『貴方達の犠牲のお陰で天魔を始末できた。』
弔いとは大分ズレたそれは、九十七自身の狂気的ともいえる正義に対する認識の象徴。
踵を返す。闇に足音が遠退く。
やがて辿り着いた地上――爽やかな夜風、深呼吸。酸素がおいしいです、と鉞子が呟く。
ビルを生やした地面、空には満天の星空。
暗い地面の底の惨劇なんぞ知らなかったとどこまでも余所余所しい。どこまでも。
『了』